アニムス
人よりも獣が似合う山間の田舎道で、固く閉ざしながらも、開花に向けて小さく尖った椿の蕾を見つけた男は、顔をぱあ、と明るくさせた。子供のように無邪気な表情の変化だった。
「あかいはなー。はーやたのすきなー、あーかい、はーなー」
自由な節回しで歌い、蕾をちょんと突く。
「ねえ、咲きなよ?」
小首を傾げて命じる声を聴く人がいれば、背中が寒いと感じたかもしれない。
善悪を弁えない子供の酷薄が滲むコトノハに、ふるり、と身を震わすようにした椿の花が綻び、開いた。
「うん」
満足そうに彼が頷くと、後ろで短く束ねた髪もぴょこりと動いた。
長身痩躯にこざっぱりした焦げ茶のコートを着た風体は大人のものだが、纏う空気には流浪の民のような捉えどころの無さを感じさせる。
「従容として死地に赴く。って、隼太だったら褒めてやるのかなあ?そういうの好きだもんねえ」
独り言を弾む口調で発しながら歩む動きも、風来坊めいている。
櫨やカエデ属のいろは紅葉。
まだ残る野の萩、銀の薄。
晩秋の山野の彩りは美しい。
下界は知らないがこのあたりは好天で、陽光が植物らを美しく映えさせている。
見渡せる山に棚引く、橙と桃色混じりの雲を見た男の目から、幼い色が消えた。
薄くも厚くもない唇が開く。
「こもりくの 泊瀬の山に 霞たち たなびく雲は 妹にかもあらむ」
泊瀬の山に霞がかったようにたなびく雲は、愛しい妻なのであろうか。
万葉集巻七、作者不詳の歌だ。
それを詠み上げる時のみ、男の目は大人びた物悲しさに満ちた。
があ、とそこに水を差した烏を向いた時にはもう、元の乾いた風来坊に戻っている。
蔦の絡まる枝に留まり、しげしげとこちらを見やる烏がまたがああ、と鳴いた。
「お前、声が悪いなあー。愛嬌無いし。でも頭良くて獰猛そうだ」
くすす、と笑う。
「隼太みたい。よし、今からお前は隼太だ!」
コトノハを受けた烏は、円らな瞳をくり、と動かすと羽ばたき、男が伸ばした腕に従順に留まった。サーカスのような一幕だ。
「よーし、隼太。一緒に花屋敷に帰るぞー」
があ、と、返事するように烏が鳴いた。
真葛が作ってくれた柚子ジュースには、とろりとした蜂蜜がたっぷり入っていた。
あやされるような甘さが心身に沁みる。
私にもこうした物は必要だったらしい。
安堵するような、口惜しいような。
私はアニムスが強過ぎる、と以前、秀一郎に指摘されたことがある。
アニムス。
スイスの心理・精神分析学者であるユングの用いた言葉だ。
女性として育てられた存在の中の男性性のことだ。
胸の中で苦笑する他無かった。
私は当主だぞ、と微笑しながら返すと彼も黙った。
言いたいことは解る。恐らくは聖も秀一郎と似たように感じているだろう。
そして彼らの言い分に反発しながら、蜂蜜の甘さに一時でも自分を委ねる私がいる。
明るい果汁で喉と己を潤す間、私はアニムスを忘れているのだ。
私は自己を分析しながら、現代社会に生きる女性たちにも思いを馳せた。
凡そアニムス無しでは生きられぬであろう、と。
私の耳に、少しずつコトノハが戻ってくる。
良かった。
コトノハの無い世界は、私にとって櫓も無い小舟で放り出された荒海に等しい。
心底、良かったと思い、それから自分を恥じた。
世にはその荒海で一生を送る人も在るのに。
「こと様。散歩に出られませんか」
真葛が物柔らかに提案する。
聖は室内にいない。彼は昔からこの姉に弱い。
変わってないなと笑んで真葛に首肯すると、彼女の唇から細い吐息が洩れた。
綿と麻の混じったシャツにズボン、ふわりとしたパーカーに銀糸の刺繍が施されたショールを掛け、真葛と外に出た。
私が玄関を振り返ると、察した真葛が差し伸べるような声を出す。
「聖が消えることは有り得ません。そんな軟な弟ではございませんので、ご安心ください。さあ、参りましょう」
楓と俊介が消えても聖は消えない。
真葛の言葉を信じて私は歩みを進めた。
「この界隈も洋風住宅が増えましたね」
粉糠雨のような雫は私たちの会話を少しも阻まない。
真葛が余所の玄関先から飛び出したオリーブの枝に手を添えている。
「輸入住宅ですね。最近は多い。うちのような日本家屋が将来、どれ程残っているものか」
「御本家は絶えますまい」
淑やかに断言する女性を眺める。
「他が許さぬ、か?」
「いいえ。こと様がおられるからです」
私は苦味の濃い笑みを浮かべた顔を伏せ、彼女と歩き続ける。ゆっくりと。
「今回のような体たらくがあると、その言葉も買被りに聴こえますね……」
道の先を、若い女性が子供用サイズの傘を二本持って急いでいる。
近所の保育園にでも持って行くのだろうか。
ピンク色の割烹着を着たまま。
母親だな、と思い、楓のことが胸を過ぎる。
楓のことを思い出す度に、平静でいられなくなりそうな自分を私は抑えている。
「私だけが自由になってしまいましたね」
同じ方向を見ていた真葛が言う。自嘲や卑下は感じられないが。
「生きている限り、完全な自由などどこにもありません。それが人の世です」
「けれどこと様は稀に見るご不自由さかと心得ます」
「どうでしょうか……。苦界の果てなど、思い遣ったことも無い」
「嘘ですね」
穏やかに言い切られた。
「…………」
「一身に背負っておいでではございませんか」
「買被りですよ」
私たちの足は止まっていた。
道に小さく、煉瓦で囲われた花壇の横で。
雨音がまだ遠慮している。
「聖を許してやってください」
「五年前のことなら、彼に非はありません」
「では、もう御自分を許して差し上げてください」
「…………」
「こと様。五年ですよ。五年の歳月が流れたのです。もう、幸いの方角へと歩み出されてもよろしいのではありませんか?」
「私は――――」
「例え貴方様が、音ノ瀬家御当主であられるとしても」
柔らかい真葛の声が。
決して私を責めない真葛の声が。
私を安楽へ追い詰めようとする。
そこは怖いのに。
私の中のアニムスが、そこは怖いと怯えているのに。




