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コトノハ薬局  作者: 九藤 朋
花屋敷編 第三章
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アニムス

人よりも獣が似合う山間(やまあい)の田舎道で、固く閉ざしながらも、開花に向けて小さく尖った椿の蕾を見つけた男は、顔をぱあ、と明るくさせた。子供のように無邪気な表情の変化だった。

「あかいはなー。はーやたのすきなー、あーかい、はーなー」

 自由な節回しで歌い、蕾をちょんと突く。

「ねえ、咲きなよ?」

 小首を傾げて命じる声を聴く人がいれば、背中が寒いと感じたかもしれない。

 善悪を弁えない子供の酷薄が滲むコトノハに、ふるり、と身を震わすようにした椿の花が綻び、開いた。

「うん」

 満足そうに彼が頷くと、後ろで短く束ねた髪もぴょこりと動いた。

 長身痩躯にこざっぱりした焦げ茶のコートを着た風体は大人のものだが、纏う空気には流浪の民のような捉えどころの無さを感じさせる。

「従容(しょうよう)として死地に赴く。って、隼太だったら褒めてやるのかなあ?そういうの好きだもんねえ」

 独り言を弾む口調で発しながら歩む動きも、風来坊めいている。

 櫨(はぜ)やカエデ属のいろは紅葉。

 まだ残る野の萩、銀の薄。

 晩秋の山野の彩りは美しい。

 下界は知らないがこのあたりは好天で、陽光が植物らを美しく映えさせている。

 見渡せる山に棚引く、橙(だいだい)と桃色混じりの雲を見た男の目から、幼い色が消えた。

 薄くも厚くもない唇が開く。


「こもりくの 泊(はつ)瀬(せ)の山に 霞たち たなびく雲は 妹(いも)にかもあらむ」


 泊瀬の山に霞がかったようにたなびく雲は、愛しい妻なのであろうか。


 万葉集巻七、作者不詳の歌だ。

 それを詠み上げる時のみ、男の目は大人びた物悲しさに満ちた。

 があ、とそこに水を差した烏を向いた時にはもう、元の乾いた風来坊に戻っている。

 蔦の絡まる枝に留まり、しげしげとこちらを見やる烏がまたがああ、と鳴いた。

「お前、声が悪いなあー。愛嬌無いし。でも頭良くて獰猛そうだ」

 くすす、と笑う。

「隼太みたい。よし、今からお前は隼太だ!」

 コトノハを受けた烏は、円らな瞳をくり、と動かすと羽ばたき、男が伸ばした腕に従順に留まった。サーカスのような一幕だ。

「よーし、隼太。一緒に花屋敷に帰るぞー」

 があ、と、返事するように烏が鳴いた。

 

 

 真葛が作ってくれた柚子ジュースには、とろりとした蜂蜜がたっぷり入っていた。

 あやされるような甘さが心身に沁みる。

 私にもこうした物は必要だったらしい。

 安堵するような、口惜しいような。

 私はアニムスが強過ぎる、と以前、秀一郎に指摘されたことがある。

 アニムス。

 スイスの心理・精神分析学者であるユングの用いた言葉だ。

 女性として育てられた存在の中の男性性のことだ。

 胸の中で苦笑する他無かった。


 私は当主だぞ、と微笑しながら返すと彼も黙った。

 言いたいことは解る。恐らくは聖も秀一郎と似たように感じているだろう。

 そして彼らの言い分に反発しながら、蜂蜜の甘さに一時でも自分を委ねる私がいる。

 明るい果汁で喉と己を潤す間、私はアニムスを忘れているのだ。


 私は自己を分析しながら、現代社会に生きる女性たちにも思いを馳せた。

 凡そアニムス無しでは生きられぬであろう、と。


 私の耳に、少しずつコトノハが戻ってくる。

 良かった。

 コトノハの無い世界は、私にとって櫓(ろ)も無い小舟で放り出された荒海に等しい。

 心底、良かったと思い、それから自分を恥じた。

 世にはその荒海で一生を送る人も在るのに。


「こと様。散歩に出られませんか」

 真葛が物柔らかに提案する。

 聖は室内にいない。彼は昔からこの姉に弱い。

 変わってないなと笑んで真葛に首肯すると、彼女の唇から細い吐息が洩れた。


 綿と麻の混じったシャツにズボン、ふわりとしたパーカーに銀糸の刺繍が施されたショールを掛け、真葛と外に出た。

 私が玄関を振り返ると、察した真葛が差し伸べるような声を出す。

「聖が消えることは有り得ません。そんな軟な弟ではございませんので、ご安心ください。さあ、参りましょう」


 楓と俊介が消えても聖は消えない。

 真葛の言葉を信じて私は歩みを進めた。


「この界隈も洋風住宅が増えましたね」


 粉(こ)糠雨(ぬかあめ)のような雫は私たちの会話を少しも阻まない。

 真葛が余所の玄関先から飛び出したオリーブの枝に手を添えている。


「輸入住宅ですね。最近は多い。うちのような日本家屋が将来、どれ程残っているものか」

「御本家は絶えますまい」

 淑やかに断言する女性を眺める。

「他が許さぬ、か?」

「いいえ。こと様がおられるからです」

 私は苦味の濃い笑みを浮かべた顔を伏せ、彼女と歩き続ける。ゆっくりと。

「今回のような体たらくがあると、その言葉も買被りに聴こえますね……」

 道の先を、若い女性が子供用サイズの傘を二本持って急いでいる。

 近所の保育園にでも持って行くのだろうか。

 ピンク色の割烹着を着たまま。

 母親だな、と思い、楓のことが胸を過ぎる。

 楓のことを思い出す度に、平静でいられなくなりそうな自分を私は抑えている。

「私だけが自由になってしまいましたね」

 同じ方向を見ていた真葛が言う。自嘲や卑下は感じられないが。

「生きている限り、完全な自由などどこにもありません。それが人の世です」

「けれどこと様は稀に見るご不自由さかと心得ます」

「どうでしょうか……。苦界(くがい)の果てなど、思い遣ったことも無い」

「嘘ですね」

 穏やかに言い切られた。

「…………」

「一身に背負っておいでではございませんか」

「買被りですよ」

 私たちの足は止まっていた。

 道に小さく、煉瓦で囲われた花壇の横で。

 雨音がまだ遠慮している。

「聖を許してやってください」

「五年前のことなら、彼に非はありません」

「では、もう御自分を許して差し上げてください」

「…………」

「こと様。五年ですよ。五年の歳月が流れたのです。もう、幸いの方角へと歩み出されてもよろしいのではありませんか?」

「私は――――」

「例え貴方様が、音ノ瀬家御当主であられるとしても」


 柔らかい真葛の声が。

 決して私を責めない真葛の声が。

 私を安楽へ追い詰めようとする。

 そこは怖いのに。


 私の中のアニムスが、そこは怖いと怯えているのに。







挿絵(By みてみん)







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