五 隔絶
土曜昼間の大森パトロール社の事務所は、普段以上に人が少なかった。仕事に出ている警護員たちのほか、季節柄休暇を取っている者も多い。
「・・・怜の家にでも行くか」
「なんか全然光明が見えないもんな」
「そんな葬式みたいな顔をするな、崇。せっかく自宅謹慎と出勤停止が解けた嬉しい日なのに。」
「しかも一日前倒しで解いて頂いたんだから、感謝しないとな」
高原と山添は、打ち合わせコーナーで、テーブルの上の麦茶のグラスを見ながら、ため息をついた。
「槙野さんは今日も来ていないな。警護の仕事がまだ入っていないとはいえ・・・・・」
「俺の自宅謹慎中も、一度も?」
「ああ。一度も来てないって。事務の池田さんにも確認したけど、やっぱりそうだった。」
「そうか。」
「やっぱり、最後の希望は・・・・・」
高原はグラスを持って立ち上がり、同僚の肩を叩いた。
「・・・・・」
「河合に頼るしかないかな、崇。」
「そうだな。俺たち、誰一人、あの会社との関係において・・・・・なにひとつ槙野さんの手本になれることなんかないわけだから」
「まったくだよな」
二人はもう一度大きなため息をついて、明るい光の差し込む窓のほうを見た。
噂をされていた茂は、槙野の住む家のサンルームで猫を挟んで同僚と雑談をしていた。
槙野が仲間と共同で借りている一軒家は、駅から少し離れた静かな住宅街にある。
年中日当たりの良いサンルームで、茂は自分が槙野へ譲った三毛猫のミケと何度目かの再会をしていた。
「ミケ、また毛の艶が良くなりましたね。皆さんにかわいがってもらってるんですね」
「猫派じゃなかった奴も含めて、もう全員メロメロです。」
「あははは」
槙野が出してくれたお茶を飲み、しばらくして茂は別の話をした。
「・・・・山添さんが心配してました。」
茂の言う意味が分かっていても、それを直視したくないという風に、槙野は少し間を置いてから応じた。
「山添さん・・・・、なにか河合さんに、おっしゃっておられましたか・・・・?」
「いえ、最近は、先輩たちの顔を見ているだけでだいたい内心の喜怒哀楽はわかるようになりました。・・・・自宅謹慎中、高原さんと一緒に山添さんのご自宅へお邪魔したんですが。」
「でも僕のことかどうかは」
「あの警護案件以来ずっとですから、絶対槙野さんのことです。それに槙野さん、あれから一度も事務所へ顔を出しておられないですよね?」
槙野は茂の膝の上のミケが耳の後ろを後足で掻いているのを見ながら、少し笑い、そしてため息をついた。
「笑われるかもしれませんが・・・・」
「?」
「あのときの自分を何度振り返っても、どうしても、あいつらを捕まえようという意思が働いていなかったし、今同じ場面にまたなっても働かないことが、はっきりわかるんです。」
「・・・・・・」
「庄田はともかく、深山は、捕まえようと思ったら多分捕まえることができたはずなのに。」
「はい」
「自分の心理をよくよく考えてみると、・・・・むしろ深山が無事に逃げてくれたらいいと、思っていた。」
「・・・そうなんですね」
茂は槙野の顔をじっと見つめる。
槙野は日の光を片方の頬に浴びながら、ゆっくりとうつむく。
「僕は、警護員失格です。こんな・・・・・・」
「槙野さん」
「こんなふうに、犯罪者のことを思うなんて」
深山が車椅子を看護師に押してもらい病室入口まで来ると、入れ替わりに医師ひとりと看護師ふたりが出てくるところだった。
医師が深山のほうを見て微笑した。
「お話なさって大丈夫ですよ。とても良い状態です。・・・・ただしこれからは決して今回のようなご無理をなさらないよう、深山さんからもよくよくおっしゃってあげてください。」
「はい。ありがとうございました。」
ベッドへ近づくと、こちらに気がついて庄田がマットレスを操作し上体をもう少し起こした。
