26 嵐の日に
あの忌まわしい誘拐事件から10日経っていた。その間エドワルドは、事件の事後処理や冬へ向けての妖魔対策、フォルビア再建の手助けといった仕事の合間に、グロリアの館へコリンシアやフロリエの見舞い(オリガの見舞いはルークに任せている)に訪れるといった忙しい毎日を過ごしていた。
誘拐事件に関してはロベリアとフォルビア合同で調査が進められ、主犯のリリーには終身刑が、彼女に手を貸した盗賊達には懸賞金がかけられるほどの余罪が判明したために全員極刑が言い渡された。
リリーに関しては刑が甘いという意見も出たが、彼女の両親が連帯責任を負う形で代々所有してきた土地を全て国に返納すると申し出たために減刑が決まった。しかし、当の本人はまだ己の主張を曲げておらず、彼女が自身の罪を理解するにはまだ時間がかかりそうだ。
調べでは祖父が娼妓に入れ込んで家庭を蔑ろにしたらしく、リリーを溺愛した祖母の影響で娼妓に対して頑なまでの偏見が根付いているらしい。今回の犯行に至ったきっかけもフロリエの事を娼妓と思い込んでの事らしいのだが、それでも納得できるものではない。
遊び歩いていた時代より幾人かの娼妓とも交流のあるエドワルドだが、彼女達が客を楽しませるために、常に己の芸を磨き、知識を深める努力をしていることを知っている。リリーの様に家の権力というものに縋ってそれが当然の様に生きている者達よりも、自立している彼女達の方が彼には輝いて見える。
不満は残るものの、あまりこの問題ばかりに時間を取られるのも良くない。エドワルドはグロリアと共にこの事件の裁定者の1人として、それらの書類に了承の証となる署名をし、この誘拐事件を決着させた。
仕事が一段落したエドワルドはこの日、久しぶりに梔子館を訪れていた。夏に結婚の話をしてからも幾度か訪れていたが、その後は2人の間でその話題を避けるように当たり障りのない話ばかりをしていた。
「しかし、彼女には本当に参った」
食事を終え、ワインを傾けながらエドワルドは愚痴をこぼす。
「その方は現在、如何なさっているのですか?」
「護衛は自分の仕事ではないと言い放って、アスターと口論の末、今は謹慎の身だ」
マリーリアの事である。初めてグロリアの館での護衛を任された翌日、帰ってくるなり彼女はアスターに護衛は時間の無駄だと言い放ったのだ。ジーンを伴いエドワルドが館に来るまでほぼ丸1日、グロリアやフロリエからのお茶のお誘いに、コリンシアの読書の相手、嫌とは言えずに渋々付き合ったらしい。そんな事に時間をかけるよりも鍛錬に費やしたいと、相変わらずの無表情で淡々と事務的にアスターに願い出たのだ。
「それも仕事だと言い含めても頑として聞く耳を持たない。頭が痛い問題だ」
誘拐事件の後始末が一段落した今、エドワルドを悩ます一番の問題は妖魔対策でもなくフォルビアの再建でもなく、個性的すぎる新人達の教育だった。
武術に優れ、既に上級竜騎士であるトーマスは別にして、頑ななマリーリアは上司に刃向い謹慎。ルークに心酔するハンスは地理を覚えるまでは普通に飛べばいいものを何かとルークの真似をしたがり、毎日のように迷子になって帰還が遅くなっていた。今はリーガスに預けられ、彼の下働きをしながら武術の鍛錬をしている。冬になれば彼の指揮下で西の砦を守ることになりそうだ。
「そこまでしてその方はどうして強くなりたいのでしょう?」
「それが分からない。何か理由はあると思い、叔母上にそれとなく聞き出して頂こうと思った矢先に護衛の拒否だ。ジーンに探らせても取り付く島もないそうだ」
エドワルドは大きくため息をつくと杯の中身を全て飲み干す。
「殿下はご自身で何かお話されたのでございますか?」
「忙しかったのもあるが、その機会を設けようとすると逃げられる。どうも避けられているようだ」
