19 慌ただしい帰還 2
気付けば小さな姫君はフロリエに寄りかかって眠っている。長旅の疲れと家に帰った安堵感、そしてお腹が膨れたので睡魔には勝てなかったのだろう。自然とお茶会もお開きとなり、竜騎士達も晩餐までの間与えられた部屋で休息することになった。
「寝室へ。フロリエ、ついてやってくれるか?」
「はい」
控えていたオリガが寝室を整えに部屋を出ると、オルティスがそっと姫君を抱き上げる。続けてフロリエも立ち上がろうとするが、それはエドワルドによって阻まれ、彼女は今朝に続いて再び抱き上げられる。
「あの……歩けますから……」
「無理するな」
言い終える前に既にエドワルドは歩き出しており、フロリエには抵抗する術がない。近い位置に顔があると思うと、恥ずかしくなってくる。
寝室に着くと、既にコリンシアは寝台に寝かされ、オリガが手際よく寝巻に着替えさせていた。寝台の傍にある椅子にエドワルドはフロリエを降ろし、眠っている娘に彼女が夏用の上掛けをかけなおすのを眺める。
「よく寝ている」
「お疲れになったのでしょう。私を心配してご無理なさったのですね」
オルティスはコリンシアを寝台に降ろしてすぐに退出しており、オリガも姫君の着替えを持って退出していたので、起きているのは2人だけとなる。
「フロリエ、この子に良くしてくれてありがとう。皇都では申し分ない淑女だった」
「私1人の力ではございません。ですが、見事にお勤めを果たされたのですね?」
「ああ。貴女との約束があったから頑張っていたよ」
「まあ……」
2人きりという緊張を解すためにフロリエは眠っているコリンシアの上掛けをずれてもいないのにかけなおす。
「フロリエ、これは私からの感謝の気持ちだ」
エドワルドは懐から皇都で買ったイヤリングの包みを取り出して彼女に握らせる。
「これは……」
肩にとまるルルーをなだめながら意識を集中して手元の包みを見てみる。促されるままに開けて出てきた翡翠のイヤリングに息を飲む。
「殿下、ルルーも頂きましたのに……」
「あまり高価なものではないが、コリンのあの髪飾りと買ったのだ」
寝台脇の小さなテーブルにコリンシアが付けていた髪飾りが外しておいてある。あの時買ったラピスラズリの髪飾りは彼女のお気に入りとなって毎日のようにつけていた。
「使ってくれると嬉しい。後でオリガに付けてもらうといい」
「殿下……。何から何までありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だよ。では、また晩餐の席で」
エドワルドは跪いてそっとフロリエの手を取ると、その甲に触れるだけのキスをする。そしてすぐに立ち上がると静かに部屋から出て行った。
「……」
フロリエはしばらくの間固まったまま動けなかった。
「よくお似合いでございます」
日が暮れて晩餐の時刻が迫っていた。フロリエはオリガに手伝ってもらいながら晩餐用のドレスに着替え、髪を整えたところだった。アイスブルーの薄い生地を幾重も重ねたドレスは、コリンシアとお揃いであつらえたもので、お昼寝から覚めたコリンシアはもう着替えてルルーと遊んでいる。ルルーのリボンもアイスブルーに替えて2人は既に準備万端だった。
軽く結った髪に生花を飾り、グロリアが用意してくれた宝飾品を身に付ける。
「イヤリングはこちらですね」
エドワルドからもらったイヤリングを手にオリガが微笑む。エドワルドがくれた翡翠のイヤリングを今夜は身に付けたいとフロリエが頼んだのだ。彼女は小さく頷き、オリガは手にしたイヤリングを耳に付けた。
「ルルーいらっしゃい」
宝飾品を一通り付け終わり、オリガは遊んでいる小竜を捕まえるとフロリエの元へ連れて行く。
「フロリエ、きれい」
コリンシアは鏡の前でオリガに手を取られて立ち上がるフロリエの姿を見て目を輝かす。
「オリガのおかげだわ」
ルルーの助けを借りて鏡を見るが、映っているのが自分だという実感がない。
トントン
