6 月明かりの部屋
フロリエは寝付けずに寝台から体を起こした。久しぶりに屋外に出て、体は疲れているはずなのに眠れない。昼間、エドワルドが連れて行ってくれたピクニックで、小竜や馬を通して見た彼の姿が忘れられずに胸が高鳴っている。彼に手を取られて踊り、飛竜の背では怖くてその逞しい背中にしがみついた。心臓の鼓動とぬくもりを思い出す。
「…う…ん、」
傍らで寝ているコリンシアが寝返りをして上掛けがパサリとはねのけられる。フロリエは我に返ると手探りで子供の位置を確認し、乱れた上掛けをかけなおす。近頃は小さな姫君に添い寝するのは習慣となり、自室で休むことはほとんどなくなった。昨夜は久しぶりに一人で休んだが、なんだか一抹の寂しさを覚えたくらいだ。
昼間見たコリンシアの愛らしい姿を思い出し、フロリエはいつの間にか笑みを浮かべていた。ウェーブしたプラチナブロンドの髪は青いリボンで束ねられ、日の光を受けてキラキラと輝いていた。サファイアブルーの大きな瞳も髪に負けないほど輝き、子供らしいバラ色の頬もかわいらしく、満面の笑みで自分を見上げていた。
「お風邪を召しますよ」
コリンシアがまた上掛けをはねのける。フロリエは口元に笑みを浮かべたまま上掛けを優しく直し、小さな声で子守唄を口ずさむ。初めて会った、あの時のように……。
日は既にのぼっているのにいくら目を凝らしても辺りは闇。何も見えない、何も覚えていない。あの時フロリエはわが身に起こったことが理解できず、不安に押しつぶされそうになっていた。
前日に妖魔に襲われていたところを助けられ、このお館に運び込まれたという。助けたのはロベリアの総督を務めているこの国の皇子様。運び込まれたのはその皇子の縁続きだという女大公様が隠棲するお館。身の回りを世話してくれた侍女が教えてくれたが、目も見えず記憶もない彼女にどう接していいかわからなかったらしく、早々に下がってしまった。彼女は1人、放っておかれるように取り残されていた。
ガシャーン!
パタパタパタ……
何かが壊れる音と小さな子供のものらしい足音が聞こえてきた。寝台に横になったまま、彼女は物憂げに首をめぐらす。まだ、何かで打った頭が痛くて体も起こすことができない。
パタパタパタ……
ガチャッ、バタン!
部屋のドアが開いて勢いよく閉められる。
「……えくっ……ヒック……」
どうやら入ってきた子供は戸口で泣いているらしい。外では何人かの使用人が怒ったような口調で何やら話しているのが聞こえる。やがて、その話し声はどんどん遠ざかって行った。
「……ヒック、ヒック……」
フロリエがいる事に気づいていないらしく、子供はまだすすり泣いていた。
「……どうしたの?」
思い切って彼女は声をかけてみた。少女は突然かけられた声にびっくりしたらしく、泣き止んだ。おそらくこちらを凝視しているのだろう、強い視線を感じた。
「おいで……」
寝台からまだ起きられない彼女は驚いているだろう子供に向かって手招きする。しばらく固まっていた子供は、意を決したのか彼女に近寄ってくる気配がする。
「どうしたの?」
「……」
近寄ってきたものの、まだ警戒しているのか口を開こうとしない。彼女は笑みを浮かべてそっと手を伸ばした。おおよその位置を検討して伸ばすと、柔らかな髪に触れた。子供はビクリと体を硬直させたが、優しく何度も撫でてやると、安心したのか寝台の縁に上がり込んできた。
「……壊しちゃったの」
子供はぽつりと呟く。
「何を?」
「おばば様が飾ってたお皿」
大きな音の正体はこの子供が皿を割った音らしい。
「どうして?」
声が聞こえる位置に向けて彼女は首を傾げる。てっきり怒られると思っていた子供はびっくりして相手を見返す。
「……怒らないの?」
「理由を聞かないうちには怒れないわ。わざとじゃないかもしれないし」
「……」
子供は相手の顔をまじまじと見つめる。
「……子猫のブルーメが棚から降りれなくなってたの」
「それで?」
ようやく子供が口を開いた。彼女は微笑みながら先を促す。
「助けてあげようとして、棚に上ったらお皿が落ちて割れちゃった」
「誰も呼ばなかったの?」
「……忙しいから、後でって」
子供の声はだんだん小さくなる。彼女は子供の頭をなで続けた。
「ちゃんとごめんなさいって言いましょう」
「……コリン、わざとじゃないもん」
ちょっとすねたような返事が返ってくる。きっと口はへの字に曲がっているに違いない。
「大事なものが壊れておばば様はきっと悲しんでおられるでしょう。侍女の方々も割れたお皿を片づけてくださっています。わざとじゃなくても、悪いことをしたと思ったら、ごめんなさいって言いましょう。そうすれば、ちゃんと許して下さいますよ」
