5 悪夢の始まり2
ルークは硬い寝台に座ったまま、拳で石造りの壁を叩いた。ここに入れられてから何度もこうしてやり場の無い怒りを壁にぶつけていた。
「くそ……」
ヒースの命令でロベリアを発ったあの日、日が沈む前に本宮に着いた彼は、近くにいた侍官に名前と用向きを伝えただけで逮捕された。理由を何度も尋ねたが、問答無用で数人の兵士に押さえ込まれ、この地下牢に入れられたのだ。
日中も日が差さない牢の中では昼も夜も分からないが、彼の体内時計では既に2日経っている。敬愛するハルベルトの死も嘘か真か気になるが、何よりもエドワルドの到着が遅れているのが気になった。
エドワルドが事情を知ればすぐに自分をすぐに解放してくれるはずである。未だ音沙汰が無いと言う事は、彼の到着が遅れているのだろう。いくら彼の妻子を同行させているとしても遅すぎる。
「一体、どうなっているのだ?」
苛立ちを紛らわすために彼はまた拳で壁を叩いた。
ふと、人が近づいて来る気配に気付き、ルークは顔を上げる。食事や見回りにしては中途半端な時間である。寝台から立ち上がり、鉄格子の側に寄って外の様子をうかがってていると、手燭に覆いをして灯りを抑え、足音を忍ばせた人物がルークのいる牢に近づいて来る。
「ルーク卿」
「君は……」
ルークは手燭の灯りに浮かぶ相手の顔を見て驚いた。急用で皇都を訪れた時に、身の回りの世話をする為にハルベルトが彼に付けてくれた若い侍官だった。名前は確かサイラスといったはずだ。
「詳しい話は後で。とにかく出ましょう」
サイラスは鍵の束を取り出すと、ルークが入れられた牢の鍵を開けた。きしんだ音がして扉が開き、ルークは戸惑いながらも外に出た。ここへ来るのにこれだけ用心をしていると言う事は、自分の容疑が晴れたわけではなさそうである。しかしながら危険を冒してまでこうして助けに来てくれると言う事は、何か理由があるのだろう。
「ありがとう」
彼を信用してついて行く事に決め、ルークは短く礼を言う。
「まだ早いですよ。それに私だけではありませんから」
彼は意味深に小声で返し、一度牢の中に入ると、寝台に背負ってきた布の束に毛布を被せて人が横になって見えるように細工を施した。そして牢から出て再び鍵を閉めると、来た時と同様に足音を忍ばせて歩き始める。ルークもそれに習って後に続いた。
牢の出口付近にある詰め所の中では、牢番が3人共机に伏して眠り込んでいる。机や床に酒瓶が何本も転がっており、古典的な手法だが、おそらくそれに眠り薬でも入っていたのだろう。よく眠っている様子だが、それでも用心しながらサイラスは鍵の束を元の位置に戻しておき、2人は忍び足で外へ出た。日が沈んでいて、辺りは真っ暗だった。
「ルーク卿、サイラス、こっちだ」
植え込みの陰から2人の人物が手招きしている。呼ばれた2人は急いで彼等の側に行く。
「一体……」
呼んでいたのはルークと顔見知りの竜騎士だった。2人ともユリウスと同じ部隊に所属し、春に来た折には彼の鍛錬に付き合い、夕食も共にしていた。
「疑問はあるだろうが、とにかく話は後だ」
そう言って2人はルークを促して暗がりの中を移動していく。本宮に不慣れな彼にはどこをどう歩いたのか見当もつかなかったが、いつの間にか西棟の裏手、騎士団練武場の近くに来ていた。ここまで来ると、かがり火が焚かれて辺りが良く分かり、ルークは見覚えのある場所に着いて少しほっとする。
「来たか、こっちだ」
彼等の姿を見つけて別の人物が一行に手招きする。かがり火の灯りに照らし出されたその人物は、第1騎士団団長のブロワディであった。
「ブロワディ卿……」
「とにかくこちらへ。そこの部屋に着替えを用意した。風呂までは用意できないが、体を拭いて着替えなさい」
「は……はい」
飛竜に乗って長距離の移動をして汗をかいた上に、2日間も牢に閉じ込められていて、着ている物も汚れている。自分は鼻が慣れてしまっているが、相当臭うはずである。
ルークはブロワディの勧めにしたがって部屋に入ると、用意されていた桶の水で手と顔を洗い、布を濡らして全身を拭いた。それだけでも随分さっぱりとした気分になる。
そして用意されていた騎竜服に着替えたところでブロワディが騎竜服姿の竜騎士を連れて部屋に入ってきた。
「ありがとうございます、ブロワディ卿。助かりました」
