Chapter Three
どれだけ待っても雪は止まず、それどころかさらに勢いを増して、ネル達の旅をさらに厳しいものにしていた。
それとも、ネルが気付いていないだけで、彼は雪の強い北へ進んでいるのかも知れなかった。
見えない彼女には、すべて想像でしかあり得なかったけれど。
先刻の会話のせいで気が沈んでいたネルは、もうそれ以上彼に話しかける気になれずに、黙って馬の揺れに身を任せていた。聞きたいことは山ほどあるのに。
しかし、彼の方はそうではないらしかった。
彼はよく喋った──ネルの返事が芳しくないのを感じると、返事の必要のないような話題に切り替え、たえずネルの耳元を温めるように喋り続けた。
「ここの右手には大きな杉林があってね、夏は猟もできるし、涼しくていいんだけど、冬は落雪が怖くてなかなか近づけないんだ」
右手と言われて、ネルは右を向いた。
もちろん見えるものはない。
「君が迷い込んだのがこんな場所じゃなくてよかったよ。実際、冬のノースウッドは危ない所だらけだ。君とこのジョージ殿は、なかなか運がいいよ」
つまり、ここはノースウッド領なのだ。
ネルは深く息を飲み、はやる鼓動を持て余しながら、だらんと伸びたジョージの身体を押さえることに神経を集中しようとした。
彼の声は媚薬のようだ。
それもとびきり効果の高い、東方の王様だけが使えるような、とっておきの媚薬。
「屋敷に着いたら、君には温かいワインを用意してあげよう」
そう言って、彼は短い笑い声を漏らした。「料理人が妙なスープを君に出したがるかもしれないけど、決して手を出しちゃだめだよ」
彼の声があまり楽しそうだったので、ネルはついうなづいていた。
それからの旅の続きは、ネルにとって眠気との戦いだったから、時間の感覚を保っておくのは難しかった。多分、小一時間くらいだろうか。
「さあ、着いたよ、お姫さま」
ついに彼は、うとうとしかけていたネルの肩を揺らし、到着を告げた。
「ノースウッド伯爵、エドモンド・バレット卿の屋敷へようこそ。お見せできないのが残念だけど」
え?
「は、伯爵?」
ネルの声は震えていた。寒さだけが原因ではない。
「あまり気にすることはないよ。田舎の貧乏伯爵だから、君のような都会のお嬢さんには、ひどく粗野に感じるだろうしね。まぁ、最も……」
彼はまた例の短い笑い声を漏らしながら、続けた。
「彼は、都会のお嬢さんに好かれるのがとても上手いようだけど」
彼?
ネルは混乱していた。
彼らがたどり着いたのは、ノースウッド伯爵の屋敷だという。『お見せできないのが残念』なほどの屋敷に、『都会のお嬢さんに好かれるのが上手い』、粗野な田舎の貧乏伯爵……?
ネルは今ほど自分の盲目を呪ったことはないだろう。
「あ、あなたはノースウッド伯爵、な、なのですか?」
今度のネルは、声だけでなく手も震えていた。それなりに身分の高い人なのだろうとは予想していけれど、これは。
しかしネルの動揺を横に、彼は明るい声で笑った。冷たい空気を通じて、彼の息が耳に掛かるのがくすぐったい。
「うーん、それはどうかな? どう思う?」
「なっ」
「どうしてそう思ったの? 僕はただの使用人かもしれないよ」
「だ、だって……」
彼の──伯爵かもしれない人の──おふざけにからかわれて、ネルの頬は上気し、すっかり興奮していた。こういうとき、多くの人は要りもしないことをペラペラと喋ってしまう。
どうしたって、ネルだけが例外という訳にはいかないようだった。
「だって今、わたしのような、都会のお嬢さんに好かれるのが上手い、って……」
言いながら、ネルは、自分が告白のようなことをしているのに気付いてしまった。
わたしは貴方に惹かれていましたと言っているのと、なにも変わらない告白をしている。ネルは焦り、狼狽した。しかも最悪なことに、ネルは彼の反応が確認できない。
気付かれただろうか?
