20 愛のカタチ2
イリスが目を覚ますと、既に日は高くなっていた。慌てて身支度を整え、乱れた夜具を直してから部屋を出る。居間に行くと、いくつかの調度品が無くなり少々殺風景になってしまっているが、それでも昨夜の惨状が嘘の様に片付いていた。
台所の方から音がするので覗いてみると、デボラが野菜を洗っていた。時間的に昼食の下ごしらえをしているのだろう。
「すみません、遅くまで寝てしまって」
「あら、お目覚めになられたんですね。ゆっくりなさっていいんですよ」
「ですが、あの……」
焦っているイリスをデボラは手近に椅子に座らせる。沸かしてあったお湯でお茶を淹れ、一先ず落ち着かせた。
「昨夜の事もございましたし、奥様も坊ちゃまもゆっくり休んでいただこうと言っておられたんですよ」
「そうですか……」
「若様は裏で鍛錬中です。あと、奥様と旦那様は朝一番に呼び出しがあって出かけておられます。お昼には戻られるとのことでしたので、それまでゆっくりなさって下さい」
「あの、でしたら何かお手伝いさせてください」
お客様しているのはイリスの性に合わない。そう申し出るとデボラは困ったような表情を浮かべたが、何かを思いついたように席を立つ。
「でしたら、坊ちゃまにお飲み物をお持ち頂けますか?」
「は、はい。お任せください」
「すぐ用意しますね」
デボラはそう言うと盆の上に冷やしたお茶や茶菓子を並べてあっという間に準備を整えた。イリスはそれを受け取ると、デボラに教えてもらった通り裏口から外に出る。
美しい花壇がしつらえてある表の庭と異なり、裏庭は所々芝が生えている広場となっていた。その中央で長剣を手にしたラウルが鍛錬をしていた。どのくらい動いているのか、腕を振るうたびに汗がほとばしっている。
「ラウル様」
「……イリス?」
一段落したのか動きが止まったところで声をかけてみると、振り向いた彼は驚いた様子で固まった。
「もう大丈夫なのか?」
「はい。デボラさんが飲み物を用意してくださったんですけど、休憩されますか?」
「あ、ああ、そうだな。少し休もうか」
ラウルは長剣を収めると、井戸端に移動して汗を吸い切ったシャツを脱ぎ捨て頭から水を被る。木陰に盆を置いたイリスは、そんな彼にそっと乾いた布を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
長く神殿に居たので、異性の裸を見るのは恥ずかしい。慌てて視線を逸らすが、それでも鍛えた体が目に入ってしまい、羞恥で頬が染まる。着替えを終えたラウルが声をかけるまでどうにか気持ちを落ち着ける努力をした。
「昼を食べたら本宮に戻ろうか?」
「そうですね」
2人の休暇は夕刻までだったが、マルモアから戻ってくる一行を出迎えたいと言う気持ちは一致している。遠距離なので次はいつ一緒に過ごせるか分からない。寂しいのだが、仕える立場なのでその辺はままならないのが現状だ。
「さて、もうちょっと頑張ろうかな」
お茶も茶菓子も空になり、ラウルは立ちあがって伸びをする。怪我であればやむを得ないが、1日でも鍛錬を休むと動きが鈍ってしまうので最低限はこなしておきたいのだろう。
「じゃあ、私はデボラさんをお手伝いしてきます」
イリスも茶器を乗せた盆を持って立ち上がる。
「ゆっくりしてていいんだよ?」
「落ち着かないんです。でも、美味しいご飯作りますね」
「それは楽しみだな」
イリスの手料理を食べられるとなると、ラウルも無理強いは出来なかった。むしろ楽しみになる。額に口づけた彼女が頬を染めて屋内に戻っていくのを見届けると、彼は再び長剣を手にし、基礎の鍛錬を始めた。
デボラと2人、台所に立っていると、本宮に呼び出されていたラウルの両親が帰ってきた。伸び放題だった髭をそり、髪を整え、兵団の正装をしているアンドレアスの姿は、前の晩、暗がりに立っていた姿とはまるで別人だった。彼はイリスの姿を見付けると、神妙に頭を下げる。
「昨夜は大変失礼いたした」
「それだけじゃだめよ」
