Chapter Nine
ネルにとって、朝起きたときに自分がどこにいるのか分からないことほど、恐ろしいことはなかった。
そもそも、慣れない場所ではこれが本当に朝なのかどうかさえ分からない。
自分の家なら、聞き慣れた音や、気温や湿度でだいたいの時刻を当てることもできた。しかし、ネルは今、まったく知らない場所にいる。
深い眠りから目を覚ましたネルは、探るように首を左右に動かし、辺りを見回した。
ひんやりとした空気が肌に当たるが、寒いというほどではない。
手をまさぐると心地いいリネンが広がっていた。そこはかとなく清潔な石鹸の香りもして、とりあえず自分が清潔なベッドに寝かされていたのだということだけは、分かった。
外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
時々、小鳥が羽ばたく音も。
やはり、朝の早い時間なのではないだろうか。今までネルはずっと眠っていたのだろうか?
「ジョージ? いるの?」
上半身を起こしたネルは、親しい従者の名前を寝起きのかすれた声で呼んだ。
返事はない。
とたんに、ネルの心臓は激しく脈打ちだした。
「ジョージ! どこにいるの! もうっ」
情けない、一人ではなにもできない自分に苛立ちながら、ネルは叫んだ。声が上ずって、まるで今にも泣き出しそうに聞こえるのが自分でも分かって、その自己嫌悪で本当に泣き出したい気分になる。
何度呼んでも、ジョージからの返事はやはりなかった。
(どうしよう……)
知らない場所で独りで起きるのは大きな不安だったが、贅沢は言っていられないようだった。
あちこちに膝をぶつけるくらいならまだいい。怖いのは暖炉の火だ。
ネルはできるだけ耳を澄まし、どこか近くに火種がないかどうかを確認した。とりあえず室内に火のある気配はなかったが、煤けた匂いがほんの少し鼻につくから、夜の間は燃えていたのかもしれない。
慎重にシーツから足を出し、ゆっくりと身体の向きを変えてベッドから下りると、ひんやりとした床の感触が裸足の足に伝わってきた。
ネルはほうっとため息を吐きながら、自分がなにを着ているのか確かめると、どうも昨日と同じ服のままのようだった。ただ、コートだけは脱がされたようだ。
(誰が……)
自分をここまで運んでくれたのだろう?
歩いてきた記憶はないし、あの足ではジョージにネルを運ぶことはできないはずだ。すると小間使いか誰かというところになるのだろうが、昨日のことを細々と思い出すと、ネルの中にある妄想が浮かんで消えなかった。
(まさか……ローナンが? そんなことないわよね?)
まさに彼のことを考えていたそのとき──がちゃりと扉の開く音がしてネルは飛び上がりそうになった。
「申し訳ない、ネル、絶対に君より先に起きるつもりだったんだけど」
ローナンの声だった。
ほんの少しだけ昨日より乾いた声に聞こえるのは、寝起きだからだろうか。
それでも相変わらず、ローナンの声は穏やかで、それでいて男性的で、わずかにユーモアの響きがある。
「大丈夫かい? 君が声を上げるのが聞こえたんだ」
「え!」
ああ、そんな。
朝っぱらから屋敷中に聞こえるような声を上げてしまっていただろうか? ネルは恥ずかしくてまごつき、このばつの悪い状況になんと謝っていいのか分からなくなった。
「ごめんなさい……そ、そんなに大声を上げたつもりじゃなかったのに」
ローナンがこちらに歩いてくるのが分かる。
一歩、一歩が大股なのか、ローナンはまたたく間にネルの目の前まできた。ネルが息を潜めながら彼の方に顔を向けると、ローナンのほっというため息が聞こえた。
「そんなに大声じゃなかったよ」
「でも、あなたのところまで聞こえるなんて、きっと屋敷中に響いたのでしょう?」
「まさか……僕はすぐ隣にいたんだ。だから聞こえただけだよ。屋敷の他の連中は、まだほとんど寝てるだろうね」
「まあ」
ネルは戸惑いに首を傾げた。「じゃあ、どうして、そんな早くからあなたがこの辺りにいたの? 朝の仕事は、使用人に任せるのではなくて?」
