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Chapter Thirteen



 そのまま眠りに落ちるのは難しくなかった。

 胸につかえる憂鬱な思いを抱えたまま、ネルは疲れにまかせて重いまぶたを閉じ、浅い夢のなかに身を任せていった。この四年間、毎晩のように願ったのとおなじことを、また性懲りもなく繰り返しながら。

 ──目が覚めたら、すべてが夢だったらいい、と。


 鋭い足音が、枕に顔をあてていたネルの耳に届いてきたのは、それからしばらくしてからだった。

 最初は小さかった音の振動が、すぐに激しく、どんどん距離を縮めてくる。

 まるで気まぐれな夏の嵐が運んでくる雷鳴のように、その足音は近づいてきた。そして、バンッという落雷のような衝撃とともに、部屋の扉が開いた。

 驚きにベッドの上から上半身を起こしたネルは、あたりを見回すように顔を左右させたが、もちろん見えるものはない。

 ただ、ローナンの激しい息づかいだけが、雷の後にしゅう、しゅうと音を立てる煙のように、部屋の入り口からただよってきていた。

 ネルは数回、瞳をまたたいた。

 見えなくても、伝わってくるものはある。

 緊張に似たローナンの波動と呼吸は、どれだけ控えめに言っても、彼らしくない激しさを含んでいて……ネルは、首筋のうぶ毛が逆立つような寒気を感じた。肌が過敏になって、張りつめた雰囲気を全身に感じる。

「ロ……ローナン、でしょう?」

 ネルはかろうじて声を絞り出した。「どうしたの? あ、あなたの部屋は隣なんじゃないの?」

 ローナンが鋭く息を吸うのが聞こえた。そして、

「僕は部屋を間違えた訳じゃない」

 という、これもまた彼らしくない、短い返事が続いた。

 そしてしばらくの沈黙。


 ネルはできるだけ冷静になろうと試みて、反り返るくらい背筋を伸ばし、息を潜め、ぎゅっと手を握ってローナンの次の行動を待っていた。

 こんなふうにネルがローナンの存在に、ときめき以外の緊張を感じるのはまったく初めてのことだ。今まで、たとえどれだけ強く手を握られても、腰に手を回されても、互いの吐息が掛かるくらい近くから向き合っても、ネルはずっと安心を感じてきた。


 それなのに、今のローナンの息づかいと緊張はまるで、彼が腹をすかせた獰猛な肉食動物で、ネルが……食用可能であるかのようだ。


 ネルは、今すぐローナンが「これは冗談だよ」と言って、すぐに空気を変えてくれる期待をしていたが、心のどこか正直なところでは、それが無理な注文であることを理解してもいた。

 案の定、ローナンは場を和らげる台詞はなに一つ口にしないまま、ネルの部屋に入ってきた。

「ネル」

 ローナンが低く呟いた。

 どう返事をしていいのか分からず、ベッドの上で少し後ずさったネルは、もう目の前まで来ているローナンに向けて、顔を上げた。

 ああ、今、目が見えたなら。

 彼はどんな表情をしているのだろう。怒りに顔を真っ赤にしているのだろうか? 紳士ならざる欲望をたぎらせ、ネルを睨んでいるのだろうか?

 それとも……蔑みの目でネルを見下ろしているのだろうか。

 なにが彼をこんなふうに駆り立てているの?