同じく正装姿のノーラは背後で仁王立ちしている。何だか、昨夜以上にかっこいいと思っていると、アンドレアスはその場で膝をついた。
「勘違いから怖い思いをさせて申し訳ない。こんなバカな父親を持つ息子の事をどうか見捨てないでいただきたい」
「何でそこに俺が出て来るわけ?」
その場でアンドレアスが土下座するので、イリスがあたふたしていると、鍛錬を終えたラウルが入ってきて、父親の姿に眉を顰める。
「そうね、昨夜の事は貴方の独り相撲。イリスちゃんに許してもらうまでそうしてなさい」
ノーラは容赦がない。イリスは慌てて側に膝をついてやめさせようとしたが、背後からラウルに抱きしめられた。
「ラ、ラウル様?」
「そのまま放置で。とりあえず昼飯にしよう」
「そうね」
「そうですな」
無情な宣告に母親も本宮に同道したグンターも同意する。食堂に移動しながら話を聞くと、昨夜は閉門後にも関わらず、皇都の城門を無理に押し通ったらしい。更にはあの騒ぎで周辺の住民から苦情が来て、他の4人はその事後処理に追われて大変だったらしい。
「今日はお嬢様も手伝って下さったんですよ」
「まあ、それは楽しみね」
アンドレアスは完全に放置され、昼食が始まった。それでもその後、気の毒に思ったイリスが許すまで、彼はその場で微動だにしなかったのは反省の表れだと思いたい。
「マルモアに行くことになった」
「第4騎士団の立て直しに力を借りたいとアスター卿も言っておられましたが、誰かさんがなかなか帰ってこないから、困っておられました」
呼び出しは昨夜の不始末だけではなく、新たな辞令の交付もあったらしい。しかも今日にでも出立しないといけないらしい。慌ただしいのだが、元はと言えば彼が帰還命令に従わなかったのが原因だった。
「手ごたえのあるものが居るといいの」
「そういえば第7はどうなった?」
「まだまだじゃが、基礎は叩き込んできたぞ」
親子で会話を交わしながらものすごい勢いで料理を平らげて行く。特にイリスが作った卵のスープと肉詰め料理はあっという間に無くなった。
「俺達も昼食済んだら本宮に戻る」
「そうですか……また寂しくなりますね」
一家がそれぞれの任地に行ってしまうと、グンターとデボラは夫婦二人だけの生活になる。デボラはそっとため息をついた。
「あの、それでしたら、またお休みの日におうかがいしていいですか?」
「いいのか?」
「それはもちろん構わないわ」
イリスの申し出に一同は驚きながらも大歓迎する。そして改めてまたこの家を訪れると約束し、賑やかな昼食は済んだのだった。
イリスが身支度を整えて部屋を出ると、既にアンドレアスとノーラは旅装を整えて玄関に立っていた。グンターとデボラ、そして騎士服に着替えたラウルも見送りに出ている。
「まあ、2人とも気を付けて」
「おう」
ラウルが声をかけると昨夜同様袖なしのシャツにひざ丈のズボン姿のアンドレアスが応じる。どうやらこの格好が彼の普段着らしい。
「イリスちゃんも元気でね。今度はゆっくりお話しましょうね」
「はい。お2方にダナシア様のご加護が賜りますように」
居住まいを正し、神殿の作法に則って2人を祝福すると、感極まったノーラが彼女をギュッと抱きしめる。しかし、力が強いのでちょっと苦しい。気付いたラウルが母親を引きはがした。
「お袋、イリスが苦しがっている」
「あら、あら、ごめんなさいね」
「はい、大丈夫です」
ちょっとふらつく体をラウルが支える。彼を見上げると、優しく微笑んでいた。
「うむ、ご利益がありそうじゃの。では、行こうか」
アンドレアスが声をかけると、ノーラも馬の背にまたがった。そして2人は見送りの一同に手を上げて挨拶をすると馬を出した。離れていく2人を見送っていると、またもや「勝負」という言葉が飛び交っている。全く懲りていないとラウルは呆れたように呟いていた。
「じゃ、俺たちも帰ろうか?」
「はい」
2人の姿が見えなくなると、グンターがラウルの馬を厩舎から連れ出して来る。ラウルがイリス抱き上げて馬の背に乗せ、彼もその後ろにまたがる。デボラからまとめていた荷物を受け取ると、見送ってくれる2人に挨拶をして彼等も出発する。