「……」
彼女の言葉を理解しようとしているのか、子供は寝台に座ったまま黙り込んでいる。
コンコン
扉を叩く音がしてフロリエの返事を待たずに扉が開き、年配の侍女が入ってきた。子供は脅えたように彼女の手にすがりつく。
「ここにおられましたか。コリンシア様、女大公様がお呼びでございます」
「……」
子供はなおも脅えたようにすがりついている。
「大丈夫ですよ。訳をきちんとご説明申し上げて、きちんと謝ればきっと許して下さいます」
「……」
おそらく、子供は脅えたように彼女を見ているのだろう。その様子を傍らで見ている侍女は怒ったように子供をせかしている。
「頭ごなしに怒らないであげて下さい。理由がございます。それをこの子の口からきいて下さいますよう、女大公様にお取成し頂けないでしょうか?」
主であるグロリアやエドワルドから客人として扱うように言われているが、目も見えず記憶もない、どこか得体の知れない彼女から進言を受けて年配の侍女は面食らう。
「さぁ、目上の方をお待たせしてはいけません。涙をふいて、女大公様の元に行きましょう」
「……お姉さんも来て……」
子供の希望に彼女は困ったように首を振る。
「まだ動けないの。大丈夫、ちゃんと許していただけますから」
子供を安心させるように微笑みながら優しく諭す。彼女は小さく頷くと寝台から降りて年配の侍女と共に部屋を出て行った。
しばらくすると、タタタ……と元気よくかけてくる足音が聞こえてきた。カチャリと扉が開いて、誰かが部屋に入ってくる。
「お姉さん!」
先ほどとはうって変わり、明るい声で子供が声をかけてくる。聞くまでもなく、ちゃんとお許しをもらったようだ。
「おばば様が許して下さったの。お姉さんが言ったとおり、ごめんなさいって言ったら許してもらったの!」
子供は弾むような声で結果を報告してくれる。フロリエは微笑むと子供の頭をなでた。
「よかったわね」
「うん。……ありがとう」
感謝の言葉は少し小さな声で付け加えられた。
それからしばらくの間、子供は彼女にいろいろな話を聞かせてくれる。大好きな父親の事、怖いけど好きなおばば様の事、子猫のブルーメに世話係兼教育係の侍女の事等々……。
やがて、子供は小さくあくびをする。走り回ったり、泣いたりして疲れたのと、厳しいおばば様からお許しをもらって安堵したのとで眠気がきたのだろう。言葉が途切れがちになる子供に寝台の隣で横になるよううながすと、靴を脱いで上がりこんでいた彼女はすぐにコテンと横になった。
「……また…お話……していい?」
「ええ。ぜひ、聞かせてくださいませ」
来客用の寝台は広く、子供1人が増えたくらいでは全然窮屈に感じない。フロリエは眠ろうとする子供をあやしているうちに、自然と口から子守唄が出てきた。小さな声で優しく歌っていると、傍らからは小さな寝息が聞こえてきた。
一時ほどして、小さな姫君を探して先ほどの年配の侍女が客間をのぞいてみると、2人は寄り添うようにして眠っていた。
……これが小さな姫君に変化をもたらした第一歩だった。
夜が明けて、いつも通りオリガが朝の御用を伺いに部屋に入ると、2人ともまだ眠っていた。フロリエもまだ起きていないことに珍しいと思いながらも、仲良く寄り添う姿をほほえましく思い、オリガは音をたてないように静かに朝の支度を整えたのだった。
月光が差し込む室内の寝台から一人の女性が起き上がった。薄物一枚身にまとい、サイドテーブルのデカンタからワインをグラスに注いで飲み干す。
「私にもくれないか?」
寝台に寝ころんだままの男がねだる。
「そのままではこぼしてしまわれます」
そう指摘されてしぶしぶ男は体を起こす。月光を受けてキラキラと輝くプラチナブロンドの髪に秀麗な顔立ち、鍛え上げられた上半身が露わとなる。
「さあ、どうぞ」
女性がグラスを差し出すと、男は礼を言って受け取り、一気に飲み干す。
「もう一杯くれ」
彼がグラスを差し出すと、女性はワインを注ぐ。デカンタは空になった。
「急にいらっしゃるから用意が整っておりません。これで最後ですわ」
女性は空になったデカンタを見せると、優雅に微笑む。歳は30くらいだろうか、豊かな栗色の長い髪はつややかで美しく、薄物の上からでも豊満で成熟した美しいボディラインがはっきりとわかる。
「すまない」
男は律儀に謝り、飲み終えたグラスを女性に返す。
「気を使いすぎて疲れてしまったのだ。もっと癒してくれないか?」
「あらあら……。竜騎士としては勇猛果敢に妖魔に立ち向かい、総督としては公正明大な執政で知られるエドワルド様のお言葉とはとても思えませんわ」