 ネルの不安に、しかし、ローナンは比較的早く答えを与えた。


「今さっき、君の従者と話しをしたよ。彼はずいぶん色々と正直に話してくれた。君が今まで一言も教えてくれなかったことを」

 頭の先から爪先の方へ、ゆっくりと血が引いていくような感覚に襲われ、ネルはその場に硬直した。

「彼が話した、クレイモア伯爵が君を愛人にしたがっているという話は本当なのか?」

 ローナンの口調には彼らしくない荒っぽさがあった。

 気が付くとネルはうなづいていた。

「それから、君に求婚していたとかいう、ジェイミー坊やの話は?」

 ネルはなんとか首を振った。

「彼の名前は、ジェームスよ」

「ジョーンズ」

 ローナンは即答した。あくまでジェームスの名前を口にしたくないらしい。その頑さとユーモアは、ほんの少しだけネルの緊張をほぐした。

 ネルは下を向き、どうしたらこれ以上ローナンを興奮させずに、このあまり好ましくない現状をどう説明できるか考えを巡らせた。しかし、答えは見つからなかった。

 なぜならネルは、どうしてローナンがこんなふうに高ぶっているのかさえ、見当がつかないからだ。


「ねぇ、ローナン……ジョージがなにを言ったのかは分からないけど、ジェームスはなにも悪いことはしていないわ」

「君は彼をかばうのか?」

 鋭い声で、素早い質問が返ってきた。まるで信じられないと言わんばかりのローナンの口調に、ネルはますます戸惑った。

「あ、あの……ローナン……」

「母親が反対しただって? 彼は十三歳の坊やだったのか? おまけにその母親が、君の目の前で、君のことを悪く言うのを許したというのか? 君がどれだけ傷つくか分かっていて!」

 ローナンの声はすでに怒声といっていい大きさになっていた。

「僕だったら、その場で、母親の口に大量の塩を突っ込んで黙らせてやる。誰にも君を悪く言わせたりしない。誰にも」


 ネルは声を失って、肩を震わせながらローナンの方に顔を上げた。

 同時に、あのときジェームスの母親に投げつけられた言葉の数々を、しっかりと思い出さずにはいられなかった。


 アナタノ ヨウナ ヤクタタズ

 ミエナイ ナンテ

 アトツギモ ソダテラレナイ


 ムスコ ノ オモニニ ナルツモリナノ

 ズウズウシイ!


 ネルの瞳に、うっすらと涙が浮かんできた。

 それを呑み込もうとすると、その意思に逆らうように、さらに溢れてくる。あのとき、胸に刺さった言葉が、事実が、新しい矢になって、またネルを傷つけようとしているようだった。


「そして、僕なら、君がどれだけ素晴らしい女性か世界中に見せつけてやる。君の勇気を、優しさを、強さを、美しさを、ぜんぶ。僕にはそれが見える。それを誇りに思う」


 ネルは、ローナンの両手が、彼女の頬を包むのを感じた。

 大きな筋張った親指で涙の粒をからめとられ、ぎゅっと顔を閉じ込められる。


「君は、クレイモア伯爵の愛人になりたいのか?」

 ネルは首を横に振った。

「君はそのジェーコブを愛してるのかい?」

 ローナンの声が少しだけ不安定になった気がしたけれど、ネルはまた否定に首を横に振った。

「じゃあ、君にとって、僕はバーゲンじゃないか。降ってわいた最後のチャンスだ。どうして掴まないんだ?」

 ネルは顔をくしゃくしゃにした。

 どうして掴まない?

 そんなの決まってる。わたしはあなたの重荷になりたくないから。どうして掴まない? そんなの、答えなんて一つしかない。わたしはあなたが好きだから。あなたには幸せになって欲しいから……。


「答えてくれ。僕との結婚は、その性根の腐った伯爵の慰み者になるより、さらにひどいものかい? 僕がただの次男坊で、爵位がないから?」

 ネルの唇は、違う、と言いかけたが、喉が詰まってしまったように、声にはならなかった。

 ほんの十日と少し前まで、ネルは、この世界にこんなに素晴らしい男性ひとがいるということさえ、知らなかった。

 結婚、と、ローナンがはっきり口にしたことで、ネルはさらにその現実を深く肌に感じて、いいようのない幸せなうずきと、同時にわき起こる不安とに挟まれ、声どころか息さえもできなくなっていった。

 だから、ネルにできることは、ただまた、首を横に振ることだけだった。


「じゃあ、結婚しよう。君は、僕を利用してくれてかまわない。君を守り、君を幸せにすることを誓う」


 そして、ローナンの激しい口づけが、ネルの震える唇をふさいで、二人の影が重なった。


 いつか……ローナンとの初めての口づけがあるとすれば、それはきっと、信じられないほど優しく、蝶の羽根のように柔らかなものになると思っていたのに、その口づけは苦しいほど情熱的なものだった。



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