31 妖魔襲来
妖魔との戦闘シーンと、流血のシーンがあります。
ムカデの妖魔が出て来るので、虫が苦手な方は特にご注意ください。
今年の妖魔襲来の第1波はかなり遅かった。初雪どころか、雪が大地を白く染め上げるようになっても妖魔どころか霧も発生しなかった。日の光があるうちの探索でも妖魔の姿さえ見つける事すらできず、日が経つにつれてベテラン竜騎士達には焦りの色が見え始める。
「遅いと何が良くないのですか?」
いつでも要請があれば出撃できるよう、竜舎の近くにある竜騎士達の控室を兼ねる休憩室で待機中のマリーリアがそっとゴルトとジーンに訊ねる。
「ジンクスがあるのですよ」
「ジンクス?」
「ええ。襲来の遅い年には良くない事が起こりやすいと言われています。つい最近では2年前。その年はハルベルト殿下が負傷され、飛竜を亡くされた。加えて竜騎士や騎馬兵の死者が例年に比べて多かった年です」
竜騎士にも験を担ぐ者が多い。マリーリアはその一種かと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。
「遅いとその分、後に襲来頻度が高くなり、ゆっくり休む暇も無くなります」
肩を竦めてジーンが補足する。
「そうですか……」
何も知らない…知ろうとしなかった自分が恥ずかしい。そこへアスターとルークが休憩を終えて部屋に入ってきた。
「ゴルト、ジーン、交代だ」
「了解です」
アスターに言われて2人は席を立つ。襲来がいつあってもいいように彼等は交代でこの部屋に待機している。総督であるエドワルドは、執務室に簡易の寝台を持ち込み、仕事の合間に仮眠していた。襲来が頻発するようになると、休憩室で待機中も毛布に包まって仮眠する事もある。
「第1波が来た。北の砦の北西だ。アスター、ルーク、行ってくれ」
そこへエドワルドが部屋へ駆け込んでくる。
「はっ」
すぐに2人は手早く身支度を始める。
「私も行かせて下さい。討伐の現場をこの目で見ておきたいのです」
急にマリーリアも立ち上がる。
「遊びで行くわけではない」
既に外套を身に纏い、出るばかりに準備を整えたアスターは厳しい表情で言い捨てる。
「分かっています」
「そこまで言うのならば行って来い。但し、一切手出しはするな。上空で待機してみるだけだぞ」
「はい!」
「殿下!」
エドワルドの決断にアスターが異を唱える。だが、その間にマリーリアも手早く身支度を整え、先になって休憩室を出ていく。仕方なくアスターもそれに続き、先行くマリーリアに駆け寄る。
「自ら戦闘に参加するな。これだけは絶対に守れ」
「はい」
アスターは不服そうであったが、これ以上口論している暇は無い。2人は駆け足で着場を目指す。
いくつものかがり火が焚かれた着場につくと、既に装具を整えた3頭の飛竜が待っていた。一足先に部屋を出ていたルークは既にエアリアルの背に跨り飛び立とうとしている。アスターもマリーリアもすぐに飛竜に跨ると、夜明け前の吹雪の中へ飛び立った。
「いいか、殿下の厳命は守れ。足手まといは御免だからな」
「はい」
寒風と共に容赦なく吹き付ける雪の中を一行は飛竜を急がせる。アスターは勝手をする彼女に怒っているのか、ぶっきらぼうに言い放つ。それでも彼はカーマインを先行する2頭のすぐ後ろに着くよう命じる。こうすることで風の抵抗を減らし、他の2頭に遅れずについていけるよう配慮してくれているのだ。
「降りる事は無いと思いますが、何かあったらとにかく逃げて下さい。貴女を守る余裕はおそらくないでしょう」
「はい」
ルークの忠告にも神妙に頷く。その後は無言で先行する2頭の飛竜の背中を追い続けた。
