オペレッタ劇場
「こと様!!」
「ことさんっ」
急にバランスを崩したことの身体に、聖と秀一郎が手を伸ばした。
しかし彼女は迎え出た男の腕に納まる。
宝物を扱うようなその仕草に、聖の白髪がざわめいた。リュックから出た物差しを掴み構える。だが男のコトノハのほうが早い。
「外道祭文キチガイ地獄」
聖の姿が、消えた。
「……あとはお前か」
それまで奥から傍観していたらしい隼太が、秀一郎を醒めた目で見た。
紫陽花色のコートは、椿を散らした夜と同じで変わらない。
音楽が聴こえるわ。
ピアノの音。
あの子の好きなモーツァルトの子守歌。
ああ、私ったら眠っていたのね。
レコードだったの。
「紅茶を淹れたよ、磨理の好きなマリア―ジュ フレールの」
「ありがとう、大海」
応接間の暖炉の火が、ピアノの演奏に拍手しているみたい。
暖かいわ。
私はちらりと空席の揺り椅子を見る。お義父様はあの椅子がとてもお好きだったの。
私が大海を「貴方」と呼ばないことに渋い顔をされてた。
だって大海がそう望むんですもの。仕方ないわ。あんなところはやっぱり、保守的な方だったわね。
紅茶が美味しくてほっとする。
大海が紅茶を上手に淹れられる旦那様で良かった。
私はソファーの隣に座った大海と小さく笑み交わす。きっと二人は同じことを考えているから。
「君がマリーなら?」
大海がおどけた目でにこやかに問う。
「貴方はマルクス」
よく大海とする言葉遊び。コトノハ遊び。
満足したように彼が微笑む。
「大海。髪が伸びたわね」
襟足からぴょこりと飛び出した毛先に触れる。
夫の髪はいつの間に結べるくらい伸びたのだろうか。
「うん。あとで切ってくれる? いつもみたいに」
「良いわよ。……ねえ、こんなポット、うちにあったかしら?」
鮮やかな紫色に、立体的な葉と白い花があしらわれた美しいティーポット。
蕾までついてる。素敵だわ。
「フランツ・コレクションだよ。良いだろう。磨理はミントンやウェッジウッドが好きだから、フランツも気に入るだろうと思って」
「ええ、可愛い」
「だろ?」
手柄を褒められたような大海の笑顔が可笑しい。
子供みたいで。――――子供。
「あの子は。隼太は?」
「外で遊んでるよ」
「そう……」
子供という単語が浮かんだ時、最初に女の子と考えたのはなぜかしら。
私には隼太の他に子はいないのに。
硝子の向こうに風がそよいでいる。
私に何かを知らせようとしているみたいだけれど、締め切られた応接間には届かない。
大丈夫よ、私は幸せだから。
屋敷から離れ尚、香り立つ花園に男が二人。
精神的優位にあるのは明らかに隼太だった。
今や彼は四人の身柄を押さえている。――――ことと聖はまだ油断出来ないが。
それに対して秀一郎は。
音ノ瀬当主であることと、副つ家の守り人である聖を盾に取られた形。
孤立無援だった。
青い空と花々に囲まれた空間は絵図の長閑さを裏切り、極限まで張り詰めた戦意に満ちていた。
秀一郎が強張った口を動かす。
「君を誅殺しておくべきだった。返す返すも自分の甘さが悔やまれる」
「誅殺と来たか……。お偉いことだ」
「二人に何をした」
隼太が慈愛を装う微笑を皮肉に浮かべる。
「驚天動地だろうな。一族きってのコトノハ使いがああも易々と陥落したのだから。俺も驚いてるくらいだ。悩み、無力を嘆きながら逝くと良いさ」
一際、濃い色の薔薇の繁みがもぞ、と動いたのに秀一郎は気付いた。
「ばあ!」
両手を万歳して舌を出し、跳躍したのは、聖の外見と同年齢程に見える少年だった。
明るいオレンジ色のマリンパーカーに花弁と緑の葉が舞い上がる。
秀一郎も隼太も、無言で彼を見返した。
「…………」
「俺は戻る」
「ちょっと! 人を使っといてその言い草と態度はどうなの、隼太。驚いた振りくらいしてよ」
「知らん。こいつは、」
そう言って少年に秀一郎を親指で示す。
「曲りなりにも本家の狗だ。丁重に〝誅殺〟して差し上げろよ」
「あっは、似合わない言葉使っちゃってさぁあ?」
少年が腹を抱えてげらげら笑う。
構わず踵を返した紫陽花色を追おうとした秀一郎は、少年に阻まれた。
音ノ瀬の人間である容貌の特徴こそ見受けられないものの、あどけなく可愛らしい顔立ちをした少年だ。和製天使のような。しかし双眸に宿る色は子供らしくも天使らしくもない。幾多の修羅場を経た戦士のようで、秀一郎はその落差に違和感を覚えた。聖とは対極にある、俗を貫いた果てに得た、悟りのような矛盾が窺える。
「……君には申し訳ないが、全力で行かせてもらうよ」
秀一郎は眼鏡を外し、上着のポケットに入れた。
出欠確認に応じる生徒のように、少年が挙手する。
「はいはい、じゃあ俺も頑張っておじさんを〝誅殺〟しまーす」




