浮橋
途中からは、うたかたのコトノハを用い、私は自分と聖を飛ばした。
風に衣服や髪を煽られながら、マンションの屋上に降り立つ。
丸く無骨な貯水タンクの横。
飛ばされないよう、聖が私たちの周囲にコトノハの壁を巡らせる。
それでもパーカーのフードがはたはたとはためいた。
私は旋回する風の脅威に向けてコトノハを処方した。
「黒龍よ。汝、眠り暴かれし黒龍なり。なれば今ひとたび、和み安らぎに憩えよ。鎮まり散じよ。緩やかに緩やかに――――」
竜巻に頭があるとすれば、それを撫でる声音を紡ぐ。
こういう時はあやすように言ってやるのが効く。
傍らには副つ家の聖がいる。
私のコトノハは最大限に効能を増幅されている。
もちろん、竜巻は龍ではない。気象現象であって生物ではない。
私は竜巻を名付けて仮初めに命を与え、それが霧散するまでの物語をコトノハで紡いで聴かせたのだ。
シナリオを作り、自分の望む結末に終息させる。
両親より教わったものではない。自分で考え出したコトノハのアレンジだ。昔、天候を操る音ノ瀬の子供がいたと知ってから、どうすれば自分にもそれが可能かと考えた結果だ。
私のこうした研究熱心さは、同族に畏怖され、より遠ざけられた。
「御当主。風がやみましたよ」
聖の声に空を仰げば、猛っていた黒龍は消えている。
過ぎてしまえば呆気なく、いつもと変わらない秋の、少し冷たい風と陽射しが戻っている。もう一頭の龍の姿も、視界には見出せない。秀一郎たちが収めたのだろう。
屋上から見渡す限り、街に激しい損壊や負傷者なども見られない。音ノ瀬淑美たちも健闘してくれたようだ。
戻った風の優しさに、私はほっとした。
「帰りましょうか」
私は聖に声を掛ける。
マンションの屋上に着流しで立つ白髪の少年はだいぶ浮いている。
逃がすまじと言うような目で見るな。
私は強いて平静を装った。
「うたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし」
飛ぶ間、はぐれてしまうことのないように、聖が私を後ろから固定する―――抱きかかえる状態になるのは不可抗力だ。
風の中は自由で透明で、何を言うことも許される気がする。
多くの人と同様に、私も優しさや温もりには弱い。
後ろの体温に囁きかける。
「教えたら、橋を渡ってくれますか」
「――……こと様」
「私が撃ち砕きたいと思ったものを、告げたなら――――」
全てを暴く透明の風が今しばしの猶予をくれる。
「僕は……貴方さえ望んでくださるなら、このまま、こと様をふるさとへ攫います。けれど、貴方はそれを望まれない。ならば、どうすれば良いのか」
腕の力が強まり、聖の白髪が私の右肩と首の境に押し当てられる。
私の頬をくすぐる白髪の柔らかさが愛しくて悲しい。
……なあ、聖。
ふるさとで遊んだあの頃のまま、時が止まっていれば良かったな。
二人だけの狭い世界が、今にして思えば至福だった。
私はお姫様で貴方はウサギさんで、二人ぼっちでいられた。
あの時、あの場所であれば、貴方も橋を渡れただろう。
向かいから飛んできた鳩が、なぜこんなところに人間がいるのかとぎょっとしたように、慌てて私たちを避けた。
家の庭の、痩せた桜の樹の近くに舞い降りる。
夢の終わり。
透明な時間は去った。聖の腕が解かれる。殊の外、ゆっくりと。
青緑と玉虫の光沢から放たれ、私は落胆して、安堵した。
そして、釣忍の知らせた異変を聴いて、家に駆け込んだ。
「楓さん!山田さん!」
あとから続いた聖も二人の姿を捜すが、どこにも見当たらない。
二人してどこかに出かける筈はない。
竜巻が発生しているから外には出ないほうが良いと、俊介自身が言っていた。
だがもう安全だと思い、外出した可能性も――――――。
私の願望は否定された。
「御当主」
張り詰めた聖の声に顔を上げると、厳しい面持ちで、彼は卓上を指差した。
「これを」
ソリティアの丸い盤が置かれている。
盤上、中心に一つだけ置かれた赤いビー玉。
俊介と楓では出し得る筈のない最適解。
戯れに置いたにしてはタイミングが良過ぎる。
その意味するところは。
「……音ノ瀬隼太か」
「恐らくは。二人を拉致したのでしょう」
聖の携帯が鳴った。
「もしもし?」
『聖君。そっちは上手く行ったようだね。こちらの竜巻も抑えた。ひとまずは』
奥歯に物の挟まったような言い方に、聖が眉をひそめる。
「何かあったのかい、秀一郎君」
『……僕が向かった音ノ瀬辰巳らの自宅近くには、女子大キャンパスがある』
「そうだったな。それで?」
『数名の学生が暴風に煽られ、倒れた自転車に巻き込まれ、頭部などを打った』
「…………」
『内、一人は花野重音嬢だ。今は病院に運ばれ、精密検査を受けている』
通話は私にも聴こえるようにしてあった。
聖が私を見る。私は無言で掌を差し出した。
渡された携帯に語りかける。
「秀一郎。私だ。楓と山田俊介の両名、音ノ瀬隼太に拉致された可能性が高い。至急、一族の主立った者に緊急招集を掛けろ」
『……承知致しました』
私は荒ぶる気持ちを鎮めようと両目を閉じた。
平常心でない者に当主は務まらない。コトノハも処方出来ない。
ささくれ、波立った気持ちでコトノハを紡いではならない。
音ノ瀬隼太。
暴挙を仕出かした孤独なあの男に、どんなコトノハであれば効くのだろう。
(貴方も独りだった。私も、聖も。その点では私たちは、とてもよく似ている……)
おかしな話だ。対立している私たちなのに。
チェコ硝子の赤も、ぽつねんとして寂しそうに見える。
何だか視界が暗いと感じる。