それとも彼は予想外に鈍くて、こんな遠回しな言い方には気が付かなかったりするのだろうか?
ネルは後者であることを願ったが、もちろんそう上手くはいかず──
「それはつまり、僕は君に好かれるのに、少しは成功していたってことなのかな?」
彼の声は本当に楽しそうだった。
もしかしたら、嬉しそう、という表現の方が合っているのかもしれない。
ネルは出来るだけ威厳を保てるよう背筋を伸ばして、自分をからかって遊んでいるらしい彼に抵抗しようとした。
ああ、もし目が見えたなら、ここでひらりと一人で馬から下りて、わたしをからかんで遊ぶなんて百年早いのだと見せつけることが出来たのに。
かわりにネルは、彼がひらりと馬から下りて、ネルの降馬を助けてくれるのを待った。
もちろん彼は期待に違わず、一人の男ができる限りで、最も優しいと思える配慮でもってネルが馬から下りるのを手伝ってくれた。
途中、ネルの腰を抱く手が必要以上に強い気がしたけれど、それはネルが盲目であることへの気配りからくるのだと納得することにした。
妙な期待は命取りだ。
ネルはそれを身を持って学んだではないか。
「もう一度お聞きします。あなたは、ノ、ノースウッド伯爵──」
と、まで言いかけたところで、突然ネルの背後から扉が開く音がして、数人分の足音が聞こえてきた。
ガヤガヤと賑やかで、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような騒音が始まる。
ネルは彼の腕の中で硬直した。
「ローナンの旦那! いったいこんな時間までどこに行ってたんだい? 熊に食われちまったんじゃないかと思って、みんな心配したんだよ!」
年配の女性の声。
ローナン?
ネルは辺りを見回すように小刻みに首を回したが、さっぱり状況が分からない。
「そうですよっ。ピートの旦那に至っては、あなたの墓石になんて刻むべきかなんて言い出して、奥さまと喧嘩になるし、大変だったんですよっ」
これはまだ少年といっていいような若い男の声だった。喋り方からして、使用人の一人のように感じた。
そして、突然、
「ローナン!」
駆け寄ってくる女性の足音とともに、天から降ってくるような甘い声が響いてきた。
若くて、美しい淑女の声だと、目が見えないネルにさえはっきりと分かるような甘い声……。
ネルの心臓はドキリと重く鳴った。
「どこへ行っていたの? ああ、やっぱりこんな雪の中に行かせるべきじゃなかったのね。大丈夫? どこも怪我はない?」
甘い声と都会風の洗練されたアクセントが混ざった、魅力的な喋り方だ。
どういう訳かネルは、無意識に彼にしがみついていた。
きっと彼はネルの存在などすぐに忘れて、この女性のところに行ってしまう……そんな気がしたからかもしれない。
「大丈夫だよ、怒りん坊な伯爵夫人」
彼は落ち着いた声で甘い声の女性に説明した。「実際、僕はこの偵察に行ってよかったと思っている。どうも宝物を見つけたみたいなんだ」
「宝物?」
「とにかく先に屋敷へ入らせてくれるかい? 歓迎を受けるのはありがたいけど、この雪の中じゃ口先まで凍ってしまいそうだ」
ネルはおろおろとしながら彼と女性の会話を聞いていた。
確かにネルは身体の芯まで凍りかかっていたから、とりあえず屋敷の中へ入ろうという彼の提案はありがたい。
問題はネルとジョージがどこまで入れてもらえるかだ。
「あなたの口先が凍ってしまうなんて、ローナン、それは本当に寒かったのね。もちろんよ、早く中に入って。こちらのお客さまも、バレット邸へようこそ。騒がしくてごめんなさいね。それに執事はなんの役にも立たないけれど、さあどうぞ」
ネルは暗闇に光りが灯るのを見た気がした。
