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Chapter Twenty Five


 もし生まれてこのかたずっと盲目だったのなら、朝日の輝きを恋しく思うこともなかったかもしれない。

 最初から、暗闇しか知らなかったなら、どうして光の不在を寂しく思うだろう。


 今のネルにとって、ローナンとの思い出はまさに光そのものだった。もし彼に出会っていなかったら……もし彼と恋に落ちていなかったら、きっとこんな心の痛みはなかった。こんな、魂の半分を失ったような喪失感は感じずにすんだはずだ。

 それでも。

 それでも、ネルは光に溢れていた日々を後悔しない。それと同じように、ローナンとの短い巡り合いも、後悔したくなかった。

 寒々とした馬車に揺られながら、四日も掛かった道中、ネルはひたすらそんなことばかりを考えていた。

 ローナンとの思い出だけが、冷え切った体と心を温め、支えてくれた。


「ふん、やっと屋敷に着くな……早く暖炉の前でブランデーを飲みたいよ。なにか精のつくものも食べたいね」


 立てられた外套の首元を両手で押さえながら、ロチェスターは震える歯の間からそんなことをつぶやいていた。ネルには見えないから、ロチェスターがどんな顔をしてものを言っているのかは、想像することしかできない。

 でも、きっとロチェスターは「精のつく」というくだりで、ネルを脅したつもりでいるのだ。もうすぐネルを抱くぞ、と。

 片腹痛いとはこのことだった。

 本当に抱くつもりなら、この旅路で十分できたはずだ。しかしロチェスターは、やれ宿屋のベッドが硬いだとか、寒すぎてその気になれないだとか、つまらない理由を見つけてはネルを彼のベッドから遠ざけていた。

 ローナンだったら……きっとそんなことはしない。

 彼ならたとえ雪の中でも、なんらかの方法を見つけてネルを愛してくれたはずだ。

 もちろん、ロチェスターがネルに手を出そうとしないのはありがたかった。今は──そして永遠に──ローナン以外の男性に体を預けることなど考えられなかったから。


 たとえもう二度と、彼に会うべきではなくても。


 イザベラを危険にさらしてしまった自分を、ネルは許せなかった。

 ローナンの深い優しさと暖かい言葉に、身体だけでなく心までが盲目になり、自分がどんな存在であるのかを綺麗に忘れ去っていたのだ。

 わたしは幼子を守ることさえできない。悪意を持った人間が近づいたてくるのを、見ることさえできない……。

 こんな自分がローナンのような素晴らしい男性の伴侶となり、生涯、彼の重荷になり続けるわけにはいかなかった。今は千切れそうなほど胸が痛んでも、いつか時とともに冷静になり、振り返ってみれば納得できるはずだ。

 ネルはローナンと結婚するべきではない。


 ガタガタと不安定に揺れる馬車の中で、ネルは見えない目を閉じ、ロチェスターが続ける耳障りな文句を遠くに聞き流しながら、両手で自分の体を抱きしめた。

 ──抱いてくれて、ありがとう。ローナン。

 この思い出があれば、わたしは生きていける。体の奥にあなたを感じて、心のすべてをあなたに満たされて、わたしは生きていける。

 そうしなければいけないの。


「さあ、着いたぞ。お前にはたっぷり奉仕してもらうからな。僕を馬鹿にしやがって、今に後悔させてやる……」


 肌にまとわりつくような嫌な声と共に、ロチェスターの息がネルの鼻頭にかかってきた。ネルは顔をしかめ、ふいと横を向いた。できればひっぱたいてやりたかったが、寒さで手がかじかんでいて、上手くいく自信がない。

「お高くつくなよ。お前はもう汚れた体なんだ。爵位もない男にもてあそばれて、ついに堕落したというところさ!」

 ロチェスターの続ける薄汚い挑発にも、反発する気にはなれなかった。

 ただ、分厚い手袋に覆われたロチェスターの指がほおに触れたので、それだけは我慢できずに手で払いのけた。怒りに、ロチェスターが短く息を吸う。

 次の瞬間、反対側のほおに乾いた痛みが炸裂し、ネルの体は狭い馬車の中を飛んで対側の椅子に叩きつけられていた。

「お前なんて汚いだけの売女だ!」

 頭の後ろを強く打ちつけたのが分かった。いつまでも変わり映えのしないロチェスターの罵声が、厚い霧の向こうから聞こえてくるように、ひどく遠くに感じる。どこかを悪い方にひねったのか、首筋から背中にかけてが突っ張るように痛んで、動けない。