「あそこだ」
しばらく飛ぶと、いくつもの松明に照らされた城壁が見えた。城壁にくっつくようにして村があり、そこをめがけて黒く長いものの群れが押し寄せている。目をこらしてみると、人の背丈ほどの長さのあるムカデだった。黒曜ムカデと呼ばれるその妖魔の数は100に近いだろう。既に北の砦から500騎の騎馬兵団が到着していて、村の自警団と協力して城壁を守りながら動きを封じ込める作戦が始まっていた。
「上空で旋回していろ。行くぞ、ルーク」
アスターはマリーリアを一瞥すると、ファルクレインを急降下させ、ルークのエアリアルもそれに続く。2頭の飛竜は群れの中へ降り立つと、その場で尾を振り回して周囲のムカデを弾き飛ばした。急に現れた飛竜にムカデの妖魔の動きが乱れ、飛竜の背に跨ったままのアスターとルークは長柄の鉾でその隙をついて攻撃する。
「アスター卿だ!」
「雷光の騎士殿も来てくれたぞ!」
兵団から歓声が上がる。その歓声に応えるかのように、2人の竜騎士は巧みに鉾を操り、襲いかかる黒曜ムカデを次々と霧散させていく。
「すごい……」
マリーリアは思わず呟いていた。息の合った2人の動きは華麗で無駄が無く、舞を見ているようで思わず見惚れてしまう。
やがて妖魔の数が減ってくると、アスターは双剣をルークは長剣を手に飛竜の背から降り立つ。2人が淡い燐光を放つ刃を振るい、残る妖魔に立ち向かっていくと、飛竜達はその場から飛び上がって城壁を守る兵士達に加勢する。
鬼神の如く刃を振るう2人に恐れをなし、逃げ出そうとする妖魔達を今度は外側で待ち構えている騎馬兵団が刃に香油をたっぷりと塗り込めてある槍を繰り出して動きを止め、数人がかりで止めを刺す。仕上げに上からたっぷりと香油を浴びせれば、竜騎士が退治した時と同じようにその骸は霧散していく。
やがて…埋め尽くすほどいたムカデの妖魔は彼らの働きにより、1匹残らず全て霧散していた。
「これが……討伐」
マリーリアは初めて目の当たりにした妖魔とその討伐の様子に体が震えていた。こともなげにそれを成し遂げた2人の竜騎士に尊敬の念を抱くと同時に、彼女の心の片隅に恐怖心が芽生えていた。
騎馬兵と自警団員が負傷者の手当てや事後処理を行っている間、アスターとルークが兵団長と会話を交わし、話が終わったのか側に降りたそれぞれの飛竜に跨り飛び立たせる。
「帰るぞ」
上空待機しているマリーリアの側に寄ってくると、アスターはぶっきらぼうに言い、彼女の返事を待たずにファルクレインをさっさと総督府に向かわせる。
「あ……」
マリーリアは慌ててカーマインにその後に続くように命じ、ルークはカーマインがファルクレインの後に続いたのを確認すると、エアリアルその後に付かせて殿を務めた。
分厚い雲の向こうに日が上ったらしく、いつの間にか辺りはほのかに明るくなっていた。だが雪はまだ容赦なく吹き付けている。その中を3頭の飛竜は力強く羽ばたいて総督府へと帰っていった。
この日を境に本格的に妖魔の襲撃が本格的に始まった。
冬の初めにジーンが言っていた事が現実となった。いつもの年なら徐々に襲来の数が増えていくものだが、今年は一度始まると、毎日の様に出動要請が来た。
冬至を過ぎた頃には早くも休憩室に仮眠所が設置され、一番出動回数が多いアスターとルークは自分の部屋に戻るのももどかしく、戻ってくるなりそこへ倒れ込むようにして寝ている事が多くなった。
この頃にはマリーリアも戦力の1人として討伐に参加せざるを得なくなり、それだけこの地の竜騎士の負担の多さを身をもって知る事となった。
「南の砦付近で妖魔が出た。ゴルト、マリーリア、出られるか?」
