四 殺戮
階段室の中の足音が、階下から同じ階の踊り場、そして二十階へと登っていくのがわかった。
山添が止めるより早く、槙野が階段室の扉を押し開け、十九階と二十階の間の踊り場まで駆け上がり、そこで先輩警護員に掴まれた腕を精いっぱい伸ばしながら、その先の登り階段を見上げた。
二十階フロアへ出る踊り場で、右手に真新しい血糊のついたナイフを持った庄田直紀が、階段を上がってくる第二の刺客を、微かに笑みをよぎらせた涼しげな両目で捉えた。
第二の刺客のさらに後ろに見える槙野の姿は、もはや庄田にとって眼中のものではないように見えた。
片手で階段の手すりに手をかけ、そして階段手すりに楽々と飛び乗り、第二の刺客が左手に持っていた刃物ではなくその側頭部へと、手すりを持つ手で体を支えながら右足蹴りの一撃を加えた。
刺客の上体が反対側の壁へ激突したとき、既に庄田の体は相手を飛び越え、背後から後ろ手に相手の首元を掻き切っていた。
血煙りが舞った。
第二の刺客は、声もなくその警備員姿の体を折り、階段の上へ倒れ動かなくなった。
足下の踊り場から山添に手を引っ張られ後退した槙野と、しかしそれでも十分に近い距離で庄田は一瞬向き合う形になった。
その表情は槙野からしか見えなかった。
庄田はすぐに目を少し伏せると、目の前にいるふたりの警護員たちの、いずれに対してでもない言葉を一言発した。
「三人目は?・・・」
耳元の通信機から返答を受け、踵を返すと庄田は元来た階段を駆け上がり、階段上と踊り場のふたつの死体を飛び越え、二十階フロアへ出る扉を開けた。
地味なビジネススーツに身を包んだ大柄な男性がひとり、フロア側から現れ、恐ろしいスピードで右手の刃物を庄田へ向かって三度突き出した。
庄田は二回は体をかわして避け、三回目の攻撃は手元のナイフで相手の刃物を払った。
次の瞬間、刺客が左足蹴りを試みたとき、庄田は体を沈ませ相手の右脇側へ体を滑り込ませた。
風のようなスピードで庄田が右足を後ろに回し相手の足を払い、うつ伏せに組み伏せた相手の背中に十字に乗りかかり、取り出していた二本目のナイフで後頭部を一突きにした。
フロアと階段室を跨いで、ドアを自身の体で開いたままに止め、第三の刺客は何度か痙攣した後絶命した。
庄田は立ち上がり、第三の死体の脇を歩いて階段室の踊り場まで戻り、ナイフ二本を腰のホルダーに戻すと、踊り場の端に転がっていた杖を拾った。
そして足下の階段まで上がってきていた槙野と山添のほうを最後にもう一度、一瞥し、フロアへと出て行った。
ふたりの警護員がフロアへ出たとき、すでに庄田の姿はなく、エレベーターの扉が静かに閉じたところだった。
山添は槙野のほうを振り返り、そして声をかけた。
「・・・大丈夫ですか?」
「・・・・・・」
後輩警護員の顔色が極めて悪い理由を、山添は断定しかねていた。
「歩けますか?」
「あ、はい。大丈夫です。」
「ここまで来たんですから、最後まで確認しましょうか。恐らくこの階のどこかの空きオフィスの・・・・窓が開いていることでしょう。」
「それは・・・・」
山添は微笑し、歩き始めた。
「はい。一番危なくて、一番安全な逃げ方ですよ。」
槙野は息をのみ、そして背後に倒れる死体にもう一度目をやり、山添に続いて足を進める。
誰の姿もなかった。
奥の角を曲がりさらに歩いた突き当たりの空きオフィスの、入口ガラス扉が少し開いており、そして山添の予想どおり微かに風の音が響いていた。
ガラス扉の隙間から空きスペースの中へ足を踏み入れた二人の正面で、巨大な窓のガラスが見事に大きくくり抜かれ、夜風が強く吹き込んでいた。
窓枠に、ロープの端がしっかりと固定され、その先は窓の外へと長く垂れて風に揺らいでいた。
「仕事が早くて確実な人たちですね」
