Chapter Twenty Four
ローナンが伯爵夫妻の寝室へ入ったとき、オリヴィアはベッドの上で背を起こして、かたわらにひざまずいたエドモンドになにかを優しくささやいているところだった。
いつもなら健康的な桃色に染まっている義姉の頬はすっかり青白くこけ、水色の澄んだ瞳は疲れのせいでわずかにくぼんで見える。オリヴィアはローナンの存在に気づくと、深いため息をつき、か弱い仕草でなんとか背を正した。
「ごめんなさい……ローナン」
まっすぐにベッドの脇へ歩み寄り、義姉と兄のかたわらにひざまずいたローナンに、オリヴィアは力なく謝罪した。
「ネルは行ってしまったわ。わたしのせいかもしれないの」
「あなたのせいであることなんて、たったのひとつもないよ、義姉上。今にすべて上手くいくから、心配しないでくれるね」
ローナンは義理の姉の手を取り、その甲に親愛の情を表す軽い口づけをした。
かたわらの兄が、敵を前にした野犬のように警告のうなり声を漏らしていたが、いつものように彼をからかって笑う気にはなれない。
ジョージの言っていたことが誇張でないのなら、今のエドモンドほど危険な男はいないはずだ。
ローナンはこれから、ロチェスター・腐れ外道・マクファーレン卿を殺すか、殺された方がずっと楽だと思えるような方法で痛めつけるかしなくてはならないのだから、実の兄と死闘を繰り広げている場合ではないのだ。
オリヴィアの手を離したローナンは、一度だけ深い呼吸をすると、まっすぐにエドモンドに向き直った。
「どうやら例のロチェスターは、思っていた以上のろくでなしだったようだね」
ローナンの言葉に、エドモンドは眉ひとつ動かさなかった。ただ、緑色の瞳をにぶく輝かせると、短くうなるように言った。
「猟銃を持っていけ」
「そうするよ。できれば僕は、もっとゆっくり痛めつけて殺してやりたいけどね」
「急所を外せばいい。大量出血で死ぬのはなかなか苦しいものだ……まったく足りないが、な」
ローナンはこくりとうなずいた。
兄がロチェスターの生き血を求めているのは火を見るよりも明らかだった。できるのなら自らの手で、ロチェスターの首をへし折ってやりたいと思っているのだろう。ローナンだって同じ気持ちだった。
バレット家の男達が愛する女性を傷つけるとは、愚かにもほどがあった。
オリヴィアに毒を盛り、ネルを奪い去る。
よほど愚かなのか、それともバレット家の男達を、葉巻を吸いながらオペラ鑑賞をする以外に脳のない他の貴族と同じだとに見くびっているのか、自殺願望でもあるのか、どれかだろう。
ローナンはまっすぐに立ち上がった。
やっとたどり着いた温かい屋敷は抵抗しがたい魅力だったが、そこにネルがいないのなら、ローナンに留まる理由はなかった。
一刻も早く彼女を取り戻さなくては。
ローナンは伯爵夫婦の寝室を出た。
肩に降りかかっていた雪が、屋敷の温かさに溶けて水になり、肩に重くのしかかってくる。しかし、この豪雪の中を見えない目で旅しているネルのことを考えると、ローナンの心はもっと重く沈んでいった。
まだ顔さえ見たことのないクレイモア伯爵を、ローナンはこの世の誰よりも憎んだ。
いつだって安心と安らぎを感じていたバレット家の中世屋敷が、ネルがいないというだけで、ひどくちっぽけで冷たい石壁の塊にしか見えなかった。
ネルと一緒に数を数えながら降りた階段を踊り場まで降りかけたとき、上階から人が追いかけてくる気配がして、ローナンは振り返った。
ジョージ。
すり切れた皮の外套を着込んで、綿の詰められた帽子と手袋を手にして、怒りに肩を震わせながら赤い顔をして立っていた。
「俺も連れて行ってくだせぇ。ロチェスター坊ちゃんには、いつかガツンと言ってやらなきゃならねえと思ってたんです」
ローナンは老従者を頭のてっぺんからつま先までさっと確認して、硬い声で言った。
「駄目だ。君はまだ足が治っていないだろう」
「当て木をしてるからなんとかなりますって! 俺ぁ、ネリーお嬢さんを守らなくちゃいけなかったんだ! それがこんなことになって……悔しくて、悔しくて……!」
