塩分濃度
漆黒の卓の向かいには、藺草の円座に座る青ざめた男性がいる。
年の頃は二十代後半と言ったところ。
サラリーマンのようだがクールビズの潮流に乗るようにネクタイは締めず、グレーのポリエステルらしきスラックスに、白い半袖シャツは汗を帯びて萎びた葉物野菜のごとくなっている。白い綿に点々と散る染み。
顎の強そうなしっかりした顔の輪郭に朴訥とした目鼻立ち。薄いそばかすが、太く濃い直線の眉とも相まって、彼の心根の温厚を物語るようだ。そんな面相が、今は無残にもやつれている。まるで地面に墜落した田舎の太陽だ。
「粗茶ですが、どうぞ」
私はごく淡いミントグリーンの波佐見焼の湯呑みに、梅昆布茶を淹れて出した。
外は冷気を伴う小雨が降り出してやや肌寒い。
幽鬼のような男は恐る恐る湯呑みに手を伸ばすと、まず爽やかな陶磁器肌から掌で味わうように握った。
「……温かい」
「はい」
「……いただきます」
「どうぞ」
彼の動く喉仏を私はじっと見た。
湯呑みを置いた彼は、心なし、先程より頬に赤みが差したようだった。
「美味しい……」
「良かったです」
「――――――――……彼女に限って、と。思ったんです」
「そうでしょうね」
「他に、他に男だなんて、有り得ない」
「はい」
「けど、思い切って訊いたら。彼女は、」
「驚いてから、後ろめたそうに貴方に告白した。途中まで」
「はい。そう、途中、まで。俺は、続きを聴くのが耐えられなくて――――――――」
耐えられなくて、と蚊の鳴くような声で繰り返して目を伏せる。
「それでも、今でもお好きなのですね」
緩やかな風に靡く柳の枝葉。
そんなコトノハを調合し、処方する。
男性はのろのろと目線を上げ私の顔に焦点を合わせた。
「わからない、解りません。でも、……多分」
「後悔して、おいでですね」
彼は私の新たなコトノハに打たれたようにぶるっと大きく身震いして、強く頷き、項垂れた。
「――――――――はい。はい。莫迦なことを、俺。何てことを」
絞り出される嗚咽は、暗き深淵を覗いた者の、赤い深淵に手を染めた者の、心からの懺悔だ。
涙が梅昆布茶にぽつぽつと降った。
茶の塩分が、より濃くなっただろう。
私は淡泊な目でそれを見て思った。
「これからどうするかは、目覚めてから決めてください。貴方はまだ、終わりではない。彼女の話の続きを、聴かなくてはならない。それから先は誰にも知れない。私にも。……帰り道はお解りですか?」
男は微かに頷いた。
その瞳に小さな、小さな光を私は認めた。
ぎこちない、泣き笑いの表情は、陽炎のように揺らめいて、消えた。
円座の上にはもう誰もいない。波佐見焼の湯呑みだけが、まだ仄かに熱の名残りを留めている。対岸にあった存在の朧に発するものは、綺麗さっぱりと消えた。
ジリリリン、と。
黒い電話がタイミングを計ったようにがなる。
「はい、音ノ瀬です。――――そうですか、意識を取り戻しましたか。……ええ。後悔していたようです。刺した彼女の後を追おうとしたのも、慙愧の念があったのでしょう。――――彼女の手術は成功したのですよね。まだ彼らには、未来の余地があります」
貴方は存外にお甘いですね、と相手に言われた。
「そうかもしれません」
積極的な否定も肯定もしない。
『コトノハを使われたのですか?』
「ええ。少々、処方しました」
『ありがとうございました。いつもの口座でよろしいでしょうか』
「はい、ありがとうございます」
『ご苦労様でした、音ノ瀬さん』
私は苦笑した。
「いえ、不眠不休の刑事さんに比べれば、何と言うこともありません。それでは失礼します」
チン、と受話器を置いた。




