2 不可解な遭難者2
はるか昔、
人々は妖魔に脅えて暮らしていた。
数多の神々に願えども、それはかなわず、
人々は大陸の片隅で細々と生きながらえていた。
やがて一人の若者が神々に願い出る。
「御身が成さぬのであれば、我等に力を与え給え」
渋る神々の中で唯一柱、大いなる母神ダナシア様は
若者に飛竜と力を与え給う。
世にも稀なる飛竜を駆り、
悪しき妖魔を打ち払う。
やがて勇気あるその若者は、
人々より竜騎士と呼ばれ、敬われ給う。
見習いとして神殿に上がったばかりの神官達が暗唱している「始祖の竜騎士の詩」がどこからともなく聞こえてくる。気の重い来客の応対を終えたフォルビア正神殿神官長のロイス・ディ・バルテルは、若い神官達の声を聞いて苛立つ気持ちを抑え込んだ。
今日の客は神殿の総本山、礎の里から来ていたのだが、正直に言って迷惑だった。大陸の南方にある礎の里と異なり、春分を間近に控えていてもこの国ではまだ冬の討伐期は終わりを迎えてはいないのだ。実際に討伐するのは竜騎士でも神殿にはその補助をする役割もある。まだまだ忙しいこの時期にわざわざ国境を越えて訪れたにしてはそれ程急を要する内容ではなかったために、彼は苛立ちを募らせていたのだ。
「如何なさるのですか?」
一緒に話を聞いていた補佐役のトビアスがロイスを振り仰ぐ。彼は深いため息をつくと使者が寄越した書簡にもう一度目を通す。書かれているのはフォルビア正神殿にある温室を向こう1年間研究の為に使用するといった内容だった。
研究に役立つのであれば断る理由などないが、打診もなくいきなり温室全てを使わせろというのはあまりにも横暴である。植えられているのはこの北の地では希少な薬草ばかりなのだ。本当は断りたいのだが、相手は現在の礎の里で最も影響力の強い人物。同じ高神官でも地方の神官長でしかない彼が逆らうのは得策ではなかった。
「相手がベルク準賢者殿では受けざるを得ないでしょう」
「しかし……」
「今植えているものを移植できないか近隣の神殿に協力を仰いでください」
「分かりました」
「忙しいとは思いますが、よろしく頼みますよ」
ロイスの指示にトビアスも仕方なく頭を下げ、部屋を出て行った。
「それにしても……」
手中の手紙を見やりながらロイスは考えをめぐらす。使いに来たのはベルクの片腕とも称されるオットー高位神官だった。要請された内容に不釣り合いな大物が遥々この北国までやってきた事に違和感を覚える。
こちらを立ててくれたと思えなくもないのだが、それならばもう少し時期を考えるだろう。何も危険を冒してまで討伐期終了前に来ることはないのだ。おそらく、道中で妖魔に遭遇したのだろう、オットー自身も同伴していた竜騎士も随分消耗していたのだが、ほとんど休憩することなく次の目的地へ行ってしまった。
「何か、起ころうとしているのか?」
ロイスの自問自答は続く。ベルクの生家は大陸東部で手広く商いをしているカルネイロ商会だった。彼の伯父が賢者の1人になったことで各国の要人とのつながりを持ち、それによって大きくなったとも言われている。だが、陰では競争相手への妨害など良くない噂も耳にしている。
東方諸国をほぼ傘下に収め、次はタランテラの番なのだろうか? ロイスはこの美しい北の国で醜い争いが起きては欲しくなかった。
「神官長、ロベリアの第3騎士団から使いがお見えでございます」
物思いにふけっていると、戻ってきたトビアスに声をかけられる。里の使いに続いてロベリアからも使いが来るとは今日はまた随分と来客が多い日である。
それでもロベリアからの使いならば安心して応対できるのは相手が信用出来るからだろう。彼らを束ねているのはこの国の皇子でもあり、若いながらも総督を兼任しているエドワルドだ。彼ならば多少の無茶でも聞いても構わないと思えるのは人徳のなせる業だろう。
「お通ししてくれ」
先ほどまでの陰鬱な気分を振り払い、ロイスはトビアスに客を迎え入れるように命じた。
