合わせ鏡
1
十四歳までここに住んでいました。
そう彼女は物憂げに二、三歩横へ移動し、山裾から昇る朝日を避けるようにして湖面を見つめた。前方には男体山が雪を抱いてそびえ立っており、その姿がたゆたいながら湖に映し出されていた。彼女のシックな装いは晩冬のうら寂しい景色と同化している。
慣れ親しんだ故郷の山というわけでもなさそうだが、隣にいる彼の存在を忘れたかのように瞳を凝らしている。それはどこか、この瞬間が永遠に消えることのないよう願い、網膜へ焼きつけている所作のようにも思えた。彼が山を見て、湖面を見ていないぶん如実だ。それだけ吐き出すことのできない思いがあるのだろう。
二人は趣味である俳句を介して知り合い、親交を深めていった。もちろんたがいが一度結婚に失敗しているという共通項もあったのだが、彼はそれを知る以前から、彼女の句を詠む際にする指で髪を掻き上げる仕草や透き通った声、そしてそれに調和する細い肩に惹かれていた。
とうぜん彼女が知ってもらいたい心の内など、目の前の湖面の山と同様、彼には特段興味がなかったし、本人もしばらく交際なんかという気持ちが強かった。だが、そのうち胸に溢れてくる感情を制御できなくなり、意を決して珈琲でもどうですかと誘った。そうしたところ、わたしでよければと思ってもみない言葉が返ってきたのだ。彼が離婚して三年目で、ちょうど三十四歳になった頃だった。
以来九年間、すぐにもゴールするかと思いきや、なぜか今も曖昧な恋人関係を続けている。
そのため周りから、どうして結婚しないのかとよく聞かれるが、彼は都度そのうちにと言葉を濁していた。一度失敗したがための恐れ、とにかく臆病なのである。
その愚かな考えを見透かしたかのように、彼女がつぶやいた。「わたしとあなたは、もしかしたら合わせ鏡かもしれませんね」と。
「合わせ鏡?」
「ええ、合わせ鏡です」
とつぜん放り投げられた言葉に彼は戸惑う。いったいどう投げ返せばいいのだろうと考える。
一般的に合わせ鏡というのは似たもの夫婦の別称でもあるが、本来は頭の後ろなり背中なりを見たいときに、鏡をもう一つ置いて写し見ることである。その際、鏡の中に鏡が写り、その中にまた鏡が写るというウロボロス的な現象が起きる。それが都市伝説化した奇妙な話を、彼はいくつも知っていただけに困惑した。彼女は合わせ鏡を通して、いったい何を見たのだろう。同時に、何を合わせ鏡に例えたのだろうかと。
もしくは単純に湖面へ映る山と二人の関係を重ねていたのかもしれない。そんなふうに彼は漠然と思ったりもした。ともに実体がないからである。
実際、静かなたたずまいを見せているが、それは幻といっていいほど儚いもの。立体感も存在感もなく、風で水面が波立つだけで形をくずし、魚が起こす水紋一つで消え失せる。
まるで実像と虚像の違いをまざまざと見せつけられているようだ、とも彼は思う。本物は空へ向かって雄々しく伸び、分身は影法師のように水面へ姿を漂わせる。
「そう感じたのは、四十一歳になったから?」
彼は先月四十三歳になり、彼女は今日四十一歳の誕生日を迎えた。知り合ったのは三十四歳であったし、彼女も十四歳までここに住んでいた。数字のあやだけなら、たがいの年齢も合わせ鏡と言えなくもない。
「そういうことを言いたかったのではないのです。そんな単純なことだったら、どれだけ楽でしょう」
彼女は何かを訴えかけるよう息を湿らせた。
「そうだね、確かに単純じゃない。複雑だ」
「他人事のように言いますね」
「壊れてしまうのなら創らないほうがいい。どうせ形式なんだから」
「そうでしょうか」
耐えきれなくなったのか彼女はしゃがんだ。小石を拾って湖へ投げた。ぽしゃんと音がして、さざ波にも似た水紋が虚像の男体山へ向かって押しよせていく。
それを彼は冷静に見つめてから、コートの袖先を反対側の中指で少しだけめくり、時計を見た。
「そろそろ行かないか」
湖畔沿いを数分歩いたところにレストランがあった。丸太を組み上げた山小屋風で、壁にも屋根の内側にも、剥き出しの丸太が覗けている。入り口に設置された看板も、腐食止めのなされた分厚い杉板で、隅っこへ申し訳ていどに店の名前が彫られてあった。
「ここで、珈琲を飲もう」
彼が言うと、彼女は「ええ、入りましょう」と相槌を打ち、三段ほどある階段を軽やかにかけのぼった。そうして木製のがっしりとしたドアに手をかけ「お先にどうぞ」と、笑顔で手招きした。
「一緒に入ろうよ」彼はコートを脱ぎ、マフラーを外して同時に扉を開けた。
すると彼女がくすくす笑った。
「おかしなことを言った?」
「いいえ。ただ、浴室へ入るときの言葉と同じでしたので。服も脱いでいらっしゃいましたし」と言って、また笑った。「それ以上、脱がないでくださいね」
その反応を見るかぎり、湖畔でのわだかまりは消えているような気がした。