「いや、礼には及ばない」
律儀に頭を下げるルークに彼は片手で制し、連れてきた竜騎士を紹介する。
「彼は私の部下のデューク卿だ。これから君は彼と共に使いとして出てもらう。行き先は彼が心得ているから、その後をついていけ。詳しくはそこで聞くといい」
「はい」
「急ぎましょう」
ルークは着替えと一緒に用意されていた騎竜帽をかぶり、ブロワディに一礼するとデュークについて部屋を出て行く。部屋の外にはサイラスやここまで案内してくれた2人だけでなく、他の見知った竜騎士も待っていた。
「これを持っていけ」
1人がおいしそうな匂いのする夜食の包みを手渡してくれる。牢ではしょっぱいスープと固いパンしか出なかったので、とてもありがたかった。
「ありがとう」
ルークは涙が出そうになるのをこらえて礼を言い、先に行くデュークの後を追って着場へ向かった。
着場はここへ着いた時にも感じたが、いつに無く物々しい雰囲気に包まれていた。煌々とかがり火が焚かれ、何を警戒しているのか出入り口には兵士が何人も武器を携えて立っている。
「許可証はあるか?」
兵士の中でも隊長格の男が着場へ出ようとした2人の前に立ちはだかる。使いで出かける竜騎士に許可証を求める事など今まで一度も無かったはずである。ルークは何か言いかけたが、デュークが彼を制し、懐から紙切れを出した。
「こちらを」
兵士はその紙を広げて目を通し、フンと鼻を鳴らすと、それをデュークに返した。
「よし、通れ」
ここで短慮を起こせば全てが水の泡である。兵士の態度にこみ上げてくる怒りを必死で抑え、ルークはデュークに続いてその兵士の前を通って着場に出た。
エアリアルは偽装のため、全身を赤褐色の染料で染められていた。知らない者が見れば、この飛竜がエアリアルとは思わないだろう。彼はルークの姿を見ると、うれしそうに頭を摺り寄せてきた。その姿に寸の間怒りが和らぐ。ルークはエアリアルの頭を軽く叩くと、ざっと装具を確認して飛竜の背に跨った。デュークも既に準備を整えている。うなずきあって合図を送ると、2頭の飛竜は一路南へ向かって飛び立った。
「一体、何が起こっているのですか? デューク卿」
本宮を飛び立ちしばらくして、ルークは前を飛ぶ竜騎士に尋ねた。
「その話は目的地についてからだ。それよりももらった夜食を食べたらどうだ?腹が減っているのだろう」
「は、はい……」
デュークの言う通り空腹を覚えていたルークは、エアリアルの背の上でもらった包みを器用に広げて夜食にかぶりついた。暗くて見えないが、薄焼きパンに肉やチーズが挟んである様だ。エアリアルの装具に水の入った皮袋が付けられていたので、それで喉を潤しながら黙々と口を動かし続け、腹を満たした。
本宮を出た時には夜も更けていたらしく、やがて東の地平線から日が昇り始めた。久しぶりに見る日の出にルークは深い感動を覚えた。
「ルーク卿、あの砦に降りる」
ずっと無言だったデュークが朝日に照らされた砦を指差した。エアリアルの相棒に選ばれてから第3騎士団へ配属されるまでの間、ルークは伝令として各地の砦や街へ使いに出ていた。彼の記憶が確かであれば、この砦はパルトラム砦と呼ばれ、第1騎士団と第2騎士団の管轄の境にあったはずだ。そして冬に使いで皇都へ来た折に、妖魔の襲撃に居合わせて応援が来るまで彼が力を貸した砦でもあった。
デュークに続いてルークもエアリアルを降下させる。2頭の飛竜が砦の着場に降りると、奥からユリウスが駆け出してきた。
「ルーク!無事でよかった」
「ユリウス……。君が助けてくれたのか?」
「ちょっと違う。とにかく中へ」
ユリウスはその場にいた数人の兵士に2頭の飛竜の世話を任せると、ルークを促して砦の中へと入っていく。その後ろにデュークが続く。急ぎ足で一行が向かったのは、砦の上層、責任者の部屋だった。
「失礼致します。」
ユリウスが扉を叩き、頭を下げて中に入ると、ルークとデュークもそれにならって中に入った。
「ルーク卿、無事でよかった」
部屋にいたのはユリウスの父、ブランドル公とこの砦の責任者らしき人物だった。
「ブランドル公……」
「疲れているだろう?先ずはそこに座りなさい」
ブランドル公に勧められ、ルークが用意された椅子に座ると、デュークとユリウスは戸口の近くに立って控えた。
「助け出すのが遅くなってすまない。諸事情があって準備に手間取り、時間がかかってしまった」