「足、手術もうまくいったと聞きました。よかったですね。」
「庄田さん・・・・」
深山は目を伏せ、深く頭を垂れた。
「・・・・・」
「意識が戻られて・・・よかった・・・・・。」
「すみません、ずいぶん心配かけてしまいましたね」
「お医者様は絶対大丈夫とおっしゃっていましたが、やっぱり、とても・・・・・不安で・・・・」
「六日間もほとんど眠り続けだったと聞きました。でも今はとても気分が良いです。手当してくれた病院と・・・そして病院まで連れてきて下さった皆さんに、感謝しています。」
深山は次の言葉を、どう言うべきか苦しそうに頭を巡らせるように、唇を何度も舐め、噛んだ。
「・・・・庄田さん、・・・その・・・・、ルールを破ってまで・・・僕を助けてくださったこと・・・・・・・」
言葉が詰まる。
庄田はまだやつれた様子の、しかし変わらぬ不思議な凄味を持つ切れ長の両目を、静かな翳で満たした。
「深山さん、私はあなたを助けたという気はあまりしていません。」
「・・・・・」
「自分の、これまでずっとわだかまりになっていたものを、ついに抱えきれなくなって発散した・・・・そんな感じなんです。」
「・・・・・・」
「全ては自分のための行動でした。だからあなたが、私にお礼をおっしゃることではないし、むしろ・・・・」
「庄田さん」
「はい」
「確かに、僕はアサーシンとして今回死ぬべき立場でしたし、同じことが今後起こったら、やっぱり潔く死を選びます。」
「はい」
「でも、今回生還したことで、あと何回かの仕事をする機会を、与えてもらえた。もう二度と仕事ができないところを、さらに何かできる可能性を頂いた。そのことを、本当に感謝しています。」
「・・・そうですか」
「庄田さんの目的が何であったかは分かりませんし、お体のことを考えてもルールのことを考えても、正しいことだったとはとても言えないかもしれない」
「ええ」
「僕は・・・」
もう一度深山が言葉を詰まらせたとき、入口ドアを遠慮がちにノックして看護師が顔を覗かせた。
「庄田さん・・・お客様です。」
うつむく深山のほうを一瞬見て、そして庄田が答える。
「・・・・どうぞ」
深山が振り向くと、佐野と松原が入ってくるところだった。
「目を覚まされたと聞いて・・・・・」
「ありがとうございます、佐野さん、松原さん」
二人がベッド脇まで進み、そして松原がふたりに場所を譲った深山のほうを見て笑った。
「はい、これ使いなさい」
「・・・・」
松原にハンカチを差し出され、深山は戸惑った。
「嬉しい日なのに、お葬式みたいな顔してないで。」
深山は松原からハンカチを受け取り、目と鼻をごしごしと拭った。
ふたりのチームメンバーを見上げ、庄田は優しい笑顔を見せた。
「佐野さん、松原さん、私を手伝ってくださって、そして命も助けてくださって、感謝しています・・・・。ありがとうございました。」
「いいえ、庄田さん。俺たち、自分のために、やりたくてやっただけですから。」
一瞬庄田と深山の目が合った。
松原が時計を見る。
「社長にもとっくに連絡が行っているはずだけど・・・・なんだか特段の反応をお見せにならないのが逆に怖いわ。」
「まあ、今はあまり先のことを心配していても仕方がないよ、松原。それより・・・・」
「ああ、そうね。」
松原と佐野は同時に入口のほうを振り返る。
そして佐野があらためて庄田のほうを見て言った。
「庄田さん、もう一人来客があります。」
「・・・・・・」
「そいつも、もうここへ来るのは何度目かになりますが・・・・・・」
松原がドア口まで迎えに行くと、廊下から遠慮がちに、佐野と同じくらいの長身のチームメンバーが一礼して入ってきた。
庄田は少しためらったのち、四人目の来訪者へ声をかけた。