彼女の肩に手を添え入り込むと、店内は思いのほか広かった。
あきらかに人間の腰より太い柱がフロアの中心にずどんと建つ以外、間仕切りはなく、開放感そのまま窓の向こうに湖が広がっている。七席あるテーブルは、どの方角からも景色が堪能できるよう配置されていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
カウンターの中にいるひげ面の店主が、顔と一致しない甘く通る声で言った。いかにも地元然とした中年の常連客が三人、ちらっと一瞬だけ二人へ視線を投げかけたが、すぐに珈琲を啜って談笑を続けた。赤いエプロンを付けた女店員が水をトレイに乗せた。
「窓際にいきましょう」
彼女が鈍い光沢を放つフローリングの上を歩いていく。彼は従った。
数メートル歩くと彼女は太い親柱の前でとまり、表面をさり気なく手で撫でた。まさか珈琲の香りでくすんでいるわけでもないのだろうが、柱は琥珀色にも似た渋味で味わい深く光っていた。とうに命の息吹がないはずなのに、潰えてもなお生き続けているような錯覚も起きる。人間だったらつきる前に枯れ、つきたら即ひからびてしまう。
「植物と人間はどこが違うのだろう」彼女のとった何気ない行動から、そんな比べようもないことを彼は漠然と言った。
「寿命かもしれませんね。千年生きている木があるんですよ。噂では二千年の木だって」
彼女が振り返って答える。
「二千年? だったらキリストの受難に立ち会っている」
「それはどうでしょう。仮に同じ土地にいても気づかないこともありますから」
彼女が言わんとすることは意味深だった。翻って考えれば、目の当たりにしても感じないということである。
「私も君の気持ちに気づかない」
「いいえ。あなたは気づいています。ただ行動に移せないだけなのです」
彼が黙ると彼女は笑んだ。「さあ、座りましょ」
後ろに、いつからそうしていたのか、女店員が不思議そうな顔をして立っていた。
「珈琲をホットで」
「わたしも」
二人は向かい合うようにして座り、コーヒーを注文した。女店員は、磨き上げられた分厚いテーブルの上へ水を置き、都心のレストランみたいに端末器に入力するわけでもメモするわけでもなく、こくりと肯いた。そうして一言だけ、思いのほか平ぺったい声で言った。「あの柱は樹齢六百年の大杉でした」と。
「だったらキリストの受難に立ち会っていない」
「でも、ザビエルとは面識があったかもしれません」
「なら信長だって」
「ええ、知ってましたね。家康や左甚五郎も」
矢継ぎ早の返しに、女店員は首を傾げた。あまりに飛躍しすぎて会話に入っていけないのだろう。それだけ彼らは風変りなのかもしれなかった。
女店員は会釈して立ち去った。彼は胸ポケットからラークを取り出して火をつけた。
「禁煙してましたよね」彼女がすかさず言った。
「もう数えきれないほど」
「破った数も」
「そう、同じだけ」
「恋も、数えきれないほどしましたね」
さり気ない問いに、彼は「どうだろう」と返事をしてから、灰皿の上へ吸いかけの煙草を置き、指を一本ずつゆっくり折った。記憶の彼方にしまってある人の名前を一人ひとり引っ張り出すようにして数えた。指は四本でとまった。
「ほら、片手で事足りた」
「驚きです」
彼女は彼の軽薄な返答に嫌がりもせず、笑った。目のふちに出る笑いじわを隠そうともしないで。
そういえば二人が出会った頃、彼女は細身であるのに肉感的だった。肌も水をよく弾き、張りがあり、全身に躍動感があった。でも最近、妙に肉が落ちた。皮膚も潤いが消えた。たぶんそれは彼にも当てはまることで、結局は初老に近づいているという証明なのかもしれなかった。
神は人に平等を唱えながらも、結局個の才能に優劣をつけた。貧富の差もつけた。その中で、唯一変わらず平等なのが時間である。その分け隔てなく与えられた時間の中で、彼らは成熟した関係を深めてきた。だが最近、彼はつと思うようになった。差はなくはない。平等だけに残酷ではないかと。
つまるところ、人間は限られた時間の中でしか生きられないということである。それと時間の濃淡に個人差もある。流れに漂ってしまえば淡いし、流されずに突き進めば濃くなる。彼はそれにジレンマを感じていながら行動に移せなかった。
煙草を吸い終わると同時にコーヒーが運ばれてきた。白いソーサの上に白いカップ、そこに店名をもじったのかREIKと小さなロゴが刻まれていた。ラークとも湖のスペルとも違う。
「この文字は?」彼は気になって訊いた。
「じつはこれ、マスターの奥さんの名前なんです。Oが抜けていますけど」
女店員が照れくさそうに答える奥で、ひげを揺らしてマスターが笑っている。聞き耳を立てていたわけでもなさそうだが、直感で何の話をしていたのか気づいたのだろう。地元客にしてやったりの表情を見せていた。
「その奥さんは店に来ないの」彼は訊いた。
「亡くなりました。三年前に」
