42 宴の夜に1
新年となる春分を過ぎ、更に20日ほど経っていた。地表を覆っていた霧が晴れ、ここ10日あまりは妖魔の襲来も無く、今期はもう妖魔の活動は終わったと判断したエドワルドは、東と西の砦から竜騎士を引き上げさせた。久しぶりに総督府に竜騎士が全員揃い、エドワルドは少し遅くなったが、団長として新年の挨拶をする。
「先ずは皆の顔を無事に見ることが出来てほっとしている。まだ警戒は必要だと思うが、この度の妖魔の襲来は終りと思って良いだろう。改めて新年を皆と迎える喜びを分かち合いたい。だが、その前に皆に詫びておかねばならない。私の不覚により、襲来の激しい時期に負傷してしまい、皆に更なる負担を強いた事、申し訳なく思う。そして、力をあわせて乗り切ってくれた事を深く感謝する」
エドワルドは一同に対し、頭を下げた。逆に驚いたのが団員達である。
「だ……団長、頭を上げて下さい」
「誰がそうなってもおかしくありませんでした」
「そうです」
リーガスとクレストが慌てて言うと、頭を下げているエドワルドの横でアスターが頷いている。マリーリアは何か言いたげであったが、硬い表情で口をつぐんでいた。
「ありがとう。だが、感謝の気持ちは受け取って欲しい。冬季分の団長職の給与を皆に振り分ける事にした」
「え?」
あまりの思い切りの良さに一同は驚きを隠せなかった。エドワルドは更に続ける。
「既に兄上に申し出て、手続きを済ませている。近々渡せるだろうから、受け取って欲しい」
「何もそこまでなさらなくても……」
アスターが困惑したように言う。彼も初耳だった様だ。
「良いのだ。特にアスターは私の替わりに良くやってくれた。リーガスもクレストもそれぞれの砦で先頭に立って乗り切ってくれた。私はこの夏でおそらく皇都へ移動する事になると思うが、2人には後任の団長の補佐役をよろしく頼む」
「団長……」
リーガスとクレストはそれ以上言葉が続かなかった。
「それからルーク」
「は、はい」
突然声をかけられて彼は驚いて答える。
「ルークにも感謝せねばならない」
「え、何ですか?」
「厳冬の最中に皇都へ使いに行ってもらった。その礼がまだだったな」
「あ、それは……」
彼は途中で遭遇した討伐に余計な手出しをした上に負傷して帰ったので、傷が回復するまで謹慎を命じられていた。今は傷もすっかり良くなり、謹慎も解かれていたのだが、グロリアの館へはまだ行かせてもらってなかった。
「どうしてか君の場合は褒める事をしても、先に怒る事があって後回しになる。夏に続いて2度目だな」
「……」
彼は言い返す事が出来ずに真っ赤になってうつむいていた。
「とにかく礼をしたい。希望があれば聞こう」
「……本当によろしいですか?」
いつもそういった褒美の類を断ってばかりの彼にしては、珍しく素直に受けるつもりのようだ。エドワルドは珍しいと思いつつ、彼に先をうながした。
「ああ、かまわない」
「では、10日ほど休暇をください。実家にはいつも予告無く立ち寄るしか出来ないので、たまにはのんびり過ごしたいです」
ルークが頭を下げて言うと、エドワルドは親孝行な彼らしい望みだと思った。
「それで良いのか?」
「はい」
「分かった、夏至の頃でもかまわないか?」
「はい、ありがとうございます」
ルークは改めて深々と頭を下げた。
「それから、新年祭の折にはアスターと共に叔母上の館へ行ってくれ。頼むぞ」
「はい」
誰を迎えに行くかは聞かなくても分かる。久しぶりに彼女に会えると思うと、ルークは嬉しかった。そして顔がにやけそうになるのを必死でこらえた。
その後はみんなにワインが配られ、改めて冬を乗り切った事の慰労と新年を祝って乾杯した。そして昼食を兼ねた集まりは緊張が解けた竜騎士たちの笑い声が最後まで途切れることが無かった。
エドワルド主催の新年祭当日の早朝、グロリアの館に2頭の飛竜が降り立った。アスターのファルクレインとルークのエアリアルである。真っ先に玄関から出てきたのは外出着姿のオリガだった。
「ルーク!」
目の前にアスターが居るにもかかわらず、彼女はルークに抱きついた。焦ったのは彼の方である。
「オ……オリガ?」
「心配……したのよ」
見ると彼女はルークの腕の中でポロポロ涙を流している。彼は更にうろたえてしまう。
