美食は罪である
風呂上り、半乾きの髪を背に流し、桔梗柄の浴衣姿で縁側に片膝立てて座る。
父母が見ればやれあられもない、だのはしたない、だのうるさいだろうが今、私は一人なので誰に気兼ねもしない。月桃香が湯で温もった私の身体にもゆらりと仄白くまとわりつく。
「来ないか?」
私が無人の上空に手を伸べて呼びかけると、清涼な風が舞い、痩せた桜の樹の葉などを舐めて動かし過ぎ行く。チリーン、と吊忍の下の風鈴が大きく鳴る。まだ軽く湿った髪が微かに揺れるのが快くてくすぐったくて、私はくく、と笑いを洩らす。
昔から風とは相性が良いのだ。
暮れなずむ空は茜と紫。藍と紫紺と。暮色の美しさに見惚れる。
そこに点を成す烏の姿も郷愁を誘う。生まれ育った家にいながらにして。
夏の宵の不思議だろうか、人の心の不思議だろうか。
庭の紫陽花が打ち水を打った時の露を弾き、残照を映している。
水色地に、薬師寺東塔水煙にある飛天の意匠が突き彫りされた奈良団扇をはたはたと動かし、今度は自力で風を起こす。これはこれで情趣があって良い。また合わせたように鳴り続ける風鈴も付き合いが良い。
「言の葉、ことのは、コトノハ、」
戯れに声を出すと、蛾など羽虫たちがコトノハに釣られてやって来る。
私のコトノハが誘蛾灯となったのだ。
「ごめん、私が悪かったね。ここには樹液も生餌も、炎もないよ。お戻り」
静かに促すと、鱗粉を散らしながら彼らは樹影に消える。ふ、と私はまた笑った。
柱時計が大きく、ボオン、ボオン、と七時を告げた。
まさか本当に来るとは思わなかった。私は横に座って牡蠣の殻を甲斐甲斐しく開けてくれている山田俊介の横顔を半ば呆れて見た。これは世に言うストーカーではあるまいか。
牡蠣の殻は硬く凸凹として、口は鋭利な刃物のようで、うっかりすれば怪我をする。その危険を率先して冒してくれるのは有り難いが。軍手を嵌め、右手にこうした貝類の口をこじ開けるのに専用にしている、柄の長い銀の器具を用いている。我が家に物心ついた時からある、ロブスターのようなマークのついたその器具の名称を私は知らない。呑気なものだった。
風を招いた時のコトノハが、彼にまで及んだ可能性はある。
奮闘する俊介を尻目に、無色透明な硝子の盃で冷酒、純米吟醸を飲みながら私は考える。
俊介が来訪する前に、乾いた髪は既に梳かしていつものように後ろで緩く一つに束ねていた。組紐は浅葱色に銀が散る。
牡蠣の入った無骨な保冷バッグと純米吟醸の一升瓶を抱えた人間を邪険にするほど、私は無欲な聖人ではなかった。知己ではあるのだし、と自分に言い訳して招き入れた。いざとなればコトノハを一服、盛れば良い。効きにくいことと効かないことは、決してイコールではない。喫茶店の一件が好例である。
そしてあのような不可思議な目に遭っても尚、のこのこやって来る俊介も俊介だ。
「美味しい」
つらつら考えながらも差し出された大粒の、よく肥えた牡蠣の身にレモン醤油を垂らして口に運ぶと、私は無邪気な声を上げてしまった。レモンの酸味で牡蠣の生臭さが程良く抑えられ、潮の風味と特有の弾力、甘味が舌と歯の間で踊り、跳ね、喉に転がる。ごくり、と嚥下すると鼻腔に残る潮が香った。即、冷酒を口に含み、ほ、と息をしたあとの私の一声だった。
俊介が、主人に褒められた飼い犬のように満面の笑顔になる。
やれやれ、これだから憎めない。
私は微苦笑しつつ俊介にも酒を勧めた。吊忍が耳に涼しい。月桃香の手柄か、蚊が近寄る気配は今のところ、無い。
「ことさんはお庭と一緒に観ると、一枚の絵みたいですよね。お一人の時でもそうですけど」
「また難しいお仕事の依頼ですか」
「いえいえ、純粋な褒め言葉です」
判っていたがそうした称賛の類は私にはどうもむず痒く、応えるにはぐらかしてしまった。現在は片膝を立ててこそいないものの、依然としてリラックスムードに変わりはない。自分でも親父が入ってると思う態度でいる時に褒められると、居心地が悪くなる。
チリーン、と心地好い音が耳をかすめる。私は目を閉じてその音と美酒に酔う。
俊介の視線は放置した。
コトノハ薬局。
音ノ瀬家は祖父母の代からそれを営んで来た。もちろん正式な薬局ではない。コトノハ薬局が扱うのは文字通りコトノハ、言葉の力とそれを発する時の音だ。派手なアニメ世界などでお馴染みの超能力とは少々異なるこの、一風変わった力を、現・音ノ瀬家当主である私もまた処方する。
客層は幅広いが、彼らに共通しているのは皆、藁にも縋る思いを抱いているということ。
そうでなければ、こんな怪しげな自称・言葉の薬剤師を頼ったりはしない。
山田俊介は酒屋の次男坊で、私立探偵である。
胡散臭さでは私といい勝負かもしれないが、こちらはこちらで、私と同じように真面目に地道に仕事をこなしている、堅気の人間だ。清潔なビルにささやかながらも事務所を構え、部下も二人いる。
私と知り合ったのは仕事の遂行中だった。
普段は浮気や素行調査などが主な仕事内容の俊介に、ある刑事事件を、警察とは別に捜査して欲しいという依頼が舞い込んだ。依頼者は事件被害者の遺族。
私は彼らよりセラピーの依頼を受けていた。傷痕を深く、深く残す事件だったのだ。
意図しないところから、つい事件の真相を紐解いてしまった私は俊介に興味を持たれ、懐かれた。
有り体に言えば惚れられたのだ。
それからは似た類の、事件性のある依頼を頑張って探して来ては私に助けを乞う、という形で接近を図るようになった。
やっぱり一種のストーカーだ。うん。
野良の大型犬に懐かれて途方に暮れている。今の私はそんな心境であり状況だった。
またこの大型犬の実家が、海の幸、山の幸の美味を実に気前よく一人暮らしをしている息子に度々送って来るのが、おすそ分けと称して彼を我が家に来さしめる大きな要因ともなっていた。
良く言えばグルメ、悪く言えば食い意地の張った私には始末に負えないことこの上ない。
「山田さんがケダモノだったらまだ話は簡単なんですけどねえ」
「えっ。何ですかそれ!俺は、ことさんにそんなことしませんよ!!」
「そんなこととは」
「いえっ、何にもっ、」
狼狽えて赤くなっている。酒のせいではない。
私は目を眇めた。まだ酔眼にはなっていまい。
これがこうも純情でなく、いかがわしさ極まりない男であれば、コトノハでこてんぱんにしてさっさと退治出来るのだが。
「熱い、けど美味しい!うまっ。かー、こりゃ酒と合うなあ!」
これは牡蠣の酒蒸しを食べた私の感想である。殻に溜まった汁まで吸ってしまう。海の幸に酒が進む。醜態を見せない程度に控えなければと自分を戒める。
俊介はまたもやぱあ、と笑顔を咲かせたが、私は牡蠣と純米吟醸に夢中でそれどころではなかった。美食は罪である。