「じゃ、これが彼なりのメッセージなんだ」二人が、ほとんど同時にマスターの顔を見る。
困惑気味に女店員が去った。彼女が言った。
「愛妻家だったのですね、マスターは」
「ああ、私とは違うみたいだ」
「でしたら同じように、ひげを、お伸ばしになったらいかが」
彼女が彼に顔を近づける。
「この女々しい性分が治るのだったらするけど、おそらく無理だと思う。問題はひげじゃない」
「なら、ご自身の名前に、Tを足してみたらどうですか」
「それは狸にかぶせてるの? 腹ぐろいから?」
「そうではなくて、手抜きでしょうか。面倒臭いことを回避する傾向があります」
図星だけに彼は黙った。何も言い返せなかった。
「現状維持が楽ですものね」彼女が寂しげな目を見せた。
「すまない」
「謝ることはないのです。あきらめたのは、こちらのほうですし」
「あきらめた?」
彼の思考は追いつかない。これも平等な時間がもたらせた濃淡に違いない。それによって微妙なずれが生じている。
追い打ちをかけるよう彼女が言った。「幸せですか」と。
「たぶん。不幸ではないからそうなのだと思う」
彼は例のごとく遠回しに返事をした。幸せだと感じていても、それを素直に言える性格ではなかったからだ。ある意味、率直かもしれない。
しかし万事が万事この調子では、煮え切らない男と受けとめられても仕方がない。そのため単刀直入に感情を吐き出せる人間が、彼は羨ましかった。それで、いつかは言ってみようと都度思い立つのだが、結果的に思いつくだけで終わってしまう。
彼女は「そうですか」と言って黙った。珈琲に、まだ口をつけていなかった。
彼は気を利かせ、テーブルの隅にあるシュガーとミルクを取って差し出した。それからコートの内ポケットへ手を突っ込んで小箱を引っ張り出した。窮地を脱するには身に付けた処世術を最大限に押し出すしかない、と決めつけていた。
「これ、ささやかだけど誕生日祝い。君がほしがっていたネックレスが入っている」
彼女の誕生石でもあるアメジストのペンダントネックレス。色が加賀紫に近く癒しの効果があるというので買った。最初はピアスにしようとも彼は考えたが、アメジストは光に弱いので色が褪色してしまうらしい。それでペンダントにしたのだ。
「受け取れませんわ」
思いのほか素気ない言葉だった。
「どうして?」
「理由を言わなければなりませんか」
「できるなら。煮え切らないなりに愛してる」
つかのま躊躇いを見せたのち、彼女は言った。
「きっと、あげ損になってしまうからです」
あげ損? もらい得とは同じように見えてもまったく違う。なら、この重大な局面で放たれた言葉の意味も伝えたいことも、ようやく彼にも理解できた。
「もしかして、それは終息を意味してるの……」
「はい」と彼女は快活に肯いた。「潮時としては絶好のタイミングです」
「それは私が結婚に踏みきらないから」
「いえ、そうではないのです」彼女は首を横に振った。「もしかしたら、もっと大事なことかもしれません」
「よかったら話してくれないか」
そう彼が言うと、彼女はグラスの表面に溜まった水滴をもて遊ぶようにしてなぞり、それから少しだけ水を飲んだ。
「松尾芭蕉がこの地で詠んだ句に、黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。というのがあります。わたしはつい最近までこの句の意味が分からず、といっても今も分かっているとは思えませんが。でも彼は衣がえの時期に出立しようとして、この句を詠んだらしいのです。だからどうしたと思うでしょうが、それだけでわたしは言葉が胸に刺さりました。もしもこの世に必然となるものがあって、それを偶然という事象が知らせるならまさしくシンクロニシティ、切り出すのは今しかないと感じました。わたしは衣がえを余儀なくされる立場に立たされているのです」
「君が、衣がえ? 難しそうだけど、それが句から導き出された答で、ペンダントを受けとれない理由なんだね」
彼の念を押すような言い方に、彼女は「ええ、そうです」と答え、砂糖もミルクも入れずに珈琲を啜った。「雪を何かに例えてみれば、理由が見えてくると思います」
「今それを何かに例えるには、ショックが強すぎる」
「そんなものです。みんな失ってから気づくのです。ですから責めてなどいません。むしろ感謝してるぐらい」
「わかった。でも心残りはないの」彼は訊いた。
「あります。曇りの日に撮った昨日の男体山の写真、それを見ることが叶わなくなりました」
2
理由に多少の謎が残るものの、いわば自然消滅的な恋人との別れ。そこにさして魅かれるストーリー性がないよう、その後の彼の生活は至って地味なものだった。それでも胸の中には冷たい雨が降っていた。おそらくやり直しのきかない年齢に達していたせいもあったのだろうが、つまるところ、彼女のことを真剣に考えていたからだった。実際、何度か目の前に彼好みの女性が現れたが、彼の胸は一切ときめかなかった。たえず頭の中はノイズを錯覚させる雨に覆われていた。