「・・・・・・」
「では、電話しましょう」
「え?」
「警察ですよ」
槙野が慌てて携帯電話を取り出し、百十番した。
街の中心にある古い高層ビルの事務所で、唯一明りのついているカンファレンス・ルームで、三人の人間が通信機からの報告を聞き終わっていた。
篠崎が長身の体をゆっくりと椅子の背中に預け、目の焦点が定まらないまま息をついた。
「終わったね。二階エレベーターホールから庄田さんが出て来られ、地下駐車場から帰られたということは、まあ恐らく運転手は佐野で・・・。二十階から直接深山を降ろした後ということだね。」
「ビル内、あと少なくとも一人はいますけど、まあ時間の問題ですな。警察が若干鬱陶しいですが。」
酒井が微かな笑みとともに目の前の、他のチームのリーダーへ応答した。
吉田は酒井の横顔をちらりと一瞥した後、やはり正面の篠崎へ微笑みかけた。
「庄田が現地のスタッフに最低限の状況を伝えただけで、こっちにその後一度も直接の連絡がないのは、彼の思いやりかしらね」
「中途半端な巻き込まれかたは、なんだか消化不良だよ」
篠崎は吉田の顔を見て不満そうに言った。
吉田がさらに笑う。
「徹底的に巻き込まれたら、篠崎、お前も立派な共犯者になる。」
「処分されるかな、庄田さんは・・・・」
「されるでしょうね。」
「ルール上も、事実上も、僕は今回の庄田さんの行動にはまったく賛同できないよ。でも」
「・・・・・」
「でも、・・・・感謝しているよ・・・・。またひとり、アサーシンが死んでいくのを、指をくわえてみている・・・・それを、しないで済んだ。」
「そうですな」
一言酒井が言い、そして彼が部屋を出て行ったが、今度は吉田は追わなかった。
私鉄駅から少し離れたところにある、あまり大きくない病院は、常に混雑しているが深夜になるとさらに救急車の出入りが増えていく。
救急外来の、しかし正面から外れた関係者向けの出入り口に、一台の軽自動車が直接乗り付け、二名の看護師がストレッチャーを押して迎えに出た。
軽自動車の運転席から降りた小柄で黒髪のショートカットの女性が、後部座席のドアを開け、肩近くまでの長い髪をした青年を、手を貸しながら降ろす。
青年は肩と足に応急の包帯を巻いていたが、女性と看護師たちに助けられながらもほぼ自力でストレッチャーへ体を乗せ、横たわった。
運転席にいた小柄な女性は、ストレッチャーを見送りながら手元の電話をかける。
電話の向こうから、同僚の声が応答する。
「はい、佐野・・・今ちょうど庄田さんのご自宅に着いた。そっちは?」
「ええ、さっき無事に病院に収容されたわよ。意識もはっきりしてるし、大丈夫でしょ。・・・庄田さんは?」
「うん、これからお部屋までご一緒する・・・・あ、庄田さん、手伝います。・・じゃ、一旦切るから」
電話が切れた。
阪元探偵社の協力病院の救急外来へ、ストレッチャーに乗せられて運び込まれた深山の目に、見慣れた人物が映った。
「あの、止めてください、ちょっとだけ」
深山が看護師に頼んでストレッチャーを止めてもらうと、傍に立った長身の黒髪のエージェントが、火を点けないたばこを口の端に咥え、患者を見下ろした。
「ようやく着いたか。この死にぞこないが。」
「ひどいな、凌介」
酒井凌介の精悍な顔立ちが、それによく似合う皮肉な笑みを湛えているのを、深山は見上げて睨んだ。
そして酒井は右手を伸ばし、同僚の額に指の甲を軽く当てた。
「ボケのアサーシンやな、ほんまに」
「・・・・また会えるなんて、思わなかった。」
深山が左手で、酒井の右手を握った。
沈黙はほんの一瞬のことだった。
酒井の右手が離れる。
「まあ、しっかり治せ。先生や看護師さんに我儘言うなよ」
「子供じゃないんだから」
「十分子供や、子供」