「いえ、助けて下さって感謝します。ですが、皇都で何が起こっているのですか?それにハルベルト殿下は?」
「…ハルベルト殿下はお亡くなりになられた」
「え?」
突然の事にルークは耳を疑った。
「やはり知らなかったか? その知らせが届いたのはもう半月も前の事だ」
「なぜ……」
「国主会議が開かれる礎の里へ向かう途中に海賊に襲われ、殿下を始め同行した第1騎士団の竜騎士も皆犠牲になった」
ブランドル公は淡々と言葉を続ける。
「そんな……」
「同行された竜騎士の中にはブランドル公のご子息もおられたのだ」
砦の責任者が口を添えると、ルークはユリウスとその父親の顔を見る。
「殿下に同行したのはわしの息子、エルフレートが率いる第2大隊だった。それ故、此度の責任をとって謹慎するようご下命があった」
「陛下が命ぜられたのですか?」
「……」
ブランドル公は答えなかった。国主の命令とあっては従わざるを得なかったのであろう。
「すぐにゲオルグ殿下によってハルベルト殿下の葬儀が行われた。エドワルド殿下だけでなく、ご自身の領地におられたサントリナ公も皇都へお戻りにならないうちに……。そしてゲオルグ殿下が国主代行の勅命を受けられ、その殿下によってワールウェイド公が宰相に任じられたのだ」
「なぜ、知らせが来なかったのですか? 私が皇都へ着いた日の明け方、エドワルド殿下はハルベルト殿下が亡くなられた事もご存知無かったのです」
自分の知らないところで敬愛するハルベルトだけでなく、多くの同胞が命を落としていた事を知り、ルークは知らずに涙を流していた。
「小竜の連絡網を使う場合、ロベリアやフォルビアヘはその北にあるワールウェイド領を通る。おそらく意図的にそこで止められた可能性がある」
「……」
「北にあるサントリナ領へは、名ばかりであってもゲオルグ殿下が総督を勤めるマルモアにある砦を通る。同様に情報が操作された恐れがある。
本宮を出る時に君も気付いたと思うが、竜騎士は己の任地外へ飛ぶ時には、許可証の携行を義務づける触れが出された。10日ほど前の事だ。これで彼らの意に沿わぬ知らせを持つ竜騎士を送る事も出来なくなった」
「ばかな!」
ルークは声を荒げた。
「竜騎士が自由に空を舞う権利を奪うのは言語道断の所業だ。一刻も早くエドワルド殿下に皇都へお帰りいただいて、この乱れた現状を正して頂かなくてはならない」
「もちろんです」
「わしは陸路、使いをフォルビア領とサントリナ領へと送った。サントリナ家からはすぐに返事が来たと言うのに、殿下からは未だ何の知らせも届いておらぬ。使いが途中で何らかの妨害にあったのか、殿下が砦で足止めされておるのか判断しかねる」
苦渋の色を浮かべたブランドル公の顔は、春に会った時よりも随分老けた印象を受ける。自慢の息子を失っただけでなく、先の見えない現状がそうさせているのだろう。
「そんな時に本宮に現れた君が捕らえられたと聞いた。君が来たと言う事はエドワルド殿下もすぐにお見えになるとそう思っていたのだが、翌日になってもその気配が無い。そこでブロワディ卿に頼んで君を救出し、こちらまで連れて来てもらったのだよ」
「そうでしたか……。ですが、私にも殿下がお見えにならない理由が分かりません」
「エドワルド殿下はハルベルト殿下の訃報を全くご存知無かったのだな?」
砦の責任者が疲れた様子のブランドル公に変わってルークに尋ねる。
「はい。私があの日、知らせを持って館に赴いたところ、ご一家はグロリア様の墓参りに出かけられて神殿に一泊されておいででした。視察も兼ねておられたようで、飛竜を使わずにお出かけになっておられました。
私は急いで神殿に向かい、ハルベルト殿下の事をアスター卿に伝えたのですが、彼もひどく驚いていました。すぐに殿下にお知らせし、一旦館に戻って準備が整い次第皇都へ向かうと言っておられたのです」
ここでルークは一旦言葉をきると、用意されていた飲み物で喉を潤した。
「フォルビアは前日からひどい嵐で、朝になってもまだ雷がなっていました。ご一行が出立するまでに多少は時間がかかったにしても遅すぎます」
ブランドル大公は何やら思案している。
「本当に何もご存知無かったのだな?」