「まあ……」
心底弱った様子のエドワルドにエルデネートはそっと寄り添う。彼は彼女の肩を抱いて引き寄せた。
「昔はあんな無表情な子ではなかった。多少、気の強い所はあったが、年相応に喜怒哀楽のはっきりした子だったよ」
「気にかけておいででしたのね?」
「妬いているのか?」
「うふふ」
「あの髪だからな。妹のように思っていた。血が繋がっているはずのゲオルグよりも親近感が湧く」
エルデネートが再び杯を満たし、エドワルドは礼をいってからそれを飲み干した。
「悩んでいるのなら、相談ぐらいしてくれてもいいのだがなぁ。私はそんなに頼りない上司だろうか?」
「女大公様ですら頼りになさる貴方様が、頼りないと言われたら、他に適任者はございません」
クスクスと笑いながらエルデネートはおかわりのワインを杯に注ぐ。
「女大公様の元へ行かれようとしないのでしたら、私がお茶にご招待しましょうか?」
「君が?」
「ええ。ジーン卿にも話をなさらないのでしたら、竜騎士ではない私の方が話をしやすいかもしれません。それに……女大公様のお館に比べればここは人が少ないですから、他人に聞かれたくない話もしやすいと思います」
「そうだな」
エルデネートの言葉にエドワルドは納得する。
「分かった。君に任せるよ」
エドワルドは少し悩んだが、エルデネートの提案も一理あると納得し、マリーリアの件は彼女に任せる事に決めた。
杯に満たされたワインを飲み切り、エドワルドは席を立つ。いつもならば寝室に移動し、秋の夜長を楽しむのだが、如何せん仕事がまだ山のように残っていた。食事と息抜きに訪れたので、もう戻らねばならなかった。
「外は大層激しく雨が降っております、殿下」
帰る旨をこの屋敷の家令に伝えたところ、ひどく困惑した様子でエドワルドを引き止める。確かに窓の外からは打ち付けるような雨音が聞こえ、遠くには雷鳴も轟いている。
「確かにひどいな」
ここに来た時はまだ小降りだったが、まさかここまで激しい雷雨になるとは思いもよらなかった。
「すぐに部屋を整えます。今夜はお泊りになってくださいませ」
「…分かった。そうしよう」
残った仕事も気にかかるが、ここで無理して危険に身をさらす必要もない。幸い、アスターにはここへ来る事を伝えてある。例え留守中に何かあっても、有能な副官がうまく対処してくれるだろう。とりあえずエドワルドは、ここ数日間の不足気味の睡眠を補う為に、用意された部屋着に袖を通すと、寝台に体を横たえた。
「殿下、起きて下さいませ」
真夜中過ぎた頃、エルデネートに揺り起こされてエドワルドは目を覚ました。
「どうした?」
「アスター卿がお見えになっています」
「アスターが?」
彼がここへ直接訪ねてくるとは、余程の事が起きたのだろう。エドワルドは寝台から飛び起きると、手早く身支度を整えて部屋を出ていく。
「何があった?」
玄関ホールにアスターが待っていた。雷は止んだようだがまだ雨は降っているらしく、アスターが身に纏う雨具からは水が滴っている。
「グロリア様より連絡がありまして、コリン様が高熱を出して倒れられたそうです」
報告するアスターの顔色は心なしか青ざめている。子供の事ゆえに今までにも熱を出したことはあったが、この荒天の最中にわざわざ知らせてきたと言う事は、ただの風邪の類ではないのだろう。
「コリンが? 分かった、すぐ行こう」
エルデネートがすぐに雨具を差し出し、エドワルドは礼を言って受け取るとそれを羽織る。そしてまだ降り続く雨の中、馬を走らせて総督府へ戻った。
着場には既にグランシアードの装具は整えられていた。エドワルドは濡れてしまった雨具を代え、すぐに飛竜に跨る。するとルークが装具を整えたエアリアルを連れて竜舎から現れた。
「お供します」