「ご……ごめん、本当に」
ルークが皇都へ使いに行って負傷した事は、しばらくの間オリガには伏せられていた。グロリアの看病で忙しい彼女に、余計な心配をかけまいとして彼が皆に口止めをしたのだ。ところがオリガの方が異変に気づいてしまい、エドワルドのお供で館を訪れたゴルトが追及されてばれてしまった。
謹慎は解けていたものの、グロリアの館へ行く事を禁止されていたルークは、とにかく怪我は治った事とその事を伏せていたことへの謝罪を手紙に書いて送り、許してもらったのだ。
だが、実際に会うまでは彼女も不安だったらしい。しばらくの間、彼女はそのまま泣き続けていた。アスターは肩をすくめると、何も言わずに2人をそっとしておいた。
その頃フロリエは出立の挨拶の為にグロリアの部屋にいた。実のところグロリアは、この数日間というものあまり病状が芳しくなく、起き上がることすら出来ないでいた。
当初の予定では前日からロベリアに泊まる予定だったのだが、グロリアの事が心配で迎えに来てもらうのを当日の朝に変えてもらっていた。それでもグロリアの病状は好転せず、フロリエは今日出かけるのを後ろめたく思い、躊躇っていた。
「お母様」
「そんな顔するでない……。せっかくの招待してもらったのじゃ、行っておいで」
「ですが……」
フロリエはグロリアの手を握り締める
「そして、自分の素直な気持ちをエドワルドに伝えてくるのじゃ」
「お母様……」
フロリエの目から涙が落ちる。それに気づいたグロリアが手を伸ばして涙をぬぐってくれる。
「本当に優しい娘だねぇ。バセットもオルティスもついて居る。心配いらぬ」
グロリアがフロリエの頭をなでてそう言うと、ようやく彼女も頷く。
「はい……」
グロリアは満足そうにうなずいた。その時、扉の外でオルティスが準備の整った事を告げる。
「楽しんでおいで」
「では、行って参ります。バセット医師、後をお願い致します」
フロリエは涙をふいて立ち上がると、寝台の反対側へ控えていたバセットに頭を下げる。
「かしこまりました」
バセットが頭を下げると、彼女はもう一度グロリアに頭を下げて寝室を後にした。居間ではオルティスと共にコリンシアも待っている。
「コリン様、おばば様をお願いしますね」
「はい、ママ・フロリエ」
フロリエは近寄ってきた姫君を抱きしめた。互いに軽く頬にキスをすると、フロリエはオルティスを伴って外へ出る。
「おはようございます」
2人の竜騎士が頭を下げて挨拶をしてくる。オリガもどうにか落ちついたらしく、ルークの脇に立っていた。
「どうぞこちらへ、フロリエ様」
アスターがファルクレインの方へ手を引いてくれる。
「アスター卿、様は辞めて下さいませ。気恥ずかしゅうございます」
「ですが、グロリア様のご養女になられました」
「……」
彼は微笑みながらそう答えると、ファルクレインを屈ませる。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます……」
アスターに手助けしてもらいながら彼はファルクレインの背に乗る。騎乗用の補助具をつけてもらっている間、彼女はファルクレインの首に触れて挨拶をする。
「よろしく、ファルクレイン」
飛竜が嬉しそうに後ろへ首を回すと、その頭を彼女は軽く撫でた。
「彼は喜んでいますよ。さあ、そろそろ行きましょうか?」
「はい、お願いします」
ルークも恋人を飛竜の背に乗せて準備を整えて待っていた。アスターは一度オルティスに頭を下げると、フロリエの前に乗ってファルクレインを飛び立たせ、エアリアルもそれに続く。夜が明けたばかりの空を2頭の飛竜はロベリアに向かって飛び立った。
マリーリアは信じられない思いで姿見に映る自分の姿を見ていた。今いる部屋は狭い自分の宿舎ではなく、総督府内の客間の一つだった。支度をする前に湯浴みも必要だろうし、着替えをするのは広い部屋の方がいいだろうと言って、エドワルドが手配してくれたのだ。
