処方なし
一陣の風が私にそれを知らせた。
釣忍の風鈴の音が警鐘のように鳴り。
澄んだ音色の麗らかとは逆に私は身を固くした。
音ノ瀬隼太か?
質す声が確かに聴こえた。
(聖――――)
「御当主。来られてはなりません」
聖は隼太から視線を逸らさず、風に声を乗せた。
隼太が尖った目を眇める。
「音ノ瀬こと。来るか。久方振りの逢引きを邪魔してくれるなよ。兎」
「君に御名を口にする資格は無い」
「は。お前同様に、か?」
揶揄と白々しさが混濁した表情で、隼太は聖に礫のようなコトノハを投げた。攻撃は調合されていない。ただ聴く側に負い目があれば効能のあるコトノハ。
聖は顔色一つ変えず、悪意ある揶揄に答えもしなかった。
嘲りに隼太が嗤う。
「はしたなきもの こと人を呼ぶに、我ぞとてさし出でたる」
「おこがましい話だね。御当主が本命だったのか?その割りには僕と、そこの彼の一部始終を念入りに観察していたみたいだけど」
『枕草子』を引用して、お前はお呼びではないのだ、と嘲弄する隼太に、聖は冷静に返す。
「ああ否定しないさ、鬼兎。音ノ瀬の、音に聴こえる副つ家の能力は、その規定が曖昧過ぎる。コトノハの強弱を操る、とは、何とも靄の掛かった言い様じゃないか? その能力の及ぶ範囲、程度、時間制限、発動条件。それらを詳らかにしたかったという意図は、無論ある」
副つ家の力の詳細は音ノ瀬同族の中でも極秘裏の事項。
当主と嫡流の一部のみが知り得ることを、戦前に一族から離れ出た男の孫が知る筈もない。
「今の一幕だけで解ったかい?」
それは無いと思いながら聖は敢えて訊いてみる。
果たして隼太はあっさりかぶりを振った。
「掴めたのは発動条件の一抹くらいだ。お前は意識の外にあった俺のコトノハには無防備に傷を受けた。即ち、コトノハの強弱を操作するには、能力者であるお前自身の積極的な意思が必須。裏を返せば不意打ちには弱いということだ」
隼太の語り口は理路整然としていた。
聖は、半ば感心してそれを聴いた。
感心して、そして―――――――哀れんだ。
鋭利な頭脳と繊細な感性。力。
狂気を生む格好の温床だ。
音ノ瀬隼人も恐らく、このような人物だったのだろう。
優秀で情熱的で、狂い狂わせた哀れな男。
だが、と聖は思う。
(御当主は道を誤らない。今までもこれからも)
鋭利な頭脳、繊細な感性。
更には桁外れの力を持ちながら、ことが狂い鳴く日は来ない。
あちら側に行ってしまうには情が深く、理を弁え過ぎているからだ。
「先代当主たちを、どうした」
聖は隼太の洞察には触れず核心を突いた。時間稼ぎに付き合ったのはこれを問う為だ。
隼太が聖に劣らぬ無表情になり、その顔の上を雲の影が覆い、過ぎて行った。
「波の下にも都の候ぞ。と、言えばどうする?」
平家滅亡。壇ノ浦で平清盛の妻・二位の尼が、幼い安徳帝を海中自殺へいざなった時に言ったとされる台詞を、隼太は引用した。
言い終えるや否や、地を蹴った聖の初手の拳をすんででかわした。黒髪が数本、宙に散る。
次の下段からの蹴りも両腕で防御し、後方に跳びそれまでより長い間合いを取る。この二手で隼太が聖に抱く警戒心が格段に増した。
聖は凪いだ面でそんな隼太を眺めている。
「僕は荒事が好きじゃないんだ」
言葉とは裏腹に、明らかに格闘に心得のある半身の構え。
隼太が哄笑した。空に向かい。
「本家もとんだ化け物を飼っている。成る程、〝鬼兎〟だ。草食には遠いな」
「聖さんは鬼ではありません」
息を整えながら私は言った。楓を俊介に託して、全速力で駆けて来たのだ。
隼太が目を丸く見開いている。聖は俊敏に私の前に回った。
「御当主。申し上げましたものを、」
私を庇う体勢のままで苦言を呈する。
隼太は私を凝視していた。なぜか心許無い、不安定な目で。私は当主として言うべきことを言った。
「音ノ瀬隼太。同族の質を返せ」
「…………断る」
「従え。斟酌も考慮するゆえ」
聖は無言で口を挟まないが、複雑な心境で聴いているのは背中からでも窺える。
隼太が顔を歪めた。裏切られた子供のように。
「慈悲深い御当主様だ――――」
紫陽花色のコートから刃物の輝きがこぼれるのを見ると同時、私はコトノハを紡いだ。
一息に。
「うたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし」
隼太と、怯え切った観衆と化していた男を、見えなくなる地点まで飛ばした。
二人の姿は私と聖の前から消えた。
孟宗竹の葉擦れが、私にふるさとを思わせる。
振り向いた聖の右頬から血が滴っている。瞳の赤よりも濃い。
手を伸ばすとびくりと聖が身体を揺らした。
「……すみません。ハンカチを持っていないので」
そう言ってから手を退くと、傷は消えたが血の跡は残った。
私が掌でそれを拭うと、今度こそ聖が後ろにたたらを踏んだ。
知っている。
私を血に染めたくもなければ、血の臭いさえ遠ざけておきたいと聖が願っていることを。
「私のウサギさんは誰も傷つけてはいけません。貴方自身もです」
「僕には僕の役目があります。副つ家としての、職責が」
頑なに忠節を貫こうとする。
遠い古の武将ならばいざ知らず、鬼と呼ばれて誰が嬉しい。
彼に心があることを、多くの人間が忘れている。
私は聖の着ていた白いシャツを両手で掴んで下を向いた。無機質なアスファルトが見える。ここはふるさとではないと知らせる。
けれど竹の唄うのは聴こえて。
何のコトノハも出ない。
昔のように腕の中で泣くことも出来ない。
そこにいるのに。何が歴代最高峰か――――。
聖も呼吸音しか発さない。腕が一瞬上がりかけて、下りた。
私はますますシャツを強く掴んだ。
音ノ瀬家当主と副つ家の守り人が、成す術無く、途方に暮れて立ち尽くしている。
二人ぼっちにもなれない。




