2 不純な動機
ダナシア賛歌が響く聖堂の中を、美しい花嫁が父親に手を引かれて赤い絨毯が敷き詰められた通路を歩んでいく。その先にある祭壇の前では壮麗な衣装に身を包んだ花婿が彼女の到着を待っていた。
「まるで物語の一節みたいだわ」と思ったのはイリスだけではないだろう。銀糸で一面に刺繍が施された引き裾が赤い絨毯に映え、見たこともない位大きな真珠がはめ込まれたティアラが燭台の光を反射する。花嫁は花婿に手を取られ、祭壇の前に進み出ると主宰となる賢者に従って誓いの言葉を宣誓した。
式は滞りなく終了し、主役の2人は手を取り合って聖堂を出て行く。今度は飛竜で城へ移動し、フォルビア大公の認証式が行われる。見送りをしようと仲間の女神官達と裏の扉から外に出ると、既に無数の飛竜が空を舞っている。しかもその空はその色がどんどん深まっていき、稀有な群青へと変わっていく。
「すごい……」
まるで2人の門出をダナシアが祝福しているようだ。イリスはもう二度とお目かかれないだろうこの素晴らしい光景を目に焼き付けようと、感動であふれる涙を拭って空を見上げた。
「イリス、ちょっと来てちょうだい」
城に向かって飛んでいく飛竜の姿が見えなくなり、他の女神官達と片付けにとりかかろうとしたところでまとめ役の女神官に声をかけられる。
「はい」
何事かと思いながらも同輩の女神官達に頭を下げて彼女の後に続く。その背中を追いながら何か失敗をしてしまったかとイリスは大いに焦っていた。しかも連れて行かれた先が神官長の執務室で、促されるままに中に入るが冷や汗が止まらない。
「急に呼び出してすまないね」
オドオドしているイリスにトビアスが笑いかける。どうやら怒られるわけではないらしいと分かり、少しだけ安堵した。
「ご用は何でしょうか?」
「実はフォルビア城から姫様のお身回りの世話を手伝ってほしいと応援要請があった。昨夜も衣装の手直しで頑張ってくれたのに申し訳ないが、面識のある君の方が姫様も心安いだろうからと御指名されたのだがどうだろうか?」
「えっと、どなたが……」
「フレア様とアリシア様から式の前に打診されてね。城へは竜騎士の方に送って頂けることになっている」
思いがけない事態に思考が止まる。拒否できそうにない雰囲気だが、それを不満に思うよりもあの2人に信頼されたのだと思うと妙に誇らしかった。
「は、はい。お受けいたします」
イリスが胸を張って答えると、トビアスもここへ案内してきたまとめ役の女神官も笑みを浮かべてうなずいている。
「では、すぐに出かける準備をなさい。念のため、数日は滞在する心づもりでいてください」
「分かりました」
イリスは2人に頭を下げると、急いで自室に戻って小さな鞄に荷物をまとめる。そして神殿の着場に向かうとそこで待っていたのは見覚えのある竜騎士だった。
「あれ、イリスさん?」
「まあ、ラウル卿」
どうやら人を送るよう命じられていただけで誰が来るかは聞かされて無かったらしい。荷物を受け取ってくれて彼の相棒に括りつけてもらっている間に事情を説明すると得心したように頷いた。
「そういう事でしたら急ぎましょう」
「はい」
飛竜の背に乗せてもらって補助具を付けてもらう。飛竜に乗るのは初めてではないが少し緊張する。それに気づいたのか、騎竜帽を被ったラウルは彼女を安心させるように笑いかけてから飛竜を飛び立たせた。
既に稀有な空の色は失われていたが、それでも晴れた空の下を飛ぶのはとても気持ちいいと思えた。
「あ、イリスだ」
部屋を整えて待っていると、宴を中座してきたアリシアに連れられてコリンシアが戻って来た。白いドレス姿の姫君はイリスの姿を見付けるなり大喜びで駆けよってくる。
「お帰りなさいませ、姫様」
「お城に来てくれたの?」