先ずは午前中から湯浴みを始め、頭の天辺からつま先まで丹念に磨きをかけた。本当は自分ですると言ったのだが、ジーンが手配した侍女が問答無用で爪を磨くのまで手伝ってくれた。顔に香油を塗って肌を整え、化粧を施していく。そして少し短いながらも髪を結い上げ、バラの髪飾りをつけた。そしてあの真紅のドレスに袖を通し、一緒に用意してもらったレースの手袋をして扇子を持つ。最後に真紅のかかとの高い靴を履いた。今までこういった集まりに出ても、竜騎士礼装で済ませていた彼女はここまで着飾った事は無かった。
「どう?」
姿見に見入っているマリーリアに、先に竜騎士礼装に着替えて彼女の支度を侍女と一緒に手伝っていたジーンは満足そうに声をかける。
「なんだか、別人みたい」
マリーリアは信じられない面持ちで自分の姿を眺めていた。そこへ扉を叩く音がする。侍女が扉を開けて応対すると、竜騎士礼装姿のリーガスとルークが立っていた。
「そろそろ時間だが、マリーリア卿の支度は?」
「整ってございます」
リーガスとも面識のある年かさの侍女は、一度部屋の奥に戻って女性2人に迎えが来た事を告げる。ジーンは侍女に礼を言うと、マリーリアの手を引いて2人の前に連れ出って現れた。
「!」
「あの……おかしいですか?」
硬直している2人に、マリーリアは不安になって尋ねる。
「いや……驚いた」
「そうでしょう?」
古参の侍女が半日かけて仕上げた傑作に、ジーンも大層満足げである。
「リーガス、ルーク、何している?遅れるぞ。」
廊下に立ったまま呆然としている2人を見て、同じく竜騎士礼装姿のアスターが声をかけてくる。
「あ……はい」
やっと我に返ったリーガスは自分の妻に、未だ呆然としているルークはマリーリアに手を差し出す。マリーリアはその手を取ってゆっくりと部屋を出て、アスターの前に姿を現した。
「……」
「いかがですか?アスター卿」
部下同様絶句したアスターにジーンが尋ねる。彼女は彼がマリーリアに赤い衣装を勧めたのを聞いていたので、どんな反応をするか試してみたのだ。
「よくお似合いだ。もうじき始まる。お連れしてくれ」
「はい」
最初の衝撃から立ち直ると、アスターはいつもの理性を取り戻して2人に指示を与える。リーガスとジーンは夫婦で出席し、ルークは会場までマリーリアを案内する手はずとなっていた。
「お支度、ありがとうございました。行って来ます」
マリーリアは着替えを手伝ってくれた侍女に軽く会釈をすると、ルークに手を取られて舞踏会の会場となる広間へと向かった。ジーンもリーガスに手を取られて2人仲良くその後に続く。
「まいったな……」
彼らの姿が見えなくなり、誰もいなくなった廊下でアスターはつぶやく。着飾ったマリーリアの姿に目を奪われ、少しの間我を忘れていたのだ。
彼にはエドワルド直々に頼まれた重要な任務があった。主催者として身動きの取れない彼に代わり、会場までフロリエをエスコートするという重大な任務だった。深呼吸して気持ちを落ち着けると、この先にある彼女の為に用意された部屋に彼はようやく足を向けた。
舞踏会の会場となった総督府の大広間はたくさんの人が集まっていた。特に入念に着飾った若い女性の姿が目立つ。エドワルドが長く付き合ってきたエルデネートと別れた事は既に知れわたっており、彼が本気で結婚相手を探していると思われていたからである。招待されている有力者達は、こぞって自分の身内にいる若い女性を着飾らせて同伴させていた。
そんな中に姿を現したマリーリアは会場中の注目を浴びる事となった。困った事に広間の入り口は少し高い位置に設けられており、そこから階段を使って降りていかねばならない。階段の手前で一度立ち止まると、嫌でも人目についてしまう。
「どちらの御令嬢?」
「皇家の方かしら?」
方々でそんなささやきが交わされている。そんな中、来客を告げる係りが高らかと彼女の名を呼び上げる。
「ワールウェイド公ご息女、マリーリア・ジョアン・ディア・ワールウェイド様」
彼女が5大公家の息女と分かり、大きなどよめきが起こる。マリーリアは一同に対し軽く頭を下げ、ルークに手を引かれて階段をゆっくりと降りていく。そして役目を終えたルークは彼女に頭を下げて目立たぬように会場の端へと移動する。
そこへ本日の主催者、エドワルドが姿を現す。皇家の紋章を金糸と銀糸で胸に刺繍された、文官用の丈の長い礼服に身を包み、毛皮をあしらった長衣をその上からまとった姿は貫禄充分であった。