しぜん俳句教室にもいかなくなり、ほぼ職場と家の往復だけの味気ない生活を送ることとなった。趣味といえない競馬もなぜか張り合いがなくなってやめてしまった。それだけ彼女の存在が想像以上に大きなウエィトを占めていたからなのだろう。
もちろん今となってはどうすることもできないが、彼は後悔していた。引きとめればよかったと。彼女とは、長年同じ場所で同じ時間を共有し、愛おしく身体を重ねてきただけにかけがえのない連帯感がある。それが消滅してしまったのだから生きる屍。無気力は誰しもが陥る自然の摂理であった。
不思議なもので、彼女と別れてからすぐ職場でも変化が起きた。本部へ呼ばれ、顔見知りの上司に肩を叩かれた。てっきり彼は、解雇もしくは僻地への左遷だと思った。ところがアシスタントマネージャーから正マネージャーへの昇格を告げられたのだ。まさに、絶望のあまり逃避しようと思っていた矢先であった。
外資系のスーパーに置いて、アシスタントマネージャーも正マネージャーも同じ課長職であるし微々たる差でしかないが、彼はともかく都心にとどまり、エプロンを付けない立場に変わった。だからといって彼女の残像は決して薄まることはなかった。
いつものように、そんな消そうと思っても消えない記憶の残り香を引きずったまま事務所へ入ると、店長と数人の従業員がすでにいた。彼は、決まりきった朝の挨拶を笑顔をまじえてかわした。
先方も軽やかに返答してくる。が、馴染むにはまだまだ相当の時間を要するだろうと推測できる。どんな規模の社会であれ、そこに人間がうごめく限り、大なり小なり派閥が存在するからだ。さしずめ転勤してきたばかりの彼は品定めの対象になっていた。
要は馴れ合いから生まれる弊害から、肩書がついたとたん二年に一度は転勤を余儀なくされるのだ。今回は彼女との別れに合わせたよう、S県との境にある店舗へ飛ばされた。
だから職場と家の往復だけの味気ない生活といっても、仕事を終えたプライベートの話でしかなく、職場にはそれを上回る味気ない駆け引きが存在していた。
とはいえ、さすがに外資系だけあって労働時間は厳しく守られていて、早番は九時から十八時、遅番は十三時から二十一時と決められている。仮に退社時間をすぎても仕事を続けるなら、サービス残業という荒技を受け入れるしかないのである。彼は課長職で正マネージャーの地位に甘んじているため、多少の気づかいを見せて会社の方針に従った。
その味気なさに客が拍車をかける。食品のレヂが十三台で、家電と衣料を含めても二十六台しかないレヂを巧妙にくぐり抜ける猛者が多いのだ。世界の中で日本人がいちばん犯罪に手を染めないともてはやされるが、あまりの数の多さに彼は辟易した。そのひどさは、摘発を生業とする保安員が週に二回しか来ないことなど理由にならなかった。
この私鉄沿線の一店舗だけで、年間三千六百万円、月平均三百万円の品物が万引きされているのである。クレームを付けて料金を踏み倒す客を混ぜたら、大げさだが、それこそ天文学的数字になるかもしれない。
「今日は保安員がくるので、徹底して取り締まってください。昨日だけで二十万円近い損失です」
店長の指示に、はいと返事をしたものの、万引き客を取り締まれないのは店員の少なさにあると彼は思っていた。どうも経営者は、利益を出すには人件費の削減がいちばんだと考えているらしく、まったく人員を補充しない。そのため皆抱えている業務に追われ、犯罪を抑止できない連鎖に陥っている。月に三百万円も万引きされるなら、単純に月十万円のアルバイトを三十人雇ったほうがよほど効率がいいに決まっている。
「物流と品出しはどうしましょう」
分かっていながら、彼は念のために訊いた。
「もちろんすべきことをしてから、速やかにすべきことをしてください」
思っていた通り、哲学的な答が返ってきた。難解すぎて、おそらくソクラテスでも読みとれないだろう。言った本人でさえも実践できない要望だからだ。ただし体育会系かイエスマン、もしくは彼のように反抗もしない女々しい男なら対処できるだろうが。
体育会系は汗をまきちらし、イエスマンは部下をこき使い、そして彼は汗ではなく愛想をまきちらし、部下に媚ながら黙々と仕事をこなす。
彼は地下へ向かった。そして何とかオープン前までに、そのすべきことを済ませて保安室へ急いだ。
保安員は同じ人間だと、万引き犯から顔を覚えられて警戒されるので、原則として入れ替わりいろんな人間がやってくる。今日は女性だった。それもプライベートで顔見知りの。
「あら、職場ここだったの」
彼の顔を見るなり、何の衒いもなく女性が言った。俳句教室に通っていた頃の仲間であった。
「こちらこそ、ご無沙汰しています」
