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Chapter Eleven



 一週間もすると、ネルは驚くほど多くのことを一人でこなせるようになっていて、ローナンは気が抜けると同時に、彼女を深く尊敬するようになっていた。


 ネルは屋敷のあちこちの歩数を数えて、それを覚えると比較的自由に歩き回れるようになった。

 自分の客室からジョージの客室を訪ねるくらいなら、まるで目が見えているかのように自然にこなすことができるネルに、ローナンだけでなくバレット家の皆が感嘆の声を漏らした。

 そして、オリヴィアは寂しい田舎の屋敷に同年代の女性が現れたことを喜び、多くの時間を彼女と過ごすようになった。

 いくつかのオリヴィアの服がネルに合うように縫い直され、二人はよく居間で一緒にお喋りをしてお茶を飲み、若い婦人たち独特の明るい声をあげて笑っている。

 若く美しい女性が、それも二人も、バレット家の居間ではしゃいでいる光景など、数年前までは考えられなかったことだ。


 ピートなどは、

「ふん、頭の弱そうな小娘どもが騒いでおるな。うるさくてかなわん」

 などと文句を言いながら、二人の邪魔をしたり説教を垂れたりしているが、引っ込み気味の彼が居間に下りてくる回数は明らかに増えていた。


 ネル・マクファーレンはだんだんとバレット家の毎日に溶け込み、気が付けばいなくてはならない大切な人間になっていた。ローナンはそれを微笑ましく思い、ことあるごとにネルへの親愛の情をつのらせながら、それを持て余していた。

 そうだ、どうしてだろう。

 あの雪の中ではじめて彼女を見つけたときから、ローナンはまるで彼女のことを昔から知っているような……失われていた魂の一部分を取り戻したような、不思議な気分を味わっている。

 恋に落ちることを、己の半身を見つけた、と表現する詩人がいることを思い出して、ローナンはうなった。

 これのことか、と。





 やがて雪がほんの少し落ち着き、長い冬のあいだに時々現れる短い晴天が訪れたある日、ローナンはネルを誘って少し遠出をすることにした。


 出逢ってからちょうど十日目、ローナンはネルのただの友人、便利な案内人でいることに限界を感じはじめているところだった。

 ローナンとネルは親しい友人としてよく話し、お互いの存在を楽しみ、ネルの盲目を理由に手を取り腰を取り、触れ合う。

 しかしローナンは僧侶でもなければ既婚者でもなく、人一倍健康な成人男性であって、特に性的に我慢強いというわけでもなく……ネルの細身の身体を夢にまで見るに至って、事態をはっきりさせなければいけないと決心したのだ。