「ロベリア総督、エドワルド・クラウス・ディ・タランテイル様。」
係りがエドワルドの名を告げ終わる前に会場から大きな歓声が起こり、それを押し消してしまう。エドワルドは階段を降りる前に片手を上げて歓声に応える。
「本日は私主催の舞踏会へようこそおいで下さいました。長き冬は去り、ようやく訪れたこの春の良き日を楽しんでいただけたら幸いに思います」
そう、簡単に挨拶をすると階段を降り、真直ぐにマリーリアの下へ向かう。
「一曲目は私と踊って下さい」
エドワルドは丁寧に頭を下げて彼女に踊りを申し込む。マリーリアも拒むことはせずに差し出された彼の手にそっと手を乗せる。手を取り合った2人が広間の中央に進むと音楽が流れだし、2人は軽やかに踊り始めた。
「なかなか似合うじゃないか。見違えたぞ」
「皆さんのおかげです」
2人は軽々とステップを踏みながら会話を交わす。
「竜騎士礼装よりよほど良い」
「お世辞を言われましても何も出ませんが?」
「相変わらずだな」
会場は2人の優雅で流れるようなダンスに釘付けになっている。
「ところでフロリエ嬢は?」
「少し遅らせる様にアスターに指示している。3曲目くらいには来るかな」
「楽しみですか?」
「当たり前だろう?」
エドワルドはさらりと応えた。その様子にマリーリアはクスリと笑うと、後は無言で彼との踊りに集中したのだった。
やがて曲が終わり、2人は深々と頭を下げる。すると会場からは大きな歓声が沸き起こった。エドワルドは続けて踊ろうとはせずに、彼女を伴い主だった有力者に挨拶をして回った。そして給仕からワインを受け取って喉を潤し、彼にとっての本命が会場に姿を現すのを待った。
フロリエはその頃、エドワルドが用意してくれた豪華な客室で姿見の前に置かれた椅子に座り、オリガに髪を結い上げてもらっていた。
「本当にすてきです。フロリエ様」
「……ありがとう」
フロリエの表情は硬かった。刻限が迫るにつれて緊張が高まってくる。着飾ることは嫌いではないが、本当に自分が出ても大丈夫か不安で仕方なかった。昨年夏に招待された夜会でワザとらしく交わされていた悪意のこもった会話も思い出してしまう。
「フロリエ様?」
「……」
彼女の握り締めた手が小刻みに震えている事にオリガは気づいた。ルルーも彼女の膝の上で心配そうに見上げている。
「大丈夫ですよ、フロリエ様。さ、出来ました。姿見をご覧になりますか?」
フロリエが小さく頷くと、オリガは手を差し出して彼女が立ち上がるのを助けてくれる。彼女は片腕でルルーを抱いて椅子から立ち上がると、全身映る姿見の前に移動し、ルルーに意識を集中させる。そこには見知らぬ貴婦人が立っているようにも見える。先日も着た薄紅色のドレスも、頭を飾る金のティアラも誇らしげに輝いて見えるが、自分の顔だけが何故か貧相に見えて仕方が無かった。
「……」
「お気に召しませんか?」
黙ったままのフロリエにオリガは心配そうに尋ねる。
「いえ……きれいに仕上げてくれてありがとう」
「自信をお持ち下さいませ」
「……」
フロリエの顔は青ざめていた。本当にとんでもない所へ来てしまったような気がする。その不安がルルーにも映り、小竜は不安げに彼女を見上げていた。
やがて扉を叩く音がする。オリガは隣の次の間に出て廊下への扉を開けると、そこにはアスターが立っていた。
「フロリエ様のお支度はお済みでしょうか? お迎えに上がりました」
「はい。お呼びして参ります」
礼儀正しく聞いてくる彼にオリガも頭を下げて応える。一旦、奥の部屋へ彼女は戻り、やがて奥からフロリエの手を引いて次の間に現れた。
「ほぉ……」
アスターは思わず息をのんだ。この1年余りの間、彼女がここまで着飾った姿を見たことは無かった。着飾ればどこの令嬢にも引けはとらないであろうとも予測はしていたが、あまりの美しさに言葉がすぐに出なかった。
「あの……」
絶句したアスターにフロリエは不安になり、声をかけた。彼はいつもの冷静さを取り戻すと、笑顔で彼女に頭を下げる。
「失礼致しました。殿下がお待ちでございます」
「は、はい……」
彼女は震える声で答えると、腕に抱いていたルルーの背中をなでて落ち着かせてからオリガに預けた。そしてアスターに震える手を差し出す。
「参りましょう」
