Chapter Four
ドクンと強く鼓動がはぜて、ネルは息を潜めた。
なぜ、ネルの心はまるで彼のことが見えているように感じるのだろう。ただ名前を教えてもらっただけなのに、ネルは彼のことをずっと深く理解したような気持ちになった。
ローナン・バレット。
都会ではあまり聞かない、北方の名前だ。
優しそうなのに神秘的で、つかみ所がないのに確かな安定感がある、まるで彼自身のような名前。
「わたしは……ネル・マクファーレンと申します。ジョージや親しい人達は、愛称でネリーと呼びます」
気が付くとネルは自らも名乗っていた。
なぜか、彼には他の皆よりも先に、一番に知っていて欲しいと思ったのだ。同時にネルは、自分の名前も彼のように美しいものであったら良かったのに、と思った。
ネルは自分の名前と、それを与えてくれた両親のことを深く愛していたが、それが平凡で平淡な響きを持っていることはよく理解している。
しばらくローナンから返事がなかったので、ネルは不安げに首を左右に揺らして彼の顔があるはずの辺りを探そうとした。
彼がどんな反応をしているのか知りたかったけれど、ネルに見えるのは暗闇だけだ。
彼はどんな笑顔をしているのだろう。
彼の髪の色は?
目の色は?
夏の草原のように豊かな緑なのだろうか。そうでなければ冬の空のような灰色か、ナツメヤシのような濃い茶色かもしれない。でもなぜか、青ではないような気がした。
「綺麗な名前だね、『ネル』」
ローナンの声が突然、ネルの耳元に呟かれた。
彼が想像以上に近づいていたことに驚いて、ネルは慌てて後ずさろうとしたが、腰に回った彼の手がそれをしっかりと遮る。
「ネリーも悪くない。でも僕は『ネル』がいいな。決めた、僕はずっとネルと呼ばせてもらうよ」
今までの穏やかな口調とはうってかわって、ローナンの声は断定的だった。ただ呼び方を決めたと言っただけなのに、まるで、同時に君は僕のものだと宣言されたようにさえ聞こえた。
そんなこと、ありえないのに。
ネルは一応うなづきはしたが、なにも答えなかった。
ああ、どうしよう。
ローナン・バレット──彼を心から閉め出すためには、かなりの努力と強い精神が必要になると、ネルは強く感じはじめていた。
いつまでもガヤガヤと騒がしい屋敷の中を、ネルはおっかなびっくりしながらローナンに手を引かれて進んだ。
決して嫌な騒音ではないのだが、盲目のネルにとってはどこからなにが飛んでくるか分からないような恐怖がついて回る騒々しさだ。
あえて言えば、貴族の屋敷の中にいるというより、巨大な鳥かごの中に放り込まれたような感じがした。
しかもその鳥かごの中には、得体の知れない生き物がいるようだった。
「メェェェェー!」
突然、左横から動物の鳴き声が聞こえてきて、ネルは悲鳴をあげて飛び退いた。バクバクと鳴る心臓を片手で押さえ、鳴き声のした方向に頭を向ける。
「メェ、メェッ! メェェェェー!」
殺気を感じた。
なんだろう、この鳴き声は。まるで怒ったヤギだ。
「よしよし、メラニー、そんなに嫉妬するものじゃないよ。彼女は大切なお客さんなんだから、お行儀よくしてくれなくちゃ困るよ」
そして、ローナンがなにか低いものを撫でるように腰を屈めたのを感じた。
そのときはじめて、ネルは自分がローナンに抱きついていたことに気が付いて、反射的に上半身を反らそうとしたが……やはりさっきと同じように、腰に回った彼の手がネルをとらえて離さなかった。
「触ってごらん、ネル。温かくて気持ちいいよ。どうもうちの家畜たちは、人間の僕より待遇がいいみたいだね」
彼の優しい声が耳元にささやかれる。
「さ……さわって……?」
「これはメラニー。うちの雌ヤギだ。多分、寒いから義姉が屋敷の中に入れてあげたんだろう」
「は、伯爵夫人が……」
おっかなびっくりしながら鳴き声のした方に手をかざそうとするネルに、ローナンはすぐ助けの手を差し伸べた。二人の手が重なり合い、しっとりした毛に指が触れる。
確かに温かかった。
ずっと寒さにかじかんでいた指先が、だんだんと生気を取り戻していくのを感じて、ネルはうっとりとその体温に感謝しながらメラニーをなでた。
「メラニーはまだ若いんだけど、先月足に怪我をしてね、僕がずっと面倒を見ていたらすっかり懐かれてしまったんだ」
と、ローナンはネルの手に触れたまま説明した。
メラニーがメェ、と同意するような鳴き声を発すると、ローナンは声を上げて笑った。
「そうだね。いつだって、若いお嬢さんに好かれるのは悪い気がしないよね」
ネルはなんと答えていいのか分からずに、ローナンの声をした方に顔を向けた。
──見えなくても感じるものは沢山ある。
きっと今、ローナンは自分を見つめていると、ネルには確信があった。
彼に見つめられている──たったそれだけのことが、ネルの心を信じられないほど熱く焦がしていた。まるで燃えているようにかっかと頬が火照るのを感じる。
いけない、とネルは自分の心に戒めを加えた。
──燃え尽きたあとの暖炉はどうなってしまうのか、分かっているでしょう。真っ黒になって煤にまみれて、最期には灰色の粉になってしまう。
「あ、あの、ジョージはどこに?」
話題を変えたくて、ネルは従者の名前を出した。
すると重なり合っていた手がすっと離れて、しばらくローナンはなにも答えてくれなかった。
ジョージがどこにいるのか探してくれているのだろうか。それとも、気を悪くしてしまったのだろうか。
自分から望んでしたことなのに、ネルは一抹の不安を隠しきれずにメラニーから手を離した。
「……彼は、二階の客室に連れて行かれたみたいだ」
と言うと、ローナンは立ち上がった。
ネルも彼に合わせて立ち上がる。いくら心をそそられるべきではないと決心したあとでも、今のネルに頼れるのはローナンだけなのだ。彼がいなければネルは二階へ上がることもできない。
「ちょうどいい。兄にも君を紹介できるかな」
え、とネルは声を上げかけた。
ローナンの兄とはつまり、ノースウッド伯爵その人であるのだ。
ひじょうに優れた領主であり、領民を思いやり、荒れ果てていたノースウッド領を立て直した立志伝の人物であるとの噂を聞いたことがある。ローナンがこれだけ穏やかでウィットに富んだ性格であるのだから、きっと伯爵も、そんな魅力的な人物なのではないだろうか。
優しくて、落ち着いた……。
「また、医者を締め上げていなければいいんだけど。それから、もし興奮しているようだったら、あまり近づいちゃ駄目だよ。危ないからね」
え、とネルは声を上げた。