あなたがいない
木造家屋に住んでいると、雨の匂いは解りやすい。
木材が、湿った空気を吸って、吐いて、住人にも知らせる。
今日は夕方から天気が崩れると知っていたので、洗濯物はもう取り込んで畳んである。
私は寝室に、左頬を下にして寝そべっていた。
畳の目の跡がつくかもしれない。
目を閉じると、しとしとと、雨音が鼓膜を優しく叩く。
俊介の探偵事務所に連絡を入れた時のことを思い出していた。
彼はうちに日参しながら、一日の終わりには事務所に立ち寄るか、それが出来なければ電話などで所員からその日の仕事の進捗などの報告を受け、指示を出したりする。
小なりと言えど組織の頭なのだ。
数日、彼とは連絡がつかなくなるかもしれない、と告げる私は、続けて、こちらの責任で申し訳ないと謝罪した。
だが相手はからりと私の謝罪を退けた。
『気にすることないっすよ。所長から、そんなこともあるかもって前以て聴いてました』
〝しかしお仕事に差し障りがあるでしょう〟
他の職種以上に、探偵稼業は信用と日々の実績の積み重ねが命綱の筈である。
『重要な決裁は並木さん、あ、もう一人の所員にね、委託する。しばらく俺の我が儘を見逃してくれって。所長、マジな顔で言いましてね。――――ここだけの話、万一の場合の事務所の運営処理や、俺らの再就職先まで考えてたらしいっす』
〝…………申し訳ありません〟
いやだから、と相手は困ったように笑った。
『所長にそこまで覚悟を見せられたんです。ちょっとやそっとじゃ俺らも動じませんて』
〝…………〟
『貴方がことさん、ですよね。所長からよく聴いてます。美人なんだろーなー、とか、並木さんと噂してました。あ、すんません!そんな訳ですから。所長を信じてやってくださいよ。俺らもそうします』
雨音と、記憶の中の声の優しさが重なる。
違い棚を見上げると、楓が並べた蝉の抜け殻とビー玉、お弾きが光っている。
この寝室の装飾品となっていた。
明るい色の木に草花が透かし彫りされた電灯は、今は暗いけれど、薄く融かした墨のような部屋の中で、胸を温もらせる装飾品は淡く輝くようだった。
秋にはもうそぐわないが、蝉の抜け殻を捨てさせる気にはならなかった。
あの子がこの庭で初めて拾った、大切な戦利品だ。
風呂を上がった聖が風を感じて客間の先の縁側に目を向けると、ことが座っていた。
雨のしと降る上空を向いた彼女の声が聴こえてくる。
「……楓は寒がりだ。足が、特に、冷えるんだ。出来れば毛布で、しっかりくるんでやってくれ。食べ物も、ちゃんと食べさせて。日に一回、お風呂に入らせてやってくれ。清潔な着替えを用意して……。絶対に殴ったりするな。あの子は、過去に酷く傷ついてる。……隼太。きっとあなたも知るような、凍える思いをしている……。頼む。傷つけないでくれ……」
風に乗せて。
音ノ瀬隼太にコトノハを届けようとしているのだ。
吹き込む雨に濡れるのも構わず。
「私にあの子を返してくれ……」
風から楓たちの現状は窺い知れない。
私が頗る風と相性が良いことを知る隼太が、手を打っているのだろう。
だが届けることなら可能かもしれない。
必死でコトノハを紡ぎ続けていた私は、目眩を覚えた。
頭の中が真っ白になって、自分がどこにいるのか解らなくなる。
我に返った時には聖に背中をさすられながら嘔吐していた。
いつの間にかトイレに移動している。
気持ちが悪い。それ程食べていないのに、えずきが止まらない。
聖を押し退けることも出来ない。
そうして、実際は数分だっただろうが、ひどく長く時間が経ったように感じた頃、戻す物も完全に底を突いたようで、人心地ついた。
