マリアージュ
私はいつもの喫茶店で、薫のこくと香り、そしてパウンドケーキを味わっていた。
何と平和で優雅な平日のひと時か。
パウンドケーキの淑やかな甘味、しっとりした触感に散るドライフルーツも過度な主張をせず、コーヒーと味を引き立てあう。
甘さと苦さの絶妙なバランス。
マリアージュ、と私は心に呟く。
頑固なマスターが採用したケーキだけのことはある。
まだしばらくこの贅沢な空間を独占したい。
悲しきかな、人の望みとは往々にして叶えられない。
店の硝子戸のベルを鳴らし、細身で白髪の老人が入って来た。
財布を出そうとした私と目が合う。
「……失礼。コトノハ薬局の方でおられますかな」
老人の向こうには硝子を通して重厚な入道雲が見える。
ああ、入道雲よ、入道雲よ。
そんなに毎年、律儀にやって来ないでも良いのだよ。
そして私は週末、時間をずらして三人の女性客を家に迎えることとなった。
まず一人目。
「それは旦那様の御身体は大事ですから。お食事は、栄養バランスを考えて、お作りしております。わたくしは管理栄養士の資格こそ持ちませんが、独学でそれなりの知識を持つと自負しております。味も、旦那様のお口に合うよう心掛けております」
家政婦の、小柄だが少しふっくらした初老の婦人は、私の出した、瓢箪と水流を象った和三盆には手をつけず、冷えた緑茶だけを飲んだ。
目は常に私や客間のあちこちを窺い、小動物のようだ。
自分より人の機嫌の風向きを常に意識しながら生きればこのようになる。
「……お菓子も召し上がってください」
「あ、いえ、」
「どうぞ」
私が微笑を浮かべると、彼女は硬い表情を微弱ながら緩め、水流をつまんだ。
「……優しい味ですね」
口に含むとほろりと崩れ溶ける、和三盆の経過を想像させる声音だ。
彼女が発した中では、最も穏やかで素直なコトノハだった。
二人目。
「やだ、意外と若いのね。貴方」
百合の花のような香水が香る。
「恐れ入ります」
「で、何だっけ。父さんに、どんな気持ちで料理作ってるかって? なあに、これ。試されてるみたいで感じ悪い」
「申し訳ございません」
試しているのは事実だ。私はただ、頭を下げる。
すると華やかに装った彼女は、ちょっと戸惑うように鎮まった。
「……まあ、こっちは立場の弱い出戻りですからね。和三盆ね。頂いて良いかしら?」
「もちろん、どうぞ」
すると眉間の皺がまた、浅くなった。
「私が作る時は、洋食が多いわ。健康に良いらしいから、オリーブ油をよく使って。パスタとか。ビーフシチューも作るわ。よく煮込んで。これでも結構、家庭的なんだから」
そこでこくこくこく、と緑茶を飲む。
「……味が濃くならないようにしてる。父さんの身体に障るもの。……昔は反抗も随分したけど、大人になってからだいぶ、世話になったし迷惑もかけたし。罪滅ぼしも、あるかもね」
彼女は自嘲するように、困ったように眉を寄せて笑った。
三人目は百合の香りの女性の姪だ。まだ中学生。
「おじいちゃんには、時々、お菓子を作ります。クッキーとか。一番、喜んでくれたのは、シュークリームかな。おじいちゃん、歯が弱いから、あんまり硬いのは作りません。クッキーも、ガチガチなのとかは作らない。……この和菓子、可愛いですね」
少女のくりんとした目が透明の硝子皿の上に向けられた。
「和三盆と言います。召し上がってください」
「はい……」
少女は瓢箪の形を壊さないように指でそ、と挟み、齧った。
目が丸くなる。
「すぐ溶けたっ!」
「そうでしょう」
無邪気な反応に、私は思わず笑顔になった。
客人の最後の一人を見送ったあと、私は茶器やガラス皿を洗った。
水屋から和三盆の詰まった正方形の箱を出す。
紅葉、菊、様々な形がまだ残っている。
夏に相応しい意匠の物から消えて行く。
「やるなあ、和三盆」
女性たちの心を和らげた菓子たちに、賛辞を贈らずにはいられなかった。
翌日の昼過ぎ、私は例の老人と再び喫茶店で会った。
「彼女たちは皆、嘘を吐いていました」
私がそう告げると背筋の伸びた、教職員のような外見の老人のこめかみがひくりと動いた。彼は先日と同じく、丸い伊万里焼のついたループタイを締めている。私の髪を束ねる組紐と同じくらいの太さだ。
「しかし皆、半分は真実を告げていました」
「――――仰る意味が、よく」
「皆さん、貴方のことを思い遣って台所に立たれていました。その反面で、始終、貴方に自分の愛情が疑われているのではないか、という怯えがあったようです」
「……」
「妥当な怯えですね。現に貴方は私に、彼女たちの愛を測定するかのようなご依頼をされたのですから。貴方は今までも同様に、ことあるごとに周囲の人々を試して来られたのでしょうが、試される人の心を思い遣ったことがおありですか」
「…………」
マリアージュ、と私は呟く。
「え?」
「人と人との関係は、バランスが取れていなければなりません。甘過ぎても、苦過ぎても、いつか破綻する」
考え込む老人にコトノハを処方する。
「傷つくことを恐れて、傷つけないでください」




