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Chapter Two



 雪のノースウッド領をうろつき回っていたらどんなことになるのか、常識のある地元の者ならみな、よく分かっている。

 道は滑りやすく風は横なぶりで、よほど熟練の御者でなければ、旅を続けることはできない。

 しかし、事故は毎年あるのだ……都会から来る無知な旅人が、なにも知らずに優雅に馬車を駆り続け、転倒して大怪我をするという『事故』 が。


 正直にローナン・バレットの意見をいわせてもらえれば、それは事故ではなく、当然の結末でしかない。

 しかし、この土地の領主の息子として生まれ、現在のノースウッド伯爵の実弟であるローナンには、この愚かな旅人たちを放ってはおけない理由があった。

 今までずっと、雌鳥がヒナを守るように甲斐甲斐しく領地を守ってきた兄・ノースウッド伯爵がここ数日、責務を軽く放棄しだしたのだ。理由は6ヶ月になる一人娘の風邪だった。

 そんな兄に代わって、誰かが雪の領地を見て回る必要があった。雪の下で群れからはぐれた家畜はいないかどうか。薪や食料の足りない家はないかどうか。

 行き倒れた馬車はないかどうか。


 そんなわけで、雪が激しくなりだした領地の観察に来ていた折だ。

 ローナン・バレットは街から屋敷への帰り道、溝に車輪がはまって傾いている馬車を発見した。嫌な予感に顔をしかめ、急いで近寄ってみたが、覗いてみると御者台も馬車の中も空っぽだった。

 ただし、雪の上を誰かが通ったあとが残っている。

 その跡筋は、街へ戻る方向でもなければ、屋敷へ続く道でもなくて、まったく別方向の雪に埋もれはじめた荒野へ向かって続いていた。

 馬車はこの辺りでは見かけたことのないものだ。

 しかし、いくら旅人とはいえ、まだ道筋が完全に埋もれきっていないうちに、これほど間違った方向へ行ってしまうものだろうか?

 そのときローナンは、それを不快に思うよりも、興味のほうが強く湧いてきた。

 どういうことなんだろう?


 そして、これだ。

 残された筋道をゆっくり辿っていったローナンが見つけたものは、重く降りつける雪の先に佇む、小さな光りだった。

 光り。

 そう見えたのは、彼女の見事な金髪のせいだ。

 一人の小柄な女性が、なにか重そうな黒い塊を抱えて、震えながら歩いていた。彼女の帽子は肩から落ちかけていて、柔らかい曲線を描いた鮮やかな金髪がベージュ色のコートに広がっていた。

 ローナンは雪の下で息を呑んだ。

 このときの感情を説明するのは難しい。ただ、見つけた、と思った。

 やっと見つけた……と。

 




 まだ、雪は降り続けているはずだった。

 ネルと彼女を助けてくれた男性が、気絶したままのジョージを前に乗せて馬を駆り続けて、どのくらいの時間がたったのだろう。疲れのせいで、ネルはもう時間の感覚を失っていた。

 それでも、ネルの中にあった絶望感は少しずつ消えていっていた。

 ネルの背中は、ぴたりと男性の胸に寄り添っているままだ。これほど異性に近づくのははしたない気がして、一度、少し身体を離そうとしたのだが、彼は器用に腕でネルの動きをさえぎった。

「動かないで。今はまだ、動いちゃだめだよ」

 と、彼はネルの耳元にささやいた。

 彼の息からあがる蒸気が、ネルの耳たぶを微かにくすぐり、温める。そして密かに、彼が離れないでいてくれたことに安堵した。本心は離れたくなんかなかったから。

 こんなふうに普通の年頃の娘のように男性から優しくされるのは、本当に久しぶりだった。

 4年前の事故で視力を失って以来、ネルを一人の女性として扱ってくれる人はいなくなっていた。ネルはただの厄介な「物」 になったのだ。同情してくれる人はまだいい方で、あからさまに社交界の邪魔者扱いする者さえいた。貴重な舞踏会のスペースを、盲目の娘にうろうろされたくないのだろう。ネル自身、もうああいった場を楽しめなくなっていた。

 一人、また一人と、ネルに好意を示していた男性たちも離れていって、気がつけばネルはもう社交界から切り離された存在になっていた。

 それでも、両親の温かい助けを得て、ネルはできるだけ暗闇に支配された世界に希望を見いだすよう努力していたのだ。

 一歩一歩、数をかぞえて家や庭を一人で歩けるように訓練した。

 見えなくても、音が教えてくれるものが無限にあるのだと、耳を澄まし続けた。負けたくなかった。

 しかしそれも、突然の両親の死とともに、暗転してしまったけれど……。


「君はどうしてあんな所にいたの?」

 突然、耳元に彼の声がこだまして、ネルの思考が止まった。なんて男性的で、よく響く声なんだろう。盲目でなくても声だけでドキリとしてしまうような、深くて温かい声だ。ネルは少しだけ首を後ろにかしげ、凍てつく喉からなんとか声を出した。