「はい。フォルビアの親族達が着服した資金の返済期限の日まで、休養の為に館で過ごされる予定でした。資金が返済され、帰国したハルベルト殿下と落ち合ってから皇都へ向かう予定だったとうかがっています」
「そうか…。しかし、未だに殿下がお見えにならないのはおかしい」
「はい」
ブランドル公の言葉にルークも頷く。
「助けたからというわけではないが、君に頼みがある」
「何なりと」
「この皇都の様子を殿下にお伝えして欲しい。現在、竜騎士の移動は厳しく制限されているが、君はまだ牢にいることになっている。万が一見つかったとしても君とエアリアルのスピードにかなう竜騎士はタランテラにはいない。危険を伴うが、行ってくれるか?」
「もちろんです」
予測できた依頼である。ルークはブランドル公の頼みに大きくうなずいた。「ありがとう。だが、くれぐれも無理はしないでくれ。」
「はい。準備が出来次第、すぐに出発します」
ルークの答えにブランドル公も砦の責任者も苦笑する。
「それが無理だと言うのだ」
「せめて日が傾くまで待ってはどうだ?」
「え?」
首をかしげるルークに2人の年長者は諭すように言う。
「牢では大して寝ていないだろう?食事をして体を休め、それから出るといい」
「もしかしたら殿下が到着なさるかもしれない。そうでないにしても、暗くなってからの方が動きやすいだろう」
「あ……」
ルークは自分がお尋ね者だという事をようやく思い出した。そして気がかりな点に思い至る。
「そういえば、2人で本宮を出たのにデューク卿が1人で帰るのは怪しまれないですか?」
「それは大丈夫だ。私がデューク卿と本宮へ戻る」
口を開いたのは戸口に立つユリウスだった。
「ユリウス……」
「私が所用で本宮を離れているうちに今回の一件が起きた。以来、本宮へ戻る事も許されない」
ユリウスは悔しげな表情となる。
「第1騎士団の竜騎士だというのに?」
「ああ。聞いた話では、ハルベルト殿下の葬儀の後、セシーリア様と姫は喪中という理由で一切の面会を許されていない。行く事が出来ないならせめて手紙でもと思っていたが、どうやらそれも届いていない様子だ。私が行ってもどうにかなる訳でもないが、本宮の様子をこの目で確かめたい。もちろん、陛下のご様子も気になる」
ユリウスの口調からは固い決意がにじみ出ている。息子のその様子にブランドル公も硬い表情で頷いた。
「それゆえ、君のエアリアルを赤褐色に偽装させてもらった。ただ、あの染料は長くつけていると飛竜の皮膚でも炎症を起こす恐れがある。皇都から離れたら早目に洗い流してやってくれ」
「はい」
「それでは、我々は本宮に戻ります」
話が一段落したところでデュークが頭を下げる。申請した内容でいつまでも本宮を留守にすれば怪しまれてしまうのだろう。
「ルーク、無事を祈る」
ユリウスはそうルークに声をかけてデュークに続いて部屋を出て行こうとする。
「ありがとう。君も気をつけて」
「ああ」
2人の竜騎士は挨拶を交わして別れた。
皇都に戻るユリウスを見送った後、ルークは砦の侍官に湯殿へ案内してもらって汗を流し、用意してもらった食事で腹を満たした。そして久々にまともな寝台で夕刻まで体を休める事が出来た。
日が沈む頃、準備を整えたルークは砦の着場へ向かった。本宮から新たにもたらされた知らせでも、エドワルドが到着した様子は無く、ルークはフォルビアヘ向かうことを改めて決意した。
「こちらの状況を記した。これを殿下へお渡しして欲しい」
見送りに出てくれた砦の責任者が、1通の書状をルークに手渡す。ブランドル公は既に領地へ帰っており、この場には他に数名の竜騎士と侍官がいた。
「分かりました。お預かりいたします」
「これに食料が入っている。水は飛竜につけておいた」
竜騎士の1人が背嚢を手渡してくれる。記章からすると、この砦の隊長格の様だ。
「ありがとうございます」
ルークはそれを感謝して受け取り、偽装されたままのエアリアルにまたがった。彼は一度見送りしてくれた人々に頭を下げると、たそがれの空へ飛竜を飛び立たせた。
ルークとティムの野外活動2
ティムの心の叫び
1日目
暗いうちにルーク兄さんに叩き起こされ、体をほぐすのに付き合わされる。
本当は体力温存の為にぎりぎりまで寝ていたかったのに……。
しかも軽くほぐす程度だと思ったら、遠駆けに腕立て、腹筋、スクワット……いつもの鍛錬のメニューと変わらないじゃないか!