「お手伝いに来たのですよ」
駆け寄ってきたコリンシアを抱きとめる。そして膝を折ると大陸でも有数の実力者であるアリシアに礼を取る。
「急に呼び出してごめんなさいね。驚いたでしょう?」
「はい。ですが光栄です」
「しばらくお願いすることになると思うけど、よろしくお願いしますね」
「はい」
まだ宴は続いている。また戻らなければならないアリシアはコリンシアを抱擁すると後をイリスに任せて部屋を出て行った。
「母様綺麗だったね」
「そうですね。まるで物語の中に迷い込んだと思いましたわ」
先ずはコリンシアの湯あみを手伝い、優しい肌触りの夜着に着替えさせる。そして洗った髪の水気を丁寧に拭きとり、丁寧に梳った。その間は昼間に行われたエドワルドとフレアの婚礼が話題となっていた。
「父様ね、ずっと母様の事見つめてたんだよ」
「目を離すのがもったいなかったのかもしれませんね」
「うん」
イリスはようやく整った髪を手慣れた手つきでリボンで束ねる。イリスの実家は同じ敷地に祖父母も伯父一家も住んでいる大家族だった。必然的に彼女が小さな弟妹や従弟妹の世話をしていたのでこういったことに慣れているのだ。しかも、やんちゃな彼等と違い、コリンシアは動かないでじっとしていてくれる。とても世話をしやすかったのだ。
婚礼とそれに伴う宴。興奮冷めやらぬ姫君は寝台に横になってもまだまだ眠気が来ない様子。イリスは寝台脇の椅子に腰かけて、姫君とのおしゃべりに興じることにした。
「そうだ。イリスがね、直してくれたから苦しくなかったよ」
「お役に立てて良かったです」
コリンシアの衣装は、昨夜の時点で少し苦しいところがあったらしい。手直しするほどでもなかったのだが、イリスはコリンシアから話を聞いて少しだけ手直ししておいたのだ。
「だからね、朝ね、お祖母様にイリスが来てくれると嬉しいってお願いしたの」
「そうでございましたか」
一家と面識があり、経験豊富な女神官は他にも居たのに、何で自分が選ばれたのだろうかと思っていたら、ご当人の希望によるものだったらしい。
「コリンね……嬉しいの」
だんだん眠気が来たらしく、目がトロンとしてきて会話の合間に欠伸が混ざる。微笑ましい仕草に頭を撫でると、更に眠くなってきたらしくだんだんと瞼が下がってくる。
「ずっと、いてくれると……いいな」
そこで限界が来たらしい。そのまま小さな寝息が聞こえてきた。イリスはその寝顔に「おやすみなさいませ」と小さく声をかける。そしてつないだままだった手を離して上掛けを整えた。
灯りを落とし、寝台脇の椅子に座り直す。聞いた話だと姫君は未だ逃避行の折の悪夢を見ることがあるらしい。夜中に飛び起きてもすぐに宥めて安心させてあげられるように今夜はこのまま不寝番をする予定だった。ただ、昨夜もあまり寝ていないので、転寝してしまう心配はあるけれど……。
「イリス、早く早く!」
今日も朝から元気な姫君に手を引かれ、イリスは城の裏手にある鍛錬場に向かっていた。彼女のお目当ては晴れて見習い竜騎士となったティムである。この時間はいつも飛竜達の世話が終わり、先輩に混ざって鍛錬をしているので、その姿を見に来ているのだ。
鍛錬場に着くと少年の姿はすぐに見つかった。熱心な彼はいつも誰かに稽古を付けてもらっている。今日の相手は未来の義兄ルークだった。利き腕の怪我が完治していないので、彼は左手に訓練用の刃を潰した剣を持って相手をしていた。
「ティム、頑張って」
鍛錬の邪魔にならないよう気を使っているのか、コリンシアは小さな声で応援している。イリスはその様子を見守りながら、ふと鍛錬場の奥へ目を向ける。そこには鍛錬に参加しているらしいプルメリアの騎士と話をしているラウルの姿があった。はしたないと思うのだが、それでもついついその姿を目で追ってしまっていた。