「来てくださって、ありがとうございます。浅香さん。」
ミケがニャーと一声鳴いて、サンルームから廊下へと歩いて行った。
「槙野さん。」
「・・・・・・」
槙野はうつむいたまま答えない。
茂は少しの間沈黙し、そして低い声で言った。
「深山祐耶を、好きになったんですね。」
「・・・・・・・」
「・・・いえ・・・・正確に言うならば、その短い間の会話で、そいつの様子で、槙野さんにとって強烈にそいつを尊敬する部分があった。そういうことなんですよね。」
「・・・・・はい・・・・・そういうことだと、思います・・・。」
茂が少しの笑顔を見せた。その顔には微かな苦さが混じったが、しかし表情は笑顔だった。
「槙野さん、俺は事実上初めてメイン警護員を務めたとき、阪元探偵社のエージェントに襲撃されました」
「はい」
「あの、デッキで出会ったエージェントのことが、ずっとずっと忘れられないんです。」
「・・・・・・・」
「この自分の感情は何だろうとよくよく考えてみると、やっぱりこれは好意で、そしてもっと言うなら・・・・明らかに、尊敬なんです。そんなこと、ありえないしあってはならないはずなのに。」
「・・・・そうなんですか・・・・」
「俺は、阪元探偵社の庄田というエージェントを、尊敬している。心配さえしている。あの、何人人を殺してきたかわからない・・・・今回だって槙野さんと山添さんの目の前で三人を惨殺した・・・・、恐ろしい技術の持ち主の犯罪者のことを。」
槙野は一言もなく、じっと同僚の淡い琥珀色の両目を見つめた。
長い沈黙の後、茂が再び口を開いた。
「・・・・・好きになればいいんです。我慢しないで、素直に。」
「河合さん・・・・・」
「殺人者からもらった服だからって捨てたりしないで、活用しているのは、服に罪はないからですよね。」
「ええ」
「一人の人間の中にだって、違う面がいくつかあるでしょう。」
「・・・・・・」
「犯罪者のように、およそ我々にとって九十九パーセント同意できない人間だって、一パーセント、好きになれる部分があるなら、その部分はその部分として、好きになればいいです。」
「・・・・・」
「好きなところがあるからって、嫌いなところまで好きにならなければならないわけじゃありません。逆も同じです。」
「・・・嫌いなところがあるからといって、好きなところを好きになってはいけないわけじゃない・・・・ですか・・・」
「そうです」
真顔で言い切った茂を、槙野は気品ある顔立ちで静かに見返した。
他の人間が順に出て行ってしまったドアのほうを見ていた浅香は、やがてベッドのほうへ向きなおった。
「庄田さん、お体のほうは本当に・・・・」
「はい。大丈夫です。お医者様にはずいぶん叱られましたが。」
「・・・・・・」
「浅香さんのほうは、どうですか?もう体調は」
「ほぼ元通りです。もう少ししたら、トレーニング・センターで本格的に体力を取り戻す訓練を始めます。」
「それはよかった。」
少しの間、ふたりは黙った。
浅香はベッド脇の椅子に座ってうつむき、膝の上に置いた自分の両拳をじっと見たままでいる。
「庄田さん・・・・俺に、なにかできることはないのでしょうか」
「と言いますと?」
「なにか、お役に立てることです。」
庄田は半分意外そうな表情で、部下の、少し長い髪に半分隠された穏やかな両目を見た。
「・・・・浅香さんが?」
「もちろん、わかっています。葛城警護員のことや、ミッション中の不始末で、散々庄田さんにご心配をおかけした俺が、そんなことを言う資格などないということは・・・・・」
「・・・・・・」
「でも、今のままでは、居ても立ってもいられないんです。庄田さんは独りで悩まれ、独りでルール違反を冒してアサーシンを助けられ・・・・あの状況下で見事に三人の暗殺者を殺しておしまいになり・・・・・俺の立ち入る余地などない・・・・。でも・・・・・」