そう申し出ると、彼も身軽にエアリアルの背に跨る。どうやら寝ているところを起こされて同行を命じられたらしい。嫌そうな顔一つしないのは、彼の性格に起因するだけでなく、コリンシアが心配なのと、行き先がグロリアの館だからだろう。
2頭の飛竜は雨の中、一路グロリアの館を目指して飛び立った。
館は夜明け前だと言うのに煌々《こうこう》と明かりが点いていた。いつもの玄関前に飛竜が着地すると、エドワルドはすぐに館の中へ入っていき、ルークはいつも通り2頭の飛竜を労いながら厩舎へと連れて行く。
「コリンの具合は?」
エドワルドの到着を知り、真っ先に出迎えたオルティスに開口一番尋ねる。
「リューグナー医師のお話によると、紅斑病の疑いがあると……」
子供がかかる致死率の高い病名を聞き、エドワルドは血の気が引く。雨具も外套も脱ぎ捨て、コリンシアの部屋に駆け込む。
「コリン!」
寝台にコリンシアが横たわっていた。汗ばんだ顔にプラチナブロンドの髪は張り付き、苦しそうにしている。未だ病の特徴である紅斑は出ていないが、楽観できる状況ではないのが一目瞭然だった。
「殿下、申し訳ございません」
コリンシアの看病をしていたフロリエがエドワルドに頭を下げる。
「一体いつから?」
「一昨日からお加減が悪かったのですが、今日になって熱が……」
涙声のフロリエは頭を下げる。肩にとまるルルーも怯えたように一声鳴いた。
「そなたが付いていながら……」
エドワルドの声に怒りがこもる。さらに何かを言おうとしたところで扉が開き、グロリアが部屋に入ってくる。
「お待ちなさい、エドワルド。フロリエを責める資格がそなたにあるのかえ?」
「それは、私が……」
グロリアは最後まで言わせない。
「親だからと申すのか? 笑わせるでない。預けたら預けっぱなしで碌に様子を見に来ず、しかも躾は他人任せ。それでようこの子の親と言い切れるものよ。
しかも妾がそなたに使いを送ったのは昨夜のうちだと言うのに、今はもう夜が明けようとしておる。大方あのエルデネートという女の元に居たのじゃろう。
一睡もせずにコリンシアの看病しておるフロリエをそなたが責める資格などない!」
たまりかねた様子のグロリアは一気にまくしたてる。エドワルドは言い返す事も出来ずに手を強く握りしめ、唇を強く噛んでいる。
「女大公様、病人の前でございます」
遠慮がちにフロリエが声をかける。
「エドワルド、続きは下じゃ。ついて参れ」
グロリアは冷たく言い放つと踵を返して部屋を出ていく。エドワルドも後に続こうとしたが、苦しんでいる子供の側を離れ難く、ふと、足を止める。
「……フロリエ……どこ?」
コリンシアが譫言でフロリエを呼び、探るように手を動かす。
「ここに居ります、コリン様」
フロリエはすぐに寝台の側に跪くとその手を握り返し、そして濡れた布で優しく額の汗を拭う。肩にとまるルルーも心配そうにクウクウ鳴き、苦しむ姫君の顔を覗き込む。
「フロリエ、先程は済まなかった」
献身的に看病するフロリエの姿を目の当たりにし、エドワルドは声を絞り出すように謝罪する。グロリアの言葉で、彼女を始めとしたこの館の人々にどれだけ甘えて来たか痛感した。更には病気の我が子が求めているのは親である自分ではなく、フロリエだった事にも少なからずショックを受けていた。
「いえ、私が悪いのです。私がもっと早く気付いていれば……」
フロリエはコリンシアの汗を拭いた布を桶の水に浸し、絞るとコリンシアの額に乗せる。
「叔母上と話をしてきます。後で代わりましょう」
フロリエの返事を待たずにエドワルドは部屋を後にする。1階に降り、居間に行くと厳しい表情のグロリアが座って待っていた。
「遅い」
「フロリエに謝罪してきました」
「謝罪だけでは済まぬ」
「分かっております」