ストレッチャーが再び動いて、診療室へと入って行ったのとほぼ時を同じくして、酒井の携帯電話が着信を知らせた。
庄田の自宅のあるマンションの地下駐車場で、車の運転席を降りた佐野は、助手席から出る庄田に付き添ってエレベーターへと向かう。
「運転してくださり、ありがとうございました、佐野さん。」
「いえ、庄田さんはお体のことがありますから・・・お部屋まで念のためお伴しますので。」
「すみません」
エレベーターに乗り込むとき、微かに上司の体がふらついたことに気がつき、佐野は相手の二の腕を持って支えた。
上昇するエレベーター内で、庄田が低い声で言った。
「車の中で、社長にメールを打っておきました。私からまた連絡するつもりですが、万一佐野さんや松原さんのところに社長からご連絡があったら、ありのままを話しておいてください。」
「仲良く処分されましょう。俺も松原も地獄の果てまで庄田さんにお伴しますよ。」
庄田は前を向いたまま少し笑った。
玄関に入り、もう一度部下に礼を言い、元アサーシンは静かに扉を閉めた。
一階に戻り、マンションを出て佐野がタクシーを拾って大通りまで走ったころ、佐野の携帯電話が鳴った。
待合室の椅子の向こうまで歩きながら、酒井が電話に応答する。
「はい、酒井ですが・・・・はい、今病院で本人に会いました。これから診療ですが、足とか手術になったら何日か入院でしょうな。」
電話の向こうの声が、一瞬安堵の色になったが、すぐに別の不安を帯びたのがわかった。
「酒井。・・・・・・・篠崎からの報告にも庄田からのメールにも情報がないんだけど」
「はい」
「庄田はどのくらいのことをしたの?」
「それはどういう意味です?社長」
酒井は上司の問いの意味を測りかねていた。
「何人と対峙したのかってこと」
「俺にもそれはわかりません。社長が心配されているのは、もしかして、庄田さんの体のことですか?」
「そうだよ」
阪元の声は明らかに動揺していた。
「祐耶に聞いてみましょうか。一番間違いないでしょうから。」
「いや・・・・、いい。祐耶をここまで送り届けた人間は、佐野か松原だね?酒井」
「そうです」
「大至急伝えてほしい。もう一人のほうが庄田を自宅へ送り届けたと思うから。」
「はい。」
佐野が携帯電話に応答すると、かけてきた松原の声が少し上ずっているのがわかった。
「どうした?松原」
「今から酒井さんにかわるから。」
酒井の話をしばらく聞き、佐野はタクシーの運転手に声をかけた。
佐野が再び庄田の自宅のあるマンションへ到着し、オートロックから呼びかけたが、応答はなかった。頭に入っている暗唱番号で入口を開けて入ると、上司の部屋のドアまで到達し呼び鈴を鳴らした。佐野の手には既に間に合わせの簡易な工具が握られている。
応答がないので、ドアを直接叩く。
「庄田さん!佐野です。」
その二分後には、佐野の手によってドアの鍵とチェーンが破壊されていた。
遅れて到着した松原は、開いたドアから室内へと入ったところで立ち止った。
「・・・・・!」
入ってすぐのリビングの中央で、佐野がこちらを振り向き、叫ぶように言った。
「松原、車で来たよな?病院へお連れする。手伝ってくれ。」
「わかった。」
ソファーに座ったまま背もたれに体を預け、目を閉じてぐったりとしている庄田の体を、佐野が両手で抱き上げる。
松原が先導し、エレベーターで地下駐車場まで降り、松原が運転席へ、佐野が庄田を抱えたまま後部座席へと乗り込んだ。
事情聴取を終えて深夜の道を大通りまで歩きながら、山添は隣の後輩警護員に声をかけた。
「お疲れ様、槙野さん。帰りましょう。波多野さんへの事務所での報告は明日でいいそうです。・・・・もう電話でたっぷり怒られましたが・・・・・」