足がまだ痛むので、再び椅子に座って室内履きから踵が低めの靴を履き替えたところでドアがノックされる。オリガが返事をして戸を開けると、竜騎士正装に身を包んだエドワルドが立っていた。
「……」
ここに来るときのエドワルドは騎士服や討伐用の装束が多いので、オリガがこういった正装した姿を見るのは初めてだった。その姿に思わず見とれてしまう。
「オリガ?」
「…す、すみません。準備は整ってございます」
声をかけられて慌てて頭を下げ、オリガはエドワルドを室内に招き入れる。
「父様、見て見て、フロリエとお揃い」
すかさずコリンシアが父親に駆け寄る。エドワルドは娘の頭を撫でているが、視線はフロリエに釘付けとなっていた。
「よくお似合いだ」
「ありがとう……ございます」
フロリエもルルーの目を借りて正装姿のエドワルドを見て頬を染める。普段の騎士服よりも金糸や銀糸を使った豪奢な服の胸元には、『皇家』『総督』『竜騎士団長』等を示す記章が沢山つけられている。記章の数が多ければ多いほど身分が高いと言われているが、改めて彼が高位の存在であることを認識した。
「晩餐の準備が整ったそうだ。迎えに来た」
「はい」
「はい」
フロリエは頷いて立ち上がろうとするが、エドワルドはそれを制してまた彼女を抱き上げる。
「で、殿下、歩け……ますから……」
彼女は狼狽えるが、エドワルドはそのまま戸口へと向かう。
「元はと言えば我々の失策が原因だ。ここにいる間はこの位させてほしい」
「でも……」
反論しようにも恥ずかしさで言葉が出ない。そうしている間にもエドワルドはコリンシアの手を引いたオリガを伴い、階段を下りてダイニングへと足を向ける。その扉の外には正装姿の竜騎士4人が揃っていて、一行が扉の前に立つと敬礼をする。
「すごい……」
館にいては滅多に見る事も出来ない正装姿の竜騎士達が、揃って行動する光景を見て、思わずオリガがつぶやくほどそれは壮観な眺めだった。
その前を悠々とエドワルドはフロリエを抱えたまま歩き、オリガもコリンシアの手を引いて通り過ぎる。オリガがチラリとルークの様子を窺うと、彼と目が合い、口元が弧を描く。初めて見た竜騎士正装の彼も素敵だと思ったが、やはり普段通りエアリアルと戯れている彼の方が好きだと彼女は思った。
晩餐は終始和やかに行われた。昼間のお茶会では疲れてすぐに眠ってしまったコリンシアが、あちらで過ごした様子を機嫌よく話している。エドワルドの希望で彼の隣にコリンシア、そしてその隣がフロリエの席順となっていて、話すのに夢中で食べるのがおろそかになりがちなコリンシアを時折フロリエがたしなめ、その様子をエドワルドが終始上機嫌で見守っている。そんな3人の様子が本当の親子のようだとその場に居合わせた者達の感想だった。
「良き傾向じゃ」
グロリアはその様子を満足そうに眺め、小さく呟いた。
「何か仰りましたか?」
はっきりとは聞き取れなかった様子のエドワルドが怪訝そうにしている。
「気にせずとも良い。ところで、十分満足できたかえ?」
残すは最後のデザートのみである。ふるまう相手が竜騎士と言う事で、客人達にはいつもよりも多めの料理が皿に並べられていた。グロリアやフロリエの皿に比べると倍近い量だったはずだが、竜騎士達は綺麗に平らげていた。館の料理長が久々に腕を振るったわけだが、それは見ていて胸がすくほどの食べっぷりであった。
「ええ、気を遣ってくださってありがとうございます」
この館でこの様な晩餐に招かれた事などないルークは、緊張していたようだったが、終始しゃべり続けたコリンシアのおかげでそれも解けたようだ。料理も堅苦しいものではなかったのが幸いしたのだろう。
和やかな雰囲気のまま何事もなく晩餐は済み、竜騎士達もグロリアに食事の礼を言って席を立ち、それぞれに与えられた部屋へ戻っていく。何よりも堅苦しい正装を早く脱ぎたいと言うのが本音だったかもしれない。