 朝食の席でローナンが外出に誘うと、ネルは乗馬に関してほんの少し躊躇を見せたものの、快く承諾してくれた。

「どこへ行くのか、聞いてもいいかしら?」

 ネルの顔には期待に満ちた笑顔が広がっている。

「内緒だよ。言ったら、やっぱり止めたと断られるかもしれないからね」

「あまり遠くまでは行けないけれど……」

「そんなに距離はないよ。ただ、暖かい格好をしておいで」

 ネルはうなづくと、バレット家恒例の質素だが新鮮な朝食の続きを、美味しそうに食べていた。

 同じくローナンも、不必要なほどの満点の笑みを浮かべながら、まだ湯気の立つ焼きたてのパンを頬張って朝食を続けた。




 まだ昼になる少し前に、ローナンとネルは馬に二人乗りして目的地に着いた。

 雪に埋もれた森林の中にぽっかりと開いた穴のように広がる、広大な氷の表面を確認すると、ローナンは満足げにうなづいて馬を止めた。

「さあ、着いたよ。思った通り、綺麗に凍っている」

「凍る?」

 どこにたどり着いたのか見えないネルは、いままではっきり目的地を説明しなかったローナンの台詞に首をかしげる。

 耳を澄ましても、ネルに分かるのは人里少ない自然の中にいるということくらいだった。普段は事細かに周囲を教えてくれるローナンにしては、珍しいことだ。

「なにが凍っているの? 凍った場所で、なにをするの?」

 期待半分、不安半分といった感じで辺りを見回すネルを馬上に残し、ローナンは地面に降り立った。

「すぐにわかるよ。きっと、気に入ってくれると思う」

 ローナンは鞍に繋いでいた革袋から必要な物を取り出して、ネルの足に近づいた。

 細身の、紐で細かく結い上げられたブーツにローナンが触れると、ネルは「きゃっ」と可愛い声を上げる。ローナンは無意識に微笑んだ。

「な、なに……を」

「脱がすよ。いいね」

 そして、ゆっくりと紐をほどいていく過程で、ネルの膝が震えているのに気が付いたローナンは、かなり厳しく自分を律しなければならなかった。

 ネルの青い瞳が、しっとりと熱を帯びてローナンを見下ろしている。

 普段は焦点が合わないようにぼうっと遠くを眺めているように見えることが多いネルの瞳が、今はしっかりとローナンを据えていて、まるで普通の女性と変わりなかった。

 華奢なブーツはすぐにネルのくるぶしから離れた。

 寒さにぶるっと反応するネルを、ローナンはいますぐ抱きしめて温めてあげたかった。そのかわり、ローナンは革袋に入っていた重い靴を取り上げ、ネルの足にあてがった。

「これは……」

 ネルが息を呑む。

 見えないとは分かっていたが、ローナンはうなづいた。

「あれだけ素晴らしい雪玉を投げる君なら、きっとこれも上手だろうね」

 きちんと履かせ終わると、ローナンは反対の足も同じようにブーツを脱がし、新しい靴を履かせる行為を繰り返した。

 途中、ローナンの指がネルの肌に触れることがあるたび、二人の間に強い痺れが走る。

 ただ、二足のブーツを脱がせて、靴を履かせるのを終わらせるだけで、二人ともが疲れきったように荒い息を繰り返していた。


「さあ、降りて。一緒に滑ろう」


 馬を傷つけずにスケート靴をはいた女性を降馬させるのは容易ではないかもしれないというローナンの心配は、杞憂に終わった。

 そもそもネルの身体は軽く、彼女はローナンの支えとリードに器用に足を上げて馬から降りた。


「信じられないわ、ローナン! わたしにスケートをさせるつもりなの?」


 ネルの叫びは歓喜に満ちていて、ローナンはこの計画を立てた自分に誇りを感じるほどだった。

「ここは森の中の湖が凍っている場所なんだ。この季節の氷は厚いから割れる心配もないし、君はどこまでも好きなだけ滑っていいんだよ。見渡す限り、一面の氷だ。障害物はなにもない」

「あなたに激突してしまわない限りはね」

「そして、僕が君に激突しない限りは、だね」

 ローナンにしがみついてバランスを取りながら、ネルは笑い声を上げた。


「さあ、どうするんだい? この季節に、こういう晴れ間はいつまでも続くわけじゃない。早く楽しんでおかなくちゃ損じゃないか」


 顔を上げたネルは、得意そうに微笑み、そして突き放すようにローナンから離れて滑り出した。思ったよりも軽快な滑りで、スカートと、ボネットからこぼれ落ちた金髪の房をひらめかせながら、あっという間に何フィートも先に行ってしまった。

 目が見えていたころ、ネルは活動的な明るい女性だったのだろう。

 ローナンは含み笑いをしながら自らもスケート靴に履き替え、ネルの後を追うように滑り出した。


 数時間が経ったころ、二人はすっかり疲れきり、興奮して、お互いにしがみつきながら先の森にまで届きそうな声で笑い合った。

「信じられないわ! こんなふうにスケートを滑ることができるなんて、考えたこともなかった」

 瞳を輝かせながら、ネルはローナンに言った。「ありがとう、ローナン」

 しかし、悲しいことに、ネルの瞳はローナンの顔とは少し違う方向を見つめていた。ローナンはくいっとネルの顎を持ち上げ、しっかりと自分の方を向かせた。

「どういたしまして」


 二人は氷の上でしっかりと抱き合い、お互いに向き合って、身体をぴったりと寄せていた。

 足下が滑るからこういう格好になったにせよ、ネルはまったく抵抗を見せない……ローナンは遠慮なく十分に彼女の柔らかい肢体の感覚と、甘い香りを楽しんだ。

 ぎゅっと抱きしめると、ネルは顔を上げた。

 ネルは小柄だから、彼女のお腹のあたりがローナンの男性の部分に押し付けられていたのだ。

「あ、あの……」

「ごめんね」

 と、謝りはしたが、ローナンはネルを離さなかったし、弁解もしなかった。

 恥ずかしそうにまごつくネルに、ローナンはますます愛しさを感じながらも、ほんの少しだけ距離をとると彼女の手を取った。

 そして、その手の甲に優しく口づけを落とす。

 ネルはしびれたように肩を震わせた。

「でも」

 ローナンはささやく。

 白銀の世界にぽつりと二人だけで、遠くに雪化粧を被った森が広がっている。静かで、世界には二人しか存在していないような幻覚をもたらした。

「僕が男だっていうことを忘れちゃいけないよ。君にとって僕はただの便利な案内役かもしれないけど、僕にだって心があるんだ」

 ショックを受けたような顔をして、ネルは激しく首を横に振った。

「そんなふうにあなたを思ったことはないわ。一度だって……」

「でも、君はいつも僕を、『男』としては遠ざけようとする。僕のあからさまなアプローチだって無視して、いつもかわしてしまう」

 ネルは硬直して、なにか言いたげに唇をわずかに開きながらも、黙ったままでいた。

 ローナンはネルの笑顔が好きだったから、こうして彼女を追いつめるのはいい気分ではなかった。しかし、時には真実を告げなくてはいけないときもある。そして、もしネルがローナンの告白を受け入れてくれれば、彼女を誰よりも幸せにする覚悟があった。