「・・・はい・・・ありがとうございました・・・山添さん」
タクシーが何台か通り過ぎたが、拾わずに山添は通りの車に視線を向けたまま続ける。
「すみませんでした・・・・・。槙野さん」
「・・・・・・・」
「三人も目の前で殺されるところを、見ることになってしまった。」
槙野は先輩の顔を見上げ、首をふった。
「いえ、大丈夫です。人殺しと対峙しなければならない警護員が、血を怖がっていては警護などできません。」
微笑して山添は車道のほうを見た。
「あのエージェント・・・恐ろしい腕前です。たぶん全力の三割くらいしか出していないでしょうし、足が悪いにも関わらず、・・・・しかも恐らくは何の事前準備もできなかった状況で、三人のプロの暗殺者をほぼ瞬時に殺してしまった。」
「・・・・・・・」
「最後の三人目のとき、唯一、苦しそうな表情をしていましたが、多分何らかの理由で、常人より体力的な制約が大きいんでしょう。」
「そうですね」
「そして最初から最後まで、百戦錬磨の職人芸ですよ。二人目以降、迷わず自分を狙わせるために、恐らく一人目のとき、あえて刺客が仲間へ自分の特徴を伝える時間も与えたんだと思います。」
「はい」
「そして何よりゾッとしたのは・・・・。槙野さん、気がつきましたか?」
「はい。まったく、浴びていませんでした。」
「そうです。三人をナイフで一撃で殺した上に、ただの一滴も、帰り血を浴びていなかった。人間技じゃないです。」
「はい・・・・・」
車がまた一台通り過ぎていく。
山添は槙野のうつむいたままの顔を見て、少し躊躇してから、言った。
「聞いてもいいですか?」
「はい」
「槙野さんの知り合いというのは、今日会った二人目のエージェントですか」
「・・・そうです・・・。」
「・・・・」
槙野の表情に苦渋が満ちた。
「そうです。あの、三人の暗殺者を殺した、エージェントです。」
そのまま沈黙した槙野に、それ以上山添は尋ねなかった。
手を上げ、山添はタクシーを拾った。
じっと立ちつくしたままの後輩警護員の背中を、先輩の手がそっと押し、先に後部座席へ乗せる。
二人を乗せたタクシーは静かに夜道を走り出した。
「複数の臓器に慢性の不調があるから」
阪元は立ったまま、ようやく少し落ち着いた様子で話した。
「はい」
「過度の運動で体力を消耗してしまうと、貧血や血流の不足、あるいは・・・今回のように心臓の機能が不足して命の危険に瀕することもあるんだ。」
「・・・・・」
「どのくらいがボーダーラインか、自分で分かっているはずではあるんだけど・・・・気が張っていて、すぐに症状が出なかったから、大丈夫と思ったんだろうね。」
「・・・・・・」
「困った奴だよ。本当に」
佐野と松原が椅子をすすめたが、阪元は首を振り、立ったままでベッドの上の庄田の額に手を当てた。
まだ酸素マスクをしたまま目を閉じて横たわっている庄田は、そのもともと白い肌が透き通るように青ざめていた。
佐野が低い声で尋ねる。
「ここまでの状態だということは、庄田さんは、社長以外の人には・・・・」
「ああ。言ってなかったね。最前線に出ることがないはずのチーム・リーダーとしては、言う必要もないことだったわけだ。」
「はい」
「二重の問題だよ。ルール・Cへの明白な違反。そして自分の職務範囲の逸脱。処分は追ってする。佐野、松原、お前たちは庄田の命令に従っただけだが、多少のことはやはり覚悟しておいて。」
「・・・社長、我々は自分で望んで・・・・」
「私はこれで帰るから。庄田を頼むよ。」
阪元は踵を返し、病室を出ていった。
廊下で、少し話声がした。
やがて入れ替わりに病室に入ってきた人物を見て、松原が軽い驚きの声をあげた。
「浅香・・・一人で来たの?」
「はい、車で。」
