僕らのコトノハ
吹く風が彼の白髪をそよりと揺らした。
秀一郎が喫茶店の硝子戸を開けた時には、俊介は席に着いて爽を飲んでいた。待ち合わせなのでカウンター席ではなくテーブルに向かい合って置かれた、飴色の椅子に座っている。
硝子戸のベルの音で俊介も秀一郎が来たことに気付き、目を遣る。
秀一郎はいつもと同じ、白い麻のスーツににこやかな顔を乗せて歩み寄って来た。
「お待たせしたかな」
「いえ、僕もさっき来たとこです」
型通りの遣り取りを交わす。
秀一郎は俊介の向かいに座り、薫を注文した。
「今日は山田さんにお願いがあって、足を運んでいただきました」
「探偵の僕に依頼、ということですか?」
「はい」
「それなら事務所に来ていただければ良かったのに。依頼書も書いてもらわなくちゃならないし」
マスターがかちゃ、とコーヒーカップとソーサーを秀一郎の前に置く。
秀一郎はカップを持ち上げ、コーヒーを一口、飲む。
鼈甲ぶちの眼鏡が少し曇っている。
「この店に来たかったもので。実印は持って来ているので、何でしたらあとで事務所に伺います。山田さんにはことさんと楓さんのボディーガードをお願いしたいんです」
「……え? ……どういうことですか」
秀一郎が眼鏡を外して、レンズを拭きながら答える。
「万が一の話ですが。彼女たちが拉致される恐れがあります。詳しく話すことは憚られるのですが……」
俊介が秀一郎を真っ直ぐ見据えて訊いた。
「それは、コトノハの力に関わる理由ですか?」
秀一郎は眼鏡のレンズを拭き終え、掛け直した。
二枚目然とした顔には、複雑な感情が浮かんでいた。
得たり、というもの、つまらない、というもの、見直した、というもの。
俊介を面白がる色もあった。
「山田さんは優秀な探偵さんのようだ」
口元に微笑を刻んで称える。
「いえ。……調べたのは、つい最近です」
雨の中、傘を閉じて佇むことを見てからだ。
「それに、今でもよく解っていません。言葉の力と音を操るという意味が……」
秀一郎が微笑したまま、前髪を掻き上げた。
「すぐに解られては、我々の生存が脅かされます。音ノ瀬の情報は、今では幾重にも秘匿されている。以前よりことさんと接触していたとは言え、音ノ瀬家の力に山田さんが見事、辿り着いたのであれば、お連れしたい場所があります」
秀一郎はことの好むコーヒーの味をよく味わうように、ゆっくりと薫の残りを飲み終えた。
ざざざざざ、と竹林がざわめく。
深く瑞々しい緑が天を突かんばかりに伸びて。
その中を、俊介は秀一郎の白い背中を見失わないように歩いていた。
まるで日本昔話の世界だ。
喫茶店からここまでどのようにして来たのか、よく解らない。
秀一郎の運転する車に揺られて、我に帰ればもうこの竹林にいたような。
笹の葉擦れが現との距離を知らしめるようで。
(ことさんは、遠い世界にいる人なんだな…)
身分違い、と言った秀一郎。
音ノ瀬の家の業。
不思議な力が招くものが幸だけでないのは、先程の護衛の依頼、拉致という言葉を聴けば解る。
(俺なんかに守らせてもらえるんだろうか)
やがて竹林の途切れたところに、ささやかな古寺が見えた。
門前に白髪の少年が立ってこちらを見ている。
Tシャツにジーンズ。
場に不似合いな程、若々しく身軽な格好だ。
「来たね、秀一郎君」
「聖君、元気そうだね。風に聴いた?」
「うん。あの、スマホ? ろくに通じないんだよ。圏外でさ」
「そうだろうな」
「で、そちらが?」
少年の目は赤い。兎のように。
白髪といい、アルビノだろうか。
「ああ。山田俊介さん」
「あ、初めまして」
「初めまして、御当主のストーカー殿」
にこっと笑いながら言われた言葉に俊介が固まる。
それは言わないでおいてやれよ、という風情で秀一郎が眉間に手を置いた。
それから寺の縁側で蓬餅と焙じ茶を振る舞われた。
「僕の名前は音ノ瀬聖。年齢はよく憶えていないけど、君よりは年上だろうと思うよ、俊介君」
意味が解らず目をしぱたたかせる俊介に、秀一郎が説明する。
「ここは現実とは少しばかり隔絶した場所なんだ。音ノ瀬一族の中でも特殊な家がここの守り人として代々暮らしている。年金とも税金とも無縁の世界。常人には境界の向こう側の世界」
俊介は思わず右手に持つ翡翠色の蓬餅を見る。
まさかこれが木の葉で出来ているということはあるだろうか。
秀一郎や聖は平然と美味しそうに食べている。
思い切ってかぶりつく。蓬の風味が鼻に届いて普通に美味しい。
「特殊な家っていうのは……」
「僕が傍にいるとね、コトノハの作用が強められるんだ。だから何か事ある時には当主の召集に応じる役割を負う。僕が同行していれば、先代当主たちが行方不明になることもなかったかもしれないと、今でもそれが悔やまれる」
俊介は焙じ茶を啜った。
ことの両親が五年前から行方不明であること、それにコトノハの力が関係しているであろうとは、調べた時点で俊介にも察しはついていた。
「だから現当主の元には、いつでも馳せ参じるつもりだ。僕も秀一郎君も、御当主の為なら一命を賭す覚悟がある。君にはここで、僕らのコトノハを聴いてもらいたかったんだ」