「ジョージ」
ローナンはジョージに向き直り、そばの手すりをぎゅっと掴んだ。「君の気持ちを傷つけるつもりはないが……もう、ネルを守らなくちゃいけないのは君じゃない。僕だ」
皺でたるんだまぶたの奥に隠れているジョージの目が、大きく見開かれ、そしてゆっくりと三日月型の微笑みを作った。
「ネリーお嬢さんは……幸せ者だなぁ……。ローナンの旦那のような男前に愛されて、選んでもらえたんですからね」
老従者の言葉に、ローナンの決意はさらに強固なものになった。
ネルを救わなくてはならない。ネルを守り、共に生き、愛し抜かなければならない。それを邪魔する者を許すわけにはいかなかった。
「とはいえ……僕はクレイモア領の地理には明るくない。説明してくれると助かるよ……地図は書けるかい?」
「もちろんですよ。向こうの屋敷の秘密の裏口まで教えてあげますからね」
ローナンはつい、場違いにも笑いを漏らした。「君を敵に回すのは賢い選択じゃなさそうだね」
「そうですとも。旦那はまだ俺のことを全部分かっちゃいねぇんですよ」
ジョージもまた、不敵に微笑んでいた。
ジョージが地図を用意している間に、ローナンは屋敷の地下にある倉庫へ駆け足で降りていった。地下の大部分はその寒さを利用した食料庫だが、他にも使わなくなった乗馬具や農具や、その他もろもろを管理している部屋がある。
寒さに痩せて、隙間のできた古い木目の扉を、ゆっくりと開いていった。
錆びついた鉄の香りがほのかに鼻をつく。
目的のものは部屋の隅に置かれていた。数本の猟銃と、革ベルトに差し込まれた銃弾。それ以外にも武器になりそうな斧や槍があったので、それらも数本失敬して、ローナンは地下を後にした。
玄関口のある一階に顔を出すと、大広間の机の上でジョージがまだ地図を書き付けている横で、例の神父と、貸し馬車の御者が身を縮こませていた。
御者はともかく、神父の方は目に見えて怯えている。足元ががたがたと震えているのが見えた。
「ノースウッド伯爵家にようこそ、神父。ご足労を感謝します」
今更だが、ローナンは一応、挨拶をした。
神父はそのまま気絶してしまうのではないかと思えるほど顔を蒼白にし、紫に凍りかけた唇から祈りを漏らした。
「ああ、神よ!」
不審に思って眉を寄せ、答えを求めるようにジョージを見やると、老従者はローナンの背後を指で指し、口をぱくぱくと動かしていた。
ああ、そういうことか。
ローナンは背に二本の猟銃を背負い、胸と腰には銃弾の入った革ベルトを下げ、右手に斧、左手に槍に似た農具を握りしめていた。確かに、これから結婚式を挙げる幸せな新郎には、あまりふさわしい格好ではないかもしれない。
「ご無礼を失礼します、神父。せっかく来ていただきましたが、花嫁をならず者にさらわれてしまいましてね。これから取り戻しに行かなければなりません。もう少し待っていてくださりますね?」
最後の質問は、質問ではなかった。
せっかく雪道では我慢させていた小便を、神父はここで漏らしてしまったらしかった。しかし、ローナンにどうしろというのだ。
唯一の幸福は貸し馬車の御者だった。
こちらは本物の男だ……ローナンの格好を興味深そうに見つめ、神父の反応を面白がってニヤニヤと眺めていた。
ローナンも同じような不敵な笑みを御者に返した。
「そして君は……僕と来てくれるね? もちろん追加料金は払うよ」
御者は肩をすくめ、暖をとるような仕草で両手を胸の前で揉み込んだ。
「高くつきますよ」
「そんな気はしていたよ。君とはうまくやっていけそうだ」
地図を書き付け終わったジョージが、足を引きずりながら不器用にローナンに近づいてくる。
「これです。途中、かなり急な崖の近くを通ることになりやすから、お気をつけて」
ローナンはうなずきながら地図を受け取った。
くぐったばかりの玄関の扉を、内側から開ける。外は、吹きつける風の音だけが白銀の世界を支配していた。天からの挑戦を感じて、ローナンは顔を引き締める。
しかしネルのためなら、できないことなどない気がした。