翌朝、親子で仲良く朝食をとっていると、侍女の一人が昨夜の女性が目を覚ましたと知らせに来た。エドワルドは衣服を改めると、早速女性の部屋へと足を向けた。コリンシアもついて来たがったが、連れて行くと落ち着いて話が出来そうにないので、知らせに来た侍女に預けて部屋で待つように言い含めておいた。
「おはよう、お嬢さん。気分はいかがですか?」
部屋に入ると、女性は枕を背に当てて半身を起していた。エドワルドが努めて明るく声をかけると、彼女はビクリとして脅えたように振り向く。
エメラルドのような緑の瞳が印象的で、まだ顔色は青白いものの整った顔立ちをしている。そして前日に助けた時にはもつれてしまっていた長い黒髪は、昨夜のうちに侍女達が丁寧に梳いたおかげで元のつややかさを取り戻し、肩から背中へと流れ落ちている。
「私はロベリア州総督、エドワルド・クラウス。ご家族の方が心配しておられると思う。貴女を保護している事を伝えておくから、お名前とお住まいを教えていただけますか?」
エドワルドは寝台の脇にある椅子に腰かけると、自ら名乗った。だが、彼女はどこかうつろで、脅えたように虚空を見つめる。
「名…前…?」
「そう、教えていただけますか?」
エドワルドは奇妙な違和感を覚えながらもう一度尋ねてみる。彼女はまだ気分が悪いのか、両手で頭を抱えて苦しそうにしている。
「わから……ない……」
「お嬢さん?」
「怖い……」
彼女は頭を抱えたままわなわなと震えはじめる。
「おいっ、どうした?」
エドワルドは彼女の華奢な肩をつかんで自分に向けさせる。彼女は自分を見ているのだが、視線はどこか宙をさまよっている。もしやと思い、エドワルドは手を女性の目の前にかざして振ってみるが、反応がない。
「そなた、見えてないのか?」
そこへ騒ぎを聞きつけた侍女の一人がやってくる。すかさず彼は鋭く命じる。
「リューグナーをすぐに呼べ」
「は……はい、ただ今……」
狼狽しながら侍女はすぐに部屋を出ていき、入れ替わりに不機嫌そうなグロリアがやってきた。
「朝から一体何の騒ぎですか?」
グロリアは脅える女性の肩をつかんでいるエドワルドの姿を見て、眉間にしわを寄せる。
「エドワルド、そなたよこしまな事を考えたのではないでしょうね?」
「ち……違いますよ。名前を聞いたら苦しみだしたのです」
グロリアに何を疑われたか気付き、エドワルドはあわてて否定して彼女から手を放した。彼女は頭を抱えてうずくまり、さらに脅えて震えている。確かにそう受け取られかねない状況である。
「そなたは席を外しなさい。リューグナーもすぐに来るでしょうし、妾が代わりに話を聞こう」
「わかりました」
確かに女性の寝所に男の自分がいつまでもいるべきでないと思い、エドワルドは後を大叔母と医者に任せる事にした。部屋を出ると、ちょうどリューグナーが医薬品の入ったカバンを抱えてやってきた。
「すまないが、頼む」
エドワルドが声をかけると、リューグナー医師は無言で頭を下げて部屋に入っていった。
「どうしたものか……」
部屋の外で思案していると、フォルビア家の家令オルティスがエドワルドを呼びに来た。
「殿下、アスター卿がお越しでございます」
「アスターが?わかった、すぐに行く」
昨日の探索の報告に来たのだろうと思い、エドワルドはオルティスを従えて館の1階にある居間に向かう。すると中から子供のはしゃいだ声が聞こえてくる。もしかして……と思い、部屋に入ってみると、背の高い、栗色の髪をした若い男の腕にコリンシアがぶら下がって遊んでいた。
「コリン、部屋で待っていなさいと言っただろう?」
「だって……退屈なんだもん」
一応、父親らしく注意するが、姫君はあまり堪えていないようで、アスターの腕にまだぶら下がって遊んでいる。
「すまないな、アスター」
「かまいませんよ、殿下」