エドワルドもまたもや恐縮するフロリエを抱え上げて彼女の部屋へと連れて行き、今夜は彼女と一緒に休みたがる娘を預けてから自分の部屋で正装を解いた。実のところ、グロリアにはまだ用事があった。彼女が寝支度を始める前に話しておかなければならない事がある。手早く身支度を整えると、すぐに一階の居間に向かう。
「叔母上、お疲れかもしれませんが、もう少しいいですか?」
グロリアは就寝前の習慣となっている読書をしていた。彼が来るのを予想していたのか、着ているのは夜着ではなく普段着だった。
「かまわぬが……何ぞフロリエや子供に聞かせたくない話でもあるのかえ?」
「まあ、そういったところです」
エドワルドはうやむやに答えるといつもの席に腰かけ、懐から2通の手紙を取り出した。オルティスがすぐさま彼に酒肴を整え、グロリアには香り高いお茶を用意する。
「父上と兄上からの手紙を預かってきました」
「どれ」
一旦手紙をオルティスに預けると、彼はペーパーナイフで封を開けてグロリアに手渡す。
「まだまだじゃの」
アロンからの手紙を見るなりそう呟くが、息子同然の国主からの手紙は嬉しいらしく目元が僅かに綻んでいる。だが、エドワルドには見せるつもりはないらしく、読み終えるとすぐにカードを戻して片づけてしまった。ハルベルトからの手紙は素早く目を通し、少し考える仕草をしてから口を開いた。
「フロリエを養女にする件は少し待った方が良いと言っておるな。そなたも同意見か?」
「ええ。確かに彼女は素晴らしい女性です。ですが、未だ後継を公表しておられない現在、他の親族方の手前、急に養女とすると反発も強くなるのではないかと懸念されます」
「確かにそうじゃな。妾とそなたの後見だけでは不足。少しずつ公の場に出して周囲に慣れさせ、認めさせる必要があるのは確か。やはり時間が必要か……」
ハルベルトからの手紙を片づけながらグロリアは何事か思案している。エドワルドはその様子を見ながら、短期間でここまで彼女に気に入られたフロリエに感心していた。彼女の為に奔走するグロリアはどこか楽しそうでもある。
「ところで、そなたの要件はこれだけではあるまい?」
「ええ。本題が残っています」
エドワルドはそう答えると、皇都でのゲオルグの一件と兄と姉から結婚を勧められていることを打ち明ける。
「あ奴もどうしてあそこまで甘やかすのか困ったものよ。遅かった気がするが、強引に引き離して正解じゃ。ハルベルトが教育すれば、少しはマシになるであろう」
そこで一旦言葉を切ると、グロリアはお茶で口を潤す。
「相変わらずソフィアは強引じゃ。そなたが遊び歩いていた時にあれだけたしなめておきながら、今度は日替わりで女性を送り込むとは……。やっていることが逆であろう」
「おかげであちらではほとんど眠れませんでした」
エドワルドがグロリアの怒りを和らげようと、少しおどけてみせる。
「だが、ハルベルトの言う事は正しいと思う。コリンシアには母親が必要じゃ」
「はあ……」
気のない返事にギロリと睨まれる。
「そなたがいつまでも独り身だと、クラウディアも気が気ではなかろう。焦らずとも良いが、コリンの為には早い方が良い」
「……」
グロリアの言葉にエドワルドは黙り込む。
「実は妾も相談したい事がある」
間が持たないと思い、話題を変えようとしたところで徐にグロリアが口を開く。
「あの一件、解決したとはいえ気になる事がある」
「何でしょう?」
副総督の件である事はすぐに理解した。
「面会を求めて来た時に、妾達の出かけ先が神殿である事をオルティスは一言も言ってはおらぬ。一々訪ね歩いた様子もないのに、あの場所へ来たと言う事は誰ぞから聞き出したことになる。疑いたくはないが、屋敷の者が洩らした可能性がある」
「……それが事実とすれば遺憾ですね」
「左様」
「ロベリアに戻ったら聞き出してみましょう」
「出来れば、これは済んだことゆえ穏便に済ませたい。聞き出せたら内々に知らせておくれ」
「わかりました」
他ならぬグロリアの頼みである。エドワルドは快く引き受けた。
「繋がりがあるとまでは言い切れぬが、オリガが気になる事を言っておった」