「・・・・・・・」
「でもこのまま、置いてきぼりになるのは、いやなんです。」
「・・・・・・」
「庄田さん、どうか俺を・・・置いて行かないでください・・・・・・」
正面を向き、庄田が静かに微笑した。
浅香は青ざめた顔を少し上げ、おずおずと上司の横顔を見た。
庄田が少しだけうつむき、もう一度微笑し、そして穏やかな声で言った。
「たいへんですよ」
「・・・え・・・?」
「このまま、私についてきたら・・・・・」
街の中心にある高層ビルの事務所で、土曜の街の喧騒をよそに、社長室では部屋の主が少し緊張の面持ちでいた。
社長室のドアを後ろ手に占め、吉田恭子が室内へ足を進めると、阪元は円テーブルに向かう椅子を勧め自らも座った。
「仕事が終わった翌週の週末くらい、たまには休んでね、恭子さん」
「ありがとうございます。明日はお休みをいただきます。」
コーヒーポットから二つの磁器のカップに熱いコーヒーを注ぎ、阪元はその深い緑色の両目の視線を手元に向けたまま頷いた。
「希少豆のブレンドだよ。バランスが絶妙なんだ。」
「ありがとうございます。頂きます。」
ふたりがそれぞれコーヒーを一口飲み、少しの沈黙のあと、吉田は眼鏡の奥の静かな両目で上司を見た。阪元は視線を合わせようとしない。
「社長」
「・・・・・」
「病院へは、いらっしゃらないのですか?」
「・・・・・」
「庄田が意識を取り戻したと聞きました。チームのメンバーのうち、今回の件に関係した者は皆向かったそうです。・・・が、そろそろ話も済んでいるころでしょう。よろしければ私が・・・」
「いや、いい。大丈夫だよ。」
「処分をお決めに?」
「・・・そうだね」
「・・・・・・」
ようやく阪元は、その育ちのよさそうな顔を、目の前のエージェントへと向けた。
「相談というのは、庄田の処分についてなの?」
吉田は静かに目を伏せ、笑った。
「いいえ。違います。」
ベッドの上で少し上体を起こし、正面を見つめたまま、庄田は静かに言葉を続けた。
「浅香さんの優しさに甘えて、私の気持ちを、打ち明けましょう。」
「はい」
「いえ、むしろいつものことですけどね。人を殺した後は、いつも、です。」
「・・・・・・」
「殺した人間たちの顔や姿が、ずっと頭から離れない。寝ても覚めても、ね。今回、久々でしたが・・・・・」
「・・・・・」
庄田は両目を閉じた。
「殺すか殺されるか、それだけのことではありますけれど。」
「・・・・・はい」
「でもね」
庄田の口元に微かに苦い笑みがよぎった。
「・・・・・」
「彼らは冷たい床の上で死にました。一方私は、同じ犯罪者なのに、こうしてベッドの上で大切に治療されている。」
浅香は微かに表情を変え、上司の横顔を凝視した。
「罪悪感をお感じに?」
「いいえ、恐怖です。・・・いつか死んだときの、天罰が加算されそうで。」
「・・・・」
「すみません。助けてもらった身で言うべきことではありませんね」
「いえ・・・・」
「・・・・・」
長い沈黙が空気を支配した。
次に浅香が言葉を出すまでの間、庄田は身じろぎもしなかった。
やがて浅香が、表情をわずかに柔和なものにして、言った。
「いえ、逆に安心しました。」
「?」
「庄田さんでも、不安や恐怖について話されることがあるのだなと。それにもちろん、庄田さんに頼まれたからじゃなく、我々が勝手にやったことなんですから。」
「・・・・」
「それに」
「・・?」
浅香は少し笑った。
「庄田さんがいつか亡くなるときは、もっと悲惨な野垂れ死にかもしれませんから大丈夫ですよ。」
「あはは」
庄田は可笑しそうに笑った。
浅香が上司の顔をまっすぐに見つめる。
「強いものが勝つ。自然界の法則です。」
まだ両目に微笑を残したまま、庄田が浅香を見上げる。
