純白のミライ
大学受験を目前に控えた、12月のことだった。
2学期末の短縮授業が始まり、放課後の教室に、俺たちは二人きりだった。
ユウコが、机から立ち上がろうとしなかったのだ。
「……なあ、帰ろうぜ」
ユウコは無言のまま立ち上がって、廊下を歩き出した俺の後をふらふらとついてくる。
うつむきっぱなしで黒髪のショートカットが顔にかかり、表情はうかがえない。
彼女の指先には、11月の模試の結果がつままれたままだった。
俺たちは、言葉をかわさぬまま、校門を抜けていく。
俺たちは地元の公立高校に通っている。
陸上部の俺の隣で、ユウコがマネージャーをしていた都合ーーで、3年生の初夏に、カレシカノジョという関係になった。
俺は、ちらちらと背後の気配をうかがっている。
互いに志望大学は違うが、第一志望は、どちらも実家から通える範囲内だ。
今の頃合い、二クラスに一組ぐらいのカップルは、大学受験を機に片割れが上京したりで、離れ離れになる悲しみを背負っている。先輩たちの噂には、その後、関係が長くつづいたという話は聞かない。
そいつらほどではないにせよ、俺たちの間にも、緊張感と、悲愴感がただよっていた。
ユウコの第一志望に出たのは、5段階の下から二番目、D判定だった。
全く見込みなし、というわけではないが、この時期に出ると死活問題となる。
担任との面談が組まれ、志望大学の変更を余儀無くされるところだった。
そして彼女が第二志望の私立大に通えば、二つ隣の県に、下宿することになる。
俺は歩調をゆるめる。並んで歩いていても、ユウコは落ち込んでいる。
寒風が、枯れ葉を地面に転がしていった。
どうしていいのかわからない。彼女のことは心底大好きだ。
だが、俺にもたいした心の余裕はない。同じ受験生だ。
俺は、何も気にしてないさ、どうってことないぜ、と言わんばかりに、上ずった声を出した。
「ほ、ほら、アイス食おうぜ。おごってやるから。ほら、おまえあそこのアイス好きだって言ってたじゃん。ショッピングセンターの、フードコートの。たまには、行こうぜ。な」
子供をあやす方便のようだと思う。
何の解決にもなりゃしない。
その間にも、ライバル達は模試の復習をして、過去問を解いて解いて解きまくって、追い上げをして、冬の特別対策講座をとって、合格に照準を合わせてくる。
だけど、俺は誘わずにはいられなかった。
15分ほど歩いて、市内唯一のショッピングセンターにたどりつく。
中高生の遊び場というのは、だいたいここか、隣のゲームセンターになる。
昼過ぎの中途半端な時間帯だ。広い店内に、客の姿はまばらだった。
俺たちは、ベージュ色の床を歩いて、一番奥のフードコードに向かっていた。
ユウコの足が、途中で尻すぼみにとまった。
俺が振り返っても、彼女はまだうつむいていた。
「……帰る……勉強しなきゃあ……」
声を聞いてから、気づく。
彼女はすすり泣いていた。
おい、とか、なあ、とか、意味のない声をかけようとした、その時だ。
「どうせ、わたしなんか落ちるんだああああ」
閑散としたフロアに、金切り声が響き渡る。
遠くの客が、店員が、何事かと首を伸ばす。
うわああん、と人目をはばからずに、ユウコは大声をあげて泣いた。
俺たちにはーー今が、18年間の人生で、最大の山場なのだ。
彼女は、俺に勢いよくコートの背を向けて歩き出す。
「待てって」
不意打ちをくらった俺は、遅れて追いすがろうとする。一度足がもつれかけた。
ユウコの背中がみるみる離れていく。
彼女がいま家に帰って、机の前に座って、勉強が手につくかといったら、とてもそうは見えなかった。
俺にも覚えがある。前々回の模試が散々だったときに、少なからずそんな気分になったのだから。
だからこそ、それ以来、気合を入れてガリ勉することができた。
彼女は盛大に鼻水をすすり、コートの袖で拭い、ヒックヒックとしゃくり上げながら、ざくざくと歩を進めていく。
俺は、どうにか彼女の手首をつかんだ。俺の手を振り払おうと、彼女は反動をつけて振り返る。
「いいよ、カッちゃんだけ受かりなよ。わたし、応援してるからさあ。わたしのことなんかほっといて、早く帰って勉強しなよお」
「いや、だからさ…」
ーー俺はおまえが心配なんだって。喉に言葉がつっかえる。
恥ずかしいじゃないか。
俺は見かけがひょろいわりに、わりと硬派で通ってる。
それに、俺だって不安だった。
ユウコ、本気で?