アスターは笑いながら答えると、姫君を肩に乗せる。彼女はいつもより高くなった目線に喜び、今度は彼の栗色の髪をかき回し始めた。それでも彼は止めさせようとはせずに平然としている。子供の扱いはエドワルドよりもずいぶん慣れているようだ。
その間にオルティスが2人に暖かいお茶を用意してくれたので、エドワルドはソファに座ると早速それに口をつける。朝食がコリンシアと一緒だったため、彼は落ち着いて食事が出来ず、食べた気がしなかったのだ。
「あの後、付近を暗くなるまで探索しましたが、他に妖魔を見かけませんでした。ついでに近くの村にも寄ってみたのですが、行方不明になっている女性はいませんでした。探索が不十分だったと思いますので、今日も引き続きリーガスとケビンが昨日の付近を探索しています。ルークにも合流するように指示し、先ほど出て行きました」
姫君にずっと頭をかき回されながらアスターは淡々と報告する。その平常心に半ば感嘆しながらエドワルドは2杯目のお茶を口にする。
「わかった。何か手がかりが見付かるといいのだが……」
「あの女性はまだ目を覚まさないのですか?」
浮かない表情の上司にアスターが尋ねる。
「いや。目を覚ましたから話を聞きに行ったのだが、どうも様子がおかしい」
「おかしいといいますと?」
「目が見えていないらしい。おまけに名前を聞いてもわからないと言うし……」
「え?」
さすがに肝の据わった副官でも驚いたらしく、言葉に詰まる。
「昨夜のリューグナーの診察で、頭を打った痕があると言っていた。もしかしたら記憶を失っているのかもしれない。今はリューグナーが診てくれている。私では抵抗があるかもしれないからと、叔母上が話を聞いて下さることになった」
「一時的に混乱しているならばいいですが、そうでないと困った事になりますね」
「ああ」
深刻な状況なのだが5歳の子供にわかるはずも無く、肩の上が飽きたコリンシアはアスターから降りると、今度はソファに座る父親にダイブしてくる。狙いが少しずれて彼女の膝がエドワルドの鳩尾に入る。いくら子供の膝でも不意に入ると相当きつく、彼はうめいて腹を抱える。
「うっ……」
「殿下、大丈夫ですか?」
アスターがあわててコリンシアを止めようとするが、姫君は父親がふざけていると思い、ソファに倒れこんだ彼にきゃあきゃあ言ってのしかかる。
「やめなさい、コリンシア!」
いつの間にか、戸口にグロリアが立っている。眉間にしわを寄せた彼女の後ろにはリューグナーも控えていた。
「病人が臥せっているのですよ。静かにしなさい」
父親にのしかかったままのコリンシアは叱られて頬をふくらます。
「だってぇ……」
「だってではありません。そなたは皇家の直系、いずれはこの国の中枢に関わり、民衆を導かねばならない身です。もっと分別を身につけねばなりません」
グロリアの厳しい言葉にコリンシアは口をとがらせる。そこでようやく父親のエドワルドが体を起こし、自分にのしかかったままの娘を床に立たせる。そしてその顔を覗き込んで口を開く。
「何がいけなかったかわかるかな?」
コリンシアは渋々ながら頷いた。
「こんな時はどうするのかな?」
「……ごめんなさい……」
小さな声で娘が謝ると、甘い父親はそれで許して抱きしめる。グロリアはあきらめたようにため息をつき、いつもの席に座った。そして相変わらず無表情なリューグナーがその脇に控える。
「コリン様、我が盟友ファルクレインが姫様にご挨拶したいと申しております。お会いしていただけますでしょうか?」
気が利く副官のアスターは、コリンシアをこの場から外させた方がいいと判断し、自分の飛竜をだしに小さな姫君を外へと誘う。叱られてしょんぼりしていた彼女もこの申し出に目を輝かせる。
「行く!」
二つ返事で答えると、今度はアスターの手を引っ張るようにして戸口に向かう。
「それでは失礼いたします」
アスターは丁寧にお辞儀をすると、コリンシアと仲良く手をつないで部屋を後にした。
「彼はなかなか如才ない」