「浅香さん。一番強いものって、なんだと思いますか」
「・・・・・・」
「私は今のところ、それは純粋さだろうなと思っています」
「・・・・・はい」
「純粋な気持ちは、何より強い。その内容が正しかろうとそうでなかろうと。誰も敵いません。」
「はい」
「だから、私は朝比奈に勝てなかったし、そして浅香さん、あなたも葛城に勝てない。」
「庄田さん・・・・・」
「このまま私と一緒にここで仕事をするということは、私と同じ轍を踏んで、同じ愚かな袋小路で迷い続けるということなんですよ。」
「・・・・・・・」
浅香は黙っていたが、その視線は上司の顔から外れることはなかった。
酒井は姿を消しつつある西日の代わりに、街灯が行く手を照らし始めた道路を、車を走らせながら火の点いた煙草を咥え、やや憂鬱そうな表情をしていた。
その原因は助手席に座り、自分以上に憂鬱そうにしている上司だった。
「あの、社長」
「・・・・・・」
「阪元さん」
「・・・・なに?」
「なにやありません。そんなにこの世の終わりみたいな重い空気出されたら、運転誤りそうになります。そんな状態で、ほんまにこれからトレーニング・センターで一勝負しはるつもりですか?」
「もちろんだよ。つらいときは酒井と勝負するに限る。」
「はあ。」
「酒井、お前だけが頼りだよ」
「またそんな調子のいいことを。祐耶ががっかりしてましたよ。いくら病院に来てくれはったって言っても、あいつが眠ってるときだけ、ではね・・・。実の兄やのに、どうしてあいつが起きてるときに行って励ましてやらないんです?」
「社長として、いち社員だけ特別扱いはできない」
「特別扱いしてますやんか。これが祐耶やなかったら、毎日見舞いに行ってはるでしょう?」
「・・・まあね。」
「なにをお悩みなんかはもちろん想像つきますけどね。」
車が信号待ちをしている間、酒井が横目でにらみつけるのを、阪元は気づかないふりをした。
「明日も会社に社長がいるかどうかの瀬戸際なんだよ。」
「は?」
「私は今日、人生で初めて、出社拒否したくなったよ」
「社長が出社拒否しはったら、会社は爽やかに廃業ですがな」
阪元が恨めしそうに部下を一瞥し、横目で相手の精悍な顔を睨む。
「だから酒井、君が必要なんだ」
「社長の話聞くくらいで会社がつぶれずに済むんでしたらなんぼでも聞きます」
「恭子さんに論破された」
「はあ」
「ルールが古いならルールを変えよ、それもよくよく構造的かつ論理的かつ総合的に」
「正しいやないですか」
「庄田に対する批判かと思ったら、結局私が追い詰められていた」
「なるほど」
車が再び走りだし、阪元は煌めく街灯の光を少しだけ眩しそうに見た。
「今日の昼、久々に恭子さんから相談があるというから、喜んで食事に誘ったら」
「なんで食事なんですか」
「まあまあ。・・・・個室でランチ食べたいって言われてもちろん最高級イタリア料理をごちそうしたよ。そして、一時間で論破されたんだよ。」
「・・・なるほど」
車は静かに、トレーニング・センターの入っているビルの地下駐車場へと吸い込まれていく。
「恭子さんに言われた。ひとりのアサーシンの問題でも、ひとりのシニア・エージェントのルール違反の問題でもない。会社全体として、何かを変えるときに来てるって。」
「・・・・・・」
「そしてね、それが易しいことじゃないことも、わかっているって。」
「そうですな」
専用スペースに車を収め、酒井はエンジンを切った。
阪元は苦しそうな微笑みを部下へと向け、そしてシートベルトを外しながら、言った。
「ルールは、歴史と必要のなかでできあがっている。一部を変えるには、どうしたって、全体をもう一度眺めて、考えて、悩まなければいけないんだよ。」
「はい」