「最近見ないけど、やめたの?」
遅い朝食か早い昼食か判別できないが、サンドイッチを急いで口へ押し込むと、女性は手で太ももをぱんぱんとはたいて立ち上がった。三十代半ば、スレンダー好きの彼には小太りにしか見えないが、人によっては豊満に思えるのかもしれない。胸の谷間があざといほどたわわに覗けていた。でも、これが彼らの制服でもある。怪しい人物がいたら客を装って見回りにも行くので、保安員は大体私服を着用する。
「ええ、才能がなかったから」彼は濁した。
「またそんなことを言って」と女性は笑いながら、彼の腕をなでるように触れる。女性は当時から気さくな人だったが、やや厚めの唇で大きめの口が異性を悩殺させるのか、とかく艶聞が絶えない女性でもあった。しかし女性だからいいようなもの、男がそんなことをすれば即セクハラで訴えられる。ときに馴れ馴れしさも、性別によって猥褻へ変化するのだ。
「もう、ショックは癒えたのかしら」手を放し、手際よく机の上のごみを片付けると女性が訊いた。
「何のショック」彼はとぼけた。勤務中でもあるし、他人に話す事柄でもないからだった。
「そのことで話があるの。あとで食事でもどう?」
彼は意味深に誘われた。
「ランチのこと」
「ううん、夜。だって今日は早番でしょ」女性は艶っぽく笑み、チラシ広告を裏返して何やら書き込んだ。「あとで、ここへ電話をちょうだい」
待ち合わせ場所は駅の反対側にある大手の居酒屋チェーンだった。彼は集計に手間どり、三十分ほど遅れた。
すまないと、まず女性をねぎらい「君のおかげかもしれないね」と、万引き被害額がここ数年のうちで最も少ない額だったということを、女性へ告げた。
「結果については素直に嬉しいけど、常習者が察知して控えただけかもしれないし、評価は難しいよね」
女性は一気にジョッキの半分ぐらいを飲み干すと、続いてイカゲソを口に運んだ。彼が約束の時間に遅れたこともあり、すでに酔いが回っているのだろう。目が赤く潤んでいた。
「埋め合わせをするよ」彼は支払いをするつもりで言った。
「ほんと?」
女性が口元をほころばせ、乾杯を要求してきたので軽くジョッキを重ねると、彼は店員を呼んで女性のドリンクのお代わりと好きな料理を頼んだ。それからたわいのない話を二十分ほど続けてから言った。
「話って、何?」
「憶えていたの」女性があっけらかんと言った。
「そのためにきた」
「じゃ、寝ながら話してあげる」
女性の目が妖しく光った。酔っているとはいえ危険な兆候だ。
「ちょっと待ってほしい」
彼は慌てた。展開についていけなかった。それはちょうど彼女と最後の旅行へ行ったとき、レストランの女店員が彼らたちの会話についてこれなくて、きょとんと戸惑っていたときの感覚と似ている。
「いいんじゃない。おたがい大人なんだからさ。それに彼女、もう未来ないし」
女性が含み笑いをして、手を握ってきた。
「未来がないって? 彼女に、何かあったんだね!」
彼は手を振りほどいた。
「さあ。友だちだから、それ以上は言えない」
「分かった、聞かないことにする。だけど君は彼女の友だちじゃない。友だちなら、こんな下種なことを言い出さないと思う」
「よく言うわね。あなたこそ恋人なんかじゃない。だって気がつかなかったんでしょ。あたしはね、気がついたの。だから彼女は教えてくれた」
「違う! 彼女は辟易したんだ。君の傲慢さにね」
彼はめずらしく怒りを感じていた。職場でも私生活でもめったに見ることのない感情だった。しかし自分のとった行動に違和感を覚えない人間も稀にいる。
「あなた、案外喰えない男だね。せっかくの夜が台なしだよ。もういいから消えてくれる」豹変、女性が手でごみを払いのける仕草をした。「代金は払ってね。年上なんだから」
「そうさせてもらう」
彼は伝票をひったくって席を立った。舌打ちとともに新たな蔑笑が聞こえたが、無視して店を出た。
外は霧雨が降っていた。つまらない酒を飲んでいる間に通り雨でもきたのだろう。舗道が黒く濡れて、所々に水が溜まっていた。行き交う半分ぐらいの人の服も、髪の毛も、まだ黒光りしている。
それにしても、いつのまにか彼女と最後に会った冬がすぎ、春を通り越して初夏になっていた。そんな当たり前のことに、彼は今さらながら気づく。早い話が、時間は無限に平等だが、その質は個によって異なるということだ。
ともあれ彼女の身に未来がないというのなら、不治の病にかかってしまった可能性もある。そして考え抜いたあげく自ら身を引き、看取るに相応しくない男と結論づけた。と彼は推測した。
捜そうと決めた。自分の人生をいくら否定されても構わないが、二度と彼女を否定したくないからだった。女々しい男でも女々しいなりにプライドも愛もある。彼は歩きながら彼女の電話番号をクリックした。すると、この電話番号は現在使われておりませんと、抑揚のない音声が耳の中へ広がった。
解約した?