もしくは、断崖から落ちそうになるところに、助けの手が差し伸べられたような気分だった。
彼の手は変わらずにネルを支えてくれていて、離れることはない。
「ジ、ジョージもお願いします」
ネルが懇願すると、女性はまぁっと声を上げた。
「こちらの彼はどうしたの? ま、まさか……」
「いいや、気絶しているだけだと思うよ。落馬したみたいなんだ。医者はまだここにいる?」
「ええ、イザベラのための医者がまだここにいます。わたしはもう帰らせてあげてもいいと思ったんだけど、エドモンドが頑固で。それにこの天気だし、結果的にそれで良かったみたいね」
「兄の頑固さは時々、神業の域に達するよね」
彼はそう言って、ネルの肩を抱きながら前に進んだ。
すでに温かい空気が肌に触れていて、寒い屋外から温かい室内に入るとき独特の安心感がネルを包む。
先ほど声を聞いた使用人らしき者たちが、ヒャアとかワァとか声を上げながらジョージを馬から下ろしてくれているのが聞こえた。すると、屋敷の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、伯爵夫人と呼ばれた女性は慌てて走り去ったようだった。
ああ、天国がこんなに騒がしい場所だとは知りませんでした。
「ここが玄関だよ。代々伝わる話によると、屋敷のこの部分は中世に建てられたらしい。ロマンをそそるけど、あんまりお洒落ではないかな」
彼は説明した──いや、今はもう、彼の名前は「ローナン」らしいと分かったのだけれど。
「兄、と言いましたか?」
ネルが聞くと、彼は珍しく沈黙を貫いた。
彼の表情が見られないのが悔しい。微笑んでいるのか、呆れているのか、癇癪を起こしそうになっているのかの区別さえ、ネルにはつかないのだ。
しばらく黙ったのち、彼は、
「そうだね」
と、静かな口調で呟いた。
「つまり、あなたはノースウッド伯爵の……」
ネルがそう確認しかけたとき、急に床をカカッと杖で激しく打つような音が響いた。
ビクリと身体を固くして、ネルはその音がした方に顔を向けた。
その仕草がさぞかし頼りなげに見えたのだろうか、彼はネルの肩を抱く手をさらに強める。すると突然、しわがれた低い声がネルの鼻先に浴びせられるように響いた。
「誰だこの小娘は。わしの嫁には、もっと胸のデカい女を寄越せと言わなかったか」
は?
ネルは衝撃にあんぐりと口を開いた。
「そうやって口を開くのはやめんか! 阿呆がさらに阿呆に見えるわ!」
声はさらに一喝した。
「も、申し訳ありませ……」
「うむ。お前、他の見栄えは悪くない。うちの男共はクソほどにも役に立たんが、その辺は見極められるらしい。ローナン、よくやった。さっさと曾孫を増やすがいい」
しわがれた声の主は、それだけ言うとガハハと雄叫びのような声を上げて、杖を鳴らしながらもと来た方へ戻っていった。
多分。
説明を求めるように彼を見上げると、今度は喉から漏れるような彼の笑い声が聞こえてきた。もし、彼の頬に触れることを許されるなら、きっと笑顔を感じることができる気がする。
実際、ネルの手はそうしたくて、無意識に宙をさまよっていた。
「今のはうちの執事のピートだ。どうやら君はだいぶ彼に気に入られたみたいだね」
一体、どこから突っ込むべきなのか分からない答えが返ってきて、ネルは行き場のなかった手を握った。
聞きたいことは沢山あったが、それでも今のネルが知らなければならないことは一つ。ネルは高まる鼓動を押さえながら、短く息を吸った。
「そしてあなたは……ノースウッド伯爵の弟、ということなのですか?」
今度の彼は、沈黙することはなかった。
彼がこくりと頷くのが、見えないネルにも感じられる。
「弟でもあり、従兄でもある。僕はローナン・バレット、今後ともお見知り置きを」