セイレーン
持ち得る者には制約あれかし。
これがコトノハを処方する音ノ瀬一族の基本理念だ。
常人に勝る特権を有するのであれば、一定の重みある鎖で縛らなければ、外に対しても内に対してもいつ何時、猛獣となるか解らない。
優越と、劣等の間で揺れ動くのが人情であるからには。
商談時にコトノハを処方するなかれ。
政治・軍事に関わるなかれ。
司法に従事するなかれ。
医療・福祉に従事するなかれ。
時代を追うごとに複雑化する人の世に対応して、縛めの鎖も増えて行った。
私は、今目の前に座る一族の女性が看護師になりたいと願い出た時、それを許さなかった。
掟に従うよう当主として厳命し、彼女の職業選択の自由を奪ったのだ。
「御当主を、お恨み申し上げた時期もありました」
優しい色合いの家具調度の中、甘い香りのする紅茶を出してくれた彼女は、言葉とは裏腹に穏やかな顔で微笑んだ。
「そうでしょうね」
「けれど、止めてくださって良かったと今では思っています」
「…………」
「あのあと、祖父が末期癌と判って。揃ってコトノハで延命させようとした私たち家族を、祖父自身が止めました。痛みを軽減するコトノハの処方しか許してくれず。……身内としては恨めしくも悲しくも思いました。祖母は、泣きながら祖父を罵りました。祖父が身罷って。四十九日も過ぎて。段々、時が経つにつれ、気持ちの昂ぶりが鎮まるにつれ、祖父の心が、理解出来るようになりました……」
私は紅茶の水面を見る。透き通っている。
「おじい様は、……強い方でした」
「はい。もしもあのまま、私たちがコトノハを濫用していれば、祖父は永らえたかもしれません。健康に……以前のように」
余命幾許も無い、近しい人間に、自分であれば打てる手立てを打つことが許されない。
途方も無い苦行だ。
「でもきっと、色んなものが歪になったでしょうね」
彼女が落とした呟きは、私に枯れ葉を思わせた。
あるべくしてそうあるしかない、諦観を知る者。
「私が看護師になれば、感傷と感情に引き摺られるまま、患者さんたちにコトノハを濫用したことでしょう。人としての一線を簡単に超えて、出来るからというだけの理由で、……気がつけば人間でなくなっていたと思うんです。奇妙ですよね。人であるからこそ迸った情が、人を人でなくさせる。今であれば、一族の掟の意味が昔より解ります」
そのように、穏やかな笑みを湛えられるようになるまで。
この人はどれだけの山を越えたのだろうか。
「御当主もお辛いのだと。失礼ですが、女性の身でありながら、と思ってしまいます。お赦しください」
「――――いいえ」
彼女はす、と背筋を正した。
「私共夫婦には、いつでも楓さんを受け容れる用意があります。しかし、それで御当主はよろしいのですか?」
「……コトノハを使う痛みを知る、貴方方であれば」
楓を託すに相応しい。広い硝子窓は曇り無く磨かれて、庭は秩序正しく美しく手入れされている。経済的にも精神的にも、同族内では幼子の親となるのに理想的な夫婦の家だ。
「楓さんはそれを望んでいますか?」
尋ねられ、首を小さく左右に振って答える。
「話せばきっと拒むでしょう。傷つかせてしまうかもしれません。しかし長い目で見れば、父と母――――貴方のような、人のいる家庭で、世間に溶け込んで暮らすほうがあの子の幸せです。私の居場所は、一族の業に近過ぎる。楓さんにまで背負わせるようなことにはしたくないのです」
「……楓さんの幸せ。それでは、御当主。貴方の幸せは?貴方の幸せはどこに置いてあるのです? 置き去りにして、この先も生きて行かれるお積りですか」
私は両目を閉じた。
「家督を継いだ時、私は個としての幸せを望む自分を凍らせました。だからこそ、貴方たちに居丈高に振る舞うことも許されるのです」
「上に立つ御方として御立派とは思います。ですが、御当主。一族の末席に在る人間の願いを、どうか心にお留めください。御自身の幸せを諦めないでください」
父と母を自らの過ちで失くした私。
子として誤った私は、当主としてこれ以上誤ることが出来ない。
「私は当主です」
「当主ならば人であってはいけませんか、幸福を望んではいけませんか」
なぜそう、必死に言い募るのだろう。
「人であって、人でない。――――そうでなければ務まらぬ」
虚空に。
吹き曝しに。
独り。
「……何ゆえ泣く」
「不思議ですか……? 一族の者が、御当主の幸を望むのは」
涙と、濡れたコトノハが、私を頼りない子供のようにさせる。
幸せになって欲しいのだと私の為に泣く人に。
返せる言葉が見つけられず、私は家を辞去した。
甘い香りの紅茶に口をつけないまま。
〝御当主がそのような悲しきコトノハを仰せではいけない〟
帰りながら私は、秀一郎に以前、言われた台詞を思い出していた。
彼女と秀一郎の懸命さは似ている。
「ことさん、まだかな?」
楓が、聖の青緑色の着流しの袖を掴んで、くんくん、と引っ張った。
「もう少ししたらお帰りになるんじゃないかな」
聖があやすように楓の頭を撫でる。
午後三時には、在宅だった聖と俊介と楓の三人で、栗の渋皮煮を食べて緑茶を飲んだ。ことが不在なので場は余り弾まなかった。
俊介も疑問顔で聖を見る。
「大丈夫ですかね。俺も同伴しないで良かったんでしょうか?」
音ノ瀬隼太と再び遭遇した話を聴いたから心配なのだ。
「御当主の希望だからね。僕も留守番を命じられた」
ことの訪問先と目的を知る聖は、それだけを答えた。
いつも通りの表情で。
だが。
車のフロントガラスを小雨がびっしり覆って、視界が利かない。
そんな時の心情を俊介はなぜか思い出した。
「ひーくん、ソリティア、やって?」
鮮やかに最適解を出して見せた聖に、それ以来、楓は時々ねだるようになっていた。
「良いよ」
いそいそと楓が卓上に置いた丸い盤に聖が指を伸ばす。
ビー玉を一粒取って溝に落とし。
青の上に赤を、黄の上にミントグリーンを。
通過させながら次々、溝にチェコ硝子を落として行く。
楓と俊介が見守る中、かたん、ことん、と音が響く。
かたん、ことん、かたん、ことん。
球体があっちに動き、こっちに動き。
〝私のウサギさんは誰も傷つけてはいけません〟
私のウサギさんは。
指はほとんど惰性で動き、聖の思考はパズルゲームとは遠いところにあった。
楓が小さな頭を揺らして斜めにする。
「あれえ? たくさん残っちゃったよ? ひーくん」
「ほんとだ。珍しいですね、聖さん」
彼らの言葉に、盤上のそこかしこに残ったビー玉を聖は見る。
「ああ、残っていたね。……気がつかなかった」