街中は相変わらずお祭り騒ぎが続いている。今日は広場に大道芸人が来ていて多くの見物人を集めていた。ちょっと見てみたい気もするが、この後小さな女主が帰ってくるので時間が無い。賑わう広場を尻目に馬は本宮へ向かった。
「何だ、もう帰ってきたのか?」
ラウルに北棟の通用口まで送ってもらい、帰還の挨拶をしにフレアの元へ行くと、休憩に来ていたらしいエドワルドが驚いたように声をかけて来た。
「はい、姫様をお迎え致したく戻ってまいりました」
「生真面目だな」
「それだけが取り柄でございますから」
イリスが胸を張って答えると、エドワルドは苦笑し、フレアは深く息を吐きだした。
「もう少し、気楽に勤めてくれていいのよ?」
フレアとしてはもっと恋人との時間を楽しんでもらいたかったのだろうが、イリスとしてはこれ以上欲を言っては罰が当たると本気で思っていた。
「まあいい。まだ時間があるからゆっくりしていなさい。先触れが来たら知らせよう」
「ありがとうございます」
夫婦としての貴重な時間を過ごしているのはこの2人も同じである。イリスはエドワルドの配慮に感謝して頭を下げると、賜っている部屋へ戻った。
夕刻、知らせを受けたイリスが着場へ向かうと、そこには既にラウルの姿があった。2人が付き合っているのは周知の事実。出迎えに来ている仲間の竜騎士達に冷やかされている彼を見ていると、自然と頬が染まっていた。
やがて北の空に飛竜の姿が現れ、順次着場に降りて来る。先ず降ろされたのは2頭がかりでバランスを保ちながら運んできた大きな木箱。すぐに蓋が開けられて中から人と同じ大きさまで育った仔竜が出て来た。ラウルからティムの相棒となる仔竜が決まったと教えてもらっていたので、きっとこの子がそうなのだろう。
エアリアルと共に降りて来たシュテファンの相棒の背からいち早く降りたティムが真っ先に仔竜に駆け寄り、マルモアからの長旅をねぎらっていた。既に絆が出来上がっているらしく、仔竜の方も嬉しそうに頭を摺り寄せている。
そして最後にファルクレインとカーマインが降り立ち、それぞれの騎手とコリンシアが降り立った。
「あ、イリスだ!」
姫君は彼女の姿を見付けると、真っ先に駆け寄って抱き付いてきた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。ラウルとデートじゃないの?」
「コ、コリン様……」
姫君の無邪気な問いかけに周囲に笑いが起こり、イリスは狼狽えて顔が赤くなってくるのが自分でもわかった。視線を泳がせていると、ラウルも上司や同僚に冷やかされている最中だった。
「えっと、その……」
答えに困っていると、姫君はにっこりと微笑んだ。
「コリンの為に帰ってきてくれたの? ありがとう、イリス。大好き」
「私も大好きですよ」
無邪気な仕草に気持ちが和らぐ。
「さ、お母様が待っていらっしゃいますよ。行きましょう」
この場に長々と留まっていては他の人達の仕事ができない。チラリとラウルの姿をもう一度見てから、イリスは姫君を促して着場を後にした。
「これでお終いね」
最後の荷物が運び出されたのを確認し、イリスは10年間使った部屋を感慨深く見渡した。つい先日、彼女が仕える女主がフォルビア公に認証された。今日領地へと出立するコリンシアに伴い、イリスもフォルビアに同行するのだ。それに伴い、10年間使ったこの部屋を引き払う事になったのだ。
その間、色々な事があった。彼女も無事にラウルと結ばれて今では立派な2児の母となり、今回のフォルビア行きには子供達も同行することになっている。国内各所を飛び回っているラウルの帰る先が皇都から今度はフォルビアに変わることになったのだ。
「イリス、これからもあの子の事をよろしくね」
「はい、皇妃様」
恐れ多くも皇妃自ら声をかけてくれる。イリスは深々と頭を下げると、コリンシアに付き添って馬車に乗り込んだ。
奇しくも10年前、川船で皇都に来た順路を逆にたどり、一行はフォルビアに向かう。多くの人に見送られ、彼女達は新たな生活に向けて旅立った。




