Chapter Ten
もし夢なら、それでもいい。
ただ、この夢を一生忘れないようにしよう……。
ローナンに手を引かれて外まで案内されたネルは、玄関から出た瞬間に新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
あまりの気持ちよさに、ネルは小娘のような歓喜の声をあげてはしゃがずにはいられなかった。
「雪が降っているわ、ローナン!」
こんなふうに楽しむために雪の下に出てくるのは、本当に久しぶりのことだ。
ローナンが言ったとおり、ほんの少しだけみぞれが降っているようだったが、昨日のような重さはもうなかった。粉雪といわれるような軽くて小さい氷の粒が、ときどき肌をくすぐるように空から下りてくる。
「つい昨日、冬嵐に遭難しそうになった人間が、こんなに雪を喜んでくれるとは思わなかったよ」
愉快そうにそう言うと、ローナンはネルを玄関の階段下まで降ろしてくれた。
そのときも二人はちゃんと階段の数を数えた。
それだけじゃない──ネルが外に出る支度を整えるあいだも、ローナンが外に出る支度をするあいだも、二人はまるで子供同士のようにずっとお互いを楽しんでいた。
ネルは、朝日を見ようというローナンの誘いゆえに。
ローナンは、ネルには分からない不思議な理由ゆえに。
二人は上機嫌で、まだ寝静まっているはずの屋敷を揺り起こすほどの笑い声を上げながら、ころころと転げ出るように外へ飛び出した。
ざくりと雪に足を踏み入れると、ひんやりとした冷たさが靴の中まで入り込んでくる。
心が洗われるのを感じて、ネルは目を閉じながらその冷ややかさに感じ入った。
風が心地いい程度に吹いていて、ネルの髪をさらさらと揺らす。
「説明してちょうだい。外はどんな様子?」
ネルがねだると、ローナンはざくざくと雪を踏んで先に進みながら、「なにから話そうか」と言って周囲を見回しているようだった。
「なんでもいいのよ。空は何色?」
うーん、と声を漏らしながら、ローナンは答えた。「真上のほうは灰色だね。でも、ここから少し右手が東になってて、朝焼けが地平線に浮かんでいる。桃色と、紫色が混じったような色が……いや違う、黄色かな? 不思議な色だ」
「そう」
ネルはうっとりと、その風景が網膜に映されるさまを想像した。想像の中でネルは、ローナンの表現したその桃色と紫色と黄色の不思議な空の上を、歩いて回ることさえできる気がした。
「それこそまさに、朝焼けの色ね」
「どんな色かなんて、僕の貧しい語彙では表現しきれないな。ああ、でも」
ローナンはさらに一歩前に出て、じっくり遠方を臨んでいるようだった。
「……地平線に浮かんでいる色は、君の髪にそっくりだ。細い金色の線が、長く流れるように浮かんでいる」
そして一息置くと、最後に一言ぽつりと付け加えた。「綺麗だ」
「そ、そう……」
もちろんローナンは朝日のことを言っているのだと分かっていたけれど、ネルはまるで自分が褒められたような落ち着かない気分になって、頬を赤らめた。
「太陽は……まだ、太陽は出ていないの?」
喋っていないと変な気持ちに呑み込まれそうで、ネルは急いで質問した。
「まだだよ。でも、もうすぐだ」
「本当? それって、わたしの一番好きな時間だわ」
「もう少し先に行ってみよう。ちょっと坂を上るけど大丈夫かな?」
「ええ」
ネルは二つ返事で答えた。
いつだって、ネルは冒険が好きだった。
──もうずいぶん前に諦め、忘れかけていたことだけど。
二人は手を繋いだまま、ローナンの導く方向へゆっくりと進んだ。たしかに途中、ちょっとした上り坂があって、雪に埋もれた道なき道を歩くのは楽ではなかったが、ものの数分もしないうちにローナンは立ち止まった。
「ここだ」
「ここ?」
「もうすぐ、この国で一番美しい朝日を見せてあげる」
息を切らしながらローナンの隣に立ち止まったネルは、辺りをあてなく見回した。すると、ローナンの手がネルの顎を優しく掴み、「こっちだよ」と言って前を示した。
「今、じんわりと地平線が白く光りはじめている」
ローナンの説明に、ネルはじっと耳を傾けて、脳裏にその風景を想像した。
「遠く東は、ゆっくり、ゆっくり、じわじわと明るくなっている。だけど真上はまだ朝の訪れに抵抗するような灰色だ。貴族みたいだね」
ネルはくすくすと笑った。
「あなたは、貴族の朝寝坊について一家言があるようね」
「そうでなければ、僕は今頃、暖かいシーツにくるまってぬくぬく猫みたいに丸まっていただろうね」
「続けて」
するとローナンはネルの片手を持ち上げて、胸の高さでまっすぐに外へ向けて伸ばすように固定した。
「こっちだよ。まっすぐ先を指を指してごらん」
言われた通りに、ネルは人差し指を前に突き出した。
「上手だ、ネル、君はいま朝焼けを指差している。もうすぐ、太陽もここに来る」
ネルの唇の端は無意識に上がり、大きな笑顔を作らずにいられなかった。
雪が、ときどき二人の手にはらりと落ちて、冷たい刺激を手袋の布越しに感じる。はしたないことだとは知っているが、ネルは手袋を外してしまいたい誘惑に駆られた。