装備を整えたエドワルドが部屋に入ってきた。部屋の隅に衝立で区切られた仮眠所では、明け方に討伐から帰って来たばかりのアスターとルークが眠っていたので、自然とエドワルドの声も低くなる。
「行けます」
2人とも手早く準備を整えて部屋を出ていく。
「ジーン、後を頼む」
「はい」
3人はすぐに竜舎に向かい、係員が装具を整えてくれた飛竜の背中に跨る。カーマインもゴルトのウォリスも疲れの色が見えるが、体が大きな分体力のあるグランシアードはまだ元気なようだ。その黒い飛竜を先頭に他の2頭も後から続く。
日は昇っているものの相変わらずどんよりとした雲が空を覆い、時折風に乗って雪が吹き付けてくる。それでも松明の明かりに頼らなくて済む分だけ、今日の討伐はまだ楽かもしれない。
「見えた」
針葉樹林の向こうに南の砦が見えてきた。物見に立つ兵士が一行に気づき、手信号で情報を与えてくれる。現れた妖魔は青銅狼で数は20頭ほど。そして最後にここから南西の方角を示した。
既に騎馬兵団は出動しているらしく、竜騎士達も飛竜を急かしてその場に向かう。
「苦戦しているな」
情報通り、20頭余りの青銅狼が城壁を守護する騎馬兵団に襲いかかっていた。既に城壁の一部が破壊されており、城壁の内側へ侵入を許してしまっている。入り込んだ数は少ないが、体が大きい割には動きが俊敏で、騎馬兵達は随分と苦戦を強いられている。
マリーリアはすぐに弓に香油を浸した矢をつがえ、カーマインを低空で飛行させて狼達に次々と矢を放った。その間にグランシアードとウォリスが降り立ち、槍を手にしたエドワルドとゴルトが浮足立った妖魔達に容赦ない攻撃を加える。
「総督御自ら来て下さったぞ!」
兵団長が鼓舞するように叫ぶと、兵士達に活気が戻る。体勢を立て直し、城壁を利用して妖魔の群れを分断する。エドワルドはグランシアードの背から降りると城壁の防護の補助に飛竜を向かわせる。ゴルトもそれに習い、ウォリスの背から降りると得物を長剣に替えて城壁内に残る妖魔に立ち向かっていく。
「あれは……」
城壁内の妖魔を殲滅し、外の妖魔もあと僅かとなったところで、マリーリアはふと城壁の外側に目を向けた。霧に霞む森の向こうに何か蠢くものが目に留まる。おそらく、カーマインの背に乗り、低空で飛行してる自分だけが見えているはずだった。
「まさか……」
それはだんだんこちらに向かっている。それはここを襲っていた数よりももっと多い青銅狼の群れだった。
「殿下、新手です! 数は……30を超えています!」
マリーリアは必死で戦闘中のエドワルドに呼びかけた。彼は一瞬動きが止まったが、その隙に襲いかかってきた青銅狼を長剣で一刀両断した。ゴルトが残る1頭を霧散させたので、彼はすぐにグランシアードを呼び寄せてその背に跨る。
「兵は城壁内に退避! 新手に備えろ!」
新手と聞いてもパニックになる者は1人も居らず、エドワルドの指示に兵士達は冷静に従う。
「足止めする」
グランシアードを飛び立たせ、エドワルド自身も新手の妖魔を確認すると、弓に矢をつがえる。ゴルトもマリーリアもそれに習い、近くまで迫っている新手の群れを足止めするべく矢を放った。
だが、効果は持ったほど無く、新手の妖魔達の足はなかなか鈍らない。それでも諦めるわけにはいかなかった。この勢いのまま襲撃をうければ、最初の襲撃で疲弊している兵士達ではひとたまりもないだろう。陣容の立て直しが完璧ではなくても、せめて兵士全員が一旦城壁内へ退避できる時間は稼がなければならなかった。
「しまった!」
ゴルトの焦った声に振り向くと、群れのリーダーらしい体の大きな一頭が城壁にたどり着いていた。
ウォォォォォーン!