ころころと笑いながら女性が寝台の縁に座ると、エドワルドは自分の腕の中に彼女を引き寄せた。
「そんなこと言うなよ、エルダ」
エドワルドがロベリアの街外れにあるこの梔子館に通うようになって2年余り経つ。彼の部下達だけでなく、世間では彼に複数の恋人がいると思われているが、本当に付き合っているのは目下この女性だけである。
エルデネート・ディア・ガレットと名乗るこの女性の事を、つい最近まで彼は中流貴族の未亡人としか知らなかった。今まで付き合ってきた女性達のように、金品をねだるどころかこちらからの贈り物も受け取らず、逆にコリンシアへと子供好みの品々を用意してくれる事もある。付き合い始めた頃に無理に贈り物をしようとした事があったのだが、「これを頂く時はお別れする時です」と言われ、以来金品を贈るのはあきらめていた。
興味本位で付き合い始めたエドワルドだったが、彼女の裏表のない物言いに魅かれ、時折ここを訪れては疲れた心と体を癒していた。ここでは彼も押し込めていた本音を吐露し、時には副官のアスターとは違う視点の助言を与えてくれる彼女は得難い存在になっていた。
実は、総督としてロベリアに赴任した当初のエドワルドは妻に先立たれて心が荒み、本当に私生活が荒れていた。仕事は放棄しなかったものの、ろくに娘の世話もせず、夜毎侍らせる女性を変えて遊び歩いていたのだ。その事が皇都で国主の補佐をしている兄の耳に届き、5大公家の一つ、サントリナ家に嫁いだ一番上の姉とも相談してその様子をうかがう為に誰かを送り込むことになった。
その頃、夫を亡くしたエルデネートは生活に困り、奉公先を探していた。それをつてから知りえたサントリナ公夫人が彼女にエドワルドの様子を知らせるように頼んだのだ。やがて彼女がエドワルドの目に留まって付き合い始め、徐々に彼は本来の落ち着きを取り戻した。
ひょんなことからエドワルドが真実を知ったのは半年ほど前だった。皇都に戻ろうとしたエルデネートを全力で引き止め、そのまま大人のいい関係を続けている。しかし、彼のプロポーズは受けてもらえなかったのだ。
「そんなにお疲れになるほど何をなさったのですか?」
「ピクニック」
エドワルドは端的に答えた。
「あらあら、コリン様のお相手でしたか」
エルデネートは小さな姫君の姿を思い出して苦笑する。この2年の間に幾度か顔を合わせたことがあるが、彼女は大事な父親を奪うライバルとしてコリンシアから嫌われていた。グロリアも有能な人材とは認めているものの、エドワルドの恋人……ひいては結婚相手としては相応しくないと彼に苦言している。もっともそれはエルデネート自身も望んではいない。
「コリンもいたが、ちょっと違うな」
エルデネートの髪をもてあそびながらエドワルドが答える。彼女は不思議そうに彼を振り仰ぐ。
「彼女を助けた場所へ連れて行った。何か思い出すきっかけになればいいと思ってな」
「春先にお助けになられたあの女性ですね。何かあったのですか?」
フロリエを助けた経緯をエルデネートはエドワルドに聞いて知っていた。グロリアに気に入られ、コリンシアにも慕われていると聞き、身寄りのない女性が路頭に迷う心配が無くなりほっとしていた。気難しいグロリアが気に入らなければ、自分がケアをしようかと本気で考えてもいたのだ。
「恐怖心だけだったな、思い出したのは」
「まぁ……」
エドワルドは彼女を抱く腕に力を込めた。
「エドワルド様?」
「恐怖のあまり彼女は失神した。かえって気の毒な事をした」
余計な事をしたのかもしれない、とエドワルドは悔やんでいた。
「その後はどうなさったのですか?」
「少し休ませた後、皆で昼食をとった。部下達が盛り上げてくれたおかげで最後には楽しかったと言ってくれた。気をつかってくれたのかもしれないが……」
エドワルドはため息をついた。
「その方は本心をおっしゃられたのではないでしょうか?」
「そうかな?」
「そうですとも。自信をお持ちくださいませ」
にこりと微笑むと、エルデネートは彼の頬に軽く口づける。
「エルダ……」
エドワルドは改めてエルデネートを抱きしめ、唇を重ねる。そしてそっと寝台に押し倒し、その成熟した体を隅々まで堪能する。甘い吐息で満たされた部屋で交わされる恋人達の逢瀬を月光が静かに照らしていた。
白々と夜が明ける頃、エドワルドはいつものように恋人に見送られて館を辞去し、総督府へと帰っていった。
ちょっと言い訳
書き始める前まではエドワルドには恋人はいない設定だったけれど、彼ほど地位も名誉もあって、しかも美形ならばいない方がおかしいかと思ってエルデネートさんの登場です。しかも年上w 逆に彼女ほど奇特な人も珍しいかも。