なら、いよいよだ。こんな時間にいるはずがないと思いつつ、続けて勤め先へ電話した。だが、やはり無理だった。またもや平坦な声で、本日の業務は終了しましたと、原稿を棒読みしただけの音声が流れた。
彼は改札の手前でへなへなとしゃがんだ。それが、どれだけ乗降の妨げになっているかも考えられず、どうして今まで連絡しなかったのかとしみじみ悔いた。
その彼の横を、まるで洗濯機の渦のように同じ方向へ人が吐き出され、逆回転しては吸い込まれていく。それが何度繰り返されただろう。やがて乗降客の流れが不規則になった。
彼は、やおら立ち上がると大股で階段を駆け上がった。とりあえず彼女が住んでいた家へ行くしかないと決めたのである。
結局、彼女はいなかった。勤め先にも消息を知らせていかなかった。万策つきた彼は興信所を利用することにした。素人では個人情報に引っかかって調べることも儘ならなかったからだ。それなら専門の業者に頼んだほうがいいと判断した。
ネットで検索して二、三か所に絞り、その中であまり規模の大きくない興信所を選んだ。特に理由はなかったが、しいて言えば他の客とバッティングするのが嫌だったことにつきる。規模が大きければ客もそれに応じている。ならそれは、性病科の待合室で名前を呼ばれるまで待つのと同じ。恥ずかしいし、被害者意識しかない。
電話をすると、客に安心感をもたらす優しい声の女性が出ると思いきや、野太い声の、いかにも中年じみた感じのスタッフが応対した。屋号も小久保興信所であるし、規模が小さそうだ。
彼が逡巡していると、野太い声が言った。
「ご心配でしょうが、安心してください」と。
彼は答えた。「心配だから電話したんだ。安心できるなら、しない」
「ごもっともです」間髪入れずに野太い声が返す。「まずはお越し願えますか。お話を聞かせて戴いたうえで、しっかり対応させてもらいます」
声と似つかわしくない流暢な話し方。彼は催眠術でもかけられたかに電話を切り、野太い声の男が待つ事務所へ向かった。実像が、どれだけミスマッチしているか見とどけたかったという気持ちもあったが、本音は彼女が今どこにいるのか一日でも早く知りたかった。どのみち自力では捜せないのである。
最寄りの駅から三駅ほど都心へ向かった場所に事務所があった。五階建ての雑居ビルの一階で、隣に焼きたてのパン屋さんがあって、興信所にもその甘ったるい香りが紛れ込んでいた。ビルの名前も興信所の名前も、パン屋さんに至っても同じ小久保だった。野太い声が経営者なら御曹司ということになるのだろう。
扉を開け、挨拶されると、意外や理知的な人間だった。声の高さを抑えることで説得力を高めるタイプかもしれない。テレフォンショッピングのセールスとは真逆だ。
顔も身体も全体的に華奢で、幼少期は男友だちよりも女子の輪の中に入り、そこでおままごとをしていたのではないかと見まごうばかりの容姿をしていた。それが一転、喋るとテノール歌手を彷彿させるのである。
でも不思議なことに、野太い声の男は電話が鳴っても出ようとせず女性事務員に応対させていた。
「気まぐれなのです」野太い声が彼の心を読んだかに言った。
旨いことを言うなと彼は思った。要は、あなたは特別な客ですよと強烈に印象づけたのである。客の心理を巧みに操るところなど、かなりの手練れだ。探偵をやめても、新興宗教の教祖か詐欺師だったら、立てようと思えばだけど十分生計を立てられる。
「じゃ、普段は電話に出ないの」
「そうですね。お客様がいらっしゃるときは絶対に」
言っている意味がよく分からなかった。
すると野太い声がおもむろに近づいてきて、小声で言った。
「じつは婿養子でして、事務員の女性たちは妻と、その姉妹なのです。ですから、お客様がいないときには必然的に……」
しかしいくら小声とはいえ、野太い声は響く。事務員の女性が二人、こちらを向いて微笑した。一見好ましい光景だが、ときには微笑みが睨みつけるよりも遥かに効果があることを彼は知らされた。
その笑みを保持したまま事務員がコーヒーを運んできた。「ごゆっくり、どうぞ」
事務員が去ってから、彼は聞こえよがしに言った。
「大変ですね」
野太い声は、それについて返答を避けたが「手前どもとしてはストーカーを幇助することだけは絶対にできかねますので、あくまでも探偵業法に則って調査させていただきたいと存じます」と、わりかし大きめの声で言った。
「なるほど」と、彼は妙に納得してから「あくまでも?」と聞き返した。
「はい、さようでございます」
「個人情報の壁はどうやって乗り超えるの」
「ですから、あくまでも合法的に」
「ときには?」
「もちろん非合法も」と、野太い声は言ってから「失踪の動機として大まかに三つの要素があります。一つは家庭の問題、二つ目に病気、三つ目が職場です。では踏まえて、お話していただけるでしょうか」と真剣に尋ねてきた。
彼は話した。知り合った経緯から別れるまでもを簡潔に。その間、野太い声は無言で入力をしていく。
「どうでしょう、私の行為はストーカーですか」
ふっと手をとめ、椅子を反転させると、野太い声は腕を組んで彼を見た。
「いえ、ストーカーには該当しないと思います。それよりもアメジストには、失った愛を蘇らせる力が備わっているのをご存知でしたか。真実の愛とそれに伴う絆を深めるのです」