彼は自分の腕に彼女を捕まらせて会場へ向かった。会場で流れている音楽が近づくにつれて手の震えがひどくなる気がする。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……。もう、始まっているのですか?」
「そうです。殿下が少し遅れてお連れする様に指示されましたので」
主催者よりも送れて着くのは、非常に無作法で目立ってしまう気がしてフロリエは震え上がってしまう。
「そ……そんな……」
「殿下を信じて下さい。大丈夫です」
「……」
そうしている内に会場となっている広間の扉の外に着いた。ちょうど曲が終わるのを待って係りに扉を開けさせる。
「さ、行きましょう。階段がありますから、その前で一度止まります」
「は……はい」
アスターは小声でフロリエに説明する。ここまで来てしまっては逃げる事も出来ない。彼女は足が震えるのを必死でこらえながら彼について歩くと、数歩で再び立ち止まった。彼女には見えないものの、会場中の視線を集めているのを痛いほどに感じる。
「フォルビア公グロリア様御息女、フロリエ・ディア・フォルビア様」
名前が紹介されたので、彼女はその場で腰をかがめて挨拶をする。グロリアの娘という事と彼女の美しさに、会場は驚きのあまりどよめいている。
「ゆっくり降ります」
小声でアスターが伝えるので、小さくうなずいた。一段一段彼も慎重に足を運び、下まで降りた。
「殿下が目の前にいらっしゃいます」
フロリエはそれを聞くと、深く腰をかがめた。
「フロリエ、良く来てくれた」
エドワルドの声がする。気配で隣にマリーリアが居るのも分かった。おそらく周囲にはたくさんの人が興味深げに彼女を見ているのだろう。たくさんの視線も感じる。
「本日はお招きありがとうございます。病に伏しております母の名代で参りました。更には遅参いたしました無作法をお詫びいたします」
「それは私が指示した事、気になさるな。堅苦しい挨拶は止めにして、今宵は楽しみましょう。頭を上げて下さい」
エドワルドが苦笑混じりに言うと、彼女はようやく顔を上げた。
「さ、お手をどうぞ」
彼に促されて彼女はおずおずと手を差し出す。彼はその手を取ると、手の甲に軽くキスをする。エドワルドがフロリエに親しく話しかける様子に周囲がざわついている。
「一曲、お相手願います」
「はい……」
エドワルドに手を引かれてフロリエは会場の中央に連れて行かれる。音楽が流れ始めて2人は一礼をすると踊り始めた。
「来て下さって本当に良かった」
「……」
「そう、緊張なさらないで。ゆったりと私に合わせて下さい」
エドワルドはフロリエの緊張をほぐすために、難しいステップは控えて彼女が合わせやすいように心がけて踊った。おかげで徐々に彼女も慣れてきて、だんだんと緊張も解けてきた様子である。
「やはりワルツもお上手だ」
「殿下のおかげでございます」
フロリエはようやくの事で返事をするが、彼女の手はまだ少し震えている。
「心配は要らない。私があなたをお守りします」
エドワルドの言葉に、フロリエは頬を染める。当初はざわついていた会場も、いつの間にか2人の踊る姿に魅了されて静まり返っていた。やがて曲が終わり、2人が優雅に礼をすると、その姿に魅了された人々から大きな歓声が上がっていた。
「これで私の役割は終りですね」
物憂げにマリーリアがつぶやく。彼女がこの場にいるのはひとえにエドワルドのお嫁さん候補とされていて、彼にその気は無くても彼女を招待しないと後に彼の外聞が悪くなるからにすぎない。一度彼と踊った事で義理は果たせた。彼が本当に待ち望んでいた女性と幸せそうに踊る姿を見届けると、マリーリアは広間の出口に向かった。
「どうした、もう帰るのか?」
そこには警備を兼ねているのか、アスターが立っていた。
「ええ。役目は終えましたし、父の名が知られてしまいましたので、早々に戻ろうと思います」
地方に居る有力者はたいてい国政と深いかかわりがある人物と仲良くなりたがるものである。5大公家の当主の娘と懇意になりたいと思う者が少なからずいるはずであった。先ほどまではエドワルドが側にいてくれたので、何事も無かったが、彼は今、フロリエの相手をしている。1人でいれば父親に自分を取り次いで欲しいという申し込みが殺到するだろう。面倒な事になる前に帰りたかった。