「そういう時期に来ているのだとしても・・・それは簡単なことじゃない。」
「はい」
助手席のドアを開け、阪元はもう一度酒井の方を振り返った。
「だからね、少なくとも・・・・相当の時間を使わせてもらうよ。そして・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・そして、君達にも、相応の悩みを、分担してもらうかもね。・・・それじゃ、今日は剣道で十本行くよ。そのあとは夕飯食べながら語り合おう。」
「・・・・かしこまりました。」
酒井のため息を聞こえないふりをしながら、少し身軽になったように車から降り、阪元は酒井の先に立ってエレベーターへと向かった。
日曜午前の大森パトロール社の事務所は、前日よりさらに人が少なくしんとしていたが、人間のものではないものの声がその静けさを断続的に破っていた。
事務所に入ってきた高原と山添は、期待通りの光景に思わず顔をほころばせた。
「ひさしぶりだなあ、ミケ」
山添が、槙野の抱いている三毛猫の頭をなでる。
高原が山添の頭を叩く。
「おい崇。その前に可愛い後輩が久々に来たことはどうするんだよ」
「あはは」
「山添さん、こんにちは」
「こんにちは、槙野さん。」
向き合って互いの顔を見ている山添と槙野から離れ、高原は茂に声をかけ自席まで連れて行く。
そして小声で話しかける。
「ありがとうな、河合」
「あ、いえ・・・・・・」
「昨日槙野さんの家に行ってくれて、今日、もう槙野さんが事務所に出て来るなんて、すごいな。何て言って励ましたんだ?」
「特にその・・・変わったことは・・・・・」
「まあ、お前のすごさはそういうとこだけどな。」
「あははは」
高原は眼鏡の奥の、知性と愛嬌がいつも不思議に同居している両目に、愛嬌のほうを多くして、ふと別の表情で笑った。
「そんなすごい河合だからさ」
「?」
「このくらいのことは、許してくれるよな?」
「?」
高原が後ろを振り返った。
来客用の入口から入ってきてカウンター越しに立ち、こちらを見ている黒髪の美青年と茂の目が合った。
「げっ!」
「げっとはなんだ、河合」
カウンターの向こうから、三村英一がその恐ろしく整った顔立ちに皮肉な微笑を浮かべて言った。
「た、高原さん、どうしてあいつが」
「今日これから怜の家に行くんだからさ。三村さんのお父上が、どうしてもと」
「お家元が?」
「うん。自宅で退屈されているであろう葛城さんに、美味しいものをお届けするようにって、英一さんに頼まれたそうだ。しょうがないよな。お前も、昼間の会社で英一さんにはお世話になってるんだから。」
「はあ・・・・」
「高級かつ無農薬の、素晴らしい野菜と肉をたくさんご用意くださったそうだ」
「それって俺が料理する前提ですよね」
「もちろん」
茂は仲が良いのか悪いのかいまだによく分からない友人のほうをもう一度一瞥し、そしてあきらめたようなため息をついた。
奥の席にいた数少ない警護員のうち、ひとりが立ち上がり、ロッカーへ立ち寄るとやがてこちらへと歩いてきた。
出口へ向かおうとしているその先輩警護員へ、茂が挨拶する。
「お疲れ様でした、月ヶ瀬さん。」
高原や山添と同期入社の、つまり大森パトロール社でやはり最古参の先輩警護員は、その線の細い美貌によく似合う艶やかな黒髪をかき上げ、後輩を一瞥した。
高原はいつものとおり、自分から月ヶ瀬に声はかけない。高原だけでなく、大森パトロール社で月ヶ瀬の性格を知る人間は皆そうである。
基本的に他人と友好関係を築くということをしない月ヶ瀬は、周囲の賑やかさとは無縁な、ひんやりとした表情もいつもと同じだった。
「あの、月ヶ瀬さん」
呼び止めた茂を高原が驚いて見守る中、月ヶ瀬が不快感をあらわにした表情で振り返る。
「・・・・なに?」
「なんだか、いつにも増して・・・お顔の色が悪いです」