重苦しい空気の中、2人はしばらく無言だった。
「冬までこちらからロベリアに通おうと思います。よろしいですか?」
「好きにしなさい」
グロリアはどこか投げやりな言い方で返す。
「少なくともコリンが回復するまではそうするつもりです。迷惑かけますが……」
「そなたの迷惑はいつもの事であろう」
呆れたように返されると、エドワルドはがっくりとうなだれる。
「そうですね……」
「それで勤まるのかえ?」
「なんとかします」
「その決意が変わらぬことを願っておる。また同じような事を繰り返すようであったら、もう二度とこの屋敷には入れぬから覚悟おし」
おそらく冗談ではないであろう。この人なら本当にやりかねない。
「わかりました」
覚悟を決めてエドワルドは返事する。
「良かろう。後でフロリエと代わりなさい。あの娘も少し休ませなければ」
エドワルドの覚悟にようやくグロリアも許す気になったらしい。
「わかりました。ちょっと失礼します」
彼はそう断り、居間を出るといつも使う部屋に向かう。そこでアスター宛ての手紙を書くと、ルークを呼ぶ。
「失礼します」
すぐにルークが部屋に現れる。コリンシアの病名を聞いたのか、彼も心なしか青ざめている。
「お呼びでしょうか?」
「朝餉が済んでからでいい。これをアスターに届けてくれ」
「かしこまりました」
ルークは差し出された手紙を懐に入れた。
「コリン様は……大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だ、きっと。しばらくこちらにいる。お前が一番大変かもしれないが……」
「平気です。団長はコリン様の側にいてあげて下さい」
その言葉にエドワルドは自嘲気味に答える。
「あの子は私よりもフロリエにいて欲しいみたいだ」
「彼女はすっかり、コリン様の『お母さん』ですね」
ルークは何気なく言ったが、エドワルドは少なからず動揺する。
「そ……そうだな」
「では、失礼致します」
ルークはエドワルドの動揺にも気づかず、頭を下げると部屋を出て行った。
「お母さん……か」
正直、エドワルドにも縁の無かった存在である。実の母親は病気がちで幼少の頃、アスターの母親でもあった乳母も竜騎士見習いになる前に他界していた。だが、彼には幸いな事に歳の離れた姉が2人もいた上に、彼女達が嫁いだ後はハルベルトの妻セシーリアが何かと親身に世話をしてくれた。その為に寂しいと思う事は無かったし、竜騎士見習いとしての訓練も始まっていたので、そう思う余裕もなくなっていた。
だが、似たような境遇でもコリンシアは違う。まだまだ幼い彼女には甘えられる存在が必要なのだ。母親が必要だと言ったハルベルトの言葉を理解していたつもりでいたが、先程のコリンシアの部屋で垣間見た光景で本当に理解できた気がする。
「ふう……」
グロリアに喝を入れられて自分がどれだけ無責任であったか痛感した。落ち込んだ気持ちで窓の外を見ると、雨は既にやんでいて、山際の雲の切れ間から朝日が見えた。
今はとにかくコリンシアの回復を願うしかない。エドワルドは暗鬱とした気分を抱えたまま、フロリエと看病を交代するために子供部屋へ向かった。
紅斑病と診断したリューグナーの見立ては正しく、3日後にはその病の特徴である不気味な紅斑がコリンシアの全身に広がっていた。発症した日から潜伏期間を差し引くと、感染したのはあの忌まわしい誘拐事件の日に符合する。エドワルドは思わぬ二次被害を悔やむと同時に、湧き起るやり場のない怒りを無理に抑え込むしか出来なかった。
一時はコリンシアの熱が下がったかに見えていたのだが、紅斑が出来ると同時に再び熱が上がり、今度は姫君から食欲も奪っていた。最初に熱が出た頃はまだ、スープや穀物を煮た粥の類を口にしていたのだが、紅斑が出てからはそれも受け付けなくなっていた。水に砂糖と塩を混ぜたものはどうにか受けて付けてはいるが、それだけでは体力が落ちていく一方だ。薬の効果を高め、病を治すためには何かを食べさせなければならない。