ここまで来て、全部白紙に戻す気なのか?ーー俺たちの、未来を。
うわああああん…
わめこうとしたユウコが、ふ、と首をそらした。
黒目がちな瞳は、主張の控えめなショーウィンドーの向こうに釘付けになっている。
まるで、目の前に未知の食べ物を差し出された子供のように、きょとんとしている。
その先には、ほぼ鼻だけの顔立ちをしたマネキンーーが身にまとっている、真っ白く、すその長く広がった服。
ウェディングドレスだ。
ライトアップの下、きらきらしている。
刺繍のせいなのか、小さな飾り石のせいなのか。
レース。フリル。ドレープ……?
フリフリじゃないが、その衣裳はたしかに上品なたたずまいを醸し、つややかで、綺麗だった。
彼女の目に、新しい涙が浮き上がる。
それは、遠い憧れ。
今のこいつには、想像もつかないんだろう。将来のことなんて。
この春の見通しすらつかないんだから。
俺だってそうだ。
「……いいんだよ、カッちゃん、大学で別の女の子と知り合って、イチャイチャしたって……
カッちゃんかっこいいもんね。大学いったらもてるよ、きっと……」
ユウコがつぶやくように言った。
俺は、無性に悔しくなった。
何いってんだ。俺が、あの夏レーンを全力で走り抜けたのは。いま、必死に勉強してるのは。
おまえにかっこいいとこ見せるためなのに。
ーー逆だな。みっともないとこ、見せないためなのに。
ユウコは、ぼうっとなってドレスに見惚れている。
遠い、遠い憧れの眼差しで。
それは、ステージの下から芸能人を見上げるときの。
手に入らないものを、見送るときの。
俺はポケットティッシュを差し出した。ユウコは鼻をかんだ。
「……着てみるか?」
俺は無意識に、つぶやいていた。
よっぽどおかしかったのだろう。ユウコは、ぷっと遠慮なく吹き出してあはは、と続けた。
ほんのりと笑顔が戻る。ゴシゴシこすっていたせいか、顔が赤い。鼻のかみすぎで鼻頭はさらに赤い。唇は舐めるくせのせいで、冬は荒れっぱなしだ。
「なにいってんの。無理無理ーー」
そう言ったとき、ユウコは何か思い出したようで、表情を曇らせた。すぐに顔を上げて、おどけてみせる。
「わたし達、高校生だよ? お店に入ったら変な顔されちゃうよ。客にならないの、わかってんじゃん」
また、ははは、と、今度は力なく笑った。
俺は、カチンときた。
無理だなんて言いたくないくせに。無理して無理とかいうなよ。
意味がわからんな。
「………よし、着せてやる!」
俺の胸の内に、闘志が燃えたった。夏の終わりに、陸上部を引退して以来の、熱いものが沸き立つ。
クラウチングスタートを切る直前の、あの感覚だ。
「無理だよう。カッちゃん、バイトしてないでしょ」
ユウコは嬉しげな声を出した。嘘でも嬉しい、というときの声音だ。
ユウコはガラスに張り付き、小さな値札に目を凝らしている。
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……わっ
何かに気づいたのだろう。数え上げていた、声が途絶えた。
「…………」
俺も沈黙した。
その時、俺たちにつられたのか、若い男女が足を止めた。隣のドレスを指差して、何か話し合っている。
そこへ、30代と思しき女店員がやってきて、にこやかに声をかけた。
ご試着されますか?
えー、いいんですかあ、と高いヒールを履いた女が言った。
すみません、それじゃ、と黒革のジャケットを着た男が続けた。
寄り添う男女の姿は、店内へ吸い込まれていく。
俺たちは、互いの衣裳を上から下まで眺め、戻した。
二人とも、制服の上にコート。手持ちは使い古した学生カバン。俺のは三年間、運動場の隅に放り投げたり使い倒してぼろぼろ、ユウコのにはUFOキャッチャーでとった可愛いキャラクターのぬいぐるみ、花飾りのついたヘアゴム、バッジ……それに変色した『学業成就』のお守り。
「………ね…」
ユウコが力なく笑った。
俺はまたカチンときた。今度は、自分自身に、だったかもしれない。
「……やってやろうじゃねえか!」
俺たちはまずユウコの家に向かった。
「ちょっと、アンタなにやってんのーーあたしの合コン勝負服!」
忍び足で戸口を抜け出すとき、会社員のユウコの姉の悲鳴が追いかけてきた。
俺は、アスファルトを疾走する。
逃走のために、ユウコは自転車を準備していた。
クリーム色のタイトなスカートがめくれあがらないように押さえ、立ち漕ぎになって、赤いピンヒールというやつで、ぎっこぎっこペダルを漕ぎながら、ついてくる。 首にはラメの入ったスカーフを、スナフキンのようになびかせて。
それから、俺の家に寄った。
幸いにも、みんな留守のようだった。
俺たちは団子のようになって階段を駆け上がり、大学生の兄貴の部屋に転がり込む。
「兄貴の背広借りる」
「背広ってお父さんが着てるみたいな地味なのだよね? 不自然でしょお」
ユウコはそわそわしたまま両腕を広げて、自分の、パーティーでも行きそうに派手な格好を見回す。
「兄貴が最近買ってた、オシャレなやつがあるんだ。イタリア製とかなんとかーー」
俺は兄貴のクローゼットを探る。
ない。どこを探しても。
心臓がどっどどっどと鳴りつづけている。
アニキ、今日デートとか言ってたっけーー
「やっぱり…」
「これしかねーんだよ!」
廊下に出ると、ユウコが半ベソの半笑いで俺を見る。
俺も泣きそうになった。
兄の部屋から掘り出したのは、カラスのように真っ黒で飾り気ゼロのリクルートスーツ。
そして、俺は玄関でなさけない声を上げる。
「あ……アニキ履いていってんのかよ……」
あとはスニーカーしか残っていない。
そこで、親父の替えの革靴を見下ろす。履き慣らされて形がフィットされ、お袋の手で磨かれて黒光りしている。渋すぎる。俺には履けない。
一瞬、沈黙が流れた。
俺たちは顔を見合わせる。
「が……がんば!」
ユウコは不安に泣き出しそうな顔で、拳をにぎり固める。
立ち止まっているヒマはない。この状態を家族に見つかればたたじゃすまない。
ああ。わかったよ、マネージャー。
「水虫うつったらどうすんだよっ」
俺は靴下を引き上げて、片足を突っこんだ。
ーー耐えろ、俺の足!
