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Chapter Eight



 ローナンは、やはりバレット家の男達は呪われているのかもしれないと、陰気な気分で考えながら兄夫婦の部屋を後にした。

 ──きっと、呪われていると同時に祝福もされている。

 オリヴィアは素晴らしい女性だが、彼女を手に入れるまでの兄の苦悩を考えると、ローナンは神に祈りを捧げずにはいられなかった。どうか、あそこまでの醜態を演じる必要がありませんように……と。


 暖炉のある部屋から廊下へ出ると、温度の差にわずかに身震いしそうになった。

 ローナンの部屋はここからまた離れた西の端にある。

 長い領地の観察のあと、さすがのローナンの身体も疲労を訴えていて、慣れた心地いいベッドの上に疲れた手足を伸ばし、早めの睡眠をむさぼる誘惑は抗いがたかった。


 しかし、とローナンは思いとどまる。

 どうしてもその前にネルの顔を見ておきたかった。

 彼女がきちんとした部屋を与えられ、清潔なシーツと暖かい暖炉に囲まれて安心する顔を見るまでは、眠っているわけにはいかなかった。


 これは悪い傾向なのかもしれない。

 これは、危険な信号なのかもしれない。

 ローナンにはそれを自覚するくらいの冷静さはあった。とりあえず、今のところは、まだ。


 ローナンがジョージとネルのいる部屋へ向かおうとしていると、すぐにリネン類の山を抱えたマギーとはち合わせた。

 この屋敷の料理人であり、女中頭であり、時には乳母でもあるマギーは、とにかく生気に満ちあふれた小柄な女性だ。もう老境に差し掛かろうというのに、頭も記憶もはっきりしているし、口を開けば夏のレモンのように酸っぱいお説教が次々飛び出してくる。

 ローナンは彼女に敬意を示し、うやうやしく通路をあけた。

「手伝おうか、マギー?」

 するとマギーは、一瞬の遠慮もなくローナンの腕にシーツの山を押し付けた。

「助かったよ、ローナンの旦那! いやはや、急にお客が来るなんて思ってもみなかったからね、こっちは大忙しさ!」

「これは彼女の部屋に運ぶのかい?」

「そうだよ。さっさとしておくれ。部屋を暖めなくちゃいけないし、なにか精のつくものも出してあげなきゃいけないんだから」

「あのスープなら……」

 と、言いかけたローナンの背中を、マギーは乱暴にバシバシと叩いて急かした。

「早くしておくれ!」

 ローナンはぐるりと目を回し、諦めに短いため息を吐いてシーツを運びはじめた……そのとき、ある天才的なひらめきが脳裏に輝いた。

「ところで、マギー、彼女の部屋はどこにする予定なのかな?」

「今いる部屋の隣でいいんじゃないかい」

「けど、あそこはしばらく使ってなかったからまず掃除した方がいい。ベッドも小さいし、キャビネットはカビだらけだよ」

「そうだったかい?」

 マギーは首を傾げて、記憶をまさぐっているようだった。ローナンはマギーがすべてを思い出すまでに、素早く次の手を打たなければならなかった。

「僕にいい案がある。僕の部屋のすぐ隣の部屋なら、ちょうど昨日綺麗にしたばかりなんだ」

 嘘だった。

 ちょうど昨日、探し物をしていて入ったのだが、埃がつもり暖炉も煤けたままで放置されていた。もちろん、ローナンがそれを掃除したりもしていない。


「それに、彼女と僕はずいぶん打ち解けて、もう友達といってもいい間柄なんだ。僕ならいつも彼女に屋敷を案内してあげられるし、僕がそばにいれば、暖炉の世話もなにもかも、僕がしてあげられる」


 ローナンはできるだけ、マギーの仕事が減るという売り文句を強調して説明した。

 マギーはローナンのことをよく知っていたが、ローナンだってマギーのことをきちんと理解しているのだ。

 事実、マギーは心を動かされているようだった。

「そうかね……? まぁ旦那がそう言うなら……」

「そうだよ、オリヴィアも言っていたよ。西の部屋をあてがった方が、静かで落ち着くだろうって」

 この嘘のために、あとで義姉と裏口を合わせる必要があるだろう。

 しかしローナンは勝利が近いのを感じていた。

「そうかね、じゃあ、そういうことにしようかね。さあ、そうと決まったら、さっさとシーツを持って行って、部屋を整えておいておくれ」

 ローナンは満足に晴れ晴れとした笑顔を浮かべ、マギーに敬礼の仕草をした。

「はい、今すぐにでも」




 掃除仕事は楽ではなかったが、ローナンは結果に満足して額ににじむ汗を手の甲で拭いた。

 とりあえずベッドは清潔に整え、石鹸の香りがするシーツを敷いて、埃だらけだった枕は自分の部屋にあったものと交換した。暖炉はまた明日、掃除する必要があるだろう──つまり、明日もネルの部屋に入れてもらう口実ができたというわけだ。