「オリガがですか?」
神殿からの帰り、馬車の中で彼女はずっとフロリエに謝って泣いていた。フロリエを守れなかった事を悔やんでいたらしい。2人で慰めていたのだが、感情的になった彼女が年若い侍女達がフロリエを妬んでいることをつい洩らしたのだ。
「話を聞いただけですか?」
「その様じゃ。証拠がない上に下手な事も出来ぬと思い込み、ティムと2人でずっと用心しておったと後になって話してくれた。妾でなくともオルティスにでも話せばそれとなく対処したものを……」
「それにしてもいい加減な噂を広めてくれる。その娼妓は単に身受けが決まっただけの話だったんだが」
エドワルドもグロリアも深く息を吐く。オリガが言っていた若い侍女達はオルティスだけでなく侍女長からも奉公には向いていないと進言されていた。ならばそれを理由に家に帰してしまえばいい。根本的な問題の解決は先になるが、少なくともフロリエの安全は確保できるだろう。
「それにしても生真面目な娘じゃ」
「ルークも似たところがありますよ」
「似た者同士がくっついたようじゃの」
悪戯っぽい笑みを浮かべるグロリアにつられてエドワルドもつい口元が綻ぶ。グランシアードを通じて知った昼間の告白は苦笑せざるを得ない内容だったが、一番は飛竜と聞いてもその思いに応える彼女は案外大物なのかもしれない。
「本当は早々に養女として確たる身分を与えたかったのじゃが、まだしばらくは無理の様じゃ。まあ、それまではこちらで何とか対処致そう」
「そうして下さい」
エドワルドは注がれたワインの香りを楽しんでから口に含む。今夜はタランテラ国内で出来たものだが、上品な口当たりが気に入りついつい杯を重ねてしまう。
「最後に、彼からの忠告です」
「会うたのか? 元気じゃったか?」
グロリアは懐かしそうに顔を綻ばせる。
「足を痛めておられました。もう自らは遠出をなされず、後進に後を任せて居られるようです」
皇都でルルーを買ったビルケ商会の元会頭ことである。グロリア自身もこの館からあまり出ない生活をしているので、彼の部下に会う事はあっても本人には当分会っていなかった。足を痛めていたのはグロリアも知らなかったらしい。
「そうかえ。して、何と?」
「北方に不穏な動きがあると」
「……」
グロリアは少し考え込むと、オルティスに命じて何やら書類を持ってこさせる。
「これを見てもらえぬか?」
「……」
目を通し初めてすぐにエドワルドの表情が強張る。
「確認……なさらないのですか?」
「頼める者が最早おらぬ」
一見、巧妙に偽装されているが、それは紛れもなく横領が行われていることを示唆していた。橋や砦の修復に穀倉地帯ならではの治水事業等々、大規模な工事に関わる請求金額が巧みに操作されているのがわかる。彼等だからこそ気付く高度な偽装である。
「手をこまねいていたわけではないのじゃ。幾人も人をやったが、妾の手のものはことごとく寝返るか行方が分からなくなっておる」
「……これを見せたと言う事は、私に頼むと言いたいのですね?」
「……そうじゃ」
珍しくグロリアの表情が固い。彼女としては苦渋の選択なのかもしれなかった。
「もっと早く頼んで下さい」
エドワルドの答えにグロリアはしばらく呆然として彼を見ていた。それを気にすることも無く、彼は資料を見ながら打開策を思案する。
「但し、少し時間を下さい。とりあえず今年の分は理由をつけて保留にすればいいでしょう」
「良いのか?」
「頼んだのは叔母上ですよ」
こともなげにエドワルドは返答する。
「……すまぬ」
「少しは成長していますから、頼ってください」
エドワルドは残りのワインを飲み干すと、資料を片手に立ち上がる。昨日からの強行軍で疲れている上に、昼間は結局ゆっくりと休むこともできなかった。とりあえず今は休息をとり、頭をすっきりとさせてからの方がいい案も浮かぶだろう。
「エドワルド」
「何ですか?」
「ありがとう」
グロリアの感謝の言葉に彼は少し照れて片手を上げると、居間を後にした。