浅香仁志が、ゆっくりと佐野と松原の前まで来て、立ち止った。
「庄田さんのこと、誰から・・・・?」
「祐耶から・・・、正確には祐耶に頼まれた酒井さんから、聞きました。」
佐野が浅香に場所を譲り、椅子を持ってきてやった。椅子に腰を降ろして、浅香は上司の顔を見つめた。
そのまま後ろの佐野に尋ねる。
「最初、庄田さんは一人で行こうとされたんだよね?」
「ああ。お前に送ったメールのとおり・・・・。ただし篠崎さんには最初から話しておこうと思っておられたみたいだ。」
「酒井さんがおっしゃってた。ルール・Cの適用後、祐耶から篠崎さんへ現場から届いた通信は唯一、”高層ビルから一人も逃すな”だったって。」
「・・・・・」
「それは、元アサーシンが聞いたら、普通はもう助けにいくようなケースじゃないんだって・・・酒井さんがおっしゃっていたよ。」
ベッドサイドの椅子に座ったまま、浅香は上司の顔から視線を外し、深くうつむいた。
朝日が少し高さを増したころ、起床した深山が顔を洗って洗面室から車椅子で病室へ戻ろうと廊下に出ると、自分が出てきた病室へ入ろうとする見慣れた女性の姿が目に入った。
「吉田さん」
声をかけると、吉田恭子はこちらを振り向き、微笑した
「おはよう、深山。」
「おはようございます、吉田さん。わざわざいらしてくださったんですね。ありがとうございます・・・・・」
「器用に片手で車椅子を操作してるわね。具合はどう?足は明日手術だって聞いたけど。」
「はい。手術しない方法もあるそうですが、やっぱり徹底的に治したいので。肩の傷も、後遺症の心配なく完治するそうです。」
「よかったわね。」
「でも三カ月くらいは仕事はできないそうです・・・。それに、今回本当に、ご迷惑をおかけしました・・・・」
吉田はセミロングの髪に包まれた平凡な顔立ちの、唯一の特徴ともいえる鼈甲色の縁の眼鏡越しに、静かな両目で微笑した。そして吉田が深山の車椅子の後ろに回り、押して一緒に病室へ入る。
ベッド上へ戻った深山はマットレスの上体を起こし、吉田はベッド脇の椅子に腰を降ろした。
「あの、吉田さん」
「何?」
「庄田さんは・・・大丈夫でしょうか」
「ええ、もう危険な状態は脱した。今チームのメンバーが傍についてる。このすぐ上の病棟だから、あなたも後で見舞いに行くこともできると思う。」
「はい」
「それから・・・・」
吉田はすんなりとした形の良い脚を組み、少しいたずらっぽい表情になった。
「?」
「社長には口止めされていたんだけど・・・・、昨夜、あなたが寝ている間にいらっしゃったわよ。」
「兄が?」
「庄田の手当が一段落した後だけど、ずいぶん長い時間あなたの隣に座っておられたって。」
「それは看護師さんから?」
「いいえ」
「じゃあ・・・・」
「酒井に聞いた。あれは一晩中いたそうだから。」
「え・・・・・」
「あ、酒井が今ここにいないのは、寝てるからよ」
「・・・・・・」
「死にそうに眠そうな声で付き添い人用の宿泊室から電話があった。徹夜明けだから。仮眠をとらないと運転危ないからって。」
「・・・・・・」
「あなたと同じ。」
「?」
「素直に駆けつけられるようになったってことね。」
日がさらに高くなり、吉田は立ち上がってブラインドを降ろした。
「・・・・ありがとうございます」
「ねえ、深山」
窓際で立ったまま、吉田が部下の方を振り返る。
「はい」
「私は、ルール・Cについて社長に少し要望を申し上げようと思っている。」
「えっ・・・」
「せっかく会社が苦労して育てたアサーシンの、人数がこれ以上減るのはよくない」
「・・・・・・」
出口へ向かって半歩足を進め、自分の足元に目をやりながら吉田が言った。
「庄田も、同じ考えだと思う。」