「もったいない。すぐに崩してしまったら皆が残念がるぞ」
「ですが、あまり長居をしても……」
すると、アスターはすっと手を差し出す。
「殿下ほど上手くは無いが、踊ってくれるか?」
「アスター卿?」
「少なくとも私の側にいれば変な輩が話しかけてくることはあるまい」
口に出しては言わないが、これもエドワルドに彼が頼まれていた事であった。彼がエドワルドの腹心である事は周知の事実である。その彼の目の前で彼女に無体な真似が出来る者がこのロベリアにはいないからだ。もっとも、エドワルドに頼まれるまでもなく、彼はこの役目を自ら申し出るつもりだった。
「……ルーク卿よりは、はるかにお上手でしたね」
マリーリアの返答にアスターは肩を震わせる。共に夏至祭の舞踏会を思い出していた。
「相手の足を踏まない程度には踊れますよ」
「それではお願いします」
マリーリアはアスターの手に自分の手を重ねた。そして曲が変わるのを待って2人で広間の中ほどへ歩いていく。
意外な取り合わせに会場から大きなざわめきが起こる。
「あれはアスター卿?」
「あの方いつもは踊られないのに……」
「踊れるのか本当に?」
今までアスターはこういった場では踊ろうとはしてこなかったので、皆、半信半疑のようである。一方のマリーリアは先ほどエドワルドと高度なダンスを踊っているので、その技術は証明済みであった。どんな踊りになるか、皆が注目している。
やがて音楽が流れ始めると、大方の予想に反してアスターはマリーリアをリードして軽やかなステップを踏み始める。その腕前に皆が感嘆の声を上げる。
「お見事です」
「どういたしまして」
マリーリアとアスターは短く会話を交わすと、その後は無言でステップを踏んでいく。彼自身はエドワルドには及ばないと言っていたが、その技術は彼に劣らない程高度なものだった。その様子をエドワルドは会場の隅から眺めていた。
「アスターがマリーリアと踊っている」
「まあ……」
一曲踊ったので、エドワルドはフロリエを上座へ案内して休憩していた。給仕からワインを受け取り、乾いた喉を潤す。
「珍しい光景かも知れないな」
そう言いつつも彼の視線は既にフロリエへ戻っている。緊張でこわばっていた表情も一曲踊る間に和らぎ、上気して頬が少し染まっている。彼はいくら眺めても飽きないようで、先ほどからずっと彼女を見つめていた。
逆にフロリエはずっと主催者であるエドワルドが側にいる事に申し訳なく思っていた。
「殿下は他の方を誘わなくてよろしいのですか?」
「今日の予定は全てあなたで埋めてありますよ。招待状をお渡しした時に申し上げたでしょう?ずっと側にいるといい、と」
「殿下……」
「次の曲はまた踊って下さい。せっかく来て下さったのだから、共に楽しみましょう」
エドワルドはそう言うと、フロリエの手を取って再びキスをした。申し訳ないと思いつつも、彼女は彼の気持ちがとてもうれしかった。頬を染めて頷いた。
「はい、御心のままに……」
リーガスとジーン愛の劇場? その4
今宵は舞踏会である。
この地方で最も格式が高いとされている夜会の1つだ。
隊長を勤めているために毎年招待されてるが、自分には正直、苦痛な時間でもある。
だが、今年は楽しみが一つだけあった。
新妻のジーンがどんな装いをするか当日まで内緒だと言って教えてくれなかったのだ。
これから迎えに行くのが実に楽しみである。
「少しお待ちくださいませ」
マリーリア卿を迎えにきたルークと共に支度をしている部屋に行くと、応対に出た顔見知りの侍女が2人を呼びに奥へ戻っていく。
そして衣擦れの音と共に2人が姿を現した。
最初に目に入ったのは真紅のドレスを纏ったマリーリア卿。普段と異なるドレスアップした姿に私もルークも言葉を失くす。
そして最初の驚愕から覚めて隣に立つ妻の姿を見て私は再び絶句する。
「な……」
何で、いつもと同じ竜騎士礼装なんだ?
「ふふっ、驚いた?」
悪戯っぽい目で彼女は私を見上げる。
「これで出席できるのも最後だからね。見納めよ」
「……」
確かにそうかもしれないが……。
「それに……こっちの方が楽なんだもん」
それが本音か……。