青銅狼の雄叫びに、退避に間に合わなかった数人の騎獣兵は足が竦み、妖魔の前足のひとなぎで彼等はバタバタと血を流して地面に倒れる。そこへ後続の妖魔が次々襲いかかり、動かなくなった兵士達を咥えて走り去る。
ウォォーン!
勝利の雄叫びだろうか、体の大きな青銅狼はもう一度吠えると、悠々と残った妖魔を引き連れて城壁から去っていった。竜騎士達が手を出す暇も無く、あっという間の出来事だった。
「近くに巣があるな」
「すぐに追いましょう」
攫われた兵士の数は8人。おそらく命は助からないだろう。それでもマリーリアはこのままにしておけなかった。
「待て、増援を呼んでからだ」
エドワルドが止めたが、マリーリアは既にカーマインに妖魔を追わせて飛び去っていた。ゴルトが慌ててその後を追うが、ウォリスではカーマインに追いつけないだろう。
妖魔が獲物を持ち帰る……近くに巣があり、女王が産卵を控えているか、既に産卵している可能性があった。このまま放置しておけば、今後襲ってくる妖魔の数が確実に増える事になる。だが、巣を探索して壊滅させるには人手が足りなかった。
本来なら竜騎士全員を集めたかったが、後の事を考えて総督府に残る3人と西の砦に駐留する3人を呼ぶだけに留めた。東の砦にはこちらを対処している間、他の場所で出動要請があった場合に備えるよう指示した。
とにかく巣の壊滅には頭数が必要で、騎馬兵も近隣から出来る限り招聘した。エドワルドは短時間で全ての手配を終えると、再びグランシアードの背に跨る。
「もうひと踏ん張り頼むぞ」
頼もしい相棒の首を叩いて労うと、エドワルドは飛竜を飛び立たせた。マリーリアの焦る気持ちは分かるが、1人で飛び出して行っても出来る事は殆どない。先行した2人に追いつくべく、エドワルドはグランシアードを急がせた。
マリーリアは慎重に妖魔の後を追った。彼等は森を抜け、夏には馬の放牧地となる丘を越え、その先にある森の中へと入っていった。
「くっ……」
経験の浅いマリーリアでもわかるほど強烈な妖魔の気にカーマインが躊躇してそれ以上近づくのを拒む。仕方なく待機しているとゴルトが追い付き、エドワルドの制止を振り切った事を注意される。
「貴女がここまで感情に流される人だとは思いませんでした」
型通りの注意をされ、最後にいつも無表情で淡々と仕事をこなしていたことを揶揄される。マリーリアにはアスターに頭ごなしで叱責されるよりも堪えた。
「すみません……」
「分かればいいんですよ」
今、自分に何かあったら、あの父の事だからただでは済まさないだろう。直接の上司であるエドワルドだけでなく、彼女の移動を決定したハルベルト、そしてそれを強く後押ししたソフィアの嫁ぎ先でもあるサントリナ家も糾弾されるに違いない。それに思い至ると自分の行動を恥じ入るばかりである。
「ですが……おおよその位置が把握できたのは上出来です。手間が省けましたよ」
彼等は問題の森が見渡せる丘の上に飛竜を着地させていた。強い妖魔の気は少し離れたこの場所にいてもひしひしと伝わってくる。飛竜の背に跨ったまま、油断なく辺りを見回すが、場馴れしているはずのウォリスですらこの気配に落ち着きが無い。カーマンに至っては嫌がるように何度も激しく頭を振っている。
「カーマイン、落ち着いて」
マリーリアは必死に飛竜を宥める。そこへようやくエドワルドが到着した。
「無茶はするな。帰ったら、叱責は覚悟しておけ」
エドワルドが手伝ってくれてどうにかカーマインを宥めたが、先程の命令無視の件は厳重注意を受ける事になるらしい。おそらくその役はアスターで、彼のはっきりした物言いを思い出すとマリーリアは憂鬱な気分になってくる。確かに自分が悪いのだけれども……。