聖が手渡してくれたコップの水で口を何回も漱ぐ。
「癒。和……」
吐いている間も控えめに処方してくれた聖のコトノハが、私を楽にしてくれる。
こういう場合、症状を根こそぎ改善する強いコトノハを処方しないのが、私たちの方針だ。可能な限りは自己回復に任せる。
「歩けますか」
聖の問いかけに仕草だけで答える。だが支えられなければ寝室まで辿り着けなかった。
私が畳にへたり込み、壁に寄り掛かっている間、聖がてきぱきと寝床を準備してくれた。
「お湯とタオルを持って来ます。汗を拭ってください」
これにも頷くだけ。
やがて運ばれた檜の洗面器に入った湯にタオルを浸して絞り、衣服を脱ぎながら背中などを拭き上げた。浴衣に着替え終えたところで、聖が入って来た。
入室の断りも無いとは珍しい。しかもこちらが無防備な姿だったかもしれないのに。
外は静かだが、もう雨はやんだのだろうか。湿った木の匂いはまだ鼻腔に伝わる。
その時、肩に強い力が掛かり、驚くと、聖もまた、信じられないという顔で私を見ていた。
「入ります」と断ってから間を置き、ことの寝室の戸を開けた聖は、ことの着替え終えたばかりの浴衣姿に、足を止めた。
湯気が部屋を微かに曇らせる中、花の香が匂った気がした。
解かれた髪も艶やかに。
平静を振る舞い、湯を下げる旨を告げるが、ことから返事が無い。
「御当主?」
ことは聖の声が聴こえないように、外の気配を気にしている。
嫌な予感がした。
「御当主。――――こと様。僕の声が聴こえていますか?」
聴こえない筈はない。
しかし返事は無い。ことは聖を見ない。
聖は愕然として、彼女の肩を掴んだ――――。
聖。
どうして、声を出さない?
口は動いているのに。
なぜそんな悪ふざけを。らしくもない――――。
聖、おかしいんだ。
さっきから、何のコトノハも聴こえない。
私の声さえ聴こえない。
聖が私の手を取り、自分の頬に当てさせる。
彼もどうすれば良いか解らないようだ。
赤い目が、遠い昔のように途方に暮れている。
聖。聖。
こんなことがあるのだろうか。
私の世界からコトノハが消えてしまった。
「こと様、こと様」
不覚にも、聖もことと同じく恐慌状態にあった。
同族にすら鬼兎と恐れられる、泰然自若とした姿はそこに無い。
愛する女性の瞳が恐怖に揺れ、激しく瞬きしている。
なのにコトノハを届けられない。そんな莫迦な。
「こと様……っ」
名前しか呼べない。
「ひじり――――」
一瞬、少女時代に戻ったような無垢な双眸で聖を呼んだことは、気を失った。
呆然としていた聖だったが、ことの身体を布団に横たえると、その枕元に端坐した。
自分も浴衣の上にカーディガンを羽織っているが、寒い。
体温ではなく、心的な問題だと自覚していた。
ことの寝顔は透き通るように青白い。端整な石膏の彫像のようだ。
彼女の症状も言わば心的な、一過性のものだとは思うが。
時期が悪い。
(……いや、こんな時期だからか)
楓を攫われ、俊介と重音の現状に責任を感じ、だが当主の顔を貫こうとする。耐え兼ねた精神が悲鳴を上げたのだ。
聖は嘆息した。
雨はまだ降り続いている。
秋の長雨、秋霖となるのだろうか?もう季節は冬になろうとしているのに。
ならば秋雨が長引けば良い。
このままではことが凍えてしまう。
けれど聖には、雨がことの涙にも思えた。手放しで泣けない彼女の代わりに空が泣いているのかと。
ことの額に指を置き、自己満足に過ぎないと知りながら、心休まるコトノハを処方しようとする。
だが聖がそれを言う前に、眠ることの唇が動いた。
「たすけて……」
「こと様、」
「たすけて、おかあさん」




