バン
あ、聖がまたやっている。
台所の冷蔵庫の前。
扉の向かって右側に手を掛け、すかっと空振りする。
それを二、三度繰り返して、ようやく左側に手を掛け、扉を開ける。
昔、聖がうちにいた時期と今とでは、冷蔵庫が違う。
家族分の食糧を収納する必要も無くなり、電気代ばかり喰う大型を処分し、サイズの小さい冷蔵庫を買ったのだ。
昔の冷蔵庫は右開きだったが、今の冷蔵庫は左開き。
しかし習慣とは怖いもので、聖は未だに右側から冷蔵庫の扉を開けようとするのだ。
俊介も自宅の冷蔵庫が右開きらしく、よくこれをやる。
おかしいなあ、と言うように傾く聖の白い頭を見て、私は笑いを堪えた。
「…………」
それから、青緑の着流しの、背中のあたりに右手人差し指の照準を定める。
右目を瞑って。
バン。
撃つ振り。
無音には無防備になりがちなのが音ノ瀬一族の弱味でもある。
聖が振り返る頃には素知らぬ顔をしている。
「おはようございます、聖さん」
「おはようございます。御当主」
「朝ご飯の支度ですか?」
「はい。出汁巻卵と、えのきと油揚げの味噌汁を作ろうかと思いまして」
「じゃあ、私は法蓮草のお浸しを作りましょう。それから、昨日の鰈の煮付けの残りで良いですね」
一族の秩序と序列の中で育った聖は、私に先んじて料理や家事をしようとする。
しかし他家の台所の使い勝手は自宅とは異なるだろうし、聖一人を働かせて私がふんぞり返っていては、楓の情操教育にも良くない。
分担して家事をすることで互いに妥協したのだが、台所に同時に二人の人間が立つのは船に船頭が二人立つに等しく、最初は動き辛くて敵わなかった。
今は互いの呼吸をだいぶ読めるようになった。
にしても、時々ぶつかりそうになって邪魔臭いのだが。
瑞々しい真緑の法蓮草を何度も水に晒して洗っていると、指先がかじかんで感覚が無くなってくる。身体の芯まで凍りそうだ。
「今日は冷えているようですね」
ボウルの中で手際良く卵を溶き解し、ちゃちゃちゃ、と掻き混ぜながら、私の様子を見ていた聖が言う。
「ええ。冷たいですよ」
そう言い終わらない内に、聖に右手を掴まれた。
水道の水がざあざあと流しっ放しだ。
「僕の何を撃たれたのですか?」
「え」
「指で」
――――――――完全に不意を突かれた。
赤い目が、呪縛するくらいの強さで私を凝視している。
「冷蔵庫の扉に、映っていました」
冷蔵庫の扉は曇った鏡のようなステンレス。
――――水道の水を止めなければ勿体無い。
「……御当主」
ジリリリリリリン、とがなり立てた電話に、二人共、はっとした。
私は聖から右手を奪還し、黒い電話に向かう。
助かったと思ったのは、浅はかだった。
「はい、音ノ瀬です」
『御当主、私です。風を聴かれましたか?』
秀一郎だ。
私を御当主と呼ぶということは、一族に関する緊急の用事だろう。
「――――いや。何があった」
『竜巻が、一族の住まう二ヶ所、離れた付近で同時発生しました』
「…………」
『ニュースでもやっていますが、私は今から近場の音ノ瀬辰巳一家の自宅のほうへ向かいます。もう一方、音ノ瀬淑美夫妻宅はそちらに近いので――――』
頭の中に地図を浮かべ、秀一郎の伝える一族の住所を思い出す。
「私が出向く。付近住民への被害も極力、抑えよ。コトノハの制限解除を許す。辰巳、淑美らにも確と申し伝えよ」
『は。どうかお気を付けください』
私は電話を切るとすぐ、庭に裸足で飛び出した。
見える。
天に荒ぶる二頭の黒龍のような姿。
世界の上下を繋ぎ、螺旋状に踊り狂っている。
その光景に作為的なものを感じるのは秀一郎も同じだろう。
私を追って来た聖も空を見ていた。
「ここからでは遠いな」
コトノハを飛ばすには。意味を汲み取った聖が意見を挟む。
「……竜巻の進路は知れません」
「とにかく私は音ノ瀬淑美の家に向かう」
「ではお供します」
「ならぬ」
足の汚れを払って再び屋内に入り、楓を起こさないようにパーカーを引っ掛けて玄関に出る。
聖も忙しなくついてきた。それでも楓への気配りから、ちゃんと足音を殺している。
「楓を頼む。命令だ」
赤い目がいつになく反発の意思を孕む。反発と。悲しみ?
「何を撃たれたのかをお教えください」
頑是ない子供のような、非常時における聖の執拗さに、私は苛立った。羞恥心もある。
「そんなことを言っている場合ではない」
ぴしゃりとはねつけると、押し黙った聖の代わりのように、呼び鈴が鳴る。
反射的に私が戸を引き開けると、俊介が立っていた。
髪の毛に小さな葉っぱを一枚絡ませて、目を大きくしている。
「おはようございます。……どうしたんですか? お二人して。竜巻が発生してるらしいから、外には出ないが良いですよ」
「丁度良かった、俊介君。楓さんを頼まれてくれ」
「え?」
反駁しようとして見た聖の顔には、一歩も退かない気構えがあった。
「――――……お願い出来ますか、山田さん。私たちは竜巻に対処しに行かなくてはなりません」
「は、はい……、」
俊介とすれ違う時、パーカーのフードがふわりと浮いた。
秋の高く透き通る蒼穹が今日は見えない。
代わりに風に煽られ、成す術無く舞う葉たち。
赤、茶、黄、濃い緑らが、荒ぶられるままに任せ。
聖と共に駆けながら。
もう、今までと同じ家には帰ることが出来ない。
そんな予感が私の胸から消えなかった。