「今日はルイスお兄ちゃんいないね」
「本日出立されますから、ご多用なのでございましょう」
「そっか……」
短い滞在期間でも紅蓮の公子の異名を持つルイスは、タランテラでもすっかり有名人となっていた。鍛錬の場にも頻繁に姿を現すので、手合わせを願い出る者が後を絶たない。だが、最後まで残っていたプルメリアの一団も今日の昼に帰国の途に就く。隊長としての責務もあるので、今日は出て来られなかったのだろう。
「みんな、帰っちゃうんだよね。寂しいな」
婚礼の翌朝には聖域の竜騎士達が帰っていった。その日の昼頃には大母補助シュザンナと賢者が出立し、その護衛としてタルカナとエヴィルが同行した。その翌日となる昨日には皇都からの一団とガウラの一行、そして最後までプルメリア勢と行動を共にしたがったダーバの隠居も部下達に引きずられるようにして帰っていったのだ。
こうして日常が戻り、大人はやれやれと思うところだが、姫君は少し寂しく感じているらしい。
「皆様、お勤めがございますし、ご家族と離れていつまでもこちらにいらっしゃるのもお気の毒です」
「そうだね」
姫君自身がつい最近まで父親と離れて暮らしていたのだ。その寂しさを思い出して納得したらしく、小さく頷いた。
鍛錬場に目を移すと、今日はもう終わりにするらしい。片づけを始めたので、邪魔にならないよう姫君を促してその場を後にした。
「あ、イリスさん。殿下と奥方様がお呼びでございます」
コリンシアと手をつなぎ、部屋に向かっているとオリガに呼び止められる。何用かと思ったが、待たせていい相手ではない。オリガが姫君を部屋まで送ってくれると申し出てくれたので、そのまま城主の部屋に赴いた。
「失礼いたします」
部屋の扉を叩くと、すぐに招き入れられた。そして席を勧められるので恐る恐る座るとフレアが手ずからお茶を淹れてくれる。恐縮して固まってしまっているイリスの前で、エドワルドは実に幸せそうにお茶を飲んでいる。
「実はお願いがあるの」
そう切り出したのはフレアだった。
「何でしょうか?」
「無理を承知でお願いするのだけど、今後もコリンの側にいて欲しいの」
「え?」
理解できずに首を傾げていると、先ほどまで呑気にお茶を飲んでいたエドワルドが口を挟む。
「実は、身の回りを任せられる人材が少なくて困っている。私としてはやはり気心の知れた安心できる相手にいてもらいたいと考えている。フレアにはオリガが、エルヴィンにはフロックス婦人が来てくれることになって助かっているのだが、コリンにはまだそういった人材が見つかっていない。ここ2日ほどの働きを見て貴女ならばと思ったのだ」
「ただ、貴女は女神官としてダナシアに仕える身。信仰を貫きたいと仰るのならば私たちがそれを阻む事は出来ません。ですが……親としてあの子が無邪気に頼っている姿を見ているとどうしても貴女に来ていただきたいと思うのです」
2人から頭を下げられ、イリスは困惑して言葉に詰まる。
「内々の決定で私達は今しばらくこちらに滞在する事となった。答えは急がないからゆっくり考えてから出してもらえばと思っている」
少し混乱していたイリスはその後どうやって御前を辞したか覚えていない。気付けば中庭に1人たたずんでいた。
「イリスさん」
声をかけられ我に返ると、目の前に心配そうな表情を浮かべたアリシアが立っていた。ぼんやりと立ちすくんでいたので声をかけてくれたらしい。イリスは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳……」
「かしこまらなくていいわ。どうしたの? 大丈夫?」
「いえ、あの、その……」