「僕は君には物足りないかな? 君は……僕と、もっと長い時間を一緒に過ごしたいと思わない?」

 そして付け加えた。「僕はそう思っている。君と一緒に歳をとっていきたい」


 ネルの唇が震え、瞳にわずかな涙がたまりはじめた。

 ローナンは彼女のひたいに自分のひたいをあて、さらに彼女の両手をとると胸の前で握りしめた。

「君の勇気を尊敬してる。突然目が見えなくなるだなんて、きっと気も狂わんばかりの恐怖だったはずだ。それを、君はこうして立ち向かっている。君の強さを素晴らしいと思う。もちろん、君の可愛い顔も大好きだけど」

「いいえ、ローナン……」

「僕は馬鹿じゃない。これがなにを意味するのか、よく分かっている。僕は、その苦労もなにもかも一緒に、君といたい」

 さらに、握り合う手にぎゅっと力を込めながら、ローナンは祈った。


 はじめて会ったとき、ネルは寒さに凍え雪の中に立ち尽くしながらも、年老いたジョージのことを助けてくれとだけ言った。

 彼女の青い瞳はいつも、たとえ見えなくても、なにかを必死に探してきらめいている。

 小さな顔は繊細な輪郭と形のいい唇に彩られていて、柔らかな金髪はまるで絹のように滑らかだった。ネルは、バレット家に慣れはじめると、よく笑い、時には鋭い意見を言ってローナンを楽しませた。

 ローナンは日ごとにそんなネルを深く尊敬し、愛し、尽くすようになった。

 そしてそんな日々を、いままでの人生で感じたことがないほど、幸せに思った。そして、こんな日々がずっと続けばいいと、願っている。


「ローナン」

 ネルは顔を上げて、呟くように言った。「ねぇ、教えて。あなたはいま微笑んでいるの?」

 その声が可愛らしくて、ローナンは真面目な顔を崩して微笑んだ。

「うん」

「わたしにはそんなことも分からないのよ。あなたがいつ微笑んでいるのか。そして、どんな笑顔で微笑んでいるのか」

 ネルの片手が、ローナンの顔に伸びてきて、ゆっくりと頬に触れる。手袋越しの冷たい手が、しかし、ローナンの肌を燃えるように溶かした。

「ちゃんと髭を剃ってこなかったのね?」

 くすりと声を漏らしながら、ネルは呟いた。

 確かに、今朝は浮かれていたせいか、おざなりにしか髭を剃らなかった。多分、少し無精髭がチクチクするのかもしれない。

「わたしはそんなことも、ちゃんと夫に教えてあげられないのよ。いいお荷物だわ……わたしは……」

「いいかい、ネル」

 ローナンはネルを戒めるように、語調を強めた。「僕は自分の見てくれくらい自分で管理できる。僕はどこかの甘やかされたお坊ちゃんじゃないんだよ」

 しかし、ネルはまた首を横に振った。

「あなたの見てくれに関しても、わたしはきちんと褒めそやしてあげられない。せっかく、あなたのように魅力的な人が、妻から喜ばれないなんて勿体ないわ」

「僕が魅力的だって、君はちゃんと知っているじゃないか」

 からかうようにローナンは答えた。

 ネルは切なげに微笑む。

「だって皆がそう言うもの。あなたは緑の瞳と濃い金髪の獅子のような偉丈夫で、背が高くてとても立派な体躯だそうね」

「たしかに、僕の裸はなかなか立派だよ。これはお見せできないのが残念だけど」

 しかし、ローナンは「でも」と続ける。「見えなければ、触ることができる。想像することも。君が言ったことだよ」

 ネルは頬を真っ赤に染めた。

 もしかしたら、本当にローナンの裸体を想像したのかもしれない。悪くない傾向だった。

「答えは、今すぐじゃなくていい。でも、僕が君との将来を望んでいることを、覚えておいて欲しい」


 ローナンがそう宣言すると、申し合わせたように、急に青かった空が重い雲に覆われだし、北風が徐々に強さを増してきた。

「もう帰った方が良さそうだね」

 ネルも天気の変化に気が付いたようで、すぐにこくりとうなづいた。

 屋敷へ戻るまでの道程は、朝来たときとはうってかわって、ひたすらの静寂に包まれていた。



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