 悪くない手回しだった。

 いま一度、ローナンは部屋を見渡し、ネルの歩行の障害になりそうな物を横にどけた。

 幸いこの田舎屋敷は古く、今流行の細々とした調度や装飾品はほとんどといっていいほどない。

 すべての準備が整ってから、ローナンはふと、マントルピースの上に立てかけてある鏡に視線が吸い付けられた。

(おい、おい……)

 頭から埃をかぶり、汚れた手で汗を拭ったせいで顔半分が灰色に汚れている自分が映っていた。

 シャツは無造作にはだけ、裾がみっともなくズボンの横に垂れている。


 ローナンは気取った男ではなかったが、身だしなみには気を使う方だった。

 時には野良仕事もする。時には丸太を切り出す作業にさえ参加する。しかし、我を忘れて土にまみれるようなことは少なく、こんなふうに「気が付いたら汚れていた」という事例は今までなかった。

 今までは。

 そう、今までは。




 ジョージとネルのいる部屋に戻ったローナンの視界に最初に入ったものは、椅子に座ったまま目を閉じているネルの姿だった。

 細い金髪は絹糸のようにまっすぐで、はらりと肩と背に流れている。

 綺麗だった。

 まるで北方の神話に出てくる妖精だ。

「シーッ、静かにしてくださいや」

 と、ベッドの上のジョージがあまり静かではない声でローナンに忠告した。

 もちろんローナンはその忠告に従い、できるだけ静かに部屋の中に入ってネルの側までゆっくり歩いた。

「お加減はどうかな、ジョージ殿」

 二人は抑えた声で話し始めた。

「足は痛ぇですよ。けど、こうして暖かい部屋に床まで用意していただいて、文句は言えませんって」

「兄とも話したんだけど、君の足が治るまでここに滞在してもらった方がいいんじゃないかな。雪が止んだらあの馬車も探さないといけないしね」

「ありがてぇことです」

 ジョージはじっとローナンの顔を探るように見ながら、居心地悪そうに当て木を当てられた足をもぞもぞと動かしている。ローナンはそんな従者の仕草と、ネルの寝顔を交互に見下ろし、なぜか温かな気持ちになって、そっと微笑んだ。


「ネルに部屋を用意したよ」

 僕がね、とローナンは言い漏らしそうになった。「僕の隣の部屋で、ここからは少し遠いけど、静かで落ち着くところだ。彼女が君に会いたがるときは、僕が責任を持って連れてきてあげる」

 老従者の眼光が鈍くきらめいたのを、ローナンは見逃さなかった。

 ジョージは慎重に礼を言った。

「実に、ありがてぇことです」

「反対しないんだね」

「俺がですか? とんでもねぇ。どうか、ネリーお嬢さんを大事にしてやってくだせぇ」

 まるで娘を嫁に出す父親の口調だ。

 ローナンは片眉を上げて、ジョージがもっと話すのをうながした。


「……四年前に視力を失うまで、お嬢さんはそりゃあ明るくて優しい方でした。もちろん今でもお優しいですけどね」


 四年前──そうだったのか。

 もし、その四年より前にネルに出逢っていたら、ローナンは彼女が盲目になるのを防げただろうか。そんな思考がローナンの脳裏を横切った。


「お美しいし、努力家でね、まるでトロイのヘレンですよ」

 トロイのヘレンが努力家だったという話は聞いたことがないが、とりあえずローナンはうなづいた。

「俺ぁ、そんなお嬢さんが、飲んだくれた地方伯爵の嫁になるべきではないと思うんですよ。おっと、これは口が滑りました」

「ジョージ殿」

 ローナンは声を潜めて言った。「君には、聞かなくちゃいけないことがずいぶん沢山ある気がする」

「そうですかね?」

 ジョージはとぼけた。

「そして、その際は、おおいに口を滑らせてくれるとありがたいね」


 それだけ言うと、ローナンは椅子で眠っているネルに向き直った。

 細くて、小柄で、子鹿のようだ。

 ローナンはゆっくりと慎重に、彼女を揺り起こさないように気を配りながら、華奢な身体を横抱きに抱き上げた。

 ローナンの手のひらに、また疼くような痺れが広がる。それはまたたく間に全身に広がり、心臓までもが、そして心臓とはまた少し違うもっと下の部分までもが、固くなり、ネルへの所有欲を訴えだすほどだった。


 それ以上、なにも言わずにネルを抱いて部屋を出たローナンを、ジョージは息をひそめながら見守っていた。



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