答えようがなかった。確かに願ったり叶ったりであったが、真実の愛がどのようなものか彼には判断がつかなかったからだ。それに、たとえ彼女を捜し当てられたとしてもハッピーエンドになるわけじゃない。
野太い声もそれに気づいたのか、組んでいた腕をほどいて手を顎の下へ持っていくと足を組み替えた。真顔で言った。
「必ず三日以内に、探し出すことを、お約束します」
3
興信所から連絡がくるまでの三日間、彼はどう過ごせばいいのかと悩んだ。それだけ彼女の辛さが身につまされたからである。ただ一方で、どう過ごそうともやるべきことは一つしかないと思っていた。
彼女から下された、看取るに相応しくない男。せめてそれを払拭させなくてはと彼は考えたのだ。一見それは自分への卑屈な見栄で、少しも身につまされた行動ではないかもしれない。だけど、いつまでも感情を吐き出さずに、胸の中へ思いを溜め込んだままであれば現状と何も変わらない。だからこそ看取るに相応しい男となって、彼女を送りたいと思い直したのだ。
彼女が生まれたとき、何も祝福できなかった。なら見送るときぐらい、最後までそばにいてあげようと決めた。彼女を奪うために屈強な男と戦うつもりはあっても、勝ち残る自信はない。けれど、どんな女々しい男でも愛する女性の死を見送ることぐらい絶対にできる。
彼女は女としていちばん必要だと思われる時期に、逆に異性と別れを告げ、あえて孤独と向き合った。そこにはおそらく人に迷惑をかけたくないという彼女の気配りと、死を感じたがたための依怙地な感情も混じっていたのだと思う。しかし彼女はやってのけた。病が病だけに並大抵の気持ちではできないことである。
彼は区役所へ行って婚姻届をもらってきた。それにサインをすると、今度はジュエリー店へ行き、婚約指輪を購入した。たとえどんな結果が訪れようとも、以前と違うことを彼女に感じてもらいたいと、それだけを彼は心から願っていた。
それにまだ、物語でいうなら承が終わっただけだ。クライマックスもエピローグも訪れていない。もちろん恋だって終わってなんかいない。彼は信じていた。
そんな彼の携帯電話に連絡が入ったのは、三日目の午前中だった。ちょうど店がオープンした直後、常連のお客さんがなだれ込んできたときだった。
着信を確かめ、昼の休憩まで電話するのを待った。早く結果を聞きたいのはやまやまだったが、噛みしめながら聞きたいという気持ちいが強かった。しかしそれだけ時間を置いたのに、内容がよほど衝撃的だったのか、詳細を知らせる野太い声はひどく湿っていた。
「ご報告させてもらいます」と言ってから、少し間を置き、一切感情を入れずに話し出した。努めて事務的な口調に終始するせいで、それが逆に距離感を生み、聞き終えた彼の決意を揺るぎないものにさせていった。
「文書にして、請求書と一緒に送らせてもらいました」
と言葉を締めくくったとき、電話の先で野太い声が深々と頭を下げているような気がして、彼も頭を下げた。「ありがとう」と。
宇都宮市のF病院へ、あの日からほどなくして入院したらしい。病名は血液の癌である白血病。しかも末期で、すでに半年以内の生存率は二十パーセントまで下がった状態だという。
そういえば別れる際に彼女が言った。雪に例えて見ろと。それは暗に白い血ということだったのか。そればかりか衣がえ、髪の毛も抜け落ちているらしく、ぜんぶ腑に落ちることばかりだった。
くわえて両親は亡くなっていて、今現在、彼女は天涯孤独ということだった。とうぜんながら見舞いに訪れる人間は皆無である。それを聞き、彼は何てことだと嘆き長期休暇をとって病院へ直行した。
白いポロシャツに履き古したブルージーンズ、靴はカジュアルな茶のウォーキングシューズにした。見舞いにはラフすぎるかなと思ったが、変に堅苦しい印象を与える服装よりよっぽどいい。スーツは排除した。
駅から十五分歩いた所にF病院があった。ここまでくると高いビルは数えるほどしかなくなり、街路樹も役目を果たしたのだろう。自然の緑が多くなった。
建物の中へ入ってしまえば、緑なんか見えないんだから関係ないという人もいるだろうが、彼はありがたいと思った。人工的なものとは違い、自然の中で育まれた植物には弱った人間を癒す効果があるからである。
案の定建物の中へ入ったとたん、薬品の臭いがした。まず彼は売店を捜し、ピンクとオレンジと黄色でアレンジされた花を買った。そして彼女を癒してあげるんだぞと、希望の意味が含まれるガーベラの花びらを指でつつき、入院病棟へ向かった。
ナース室で部屋を確認してから、病室の前でいくぶん躊躇したものの彼は入り込んだ。名札を見て、間仕切りのカーテンを開けた。とたん両隣から女性が顔を覗かせ、すぐにカーテンを閉めた。
彼女がいた。化粧っ気のない顔に地味な色のバンダナをまき、病衣の袖から痛ましいほど薄く、そしてひどく黄ばんだ胸を覗かせていた。彼を見ると、ベッドを操作して上半身を起こし、ぎこちなくだが精一杯の笑みを返してきた。もちろん乱れた襟元を整えることは忘れていない。
彼にはそれが無性に辛かった。なぜなら彼女が、どれだけ依怙地に愛想をとり繕うとも、最終的には口がへの字になって、幼子が泣き出す瞬間の顔になってしまうからだった。だから、いくら手立てがなかったとはいえ、いきなり姿を見せたことに罪の意識を感じた。