部下へもう一度微笑を向けると、吉田は病室を出ていった。
「処分は?」
応接室から出てきた山添に、高原は心配そうに尋ねた。
山添は同僚の顔を見て笑った。
「クビになったわけじゃないから、そんな顔するな。・・・怜より三週間短い、一週間の出勤停止と自宅謹慎になった。」
「そうか・・・・」
「槙野さんはもちろんお咎めなしだよ」
「よかったな」
「ああ。」
後から応接室を出てきた波多野営業部長が大きく咳払いをしたので、二人は恐縮して一礼し、上司が事務室を出て行くのを見送った。
昼近くの大森パトロール社の事務室は、警護員たちの多くが出払い、しんとしている。
高原が少し迷った後で、言った。
「崇、メシ食いにいくか」
「・・・ああ、そうだな。」
近くの洋食店で、山添は珍しくあまり注文せず、しかも食べるペースも高原より遅かった。
同僚の顔を見ながら、高原がやがて少しの決意とともに言葉を出す。
「槙野さんの知り合いというのが恐らく庄田だったことより、俺は別のことが気になってるよ」
「・・・・」
「わかるよな?」
「ああ。・・・・・合計四人が目の前で殺されたのに、指をくわえて見てるしかなかったこと」
「業務外のこととはいえ、感情は別ものだ。大丈夫かな・・・槙野さん」
「深山と庄田の正当防衛といえば正当防衛だから。なんとか整理をつけるだろうと・・・願うよ。」
「少なくとも、恐るべき過剰防衛だな。」
「うん、そして何より、俺は殺された人間たちを守るつもりはなかった。何もせずに見殺しにした。もちろん言い訳はいくらでもできる・・・・・あの二人目のエージェントの腕前を考えれば、妨害すれば俺も槙野も殺されていただろう、とかね。でも真実は明白だ。俺は止める気はなかった。」
「そうだな。」
「ああ。」
少しの沈黙があった。
「崇」
「ん?」
高原は食事の手を止め、改めて同僚の顔を見ながら言った。
「深山祐耶は、自分は助けを待ってはいないと言ったんだよな。実際、庄田が来たのは予定外のことだったんじゃないか?」
「・・・そうかもしれないね・・」
「だとしたら。あいつらも多分、整理がつかないことを本格的に抱えたんじゃないか?」
「・・・・ああ、そうかも・・・しれないな」
山添は高原の目を見返し、もう一度言った。
「そうだね。そうかもしれない。」
浅香は後ろから声をかけられ、振り向いた。
「祐耶・・・・」
「おはよう、仁志」
「もう動き回っても大丈夫なの?」
「うん。本当はICU扱いの病室には車椅子で入っちゃいけないらしいんだけどね」
深山が低い声で言い、そして座る浅香の反対側のベッドへと目をやった。
浅香が同じほうを向き、表情を曇らせる。
「まだ、意識は戻っておられないんだ」
小さな個室の病室に、閉じたブラインド越しに明るい太陽が少しその光を弱めて室内へと届けている。
透き通るような白い肌をしたエージェントは、ベッドの上で目を閉じ静かに眠っていた。
「先生は何ておっしゃってるの?」
「・・・・体にとっての極度の疲労を今回復しているところだから、遅くとも数日以内には目が覚めるはずだから、心配いらないって」
「そうか。」
「庄田さんは・・・お前を助けてくださった。俺は、庄田さんのためにできることなら、どんなことだってやりたい。」
「・・・・・・」
「大森パトロール社の警護員を助けたり、ミッションで事故を起こしたりして、大変なご心配をおかけしたことを、謝りたい。」
「・・・うん」
「早く、早く目を覚まして頂きたい。でもその一方で・・・、庄田さんと話をするのが、怖い。」
「そうなの」
「なんだか、次に目を覚まされたら、そのままどこかへ行ってしまわれそうな気がするんだ」
「え・・・・・」
「歩いて、俺の前から立ち去って、戻ってこられなくなる。そんな気がするんだ」