51 戻せない時間2
マリーリアは毎朝、お腹に卵を抱えた相棒の様子を見に来るのを日課にしていた。特にカーマインが襲われる事件が起きてからは、時間が許す限り飛竜の様子を見に来ていた。
一時食欲が無くて心配したが、数日前からは老係官の見立て通り、驚くくらいの食欲を見せている。通常よりも多く用意されているにも関わらず、まだ物足りない様子のカーマインに、ベタ惚れらしい番は進んで自分の分を分け与えている。
「ファルクレイン、後はよろしくね」
すっかり2頭は自分達の世界に入り込んだので、マリーリアは後をファルクレインに任せて室を出る。外には2人の兵士が警護しており、彼等に頭を下げると彼女は恋人の執務室へと足を向けた。
「おはよう、アスター」
「おう……」
沢山の書類に囲まれているのはいつもの事だが、今日の返事はどことなく精彩を欠いているようにも聞こえる。部屋の主の顔色を窺うと、思った通り蒼白で仕事もはかどってはいない様子である。
「頭痛?」
「……ああ。薬はいらないぞ」
「でも……」
マリーリアが何か言おうとするが、アスターは席を立ち、書類を手にして戸口に向かう。
「朝議に行ってくる」
「アスター!」
「っ……。大声出すな」
「薬飲んで」
「いつ妖魔が出るか分からない。眠り込んでいる暇は無い」
左目を負傷して以来、起こるようになった頭痛は今でも時折アスターを苦しめていた。いつもならば痛み止めを飲むのだが、睡眠薬も混ざっているので飲むと眠ってしまうのが難点だった。
冬の討伐期に入り、いつ妖魔が出没するか分からない状況で、この薬を飲んでしまうと肝心な時に動けない恐れがある。その為に極力薬を飲まないようにしているアスターに対し、彼の体を心配していつも飲むように促すマリーリアは口論とまで行かないまでもその事で揉める事が多くなっていた。
「アスター……」
「……行ってくる」
引き留めようとするマリーリアを振り払い、アスターは執務室を後にする。1人残った彼女はポツリと呟く。
「アスターのバカ……」
エドワルドの執務室に彼を支える重鎮達が勢ぞろいしていた。まだまだ政情が不安定な事もあり、誰かが急用で席を外している事が多い上に、討伐ともなればアスターかブロワディのどちらかが出ているので、朝議に全員が顔をそろえるのは珍しい事だった。
「では、始めようか」
エドワルドが席につき、この日の朝議が始まる。先ずはブロワディが前日の討伐の被害と被害を受けた砦と村の修復状況を報告する。今回の損害は比較的軽かったので、兵団の人員だけでどうにか修復できそうだった。
「編成に随分手を加えてしまったが、竜騎士達の指令系統に問題は無いか?」
「……は、はい。全ての大隊の討伐に参加しましたが、細かい意思の疎通に若干乱れは有るものの、大きな問題は今の所見受けられません」
急に話を振られ、頭痛で会議に集中できていないアスターは対応が僅かに遅れる。エドワルドは訝しむが、朝議の最中なので深くは追及しなかった。
「新任の大隊長の采配でもうまくいきそうか?」
「はい」
「規模の小さなものでしたら、彼等の才覚に任せても十分対応できると思います」
アスターの返答にブロワディが補足する。エドワルドもその案を了承したので、これで多少は時間の融通が出来るとアスターは内心ほっとする。その後も討伐に関連した報告が行われ、エドワルドはそれらを了承した。
「殿下、先日カーマインが襲われそうになった件ですが、今報告しても宜しいですか?」
予定されていた報告が全て終わったのを見計らい、アスターは発言を求めた。
「聞こう」
「入れ知恵したのは間違いなくマルモアの神官長です。夫人があの後供述しました」
貴人用とはいえ、牢は暗くて寒い。更には怨念の籠った囚人の霊が夜な夜な叫び声を上げていると看守に脅され、彼女は余程怖い思いをしたのか翌朝には大人しくなっていた。更には自分から進んで供述し始め、従兄でもあるマルモアの神官長に助言を貰った事をしゃべったのだ。