「・・・・・」
「ちゃんと、ごはん食べておられますか?」
「は?」
「体調は、大丈夫ですか?」
「なんで?」
「・・・・この間も、倒れて病院に運ばれたって聞きました。あまりいつもちゃんと食事されてないって。独り暮らしでいらっしゃるし、家政婦さんもあまりお呼びにならないって・・・。」
「だったら何?」
「今度、よかったらお家にお食事つくりに行かせてください」
「やめてくれる?」
月ヶ瀬以上に顔色の悪くなった高原の横を過ぎ、月ヶ瀬が事務所を出て行った。
茂はため息をついた。
高原が茂の肩を叩く。
「無駄だよ、河合。あいつのことを心配してもさ。」
「いえ、俺は何度でも挑戦します!」
「ははは・・・・・」
庄田は日曜朝の明るい光のなか、長身の黒髪のエージェントを病室へ迎えていた。
「わざわざありがとうございます、酒井さん」
「大分お顔の色が良くて、安心しました」
酒井はベッド脇まで進み、そして立ち止まって深々と一礼した。
「・・・酒井さん」
「本当に、ありがとうございました。」
「・・・・・・・」
「祐耶はほんまに今回ばかりは、助からないところでした。でもあいつは今、生きています。どんなことより、それは・・・・・」
背の高い相手の、うつむく顔を見上げながら、庄田が微笑する。
「顔をあげてください、酒井さん」
「・・・・・・」
「私は今、処分中の身ですし。あまり頭を下げて頂くのは、少し居心地も悪いですから」
「・・・・・処分は、一か月の・・・・」
「ええ。出勤停止です。寛大な措置を頂いたと思っています。」
「はい」
持ってきた赤と白の花を花瓶に挿し、庄田に促されて酒井はベッド脇の椅子に腰をかけた。
「深山さんは無事退院されましたね」
「ええ、あとは自宅から通いです。」
「社長は、あの後深山さんに会っておられますかね」
「どうですかな。単なる兄と弟やったら、とっくに感動の再会をしてるはずなんですが、立場が立場だけに、ややこしいもんなんでしょうな。」
「そうですね・・・・・・。」
「そして庄田さん、よくもわるくも、あなたは会社の今後の行く手に、決定的な影響をお与えになりました。」
「・・・・・・・」
「恐らくは、あなた自身が想像された以上に、です。」
精悍な顔立ちに微かな笑みを浮かべ、酒井は目の前のぬけるように色の白い元アサーシンを見た。
「多少は、責任は感じています」
「最初はたぶん、ご自分が会社を去るくらいで済むと思われたんでしょうけれど」
「・・・・・・」
「それどころの話やありません。」
「・・・・はい」
「でもこれは、誰かがいつか、やったことでしょうから。それがあなただったのは、たまたまなんだと思ってます。しかしいずれにせよ、あなたには・・・大きな責任が生じた。それは間違いのない事実です。」
「・・・・・・・」
酒井は長い両足を静かに組んだ。
「それにしても・・・庄田さん。以前、なんか体力的にも精神的にも、もうほんまの意味での引退かなとかおっしゃってましたが」
「ええ」
「きついご冗談でしたな。」
「・・・・」
「祐耶のやつ、至近距離で庄田さんのナイフさばきと、ターゲットのあしらいを見て、心底びびってました。」
「・・・・・」
「真剣に転職を考えたそうですよ。」
庄田は声を出さずに苦笑した。
「深山さんは有能なアサーシンですよ」
「ガキでボケでしかもブラコンですけどね」
「・・・今うちにいる十一人の中では、まあ、三本の指には入る実力でしょう」
「そうですかね」
「でも、今回のことを見て・・・・まだ、指導すべき点は残っているとは、思いました。」
「あははは」
庄田の楽しそうな笑顔の横顔を、酒井は見つめながら少しの間沈黙した。
窓の外の陽光がさらに明るさを増していく。
「庄田さん」
「はい」