「ゴルト、この位置を西の砦へ知らせに行け。マリーリアは南だ」
「団長は?」
「ここで待機している」
「危険です」
「分かっている。時間が無い、行って来い」
渋々ながらゴルトはウォリスを促して飛び立たせ、すぐに西の砦を目指す。マリーリアも脅えるカーマインを宥め、来た道を引き返すように命じる。素直にそれに従うと思われたが、脅えきった飛竜は闇雲に辺りを飛び回った。エドワルドは慌ててグランシアードに後を追わせたが、マリーリアはカーマインから振り落されていた。
「マリーリア!」
「あっ!」
「カーマインを頼む!」
グランシアードに命じると、エドワルドは躊躇うことなくその背から飛び降りる。カーマインが闇雲に飛び回ったおかげで、彼女が振り落されたのは妖魔の巣となっている森の中だった。
「大丈夫か?」
木がクッションとなって衝撃を和らげ、吹き溜まりとなった新雪の中にマリーリアは埋まるように落ちていたが、運がいい事にかすり傷程度で済んでいた。
「……すみません」
エドワルドに助け起こされてふらつきながらもマリーリアは立ち上がる。辺りは不気味な霧が立ち込めて薄暗い。どこにでもあるはずの森の中の光景のはずなのに、妖魔の気配を強く感じた影響かひどく禍々《まがまが》しく感じる。
「とにかく森の外へ出よう」
「はい」
携行している武器はそれぞれの腰に下げている長剣のみである。妖魔から身を守るには心許なく、彼らのテリトリーとなっているこの森から一刻も早く逃れなければならない。
「……あれを」
森の中を少し歩いたところで、エドワルドが何かを見つけた。彼が指した先に、枯れかけた一本の巨木があった。その表面には黒い一抱えほどもある丸い塊がびっしりと張り付いているのが見える。
「何……」
「妖魔の卵だ」
「あれが……」
思ったよりも巣の中枢に入り込んでいたようだ。目をこらして見て見ると、同じ卵でも硬そうで光沢がある物と柔らかく弾力のある物があった。妖魔の種類が違うのか、産んだ時期が違うのか、どうやら後者が正しいらしく、弾力がある物にはわずかながら黒い影が蠢いているのがみえる。
「うぐっ……」
卵を産み付けられているのはこの木だけではないだろう。あまりの悍ましさにマリーリアは吐き気を覚えた。
「このまま放置すれば、千を超える妖魔が誕生する」
濃密な妖魔の気配にエドワルドも全身に嫌な汗をかいていた。とにかく2人だけでは何もできない。マリーリアを促し、その場を離れようとする。
「最悪だな……」
何かが近づいてくる気配がする。エドワルドがもう一度振り返ると、青銅狼よりももっと大きな妖魔が卵を守るようにして現れた。外見はイタチのようにも見えるが、その口に生える牙は鋭く、体は濁った赤い色をしていた。特徴的な長い尾が紫色をしていることから紫尾と呼ばれ、四肢の蹴爪に猛毒を持っているために最も厄介な妖魔と言われている。この大きさと、卵を守っている事からこの紫尾がこの巣の主、女王なのだろう。最強で最悪の相手と言える。
「気付かれたか」
紫尾の女王は毛を逆立て、威嚇しながらゆっくりとこちらへ迫ってくる。その後ろからは先ほどの青銅狼の群れも見え、マリーリアは恐怖のあまり足がすくんで動けなくなった。
「森の外へ走れ!」
エドワルドが彼女の背中を押し、長剣を抜いて身構える。マリーリアは逃げようとしたが、足元が悪いのと恐怖のあまり震えが止まらず、数歩走って転んでしまう。妖魔は彼女に狙いを定め、一気に間合いを詰めて前足を振り下ろす。