よくできた副官はグロリアも大のお気に入りで、目を細めて2人を見送る。
「我ながらいい人選をしたと思います」
エドワルドとアスターは乳兄弟だった。彼の実家の身分はそれほど高くなかったのだが、彼の誠実さと騎士能力の高さを評価して自分の副官に抜擢していた。今では第3騎士団になくてはならない存在となっている。
「ところで、あの娘から話を聞けましたか?」
落ち着いたところでオルティスが3人分のお茶とお菓子を用意してくれる。甘みの少ないものを選んで口に運びつつ、エドワルドがグロリアに尋ねる。
「よほど怖い目にあったのでしょう。ひどく脅えて手が付けられなかった故、リューグナーが鎮静剤を投与したのじゃ。眠る前に少しだけ話をしたが、何も覚えておらぬようじゃ」
グロリアは沈痛な面持ちで語りだす。
「おまけに視力も失っておる。そうであろう?リューグナー」
「はい。そちらに関しましては詳しく検査をしないとわかりませんが、この度の事故によるものではなく、過去に患った病によるものではないかと推察されます」
リューグナーは席に着こうとはせず、立ったまま淡々と答える。
「なるほど……記憶は戻るだろうか?」
「こればかりは何とも……」
「ずっとこのままということもあり得るわけか……」
エドワルドがポツリとつぶやくと、部屋の中に重苦しい空気が漂う。
「どうしたものか……」
この日何度目かのつぶやきに、以外にもグロリアが助け舟を出す。
「もし、そなたの言うとおり、あの娘の身内に竜騎士がいればそれなりの教育と礼儀作法を身に付けているはず。妾の話し相手が務まるやもしれぬ。そうであれば、身元がわかるまでここにおいてもかまわぬ」
意外な申し出にエドワルドは目を丸くする。
「よろしいのですか?」
「妾が満足すればじゃ」
条件は厳しいが、それでもどこにも行くあての無い、若い娘を放り出さずに済む。エドワルドは大叔母に感謝して頭を下げる。
「ありがとうございます」
問題は山積みだが、当面の心配はなくなった。エドワルドはあの娘を最後まで守ろうとした、あの小竜の気持ちに応えてやりたいと思っていたので、これで少し肩の荷がおりた気分だった。
「その代わり、きちんと様子を見に参れ。コリンもじゃがほったらかしにしてはならぬ。良いな?」
グロリアはさすがに痛いところを突いてくる。エドワルドは苦笑しながら頭を下げるしかない。
「わかっております」
そこへ廊下を駆けてくるあわただしい足音が聞こえる。
「失礼いたします」
入ってきたのは片腕にコリンシアを抱いたアスターだった。
「どうした?」
「昨日の湖畔の南に妖魔が出たと知らせが来ました」
床に降ろされたコリンシアは嬉しそうに父親に寄って来るが、遊んでいる場合ではない。
「わかった、すぐに支度する」
エドワルドは一度抱きしめると、娘の頭をなでる。
「また来るからな」
小さな姫君がコクンとうなずくと、エドワルドは急いで部屋に戻って群青の装束に身を包む。防寒用の外套の裾をなびかせて外に出ると、彼の相棒とも言うべき飛竜グランシアードが彼を待っていた。
「行くぞ」
ひらりと飛竜にまたがると、エドワルドはすぐにグランシアードを飛び立たせる。それにアスターのファルクレインが続き、2頭の飛竜は小雪がちらつくどんよりとした空の向こうへ消えていく。
その姿を居間の窓からグロリアとコリンシアが並んで見送っていた。持病のあるグロリアは、この時期外に出る事が出来ず、こうしてここから無事を祈るしかない。
「そなたの父上は、あのようにして妖魔の襲撃から民を守っている。わかるな?」
父親が行ってしまい、コリンシアは泣き出しそうだった。グロリアは優しく彼女を抱き寄せて頭をなでる。この小さなやんちゃ姫の事をグロリアは愛していた。だからこそ、こうして忙しい父親の代わりにコリンシアの面倒を見ていた。
「……はい、おばば様」
2人は飛竜の姿が見えなくなっても、しばらくの間雪のちらつく空を見続けたのだった。