雪を感じたかった。
そして、隣にいるこの男性に、直に触れてみたかった。
「ほら、今だ。太陽の先端が浮かびはじめた」
ローナンの指摘に、ネルはうなづいていた。
「白にも見えるし、銀色にも見える……白銀っていうのは、このことかな。地面の雪も光りだしてる」
「美しいでしょうね」
「とても」
「鳥がずっと騒がしくなってきたわ。彼らも分かっているのね」
今度はネルが指摘すると、ローナンはふっと笑った。
「本当だ。言われるまで気が付かなかったよ。君はすごいな」
「見えなければ聞くしかないもの。わたしがすごい訳じゃないわ」
「いいや、すごいよ。君は勇気のある女性だ」
遠くの東の空に浮かびはじめた朝日を前に、二人は雪の積もったなだらかな丘の上に立って、静かにお互いのことを尊敬していた。
この先、どれだけ辛いことがあっても、この朝を思い出せば生きる勇気をもらえるかもしれない。
そんなふうに思える幸福が、いまここにあった。
朝日が昇りきってしまったあとになって、ローナンとネルは一緒にのろのろと丘を下りはじめた。
ここまで来たときとはうってかわって、今度は二人とも無言で足を動かしていた。
しかし静けさは心地いい種類のもので──喋る話題が見つからない気まずい沈黙ではなく、なにも言わなくてもお互いを理解している二人だけが持てる、信頼に基づいた静寂だった。少なくとも、ネルはそう感じていた。
いつまで、こんな夢みたいな日々が続くのだろうか。
こんな朝をあと何度迎えることができるのだろう。
しっかり繋がれたローナンの手を、手袋越しに熱く感じながら、ネルは天に向かって祈っていた。この幸福は、きっといまだけの仮初めのものだ。
きっと、ローナンはネルが珍しいだけだ。もしかしたらいまは本当に好意を抱いていてくれているのかもしれないが、いつか彼も、どれだけネルが重いお荷物であるか気付く。そうしたらこの夢は、さも存在しなかったように、あっさりと終わるのだ。
それでも。
いや、それだからこそ。
一秒でも長く、一瞬でも逃さずに、彼の温もりに触れていたい……。
「難しい顔をしてるね、ネル」
「え?」
急にローナンに声を掛けられて、ネルは深い思考から我に返り、顔を上げた。いつのまにか眉間に皺でも寄せていたのだろうか。ネルは心配になって、ローナンと繋がっていない自由な方の手で自分の顔にぺたぺたと触れた。
しかし、ローナンはすっとネルの手を放すと、ざくざくと雪の上を進んで遠ざかった。
「あの……ローナン」
そこまで酷い顔をしていたのだろうか?
不安で蒼白になったネルは、ローナンが離れて行ったほうに向けてみじめに手を伸ばした。指がむなしく宙をさまよう──
「ロー……ぶっ!」
いきなり、ネルの顔面に雪の塊が投げつけられた。
「なっ、なっ、なにを……きゃっ!」
ボン! と、二発目も容赦なくネルの頭に命中した。目的にぶつかった雪はその衝撃で崩れ、パラパラとネルの肩に落ちてくる。
ネルは顔と身体を振って雪を落とした。
「なにをするの!? こんなふうにいきなり、女性に向かって……」
お説教めいた口調でネルが声を上げようとすると、今度はヒュンと雪の塊が宙を切る音がしっかり聞こえた。とっさに上半身を折って雪玉をかわしたネルは、姿勢を戻すと、毅然とローナンのほうを向いた。
笑い声が聞こえるので、彼の居場所を特定するのは難しくない。
ネルはしゃがみ込んで手一杯に雪玉を作った。
「目が見えないからって、わたしを甘く見ていると痛い目を見るわよ、ローナン!」
そして第一球を力の限り投げつけた。
雪がべしゃりと地面に落ちる音がして、ローナンの大きな笑い声が朝の冷気に溶けるように響く。
「君を甘く見たことなんて一度もないよ、ネル。そしてこれからもないだろうね。こんないい玉を投げる女性は見たことがないよ」
しかし、ローナンの声には笑いが混じっていて、ネルはまるでからかわれているような気分になった。彼は、ネル・マクファーレンを見くびるとどうなるのか、知らなくてはいけないだろう。
ネルはまた力一杯、新しい雪玉をローナンへ投げた。
今度も雪玉は地面に着地したものの、ローナンに「うわっ」という声を上げさせるのに成功した。「いまのは近かったよ!」
その声のおかげで、ネルはさらに正確にローナンの位置を知ることができた。
ネルは間髪を入れず、急いで次の雪玉を作って宙に放った。
「ぶわっ!」
というローナンの悲鳴のような叫びが聞こえたとき、ネルの顔には勝利の笑みが端から端まで広がっていた。
「どうしたの、大きくて立派な紳士さん? 盲目の小娘にしてやられたのかしら?」
今度はネルが得意げにローナンをからかう番だった。
ローナンは笑い、ネルはまた雪玉を作った。
早朝の雪合戦はそうして二人が笑い疲れるまで続き、気が付くと屋敷の人間達が周りを囲んで応援の声を上げていた。
しかも、その声援もたいていネルを支持するもので、ローナンが雪玉を食らったりすると大きな笑い声があちこちから上がった。
ネルは息を切らしながら雪を投げ、笑いながら冗談を叫び、幸せのあまり流れそうになる涙をこらえながら、この朝を深く心に刻んだ。