「ありがとう。きてくれたのですね」
おそらくこの数秒間で、彼女の頭の中にいろんな場面の絵が浮かび、さまざまな言葉が交錯したと思う。その中には楽しい思い出もあれば憎悪もあったかもしれない。でも彼女はそれらを一瞬にして整理した。そしていちばんシンプルな言葉を口にした。
「知っていれば、もっと早くきたのに」
彼は主観的に返答したあと、すぐ思考を切りかえ、彼女からよく見えるであろう窓際のチェストの上へ花を置いた。
彼女は、再度ありがとうと言ってから「あなたは、こうしてきてくれました」と、弱気を追い払うように口もとを引き締め、かつて宿らせていた侵し難い気品を目に覗かせた。
その後二人は、しばらく押し黙ることしかできなかったが、やがて彼は、それがしごくとうぜんのことであるように彼女の手をとり、そのあといきなり抱きしめた。この半年の空白を埋めるかに、ずっと抱きしめた。同時に九年分の思いも込めて。
どのくらいそうしていたのだろう。やおら隣のカーテンの内側から咳が聞こえ、それでずいぶん長く抱擁していたことに気がついた。彼は少し気恥ずかしい笑みを見せると、足元へ置いたリュックから何やら取り出した。
「心残りだと言っていた写真を持ってきたんだ」
「男体山ですね。曇りの日に撮った」
「そう。君に見せたかった」
彼は手渡した。彼女はいくぶん身体を捩った状態で受け取ると、すぐに凝視し、目を瞬かせた。
「まったく写っていないと思っていました。でも……」
「ああ、薄いけど映ってる」
「ええ、確かに映っています」
「もしかしたら、夜だって映ってるかも」
彼は希望を込めて言った。暗くて見えないだけで、山は現存し、湖面にも必ず存在していると信じたかったからに違いない。それに月だって、星たちだって、望めば協力してくれる。
しばらくしてから「一つ訊いてもいいかな」と、彼は彼女の目を見つめて言った。「どうして、あのとき私の誘いを受け入れたの」
彼女が押し黙ったので、彼は不安になった。「昔のことだし、それに難しい質問だったね」
「いいえ、簡単です」彼女は言った。「好きだったから」と。
なるほど簡単だった。でも、と彼は考える。他人が一つになるのに他の理由があるのかと。確かに、その後は複雑な問題を抱えて悩むかもしれないが、胸を焦がす原点はそれしかない。
「じゃ、ほかに好きなものを言ってみて」彼は意味深に言った。
「もしかして、それは十個ですか」
「そう、十個」
「確か、タイトルは『素敵な人生のはじめ方』でした。一緒に観ましたね。あなたは所々で寝てましたけど」
「あれは寝たふりをしてただけ。スクリーンを見ながら、君の横顔を眺めていた。うっとりとね」
「そうですか、寝たふりを。なら、わたしはクマだったのかもしれません」と彼女は、笑いながら窓の外を見た。傾いた夕日で、笑ったはずの彼女の横顔が泣いたみたいに赤くなっている。
「では、好きなものを一つだけ言います」と、彼女は横へ顔を逸らすと目をこすった。
まさか、それは涙? これまで彼女は絶対に弱みを見せなかった。それなのに……彼の抑えていた感情が一気に熱くなる。
「お願いだから、一緒に言わせてくれないか」
「わかるのですか」
「自信はある」
「わたしは自信を失くしました。でも希望なら残っているかもしれません。わずかですが……」
「たくさん残っているさ。そして私がそれに相応しくなる、必ず」と、また彼女の手を握った。「かけ声をかけるから、同時に言おう」
彼は彼女の手にしっかり重ね合わせてカウントした。そしてそれがゼロになったとき、顔を見合わせて言った。
「この瞬間!」と。
見事に声が揃っていた。
「不思議な映画だったね」
「あなたも、じつに不思議です」
彼女が感慨深く言った。
「私が?」
「ええ」と、彼女は咳き込みながら、穏やかな口調で笑みを返した。彼はティッシュを取って彼女へ渡し、それから目の下を指で撫でた。だが、撫でても撫でても温かいものが溢れてくる。
「私が不思議なのは、いいことなの」と問いかけを確かめながら、濡れた指先をジーンズでさり気なく拭った。
「いいことです」彼女は、くすんと鼻を鳴らして答えた。
だったらと、彼はリュックに手を入れた。指輪と白い用紙を出した。
「結婚しよう」
彼はその言葉がどんな意味を持つのか知っていた。またそれが彼女の望むものでないことも知っていたし、別の新たな苦悩を生み出すことも知っていた。
でも最後にはこういう形で締めくくるしか道は残されていないと思っていた。それは長い人生において、一瞬にしかすぎないが、濃淡を感じとれば、一瞬が永遠になることだって有りえる。それより何より、彼は一緒にいたかった。もう、かたときも離れていたくなかったのだ。
しかし目を輝かせた彼女は、すぐにその目を曇らせる。
「無理です。もう医師から宣告をされました。あと半年生きるのも難しいだろうと」
「半年あれば、楽しい新婚生活が送れる」
彼は彼女の手をとった。
「ここで?」
「そう、ここがハネムーン」
「愛人ではなかったのですか」
「愛人さ。心から愛する人なんだ」
そう言って彼は感情を抑えることもせず、彼女の手に指輪をはめた。
彼女の喉から、かすかに嗚咽が漏れた。それは両隣のベッドへさざ波のように伝わり、共鳴すると壁にこだました。
了