もうへとへとで朝食の席に着いた。
姉さんが用意した朝ごはんをルーク兄さんは幸せそうに食べている。
手を繋ぎ、見つめ合う2人を見ているだけで何だかこちらは胸がいっぱいだ。
そこっ、弟の存在忘れて口付けしないで!
……はいはい、邪魔者は早々に退散します。ごちそうさま。
日が昇る頃に館を出発。
今年も身分を公にしないでどこぞの自警団に所属している兄弟として旅行する。
最低限の変装としてルーク兄さんは渋草の実で作った染料で髪を黒く染めていた。
見慣れないからか、それだけで別人に見えてしまうから不思議だ。
のんびりと馬を駆り、夕刻にはフォルビアの街に着いた。
今日はここで宿に泊まる。野宿じゃないと聞いて一安心した。
2日目
宿屋に泊ったので、今朝の鍛錬は室内で出来る程度の軽いもので済んだ。
とりあえずホッとした。
宿で朝ごはんを済ませると、すぐに出立する。
今日は馬を駆るペースを上げて街道を北上した。
……安心するのは早かった。
今朝の不足分だと言って、早々に決めた野営地でいつも通りの鍛錬に付き合わされた。
夕飯が無性においしく感じたよ……。
3日目
夜中に起こされて不寝番を交代する。
眠くてついうとうとしていると、まだ暗いうちに起き出したルーク兄さんに、逆に起こされた。
当然、朝食前にいつも通りの鍛錬をする。
去年はここまできつくなかった気がするので思い切って聞いてみると、「この秋から第3騎士団に入るなら体を慣らしておけ」とリーガス卿に言われたのだとか……。
それで生真面目な兄さんはいつも自分がしているメニューを俺にもさせているらしい。
恨むよ、リーガス卿……。
山道が思ったよりも整備されていて、旅程が捗った。
今夜も野宿。
4日目
少し仮眠がしたいからと、今日も暗いうちに起こされた。
空腹だったので先に朝食を用意していたら、その匂いにつられてルーク兄さんも起きてしまった。
食事が先になったので、鍛錬は軽く済ませてから出立。
お昼前に湯治場に到着した。
昼食に立ち寄った食堂のおばちゃんにルーク兄さんは随分と気に入られていた。
頼んだ料理よりもおまけの方が多いんじゃないかな……。
お腹が膨れてうとうとしていたら、夜にまた出直すぞと言って兄さんが席を立った。
慌ててその後を追い、一旦宿に戻る。
夜、あの食堂に行ってみると、ガタイのいい男達が酒盛りの真最中だった。
とりあえず隅の方の席に座っていたが、いつの間にかルーク兄さんも彼等になじんで一緒に酒杯を上げている。
初対面の人とも違和感なくすぐに馴染む。あれって才能だよな……。
俺は酒盛りに加わるのはまだ早いと言われて先に宿へ帰された。
でも、今夜はベッドでゆっくり寝られるのが何より嬉しい。
5日目
ルーク兄さんがベッドで呻いている……。
久しぶりに飲み過ぎたと言って姉さんが持たせてくれた薬を飲んでいた。
あの後、ガタイのいい男達と飲み比べをしたらしい。
まあ、こうなるのは当然か。
動けないもんだから用事を押し付けられた。
ここから北に温泉の熱を利用して薬草を育てる施設が有るらしい。
ひとっ走りして見て来いだって……。
具体的な位置も分かんないのに。
仕方ないから山道に沿って北に向かったら目当ての場所に着いた。
兄さんが聞き出した情報通り、立派な温室がいくつも建てられ、周囲は高い塀で囲まれている。
ちらほらと見える人影は薬草の世話をしている人だろうか。
門には当然、昨日見かけたようないかつい男達が見張りをしている。
見つからないように少し離れた立ち木に隠れ、場所を変えながら数枚のスケッチを仕上げて宿に戻った。
……兄さんは古傷の治療と称して温泉を満喫中だった。
