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Chapter Twenty


 盲目となったネルの聴覚は、失われた視力を補おうとするかのように冴えていたから、真夜中の訪問者がたてる騒音を容易に聞きつけることができた。

 馬車が玄関に着く音。

 続いて玄関の扉が開き、来訪者の足音が響く。

 ネルの心臓は跳ね上がった。

 もしかしたら、ローナンかもしれない。真冬の真夜中に馬車を走らせるような馬鹿はしないと手紙にはあったが、もしかしたら、なにか奇跡のようなものが起きて、駆け戻ってきてくれたのかもしれない……。

 希望は膨れ上がり、ネルはベッドから上半身を起こしてさらに耳を澄ました。

 もしローナンなら、きっとすぐにネルの部屋にきてくれる。凍りつくほど冷たくなった外套もそのままに、髪を振り乱して、ほおを紅潮させて、ネルの元まで素早く駆け上がってきてくれる。

 きっと二人は強く抱き合い、熱い口づけを交わして、どれだけ寂しかったかを互いに途切れもなく伝え合う。

 きっと……。


 しかし、いくら待ってみても、その時は訪れなかった。

 ネルは相変わらずベッドの上で一人で、はやる鼓動を持て余しながら、息を潜めてたたずんでいる。気がつくと、冷え切った部屋の寒さにぶるりと背筋が震えた。

(下に……降りてみるべきなのかしら)

 オリヴィアが言っていた、ロチェスターがここに向かっているという話が、早駆けをする馬の蹄の音のように重く脳裏に鳴り響いた。

 もしかして、ロチェスターが。

 あの狡猾な蛇のような男が、ネルを捕らえにやって来たのだとしたら。


 ネルはさらに悪寒を感じて身を震わせたが、黙ってベッドの上で一人あれこれと怯えているのは、もう限界だった。

 ロチェスターがたどり着いたのなら、ネルは彼と対峙しなければならない。

 ここまで良くしてくれたバレット家の人達に、これ以上の迷惑を掛けるわけにはいかなかった。ネルは盲目であるが、それを理由に人としての義務を放棄するのだけは嫌だ。


 行かなくては。戦わなくては。

 ローナンのために。




 そして、慎重に階段を降りたネルの耳に飛び込んできたのは、当然のように……ローナンの声ではなく、興奮に声を荒げたロチェスターの叫びと、それに反論するノースウッド伯爵の苛ついた語気だった。


「ロチェスター……」

 ネルは思わずつぶやいていた。

 見えなくても、ロチェスターとノースウッド伯爵がネルを振り返り、注目しているのが、ひしひしと感じられる。ネルは身体を硬くし、両手をぎゅっと握りしめて、なんと言うべきか必死に考えを巡らせたが、答えはなかなか出てこなかった。

 そして、おもむろに一歩前に出ようとしたとき、パタパタという小股な足音がネルのもとに近づいてきた。

 顔を上げようとすると、その瞬間、肌を叩く乾いた音が夜の静けさに沈んでいた屋敷に、痛烈に響いた。


「この役立たずのあばずれが! 僕に恥をかかせやがって!」


 ジンジンとほおが痛むのを感じて、ネルはやっと叩かれたのだということを自覚していった。しかし、痛かったのは叩かれた肌ではなく、ロチェスターの残忍な罵り言葉の方だ。

「まともに旅もできないくせに、男を誘惑することだけはできるんだな? はっ! 叔父さんも叔母さんも天国でさぞ悔やんでいるだろう。それとも、わずらわしい娘とはもう関わり合わずにすむと、肩をなで下ろしているかな?」


 子供の頃から、ロチェスターは嫌な声をしていた。

 しかも、その声でつむがれるのは嫌味ばかりで、辛辣で、家族同士の集まりでどうしても顔を合わせなくてはいけないとき、ネルはいつも必死で彼を避けていた。

 あの頃のように彼を無視できたらどんなにいいだろう……。しかし、今ネルは、この意地の悪い従兄弟からバレット家を守らなければならない。負けているわけにはいかなかった。

 ネルはつんと鼻をそびやかし、服従はありえないのだということを示して見せた。

「いくら毒づいても、あなたはなにも得られないわ、ロチェスター」

 真っ赤になって、耳から蒸気を噴き出さんばかりに興奮したロチェスターの顔が、嫌でも想像できる。

「わたしとローナン……伯爵の弟君とは、もう結ばれたの。わたし達は結婚するわ。あなたにできることはなにもないのよ」

「な……っ」

「お願いだから帰ってちょうだい。これ以上、この家の人達に迷惑をかけないで」

 居間の入り口はまだ寒々としていて、ネルは震えないようにするのに、気を強く持たなければならなかった。ロチェスターが次にどんな言葉の暴力を振るってくるのか、身構えなくてはならない。

