私の名前
近所にある馴染みの喫茶店の、黒い枠に囲まれた硝子戸を開け、マスターに会釈する。ちらりと店内を一瞥する。幸いなことに誰もいない。いや、店としては決して幸いではないのだろうが、私にとっては幸いなのだ。マスターのほうもそれを承知してくれている。
浅い茶の、飴色の艶が美しいテーブルのカウンター席に座った。
「薫とパウンドケーキをお願いします」
「はい」
薫とはこの店オリジナル、深いこくのあるコーヒーの名前だ。
爽というものもあり、こちらはあっさり、さっぱりした風味。
私は言葉の薬剤師としても美意識にこだわる人間としても、この店のマスターには一目も二目も置いていた。視覚、聴覚。そして味覚を整え、和合させるのが巧みだ。
華奢な白い陶磁器のカップを傾けると、熱い液体が喉に滑り込んで来る。
無用な音を立てないようカップをソーサーに置くと、自然と溜め息が出た。
一仕事のあとの一服は極上である。
BGMのかからない静かな店の、流しの向こうの低い棚に飾られた野の花に目を遣る。私の知らない花だ。だが楚々とゆかしく、この店には相応しい。
新しい客が入るまで、私はこの平穏を、仕事終わりの充足を感じながら味わうつもりだ。
マスターは私の仕事を承知で何も訊かない。
私も守秘義務ゆえに語ることはない。
それでなくても私は口を開くに際し、常に慎重を期さなければならない身の上だ。
しばらくは豊かな、まるで薫そのもののような時が続いた。
だが喫茶店の硝子戸についたベルが、無情にその終わりを告げる。
やれやれと思い、私はお勘定を支払うべく、財布を取り出そうとした。
「やあ、ことさん。こちらでしたね」
私は現れた相手を見て、本格的にやれやれと思った。
コーヒーの苦みが数段飛ばして深まり過ぎたような感覚だ。
マスターに勝手口から逃がしてもらいたいとも考えたが、もう遅い。
山田俊介は私の隣に座り、爽を注文した。
私はこの男が苦手だ。
かと言って、蝸牛やなめくじやダンゴ虫のように踏み潰す訳にもいかない。
「お仕事のあとですか」
解っている癖に私に尋ねて来る。鼻筋に寄りそうになる皺を、意志の力で堪える。
「そうです」
必要最小限の言葉を処方する。どうせこの男には効かないだろうが。
「どんな按配でした?」
この質問も毎度だ。そして私も毎度のように答える。
「お答え出来ません」
「残念だなあ。ことさんは、とても真面目だから」
俊介がひょいと肩を竦める。せっかく薫で鎮静されていた私の神経がささくれ立つ。
「山田さん。名字で呼んでいただけないだろうか。私はファーストネームで呼ばれるほど、貴方と親しくはない」
眉間に皺が刻まれていることが自分でも判り、今度は堪えるつもりもなかった。
「そこは、求愛者の特権で」
「しゃらくさい」
刃を混ぜた声にも、俊介は動じない。
「わあ、怖い」
その程度である。寧ろ私に構ってもらえて喜んでいる節さえある。
この男にはどうした訳か、私の処方する言葉、音が効きにくいのだ。稀にそんな体質の人間はいるが、どうしてそれがよりによってこいつなのだと、私は出逢ってよりうんざりしていた。
私はちょっと大袈裟なくらいの仕草で、開襟シャツの胸ポケットから金色の懐中時計を取り出した。
「ああ、もうこんな時間か。戻らないとな」
そう、大きく独りごちる。
「庭仕事ならお手伝いしますよ」
「結構」
にべもなく言ってマスターにお代を払い、席を立つ。俊介は自分も代金をカウンターに置き、ついて来る。
犬か。
「何なら料理でも、」
「結構」
「新鮮な牡蠣が実家から届いたんですが」
硝子戸を押した私の歩みが止まった。
「――――この季節に牡蠣ですか」
「冬のとはまたちょっと違った味ですが美味しいですよ、酒蒸しでもしぐれ煮でも。新鮮だからそのまんまレモン醤油をかけてつるっ、と食べるのも良いです。日本酒に合うんですよねえ」
癪に障る男だと思いながら、私は一つに束ねた髪を翻した。
翻した髪をふと捕らえた俊介の行為は、私の神経を完璧に逆撫でした。ばっ、と長い髪を取り戻す。
「図に乗るな」
今度は本気のコトノハ、声を繰って出した。ぱちり、と見えない火花のような力が透明に顕現して俊介の顔の上半分をかすり、前髪が浮いた。さすがに彼は怯んだ。
私はその効果を睨みながら見て取ると、怒気を孕んだ勢いで踵を返した。
昼近い外の空気は熱が絡みつき、私の頭頂と顔を直撃した。
目眩がしそうだ。
やはり夏には違いないのだ――――――――。