具合が悪いのではないかと気遣ってくれる相手にイリスは慌てて弁明する。そして相手を安心させようとした結果、先程エドワルドとフレアから依頼されたことまで口走っていた。
「ちょっと座りましょうか」
アリシアは微笑むとイリスを手近な椅子に誘う。促されるまま腰掛けると、彼女はイリスの手を取った。
「数年先になるけど、コリンは里への留学が決まっているの。皇都に戻ればその為の勉強も始まるわ。女神官の貴女ならば、その手助けになってくれるかもしれないと思い、私が2人に強く推薦してしまったの。その所為で混乱させてしまったみたいでごめんなさいね」
アリシアが頭を下げるとイリスは慌てて首を振る。
「いえ、そのお話は本当に嬉しいんです。姫様はその、こう言っては失礼だけど妹みたいでかわいいし、お世話するのは本当に楽しいんです。でも、その、ダナシアにお仕えする身でこんなに楽をしていいのだろうかとも思ってしまって……。そ、そもそも、神殿に上がった動機も不純で、その、どうしようって思っちゃって……」
慌てすぎて答えが支離滅裂になっている。それでもアリシアは笑みを絶やさず話を聞いている。
「あら、どんな動機だったのかしら?」
「じ、実家が農家で、うち、大家族なんです。両親の他にお祖父さんとお祖母さんがいて、私は6人兄弟の4番目で同じ敷地には伯父さん一家も住んでいて従兄妹が5人いるんです」
「あら、賑やかね」
「はい。神殿に上がる前は、下の子達の面倒を見たり、亡くなっちゃったけど、曾祖母のお世話をしていました」
「偉いわね」
「私、畑仕事が嫌だったんです。それよりも曾祖母のお話を聞いたり、本を読んでいる方が好きで……神殿に上がったのもたくさん本が読めると思ったからなんです」
イリスの答えにアリシアは首を傾げる。
「あら、それのどこが不純なのかしら?」
「自分の欲の為に選んだからです」
「知識を得るのが?」
驚いたようにアリシアが問うと、イリスは小さく頷いた。
「それはね、不純とは言わないわ。フレアの祖父が賢者ペドロなのは知っているわね?」
「はい……」
「里で勢力争いに負けて聖域に左遷させられたと言われているけど、当の本人はこれで好きな研究に没頭できると喜んでいたのよ。それこそ神殿の務めよりも自分の欲を満たす研究を優先させて過ごしているの。貴女のそのささやかな望みが不純だと言うのなら、彼はもっと邪な存在だわね。
それにしても本当に偉いわ。うちの息子なんて、貴女くらいの頃は勉強を嫌がっちゃってすぐに逃げ出していたもの。字なんて未だに見られたものじゃないし。爪の垢でも煎じて飲ませたいわ」
高貴な存在の実態が色々と明らかになってイリスは絶句する。
「ま、そういう訳だから、深く気にしないで考えてくれると嬉しいわ。それに、あの子の世話係となったら移り住むことになる本宮の目の前には大神殿があるわ。毎日は難しいかもしれないけれど、女神官として祈りをささげることも出来るはずよ。それに何より、あちらには貴女の読みたい本がたくさんあると思うわ」
アリシアの言葉はまさに目からうろこだった。コリンシアのお傍付きをしながら女神官を続けることが出来るのだ。
「良いの……でしょうか?」
「何も問題は無いと思うわ」
「……正神殿に一度戻って、話をしてきます」
「そう。じゃあ、また彼に頼んでおこうかしら」
誰の事か分かり、イリスは頬を染める。そんな彼女の姿を見てアリシアは微笑む。
「わ、私、準備しなくちゃ」
恥ずかしくなったイリスは慌てて立ち上がり、アリシアに礼を言って中庭を後にする。彼女と色々と話したことによって胸にわだかまっていたものが無くなり、何だか心が軽くなっていた。イリスは軽やかな足取りで小さな女主となる姫君の部屋へと戻っていった。




