Chapter Fifteen
その夜、せわしい足取りで書斎をうろつくノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿の顔に、笑みはなかった。
暖炉にくべられた薪は、エドモンドの心情を映したかのように赤々と燃え盛っている。
エドモンド・バレットは無骨で、醜聞とは無縁の男ではあったが、自分の屋敷でなにが起っているのかくらいはしっかりと把握していた。
料理人が鍋の取っ手が外れたといって騒いでいるのも、厩舎の柵をいくつか修繕する必要があるのも分かっている。
そして、実の弟・ローナンが、未婚女性の部屋に忍び込んだまま出てこないのも、彼がその女性に盲目的な恋をしているらしいことも、もちろん知っている。
──皮肉なのは、その女性が実際に盲目であることだった。
エドモンドは赤黒い封蝋が押されていた仰々しい手紙をもう一度、暖炉の火をあてながらざっと目を通した。
宛名はノースウッド伯爵であるエドモンド・バレット卿となっており、送り主はクレイモア伯爵であるロチェスター・マクファーレン卿となっている。
内容は、一週間ほど前にエドモンドが送った書簡にたいする、いささか簡潔な返事だった。
『ノースウッド伯爵殿、
我が従妹を保護してくださったことに感謝します。数日後に馬車の迎えを寄越しますので、彼女を乗せてください。
彼女はわたし、ロチェスター・マクファーレンの保護下にあり、彼女の人生に関する決定権はおもにわたしにあると考えております。
R・マクファーレン』
エドモンドは苛立たしげに短い舌打ちをした。
エドモンドが送った書簡には、簡単ではあるが近状を報告する文を添えてあった。実のところ、その文の下書きをしたのは、手紙を書くことを手紙を読むことよりもさらに嫌悪しているエドモンドではなく、社交的な妻のオリヴィアだったが、そんなことは今さらどうでもいい。
問題は、ロチェスターがそれを無視し、我が道を通そうとしていることだ。
寝静まっている屋敷の廊下から、規則正しい足音が近づいてくるのを感じて、エドモンドは顔を上げて、諦めのため息を吐いた。
結局、これは彼の戦争なのだ。
エドモンドは静観するしかないし、そうするべきなのだ。
「兄さん、僕に話があるのは分かってるよ」
書斎の扉が滑らかに開くと、わずかに苛立った雰囲気のローナンが中に入ってきて、素早く後ろ手に扉を閉めながら言った。「とはいっても、朝まで待ってくれると助かったけどね」
「ローナン」
エドモンドは鋭い緑色の瞳で、弟を見据えた。
言葉には出さずとも、その視線と口調には、あきらかな戒めが含まれている。
ローナンはさらに数歩、薄暗く照らされた部屋の中に入り、首を振った。
「僕は彼女を愛している。彼女も、少なくとも、僕を憎からず思ってくれている。そして彼女には僕が必要だ。僕たちは結婚するよ」
「ローナン、聞くんだ」
兄弟は、暖炉の火を横に受けながら、対峙した。
聞くんだ、と言いつつ、エドモンドはそれ以上なにも続けなかったから、部屋にはパチパチと火がはぜる音だけが響いている。
沈黙を破ったのはローナンだった。
「……反対しても、無駄だよ。彼女はもう僕のものになってしまった。そして、僕は彼女のものになった」
明らかに予想していたこととはいえ、実際に声に出して宣言されると、エドモンドはまた苦悩のうめきをあげずにはいられなかった。
「もう少し待つことはできなかったのか?」
「そう言われると思ったよ」
ローナンはふと暖炉に目を移して、燃え上がる薪を無言で見つめたあと、ゆっくりとまたエドモンドに視線を戻した。
「答えは、ノーだ。待つことなんてできなかった。くそ、愛する女性が目の前で自分を必要としていて、我慢できる男なんているのかい?」
エドモンドは疑わしげに片眉を上げた。
「分かった、分かったよ、兄さん。でも僕たちは状況が違うんだ。あのロチェスターとかいう従兄は、彼女を引き取って慰み者にしようとしている。ぐずぐずしている時間も、余裕もなかった。とはいっても、すべては彼女を愛しているから起ったことだ。僕は……」
情熱的に説明を続けようとするローナンを、エドモンドは片手を上げてさえぎる仕草をした。
「そのロチェスター卿から、今日、書簡が届いた。お前がミス・マクファーレンの部屋にこもっているあいだに、だ」
「なんだって?」
「聞いた通りだ。自分で読んでみろ」
そう言って、エドモンドは手にしていた紙を弟に向けて差し出した。
ローナンはエドモンドの顔をじっと見据えたまま、片手だけでひったくるように、手紙を受け取った。そして、すっと短く息を吸ったあと、読み始める。
「この、ろくでなしの外道めが……」
手紙を読み終わったあとのローナンの一声が、これだった。怒りに満ち満ちた口調で、高級な紙を握りしめる手の甲には、早くも血管が浮き上がっている。
「どうしてかな、わたしも賛成したい気持ちだ」
比較的落ち着いた声で、エドモンドが答えた。「しかし、問題は、このろくでなしの言葉にはある程度真実が含まれていることだ。ミス・マクファーレンに彼以外の庇護者がいない限り、彼女の将来に関して決定権があるのは、このロチェスターになる」
エドモンドはすでにロチェスターを呼び捨てにした。
つまり、ノースウッド伯爵は、場合によってはクレイモア伯爵に楯突く構えがあるということだ。その事実は、ほんの少しだけローナンの怒りを慰めはしたが、苛立ちは止めることができなかった。
「僕が彼女の庇護者になる……それですべては変わるはずだ」
ローナンははっきりと宣言した。「僕たちは結婚する」
「いそがなければならないぞ。しかも、この時期に、この辺りで結婚をあげる神父を見つけるのは楽ではない」
エドモンドは、提示するように、外の様子が見える窓を顎で指した。
重い雪が降っている。
北風も吹きはじめ、あまり旅に適した天候とはいえなかった。
「僕は、必要なら、かけおち結婚でも構わない。けど、できればネルには、きちんとした結婚式をしてあげたい。明日の朝、一番に、街で神父を捜してくるよ。首に縄をかけて引きずってでも、連れてくる」
「そうするんだな」
それだけ短く呟くと、エドモンドは書斎の奥に置かれた机の前に腰を下ろした。
ローナンはあらためてそんな兄をじっと見下ろした。
そして、感謝の思いで胸がしびれるようだった。
──この結婚は、エドモンドになんの得ももたらさないどころか、大きな災難をもたらすことになるかもしれないのだ。
ネルの乗っていた馬車の様子からして、彼女には財産はほとんどないだろうし、ロチェスターの態度からして、持参金も期待できない。
おまけに、近辺の領主と対立しなければならないかもしれないリスクを背負う。
もちろん、ネル自身が盲目であることも、大きな不安要素だ。
ローナン自身はそれを不安だとか災難だとか考えているわけではないが、他の人間にとっては大きな危惧だということも、もちろん理解している。
「……ありがとう、兄さん」
ローナンはささやくように言った。
エドモンドは、読むふりをしていた書類から顔を上げて、ローナンをじっと見つめ返した。答えはなかった。しかし、濃く血のつながった二人の間では、それで十分だった。
ローナンは早足で書斎を出ると、まっすぐに屋敷の西へ向かった。