「朝比奈和人警護員に、惚れ込んでしまったのがご自分の限界だったって、いつかおっしゃってましたね」
「ええ」
「だから、前回、葛城警護員を浅香さんが助けたとき、ご自分とおんなじようになるんやないかって、不安になりはった。」
「はい。」
「でも、朝比奈さんも、庄田さんのこと結構気に入ってはったんと違います?というより、悩ましいくらいに、惚れてしまったんと違いますかね」
「どうしてですか」
「以前、うちのボケのアサーシンが大森パトロールさんのとこの高原さんと、ガチ対決して、思いっきり高原さんに助けられてしまったことがあります」
「そうでしたね」
「その後、高原さんは警察の事情聴取を受けたんですが、祐耶の特徴を一切警察に話さなかったんですよ。まあ、そういうのはそのときだけでしたけど、でも、明白な事実です。」
「・・・・・・」
「それでね、俺はずっと不思議やったことがあるんです。庄田さん、あなたはもちろん、朝比奈警護員と対峙したとき、名乗りはったでしょう?」
「ええ」
「でもね、どうもあいつらの警護記録に、あなたが登場するのは、ごくごく最近・・・・河合警護員を襲撃しはったときが初めてじゃないですか?」
「・・・・・・・」
「ということはです。朝比奈警護員は、あなたの名前も特徴も、記録に一切残さなかったということですよ。これって、そういうことやないですか?」
庄田は黙った。
酒井は少し間を置いて、そしてやがて静かに立ち上がった。
「すみません、大分長居してしまいました・・・・。そろそろ、失礼します。」
「・・・ありがとうございました」
立ち上がり、ドアのほうへ数歩歩いてから、最後に酒井はもう一度振り返り、ベッド脇の花瓶に挿された見事な赤と白の薔薇の花のほうを見た。
「これ、花屋で買ったものと違いますよ。どこかの呑気な社長さんの、お庭で元気に咲いていたものだそうです」
「・・・・・・・」
微笑して一礼し、酒井は病室を後にした。
「結局、目を覚ました後一度も庄田さんに会ってないんだね」
「だから何?」
「兄さんも意地っ張りだね」
芝生に薔薇の樹が数本あるだけの庭を臨む、広いリビングで、グランドピアノに向かう兄の背中にむかって深山の不満そうな言葉が投げられ、阪元はうるさそうに応じる。
「私も色々大変なんだから、少しは労わってほしいね、祐耶。」
「それはわかっているけど」
少し冷めかけたコーヒーを飲み干し、祐耶は手元のバイオリンを爪弾きながらソファーにもたれた。
「今日のバッハは少し音程が乱れていたね。心に乱れがあるんじゃない?祐耶」
「しょうがないじゃない、肩の慣らし運転始めたばっかりなんだから」
「右手は音程に関係ないでしょ」
「そうだけど」
「そうでしょ」
阪元は少し笑った。
「あのね、兄さん」
「なに?」
「この間、訊こうと思って訊きそびれたことがあるんだけど」
「・・・・?」
「いつも兄さんは、上司って大変だとか言うけど」
「うん」
「庄田さんが浅香さんに責任を感じたように、兄さんが庄田さんに責任を感じたのなら、なぜ今も仕事をさせているの?」
「・・・・・・」
「それが、上司の愛っていうものの、結論なの?・・・そして、上司は自分を責めるだけ。それで、何が解決するの?」
阪元の、ピアノの譜面をめくりかけた手が止まった。
やがて、微かなため息とともに阪元が苦笑するのがわかった。
「そうだね」
「・・・・・・」
「祐耶、お前の質問は・・・・とても耳の痛い、質問だね。」
太陽の前を一瞬、雲がよぎった。
そして再び、陽光はガラス戸越しに広々としたリビングの、床まで惜しみなく注いだ。
(第二十二話 おわり)
第二十二話、いかがでしたでしょうか。
次のエピソードは、再び大森パトロール社にもう少し光をあてたいと思っています。これからもよろしくお願いいたします。