「い、従兄の屋敷へ、行く途中だったんです」

「従兄?」

「ロチェスター・マクファーレン卿、クレイモア伯爵です」

 言いながら、ネルは己が従兄のだらしない姿を思い出さざるをえなかった。彼の青白い肌は酒の飲み過ぎで常に赤みがかっていて、沖に上がった魚のようにブヨブヨしている。細長い顔に青い瞳が異様なほど目立っていて、つまらないことですぐ癇癪を起こしては、生まれたときから少ない金髪を逆立てるようにして怒鳴り散らすのだが、その姿はまるでバンシーだった。

 彼が、ロチェスターのことを知っているかどうかは分からない。ロチェスターは尊大だが、小心者でもあるので、あまり人の集まる場所には出てきたがらないのだ。

 できれば、知らないでいて欲しかった。

 しかし、彼は明瞭な声で答えた。

「ここからクレイモアは晴れた日でも二日はかかるよ。伯爵は君が来ることを知っているのかい?」

 ネルは返事につまった。

 知っているもなにも、この旅はロチェスターの強引な命令のせいで始まったのだ。答えないでいるネルに代わり、彼は思慮深い声で続けた。

「クレイモア伯爵のことは聞いたことがある。彼は君に、迎えを寄越さなかったのかい?」

「い、いいえ……」

 いくら相手がロチェスターとはいえ、身内を悪く思われるのは気が進まなかった。ネルは不器用に答える。

「ジョージが、いますから」

「ああ、この、失神している従者のことだね。あの溝にはまっただけで動かなくなった馬車に乗って」

「……」

 男性の声は、淡々としてはいたが、どこかユーモアのセンスを感じる明るさと知性があった。話し方も、ただの町人のものとは思えない。

 しかもロチェスターを知っているという。

 彼は誰なんだろう?

 ネルは好奇心をかき立てられて、頭の中でいろいろと想像してみた。

 頭のいい人だというのは、言葉のやりとりだけで感じられる。しかし学者にしては、ネルを抱いている両腕は逞しすぎる気がした。かといって、力仕事をしている者にしては、品がありすぎる。

 貴族……なのだろうか。

 だとしたらどこの誰だろう?

 たいていの貴族は領地の管理など土地管理人にまかせて、中央の都会で舞踏会と醜聞に明け暮れていることが多い。特に、冬は。

 しかし、相手が名乗ってもいないのに、いきなり身分を聞くのは気が進まなかった。

「あ、あの……わたし達は、これからどこへ行くのですか」

 ネルは答えを求めて、間接的にそう聞いてみた。

 なぜか、彼はなにか軽く唸るような声を出して少し黙ったあと、注意深くゆっくりと答えた。

「僕の住んでいる場所……かな。君がその冷えきった身体を暖炉の前で温めて、温かい食事をとれるところ」

 そして、思い出したように付け足す。「ついでに、この従者殿を医者に見せなくては」

「ええ、ありがとうございます」

「身の危険を心配しているなら、大丈夫だよ。賑やかな家でね、皆、半年になる赤ん坊に振り回されて四六時中大騒ぎをしてるんだ」

 赤ん坊……。

 ネルの心臓がドキリと跳ね、どういうわけか、傷ついたような気分になった。

 この人は結婚しているんだ。

 子供がいて、家庭がある。


 わたしには、どうしたって、もてないもの。


 急に会話を続ける気になれなくなって、ネルがしばらく黙り込むと、彼は突然ネルを抱いている手をきつく締めつけた。

「なにか気に障ることを言ってしまったかな」

 耳元でささやかれる声。

 声だけで人を好きになることができるとしたら、まさに、この声こそがそれだった。愚かな感情に流されないよう、ネルは耳を塞ぎたくなった。しかし、今の状況ではそうもいかない。ジョージを落馬させてしまうわけにはいかないのだ。

 きっと、寒さと疲労とで混乱しているだけ……。

 初対面の、顔も分からない相手に、心を動かされてしまうなんて。

「いいえ、なにも」

 ネルは答えた。


 そうよ、なにもない。わたしの世界にはなにもないの。

 あなたの優しい声が紡がれる唇も、わたしを包んでくれている力強い腕も、わたしは見ることができないんだもの。

 わたしは子供を育てることができなくて、一人では旅をすることもままならない。


 わたしは誰かを愛するべきじゃないんだもの……。



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