「結果的に彼女の自供を裏付ける証拠になりましたが、以前から調べさせていた部下から同様の報告が届いております。事件前、謹慎中の夫人の元へ、幾度も彼の使いが訪れております。表向きは別の神殿から慰問という形で訪れておりましたが、実際は神官長の腹心でした。その裏付けに時間がかかり、私の元へ情報が届くのが遅れました」
「あの件に間に合わなかったと、言う事か……」
「はい」
もう少し早くその情報が届いていれば、カーマインに怖い思いをさせずに済んだかもしれない。それに、巻き込まれた避難民も罪を犯さずに済んだのだ。彼等は今、労役に課せられている。反省している様子なので、予定を早めて解放出来るかもしれない。
「神官長が相手ですと、罪に問うのは難しいですぞ」
渋い表情でサントリナ公が口を挟む。国の中にあっても、全ての神官は礎の里に属しているので、罪に問うにしても面倒な手順を踏む必要があった。加えて、グスタフの失脚でタランテラの対外的な信用はガタ落ちで、受理してもらうのも難しい。
「大神殿の神官長はお力になって下さらないだろうか?」
「……そうですな。あの方ならお力になって下さるかもしれませんな」
グラナトの提案にブランドル公も頷くが、サントリナ公はまだ懐疑的だった。エドワルドは彼等の会話を聞きながら思案する。以前に大神殿の神官長らに少しだけベルクの事を調べてもらった折、彼とマルモアの神官長はかなり懇意にしている間柄だった事は分かっていた。
今回の事も繋がっているのではないか……。そして脳裏によぎったのは、ベルクの事を調査しているという大母からの手紙だった。だが、その事はまだここにいる重鎮達には話してはいない。
「さて、どうするか……」
「殿下、ここは大神殿の神官長にご助力頂いては如何でしょう?」
「討伐期に入りましたし、人手をそちらばかりに割くのも限界がございます」
グラナトとブランドル公の提案はサントリナ公も渋々ながらうなずいている。調査に割かれる人手が討伐に向けられるのならブロワディも賛成の様だ。
「アスター、お前の意見は?」
「私の、ですか?」
急に話を振られ、彼は返答に戸っている様だ。精彩を欠く様子に他の面々もようやく彼の顔色が悪いことに気付いた。
「アスター卿、お疲れなのでは?」
「そうですな。随分とお顔の色が悪い様子。少し休まれた方が宜しいのでは?」
サントリナ公とブロワディに口々に言われてアスターは恐縮した様子で頭を下げる。
「マリーリアと夜を明かしたのか?」
「……仕事です」
エドワルドの軽口にアスターはそっけなく返す。
「まあいい。先程の件はご助力いただく方向で話を進めてくれ」
そっけない態度にエドワルドはため息をつくと話を纏め、一同は頭を下げてそれを了承した。
「アスター、今日は休んでいろ。ブロワディ、今日の討伐は君が采配してくれ」
「かしこまりました」
「殿下、ゆっくり休んでいる訳には……」
エドワルドの決定にブロワディは了承したが、アスターは驚いた様に食い下がる。
「その顔色で何を言っても無駄だ。討伐期は始まったばかりなのに今からお前に倒れられては困るからな。明日の朝までしっかり体を休めておけ。これは命令だ。それに、前線の指揮は大隊長に任せても問題ないと言ったのはお前だ。少しは信用してやれ」
畳みかける様に言われてアスターは項垂れるしかない。
「後事は引き受けますから、今日はお休みになって下さい」
ブロワディにも静かに諭され、アスターも了承せざるを得なくなった。
「今日の朝議はこれで終わる。解散してくれ」
アスターが頷くのを見届け、エドワルドは朝議を終了させた。一同は礼をして彼の執務室を出て行った。
朝議が済み、皆が下がるとエドワルドはすぐに執務を再開した。アスターの事は気にはなるが、ブロワディにもあの様に言われたらいくら頑固な彼でも休まざるは得ないだろう。