 ──売春婦。ふしだらな女。尻軽。盲目の役立たず。

 しかし、ロチェスターは一瞬だけぐっと息を呑んだと思うと、ひどく冷たく冷静な声で、ゆっくりと告げた。


「迷惑をかけているという自覚は、あるんだな……」


 その台詞は、ぐさりと音を立ててネルの心に突き刺さった。

「あなたには……関係ないわ」

 と、反論はしたが、臆病にも声が震えて、威厳を保てていたとはいいがたい。

 いつだってネルが心の奥底で恐れているのは、彼女のような「お荷物」と結婚したら、ローナンには一生迷惑をかけ続けてしまうかもしれないということだった。

 今は愛があっても、いつか、厳しい現実の前にそれは薄らいでいってしまうかもしれない。そうしたら、ローナンに待っているのは落胆と、厄介者の妻だけだ。

「帰って」

 ネルはつぶやいたが、ロチェスターはおろか、自分自身にさえよく聞こえないような弱々しい声音だった。


 しかし、

「見過ごせないな、クレイモア伯爵」

 すぐに、エドモンドのまがまがしい声が、重い足音とともに近づいてきた。

「──わたしの屋敷の客人に手を上げるとは、許しがたき屈辱。今すぐ彼女から離れるんだ。次はない」

 続いて、ロチェスターの「痛い痛い痛い!!」という悲鳴と、ゴキっというあってはならないような嫌な音が聞こえてくる。ネルはハッと息を飲んで背を反らせた。

 ロチェスターは泣きながら、やれ乱暴者だとか、野蛮人だとか、そんなののしり言葉を必死になって吐き続けている。


 ネルがバレット家の屋敷に着いてからこのかた、ノースウッド伯爵エドモンドはいつだって冷静で、どちらかといえば物静かで、暴力とは無縁の存在に思えていた。

 ──思えていた、だけだったのだろうか。


「このまま外に放り出してしまいたいところだが……」

 エドモンドは情け容赦ない口調で、ロチェスターの泣き言を無視した。

「お前が未来の義理の妹の血縁であることは変えがたい。部屋は用意するが、あまりねんごろな待遇は期待しないでいただこう。そして、次に彼女に手を上げてみろ。お前のその大事な首が、胴体にくっついている保証はもうない」


 これには、さすがのロチェスターもついに黙り込み、なにかモゴモゴと聞き取れない文句をつぶやいていた。

 見えないけれど、恨めしげに睨まれているのは容易に想像できる。

 最初の決心はしぼみ始め、ネルは泣き出したいような気分になってきた。こんなふうで、一体どうやって、ローナンが帰ってくるまで心を強く持ち続けることができるのだろう。

 一体どうやって……。


「よく言った、エドモンド! 客人には手加減をしないというのが、バレット家の家訓じゃ。さぁ坊主、さっさと腐ったその尻を上げて、部屋へ行くがいい!」


 ピートのしわがれた怒声に、ネルはびっくりして辺りを見回した。

 すっかり気を落としていて、周囲の雑音に耳を傾けるのを忘れていた。いつのまにか、何人かの人に囲まれている物音がする。その中には、「なーぅ」というような、赤ん坊の甘い声まで含まれていた。

 イザベラ。


「まあ、なんてことなの! ひどいわ!」

 オリヴィアが早足でネルのそばに駆け寄ってきた。

 ロチェスターにひっぱたかれた頬に、オリヴィアの柔らかくてひんやりとした手が重なる。同時にイザベラの甘やかな匂いが、ふわりとネルの鼻腔を包んだ。

「打たれたのね? 赤くなってるわ……早く薬を塗りましょう。ああ、湿布をしたほうがいいかしら?」

 いいのよ、オリヴィア、とネルは言おうとしたが、言葉が喉に詰まって出てきてくれなかった。

 慌てふためきながらネルの頬を世話しようとするオリヴィアを横目に、あうあう、というようなイザベラの声が、無邪気にネルをなぐさめようとしている。


 今の今までなんとか我慢できていた涙が、はらりと細く、ネルの頬を伝って落ちていった。


「これで本当にはっきりしたわね。たとえローナンのことがなくても、あの腐ったほうれん草の葉のような男に、あなたを渡すことはできないわ。見て、大丈夫よ、今にうちの男たちが、彼をけちょんけちょんに料理してしまうから!」

 オリヴィアが頼もしげに言った。


 笑っていいのか、泣いていいのかよくわからず、ネルはその両方を同時にしていた……と思う。遠くでは、確かに、ロチェスターが困惑の悲鳴を上げながらどこかへ担ぎ出されているのが『聞こえ』る。

 ──うらぶれた北の領地、ノースウッド。

 そこに住む人々は、ネルに愛を与え、安全を保障し、未来を約束してくれた。

 ネルは泣きながら「ありがとう」とオリヴィアに伝えた。たとえどんなに破天荒でも、どれだけ無謀な人たちでも、彼らはネルにとってかけがえのない家族だ。

 オリヴィアは再び、いいのよ、と優しくつぶやいた。


「もうすぐローナンも帰ってくるわ……。だから、泣かないで」


 どれだけ、どれだけ、それが真実になったらいいと願っただろう。

 たとえ、失われた視力を返してくれるといわれても、ネルはローナンの安全な帰還と、それを交換することはない。


 ──早く帰ってきて。

 そして、二人でまた朝日を見つめましょう。



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