 ロチェスターはまだ怒鳴り続けていた。

 寒くて、孤独で、痛くて、ネルは息をするのも、意識を保っておくのも億劫になっていった。

 見たことさえないローナンの優しい微笑みをまぶたの奥に感じながら、ネルは気を失って、意識を手放した。



 *



『こっちだよ。まっすぐ先を指を指してごらん』

 ローナンに言われた通りに、ネルは人差し指を前に突き出した。

『上手だ、ネル、君はいま朝焼けを指差している。もうすぐ、太陽もここに来る』


 出会った次の日、二人は一緒に朝焼けを見つめていた。

 白銀の新雪が広がる雄大なノースウッドの大地に二人きり、黄金に輝く朝日を前に、静かにお互いを愛しはじめていた。

 ねえローナン、あなたの隣にいるだけで、わたしは世界中の光に包まれているような、幸せな気持ちになれるの。


『いいや、すごいよ。君は勇気のある女性だ』


 こんなに自分を誇らしく感じさせてくれたのは、あなたの言葉がはじめてだった。

 ありがとう、ローナン。

 どうか幸せになって。そして時々は、あなたのことを心から愛した盲目の女がいたことを思い出して……。



 *



 次に目を覚ました時、ネルは相変わらず暗闇の中にいた。

 寒くて、体が重くて、馬車の中でぶつけた後頭部が鈍く痛む。眉をひそめながらゆっくりと上半身を起こしたネルは、ため息を吐いて頭を振ろうとした。

 その、瞬間。

 宙をつんざくような激しい爆発音が遠くから響き、ネルは短い悲鳴を上げた。空気がびりびりと冷たく揺れる。体中の血が沸き立ち、全身に鳥肌が立った。

 ──銃声。

 それほど近くからではなかったが、それでも安心できるような距離ではない気がした。多分、ネルは今どこかの室内にいて、発砲があったのはその野外であるような、そんな距離感だ。

 ネルは蒼白になってうろたえた。

 ここはどこ?

 わたしは、クレイモア領のロチェスターの屋敷にいるの? 一階? 二階? なにを着ているの?

 こんな真冬に誰かが外で狩猟をしているの?

 それとも恐ろしいならず者が、海賊のごとく雪に埋もれた屋敷の財宝を奪いに来たの?


 ああ、もう!

 ネルにはなにも分からなかった。隠れるべきなのか。逃げるべきなのか。逃げるとしたらどこへ。

 現在の時刻も、なにもかも、ネルに見えるものはない。


 でも……聞こえる気がした。外で誰かが叫んでいる。よく響く男性的な声。


「ローナン……?」

 ローナンの声が聞こえた気がした。はっきり内容までは聞き取れない。でも、聞き間違えたりするはずはない、彼の声。

 高鳴る鼓動を持て余しながら、ネルは手探りで周囲を探った。柔らかいベルベット張りの表面から察するに、ネルが寝かされていたのは長椅子だった。場所を知りたくてさらに手を伸ばすと、指先がごつごつとした木の枠を探り当てた。

 慎重にその木枠を調べると、繊細な彫りが施されているのが分かる。ネルはその形を指でなぞり、記憶をたぐり寄せた。

 これは……ロチェスターの屋敷、一階の客人控えの間に置いてあった長椅子の縁だ。珍しいほど見事な熊の姿がひじ置きに彫刻されていて、小さい頃、よくうっとりと眺めていた思い出がある。

 つまり、ネルは自分の居場所を突き止めることに成功したのだ!

 ロチェスターは神経質で、昔から家具や調度の位置をぴったり決めていて、模様替えをするのを極端に嫌った。


 まだ頭はずきずきと痛んだが、ネルは立ち上がり、記憶をつてに玄関を目指して歩き出した。緊張に、心臓が痛いほど脈打つ。

 外から聞こえたローナンの声が急に静かになって、ネルは足を止めた。

 そしてもう一度、屋敷ごと震わせるような強烈な銃声が四方に響き渡った。ネルは恐怖に蒼白になり、両手で口をおおって震え上がった。


 まさか。

 まさか。

 ロチェスターは猟銃を持っている。この地方の人間なら当然だの事だった。狩猟をできる森は腐るほどあるし、時々現れる野獣から身を守る必要もあった。

 でも。

 でも。

 ロチェスターの狙撃の腕はひどいものだ。だから、心配しなくていい……。きっと脅しに威嚇発砲をしただけ……。

 しかし、いくら待ってもローナンの声は聞こえなかった。

 もし彼が急いでネルを追ってきてくれたなら、きっと丸腰だ。もしかしたら……いや、きっと、ひどく疲れているはずだ。

 そんな。

 そんな。


 ネルは闇雲に走り出した。途中、足をなにかにぶつけて勢いよく転び、膝と胸を強くぶつけた。しかし、なんとかすぐに立ち上がると、必死で記憶の中の玄関に向かって急いだ。

「ローナン!」

 勢いよく玄関を押し開けたネルは、肺の底から絞り出すように、無我夢中でローナンの名前を叫んだ。


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