俺たちは、汗と、冷や汗をかきながら自転車を漕ぎ、再びショッピングセンターにたどりついた。
ユウコは、すれ違う大人の女性客と、自分をしきりに見比べていた。
ふと、思い出したように俺の腕を引っぱる。
「お化粧だよね……?」
ユウコの素顔が青ざめてみえた。
「ほ、ほら。大人の人でもすっぴんの人いるじゃん」
俺は視線をさまよわせ、それっぽい女の姿を探しだして、指差した。
「あれ、ナチュラルメイクっていうんだよ……」
彼女の頬にはニキビができている。
あの人と、俺たちの違いはなんだ。大人って、なにが違うんだ。
ユウコは化粧品コーナーに飛び込んで、試供品をあれこれ手に取りはじめた。小さな鏡にめいっぱい顔を近づけて何かやっている。
紫? やっぱ赤だよね??
見かねた店員のお姉さんが、何を勘違いしたのか、手伝ってくれた。
ちぐはぐな格好の俺たちは、ついにその店の前にたどりついた。
随分、試着をくりかえしていたのだろう。
店の敷地から腕を組んであらわれたのは、さっきのカップルだった。
結局、買わなかったんだろう。
疲れた感じの女店員が、俺たちをみた。その愛想のいい笑顔が、微妙にゆがんだ。
俺は、ピシッと背筋を伸ばす。伸ばし過ぎて、しゃちほこばっていた。
まずいな。いくらなんでも、服屋の店員からみたら、
俺たちはチンドン行列みたいな格好に等しい。
冷たい汗が一筋、背筋を流れ落ちていくのを感じた。ひしひしと視線を感じる。
「おっれ、わた、ぼくは……」
「どのようなものを、お探しですか………?」
店員が、細めにかいた眉を下げて、にっこり微笑む。
空白が長かったのは、葛藤を黙らせるためだったのだろう。
接客のプロってのはすごいな。客になる可能性があれば、どんな珍客にも応対する。
俺は、一直線に、ショーウィンドーを指差した。
試着室のほうで、かちゃり、と音がした。
大げさで、投げやりにも聞こえるような、店員の声がした。
「まあ、よおくお似合いですよ。本当に、お綺麗で」
奥から歩み出たのは、純白に染まった、花嫁の姿だった。
裾をカーペットに引きずり、しずしずと、歩いてくる。
身体にぴったりしたドレスのシルエット。長いシルクの手袋をはめて、頭に透けるヴェールを被っている。
俺の前に、近づいてくる。
いかがですか? 未来の旦那様。
店員さんが目を細めて笑う。
ほら、エスコートして!と言わんばかりに、俺の顔と手をすばやく見比べる。
俺は宙に手を浮かべる。そこへ、白い手袋が触れる。
俺たちは、雲の上を歩くような心地で、カーペットを歩く。
二人、鏡の前に並び立つ。
白と、黒。ユウコと、俺の姿が、そこにある。
俺は汗ばんだ手で、ぎゅっと、彼女の手を握りしめる。
い、一緒に受かろうな。
鏡の中で、瞳を潤ませたユウコがこっくりとうなずいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
感想、ご意見など、お気軽にいただけましたら、幸いです。
夜薙歌茅(ヤナギカガヤ)と申します。
かってに短編強化週間グランドフィナーレ、7作品めです。
一日、あるいは一週間、お付き合いありがとうございました!
皆様の日々に、一雫の潤いをお届けすることができたなら、光栄です。
皆様にまたお会いできますことを、お祈りして。
後書き(舞台裏)めいた事は、活動報告のほうでさせていただこうと思います。