「ぐっ……」
マリーリアが顔を上げると、エドワルドが彼女に覆いかぶさるようにして庇っていた。毒の蹴爪による一撃が彼の外套や丈夫な革製の鎧を貫き、右の肩から二の腕にかけて傷をつけていた。
「団長……」
エドワルドは片膝を立てた状態で長剣を左手に持ち替え、地面に突き刺した。続けて紫尾の2撃目が繰り出されるが、キンッと音がしてそれは弾かれる。エドワルドが防御結界を張ったのだ。
「止血を……」
マリーリアはすぐに外套を切り裂いて止血を施す。受けた傷の為に意識を集中させるのも困難の状態で、彼は反応が無い。更には後続の妖魔達も次々と襲ってくるので、それを受ける衝撃で傷に響き、意識が遠のきそうになる。
「くっ……」
流れ出た血で彼の足元の雪が赤黒く染まっている。毒の影響で右腕に感覚が無く、目がかすんできた。もう限界だった。だが、意識を失う直前に頼もしい気配を感じていた。
「来た……」
エドワルドはその場で意識を失い倒れ込んだ。そこへ紫尾が止めを加えるべく爪を振り上げた。
マリーリアがここまでかと覚悟を決めた時、妖魔は両目を矢で射抜かれて苦しみ始めた。
「殿下!」
木々の僅かな隙間を縫ってファルクレインとエアリアルが降下してきた。ルークはエアリアルに乗ったまま、紫尾や青銅狼を牽制するように矢を放ち、アスターはファルクレインから飛び降りると、倒れているエドワルドとマリーリアに駆け寄る。
「しっかりしろ!」
呆然と座り込んでいるマリーリアの頬をアスターは叩いた。
「自分の成すべきことができないなら、さっさと皇都へ帰れ!」
アスターはそう怒鳴ると、エドワルドをそのまま仰向けに寝かせ、流れ出た血で染まった彼の外套と鎧を開けさせる。彼の右腕は毒の影響で紫色に変色し始めている。
「私が……します」
我に返ったマリーリアは、アスターから毒消し代わりの香油を受け取り患部に振りかける。そして自分の外套の裏地をさらに引き裂き、先程施した不完全な止血をやり直す。更に細く裂いたものを包帯代わりに巻き付けると、寒くないように彼自身の外套を体に巻いた上から自分のも脱いでかぶせた。
応急処置を施す間、ルークと2頭の飛竜が妖魔の気を逸らしていた。それでもアスターは油断なく剣を構え、マリーリアの処置を見守った。
「グランシアードもすぐに来る。グランシアードに殿下を運ばせ、君はそれで先に戻れ」
「……はい」
戦力外なのは仕方なかった。更には自分が先走った結果、エドワルドが負傷し、命の危険が脅かされている。マリーリアは力なくうなだれる。
「着ていろ」
アスターは自分の外套を脱ぐと彼女に渡し、自分も妖魔に向かっていく。ルークが紫尾の攻撃を受け、大木に体を打ち付けられているのが見えたからだった。ルークはどうにか立ち上がるが、脇腹を痛めたようである。妖魔はそこに前足を振り上げて襲おうとするが、横からエアリアルが体当たりをしたので難を逃れた。
「……」
マリーリアは木々の間から見える空を見上げた。その時、飛竜の影が見えたと思ったら、何かが妖魔にぶつけられた。何かが割れる音がして中の液体が妖魔にかかると、紫尾は苦しみ始める。どうやら誰かが香油を壺ごと投げつけたらしい。妖魔が暴れる度に立木が倒され、空が見える範囲が広がる。
すると大きな黒い飛竜が木々の枝を折りながら無理やり降りてきた。周囲には見向きもせずに真直ぐエドワルドの元に向かう。
「グランシアード、ごめん、団長が……」
マリーリアが必死にエドワルドを抱き起そうとすると、いつの間にか降下していたジーンが来て手伝ってくれる。グランシアードは器用に前足で彼を抱え上げ、マリーリアがその背中に乗るとすぐに飛び立った。