だが、今日も処理する書類は山の様に重ねられており、他人の事ばかりかまっている暇は無い。彼は今日もせっせと目を通した書類にサインをしていく。
「……来たか」
馴染んだ気配が窓の外から感じる。きっと番の2頭に当てられて逃げ出してきたのだろう。今日は厚手の上着を着込むと、露台への扉を開けた。
「グランシアード……?」
いつもの様に頭を撫でようとして、彼は動きが止まる。パートナーの飛竜の頭の上には一匹の小竜がちょこんと止まっていたのだ。
「お前、誰の小竜だ?」
小竜は物怖じしない様子でグランシアードの頭の上で寛いでいた。よく見ると、体には胴輪がつけられ、そこには小さな紙片が挟まっている。
「おいで」
それに気づいたエドワルドは、小竜を怖がらせないようにそっと手を差し伸べた。するとその小竜は臆することなくその腕に収まる。
「いい子だ」
話しかけ、体を撫でてやるとクルクルと機嫌よく喉を鳴らす。優しく話しかけながら体を撫で、十分に小竜が落ち着いたところでようやくエドワルドはその紙片を取りだした。
「……」
紙片には大母の使いを示す百合の紋章が押されており、広げてみると特徴のない細かい字でびっしりとベルクに関する調査報告が書きこまれていた。それは既に知らされていた件の薬草園の情報だけではなかった。
彼等はロイスを静養という名目で監禁している小神殿を制圧い、彼を救出していた。しかし、徐々に衰弱していく毒薬を盛られていたロイスは、最早回復の目途が立たないほど弱っているらしい。この国を食い物にするだけにとどまらず、躊躇なく人を殺める命令を下す彼の横暴さに改めて腹が立つ。
「まさかここまでとはな……」
エドワルドはショックを隠し切れない。気分を落ち着け、改めて書かれた内容を完璧に記憶し、室内に戻るとその紙片を暖炉の中に入れて燃やした。そして彼も紙片に細かい字でベルクに関わると思われる情報と疑問点を書き連ね、そして最後に感謝の言葉を添えた。
「名前も分からぬが、そなたの主に感謝を伝えてくれ」
胴輪に紙片を挟み、小竜に労いの言葉をかけて外に放ってやる。小竜は元気よく飛び立ち、木々の向こうへと姿を消した。
アスターが自分の執務室に戻ると、クッションを抱えたマリーリアがソファで眠っていた。自分の仕事を抱えながらも彼の仕事も手伝い、空いた時間は飛竜の世話に忙殺されている彼女も疲れているのだろう。奥の仮眠室で休めばゆっくり寝られるのに、ここにいるという事はアスターが戻って来るのを待っていたのかもしれない。頭痛で鈍る思考でアスターはそう結論付けた。
「一緒に休むか……」
アスターは常備してある薬を取りだして丸薬を飲み下す。そして少しふらつきながらも眠っている恋人を抱き上げ、奥の仮眠室へ向かった。
目を覚ましたマリーリアは目の前に恋人の顔があって驚いた。しかもソファでうたた寝していたはずなのに、いつの間にか仮眠室の寝台で彼の腕に抱かれて眠っていたのだ。
思わず離れようとしたのだが、彼女の腰にはアスターの腕が回っていて身動きが出来なかった。寝ている筈なのに、整いすぎて好みでは無いとジーンが評するしなやかな筋肉に覆われた腕でがっちりと固定されていてびくともしない。
「アスター……」
気持ちが落ち着いたところで彼の顔にかかる栗色の髪を払う。こうして突いても起きないという事は、あの薬を飲んだのだろう。目の下の隈は先程見た時よりも幾分か薄くなっている。痛み止めの効果が出ているのか、その寝顔は穏やかだった。
「起きないの?」
衝動に駆られて頬や耳に触れる。しかし、うーんと唸るが起きる気配は無い。再び腰に回った腕を外してみようとも試みるが、やはりびくともしない。逆に抱き寄せられて体が密着する。
「もう……」
寝ているふりなのかと様子を窺うが、規則正しい寝息が聞こえる。起きるのを諦め、そのままアスターの体にすり寄る。体温と心臓の鼓動が伝わり、その心地良さにマリーリアは再び目をつむった。