俺が苦労している間に酷いよ。
抗議したら夕食に好物ばかりを用意してあった。
こんなもので……こんなもので……ごまかされ……て……しまった。
明日の出立も早いので、今夜は早々に床に就いた。
6日目
早朝に宿を出て、今度は南東に向かう。
去年、酷い目に合ったヘデラ夫妻のおひざ元へ向かうと聞いて一気にやる気をなくした。
気分を象徴するかのように空はどんよりとした曇り空。
午後になって雨が降り出してしまった。
途中の村で宿を頼んだところ、村の人が快く引き受けてくれた。
お礼代わりに力仕事を引き受けると、随分と喜んでくれた。
夕食もごちそうになり、整えてくれた寝台に横になる。
今夜は野宿の予定だったので、余計に嬉しい。
7日目
朝起きると、雨が止んでいたので早々に村を出発する。
早いのに村の人が見送りしてくれた。
ぬかるんだ道で馬が歩きにくそうにしている。
去年もそういえばそうだった。
全然変わっていないな。
途中の休憩で今日の分の鍛錬をさせられた。
剣術はあまり得意ではないと兄さんは言うけど、俺はまだ初心者だからね?
だから本気ださないで!
休憩のはずがたっぷりしごかれてくたくたになった。
そのまま次の町に向かう。
相変わらず貧富の差が激しい街だ。
しかも兄さんはわざわざ下町の宿を選ぶし……。
しごかれてくたくただったので、早々にベッドにもぐりこんだ。
8日目。
昨夜は2度も賊が侵入したらしい。
全然気づかなかった。
兄さんは紳士的にお引き取り願ったと言っていたけど……。
小耳にはさんだ話だと、宿の外にガラの悪そうな男が転がっていたらしい。
しかも身ぐるみはがされて。
まあ、この辺りなら当然か。
町を散策するのも気を抜けない。
走り回っている子供達ですら懐の物を狙ってくる。
俺はまだ対処しきれないので、金目の物は全て兄さんに預けた。
さすがだよ、兄さん。見事守り切ってくれた。
あまり長居したくないのは兄さんも同様だったらしく、早々に町を出た。
ここの事は早急に対処が必要だといつになく真剣にメモを取っていた。
今日は野宿。
寝る前にまたしごかれた。
くたくたで眠たかったけど、昨夜はほとんど寝てないからと先に兄さんが寝てしまった。
仕方なく不寝番。
だけど夜中に交代してくれた。
9日目
やっぱり夜明け前に叩き起こされた。
半分寝ながら鍛錬に付き合っていたら、弛んでいるぞと怒られた。
あの……まだ見習いにもなっていないんですけど?
もうちょっと軽い鍛錬から始めてはいけないんでしょうか?
今日は更に試練を与えられた。
夕食は自分の手で確保しろだって。
しかも釣竿も網も弓矢も禁止。
俺に何を求めているんですか?
仕方ないので、兄さんの真似をして木の枝を削って銛を作ってみた。
……うまく突けなかった。
仕方なく手づかみで捕まえたのは小ぶりな魚が2匹。
腹の足しにもならない。
可哀想に思ってくれたのか、パンは出してくれた。
俺が疲れているのを察してくれた兄さんが今夜は不寝番を引き受けてくれた。
10日目
今日も日の出前に起こされた。
心の叫びが聞こえたのか、今日の鍛錬は何時になく軽かった。
簡単な朝食を済ませてから出発。
午前中の早い時間帯にフォルビア正神殿に到着。
グロリア様の霊廟に花を供えて祈った。
ここには兄さんの知人がいるらしく、変装しているのがばれるのを警戒して早々に神殿を後にする。
ご一家が参られる時に俺も同道するからまたゆっくり祈ればいいか。
それにしてもいつになく警備が物々しい。
兄さんも何か引っかかったようだ。
とりあえず用事は全て済んだ。
やっと帰れる……。