「グランシアード、総督府へ急ごう」
森から出ると、ゴルトと西の砦に駐留する3人が入れ違いに降下する。
「騎馬兵団もじきに来る。先ずはこいつだな」
リーガスがアスターに声をかけるのがわずかに聞こえた。後は彼等に任せるしかない。自分がいかに無力だったかを思い知り、凹んだ気持ちで帰路につく。
「グランシアード、そっちは逆よ?」
ふと気づくと、グランシアードは西に向かっていた。自分の飛竜ほど意思の疎通はできないが、どうにか彼の思考を読み取る事が出来た。
「グロリア様の館へ行くの?」
確かにあそこの方が総督府へ帰るよりも近い。リューグナー医師もいるし、何よりもエドワルドが落ち着いて傷を癒せると思った。
「分かったわ、あなたに従う」
マリーリアは飛竜に肯定の思念を送ると、飛竜は力強く羽ばたいて速度を上げた。
厚い雲の向こうでは太陽が沈もうとしているのだろう、既に辺りは薄暗くなっている。急がねばならなかった。
エドワルドが負傷。大変な事になりました。
今回、紫尾のモデルにしようと毒をもつ生き物を調べていたら、意外な生き物が毒を持っていて驚いた。
なんと、カモノハシ。オスだけ後ろ脚に蹴爪がついていて、それに毒があるらしい。
愛嬌のある外見と卵で繁殖する哺乳類としか認識してなかったけど、意外でしたね。
ここから先のあとがきは虫が苦手な方はご遠慮ください。
我が家は古い木造住宅で、家の中に虫が出没することもしばしば。
あの黒くてすばしっこい嫌な虫は言うに及ばず、ダンゴ虫やコオロギまで廊下を闊歩している事がある。
だが、彼らはまだ無害。本当に怖いのはムカデ。家人は寝ていて刺されたこともあります。
以下は花影が実際に屋内でムカデと遭遇した恐怖体験。すべて実話です。
その1 浴室にて
この家に引っ越して間もない頃のこと。お風呂に入ろうと湯船に片足付けたところで浴室の片隅に長く、黒いものを発見。よく見ると、20㎝近い大物。
裸の状態で人を呼ぶに呼べず、しばらく固まっていたのだけれど、シャワーを一番熱い温度にしてかけてやったら動かなくなりました。
後で割り箸でつまんで捨てました。
その2 茶の間にて
夜中に茶の間でパソコンを突いていた時の事。
畳みに降ろした左の甲に何かがサワッ……
見ると手の甲に10㎝ほどのムカデが乗っていた!
うわっと思って思い切り払ったら、2メートルほど宙を飛んで柱に激突。
気が動転していて、その後どうしたか記憶が定かではありません。
これはびっくりした。
その3 台所にて
夕食後の食器を洗っていた時のこと。何気なく目線を胸元に降ろすと、そこに数㎝の小物が乗っていた!
これは柄にもなく悲鳴を上げた。びっくりした。心臓止まるかと思った。
振り落したあと、何事か駆けつけてくれた旦那が後の処理をしてくれた。
足元からよじ登って来たのか、上から落ちて来たのか、いまだに不明ですが、これが一番怖かった。
でも、いずれの時も刺されなかったのが幸いでした。
番外 洗濯干し場にて
洗濯物を取り込もうとして干し場に置いてあるサンダルを履いたところ、何かがチクリと刺さった。
見るとサンダルの中に足長蜂が……。
慌てて刺さった針を抜き、フロ場に駆け込んで水を流しながら刺された個所を絞って毒を出した。
本当は病院行きたかったんだけど、ちょっと都合で行く暇が無く、市販の薬を塗って対処しました。とにかく痛くて痛みを紛らわそうと冷やしてみたりしたけどあまり効果なかったですね。未だに刺されたところは痕が残っています。
みなさん、適切な処置を致しましょう。