「コリン様、少しでもお食べ下さい」
ほとんど寝ずに看病しているフロリエにも疲れの色が滲み出ている。特に紅斑が出てからというもの、コリンシアに食事をさせるために彼女だけでなく、料理人やオリガも加わって試行錯誤を繰り返してきた。今まで熱を出した時にも喜んで口にしたスープもだめで、それならばと具を全てすりつぶしてみたのだがそれも受け付けなかった。
フロリエの勧めにも姫君は小さく首を振る。見た目にも随分と弱っているのが分かる。
「コリン様……」
ついにフロリエは彼女のその様子に耐え切れなくなり、オリガに任せて部屋を飛び出す。すると廊下に出たところで、様子を見に来たエドワルドとぶつかりそうになった。
「フロリエ、どうした?」
「殿下……」
彼女のエメラルドの瞳から次々と涙が溢れ出ている。エドワルドは驚き、彼女の華奢な肩を両手で掴む。
「フロリエ?」
「コリン様が…コリン様が…このままでは……」
放心した状態の彼女は呟く。
「フロリエ、少し休んできなさい」
「私の所為でコリン様が……このままでは……」
「落ち着け」
エドワルドはフロリエの肩をゆする。
「君は疲れすぎている。食事をして少し眠ってくるといい」
「殿下……」
「コリンの看病は私が代わろう。これでも一応父親だからな」
それでも躊躇うフロリエをエドワルドは抱きしめた。その腕の中で彼女は泣き出し、落ち着くまで彼は彼女の背を抱き続けた。
「そなたにこんなにも愛されているコリンは幸せ者だ。大丈夫、きっと何か方法があるはずだ。あの子が元気になった時に、そなたがやつれた姿をしていたらきっとがっかりする。だから今は少しだけでも休んできなさい」
「……はい」
フロリエが少しだけ落ち着くと、エドワルドは彼女から手を離した。彼女は頭を下げると、のろのろと自室に向かっていった。
どのくらい眠っていたのか、フロリエは目を覚ますと寝台からゆっくりと体を起こした。傍らではルルーがまだ体を丸めて眠っている。彼も看病の手助けの為にほとんど休んでいなかった。起こすのもかわいそうなので、彼女は手探りで寝台から降りると靴を履いた。寝巻に着替えるのももどかしくて横になったため、服は皺になっているかもしれない。それでもかまわずにそのまま手探りで部屋を出て、コリンシアの部屋に向かおうとする。
「起きられたのですね、フロリエさん」
声をかけてきたのはルークだった。今日も書簡や書類を持ってエドワルドの元に来たのだろう。ロベリアとこの館を毎日往復しているのだが、昨日は急ぎの用もあって2度も往復していた。
「ルーク卿……コリン様は?」
「今はオリガがついています。ルルーはまだ寝ているのでしょう? オリガは団長と代わったばかりだから、今のうちに食事はいかがですか?」
「そう……」
元気のない様子のフロリエを気遣いながら、彼は彼女に手を貸して一階の食堂まで連れて行く。
「今日、ここへ来る時に山葡萄を採ってきました。フロリエさんもどうぞ」
料理人が食事を用意している間、ルークは厨房から籠に盛った山葡萄を持ってきた。フロリエは礼を言い、手探りでその実を1つ2つ口に運ぶ。
「おいしい」
ちょうど熟した実は甘みと酸味のバランスが良く、いくらでも食べられそうだ。
「コリン様がお好きなのですが、このままでは無理ですよね?」
「そうね。絞った果汁なら大丈夫かしら」
そこへ料理人がパンとスープを運んでくる。ルークは早速、料理人に山葡萄を絞ってくれるように頼んだ。
「……ゼリーにしたらどうかしら」
「ゼリー?」