ローナンが楽しげな忍び笑いをする。
「いいや、ネル、残念ながら、僕は今の今まで怠惰な眠りをむさぼっていたよ。貴族の端くれらしくね」
そしてローナンは付け足した。「君に今の僕の髪型を見られなくてよかった。きっと悲鳴を上げて逃げ出してるよ」
ネルは、これ以上ローナンを追求するべきなのか、笑ってしまうべきなのか分からなくなった。
ローナンの髪は濃い金髪だという。
彼のようにそつのない男性が、寝起きのクセをつけたまま女性の部屋に乱入してくることなど、そうそうないだろう。そういう意味で、自分の盲目がローナンを気楽にさせているのかと思うと、ほんの少しだけ気が和らいだ。
結局、くすくすと微笑をこらえきれずに、ネルはささやいていた。
「きっと、わたしの髪の方がひどいわ。だから気にしないで」
「いいや、君の髪は綺麗だよ。完璧だ」
ローナンは優しい声で答えた。
優しすぎる声で。
ネルが真っ赤になっていると、ローナンはまた短い、楽しげな笑い声を漏らし、ネルの片手を取った。
「気を悪くしないでくれると嬉しい……実は、君の部屋は僕の部屋の隣なんだ。こうすれば、僕がいろいろ屋敷を案内してあげられると思って」
「ま、まあ……」
ネルはふたたび戸惑った。
ローナンの手は大きくて、国中の女性が夢に見るような力強さがある。
「ご入用の際は、ぱちんと指を鳴らしてくれればいいよ。僕は腹の空いた子犬みたいにシッポを振りながら、喜んで、すぐに君の元へ駆けて行く」
夢を見ているのかもしれない。
このローナン・バレットという男性は、存在自体が夢なのかもしれない。ネルはどこまで自分を信用していいのか、足場を見失っていた。
(いけない。駄目なのに……)
いくら自分に言い聞かせようとしても、身体の芯を襲う甘い痺れはどうにも治まらない。ネルはなんとか自分を律する言い訳を考えようとして、動かない頭を必死でかき回した。
「あの、では、今の時刻はなにかしら?」
時刻の話ほど色気のないものはないだろう、とネルは考えた。
案の定、ローナンはすっとネルの手を離した。
「うーん……もうすぐ六時になる頃だと思うよ。外はちょうど朝焼けが綺麗だ。雪はだいぶ弱まってきたよ。今降っているのはみぞれだね。この辺じゃ、降っているうちにも入らないさ」
ローナンが数歩ネルから離れると、シャッとカーテンが開く音が響いた。
「残念ながら、この部屋は西向きでね。朝日は見られないんだ」
ローナンが本当に残念そうな口調で言うので、ネルは思わず、またくすくすと笑った。どうもネルは、自分で思っているよりも自制心が強くないのかもしれない。
「それは残念ね。わたし、朝日がすごく好きなのに」
「へえ?」
まるで深く興味を引かれたように、ローナンは聞き返した。「朝日が?」
「もちろん、見えていた頃のような鮮やかさはもう失われてしまったけど……見えなくても、感じられるものは沢山あるのよ」
「へえ」
ローナンの声のトーンが少し変わる。まるで関心しているようだった。
「朝日を浴びているとね、わたしのような盲目でも、なにがしかの恩恵を受けているんだと思えるようになるの。新鮮な風に、小鳥のさえずり……。たしかに見えないけど、わたしにはまだ想像力が残されているわ。だから、朝日のさまも想像するの」
ローナンはもう口を挟まなかった。
呆れているのだろうか。そう考えると胸が詰まったが、もしかしたら、そうなった方がいいのかもしれない……。
ネルは目をつぶり、下を向いた。しかし──
「じゃあ、見に行こう。今すぐ」
ローナンの声が目の前にきて、ネルはぱっと顔を上げた。
「え?」
「一緒に見に行こうよ、朝日を。この辺一帯はなにもないけど、自然だけは素晴らしい。きっと君も気に入るよ、ネル」
「え、え、でも……」
困惑しているネルの手を取ったローナンは、本当に嬉しそうな声をしていた。顔中に広がった笑顔を簡単に想像できるほどだった。
「おいで、ネル。僕と一緒に朝日を見に行こう」