ふと思いついたようなフロリエのつぶやきにルークは問い返す。
「緩めに作ればのど越しもいいし、甘い物ならコリン様も口になさると思うの」
「やってみましょう」
ルークと一緒に話を聞いていた料理人は頷くと、すぐに作業にかかる。フロリエが食事を終える頃には井戸水で冷やしたゼリーが出来上がっていた。
「どうでしょう?」
出来上がったゼリーの1つを料理人が差し出し、フロリエは一口食べてみる。少し甘めだが、コリンシアはきっと気に入るだろう。
「おいしい」
甘いゼリーはフロリエの疲れた体も癒し、つい顔も綻んでしまう。
「コリン様が起きられました」
コリンシアの部屋へ様子を見に行っていたルークが戻ってきた。早速出来上がったばかりのゼリーを持ち、彼はフロリエにも手を貸して2階の部屋に向かう。
コリンシアは起きてはいるが、相変わらず寝台にぐったりと横たわっている。そのそばでオリガが額に当てる布を取り換えていた。
「オリガ、これなら召し上がるかもしれない」
ルークはゼリーの器が乗った盆をオリガに差し出す。彼女は頷くとそれを受け取り、ルークは食事が出来るように姫君の体を少し起こす。寝巻を通しても体中が異様に熱い。痛ましく思いながら、彼は姫君を自分の体に寄りかからせた。
「さ、コリン様」
オリガはゼリーをスプーンで少しすくってコリンシアの口の中へ入れる。姫君はそれをのみ込むと、もっとと言わんばかりに口を開ける。
「美味しいですか?」
コリンシアは小さく頷く。オリガは嬉しさのあまり泣きそうになるのをこらえながら震える手で次を口の中に入れた。
「ルーク卿がコリン様の好きな山葡萄をたくさん採ってきて下さったのですよ」
フロリエはコリンシアの小さな手を握る。彼女は自分を支えている竜騎士に顔を向けると、小さな声で『ありがとう』と言った。彼は照れ隠しに姫君の頭を優しく撫でた。
コリンシアは用意したゼリーを半分ほど食べた。薬も飲ませてルークがゆっくりと寝台に横たえると、満足そうに微笑んで目を閉じた。心なしか楽になったようにも見える。
「これで……大丈夫。きっと、良くなるわ」
フロリエの呟きにルークもオリガも頷く。
「団長に報告してきます」
「私はグロリア様に」
ルークとオリガは口々にそう言って部屋を出ていき、それぞれの上司に報告しに行く。コリンシアが少しでも食事を口にし、回復の兆しが見え始めたという知らせにエドワルドもグロリアも大いに喜び、同時にほっと胸を撫で下ろした。
ルークは館に長居しすぎたと思いながらも満足して上司の部屋を後にする。居間から出てきたオリガと一緒に食堂を通って厨房にいる料理人にも報告しようとして動きが止まる。
テーブルに置いた籠に山盛りにあったはずの山葡萄が無い。その隣にはルルーが満足そうに欠伸をしている。
「まさか……。お前、あれを全部食べたのか?」
籠には山葡萄の軸やカスが残っているだけだった。小竜は返事の代わりに大きなゲップをする。
「あれで全部だったの?」
「ああ」
「どうしよう?」
2人はサァーと血の気が引く。ルークは慌てて外を見ると、短い秋の日は既に傾きかけている。
「もう一回採ってくる」
ルークはそう言うと、籠を掴んで裏口から飛び出して行く。
「ティム、手伝え!」
エアリアルの装具を驚異的な速さで整えると、その場にいた弟分も拉致するようにエアリアルに乗せて連れて行く。そしてあの山葡萄を採った場所へと急いだのだった。
その日から再び食事が出来るようになったコリンシアの熱は徐々に下がり始めた。そしてその数日後には快方へ向かっている証として、病の特徴である紅斑も薄くなり始めたのだった。
ゼリーを作るのなら他の果物でも良かったのではないかと気付くのは後になってから。
当然、帰還が遅くなったルークには優しい上司からの罰が待っていました。




