四話 幸福が産まれる場所
四話 幸福が産まれる場所
<一>
僕は最悪な男だ。柚芽にまだ、言っていない事があった。だって、死を宣告するのとそれは同じだから。言えない。
そんな感傷的な想いが身体中を駆け巡るようになったのはここ最近、楽譜の柚芽が両腕を前で組むという何かを考える仕草をよく見かけるようになってからだ。彼方は確信してしまった。いや、何処かで残酷な結末を、けれど……当たり前の結末をヘタレという名の彼方お気に入りの油性マジックでその結末予測を黒く塗りつぶして、違う場所にみんながいつまでも一緒に暮らせる世界という未熟な願いを丁寧に書いていた。
今、楽譜の柚芽が望むのは、自分の作曲した曲が希灯音楽祭で無事に奏でられる事。
彼方はトランペットをぎゅっと握り締める。汗で滑り、指運びを間違えるのではないかという逃げの言葉が頭を過ぎる。そうじゃないと頭を掻き毟る。
夏休み期間にいつも行われている学校施設の安全点検の都合上、今日から三日間、生徒達は希灯高校を利用できない。勿論、彼方達は事前に夏休みのしおりという今時の小学校でも配布しないだろう白黒印刷の冊子本で知っていた。施設が使用できないから部活動は休止という事も明日に迫ったリハーサルを鑑みれば休止は出来ない。
という事情もあり、希灯高校吹奏楽部、通称熊部の部員達は熱い日差しの下で青春の汗を流している。
背の高い原っぱから子ども達のはしゃぐ、声と無数の草を踏む足音混じりの風が聞こえる。近くの小川からも子ども達のはしゃぐ、声と川の水が暴れている音が聞こえた。
希灯高校吹奏楽部と組む予定の蜜柑吹奏楽団は、下は三歳から上は十五歳で構成されている。小さな子はこの時期はどうしても遊びたいものだ。それを無視して強硬なスケジュールを敢行すると、レベルアップは見込めず逆にレベルダウンしかねない。蜜柑はそこで大胆に大切な一日を費やし、子ども達のモチベーションを上げる作戦に出たのだ。つまりは一日、お休みあげますからみんな、リハーサル頑張ろうっていう趣旨だ。
希灯児童養護施設では蜜柑が企画したイベントはみんな仲良く、一緒に参加という伝統があり、施設出身者と施設入居者で構成される熊部は形だけ、草薙山へのピクニックに参加している。
という事情もある熊部部員達はひたすら、楽譜の柚芽が作曲した曲を一小節もへまをするものかと半ば、躍起になって練習している。
赤色の楽器を握りしめ、自分の細い手先を茫然と見つめていた彼方のところに疲れたぁ、ガキ達は元気だと空に喚きながら彩夏は近寄ってきた。
こちらの方角に用事でもあるのだろうと都合良く、解釈した彼方はマウスピースに口を付けて凍り付いた。
過去に見た人の本質という名の奇怪な者達が彼方の心を静かに蝕んでゆく。誰もが自分の心とは正反対の事を考えていた。目の前の音楽には集中せずに、まるで独り独りが違う空間に隔絶されているように彼らは過ごしていた。
これが全てか? 彼方!
自分ではないような何者かの意志が溶け込んで彼方に問う。いや、彼方の意志がそうしているのかもしれない。
「まだ、吹けないの」
風に混じって誰かの声がした。そんなのはどうでもいい、と彼方は楽器を手に持つ者の顔を見回す。
あれは醜さではあるか、彼方?
つい最近まで基礎音階すら吹く事の出来なかったふわりが今、楽譜が命綱と言わんばかりに見つめながら、トランペットのピストンをぎこちなく動かしていた。なんて、下手なリズム狂いの音を奏でるのだろうか。あ、そこ……シャープだろう。
眼帯を取ってそうすれば、全てが変わるよ。
自分の心の中に自分とは違う何者かが心に、彼方に囁く。囁きの命じるままに彼方は眼帯をゆっくりと外した。だが、ふわりの姿はいつものずっと、守ってあげたいような華奢な身体のままだった。
「これは……いや、これが音楽」
「か? 彼方って、お前。どうしたの?」
彩夏の声に彼方は振り向いた。彩夏の顔はにんまりと微笑む狐顔に見えた。
音楽が人の本質にまで作用するって事なのか?
彼方は自分の心にいる者に回答を迫った。その疑問を予測していたかのような間も置かない意志が彼方の心に満たされる。
音は自分の中に内在する世界との絆を呼び起こす。神様が知恵の美を食べた禁忌を犯した人達に与えた繋がり合うもの。絆とも、希望とも人はそれを呼ぶ。
川で遊んでいたぷりんが濡れた水着を着たままでクラリネットを吹いている。身体をくねらせながら太陽に自分の歌を、存在を聞かせるように。
妃那が熟練した手捌きで音の螺旋階段を上ってゆく。ただ、上っているのではない。軽やかに、童心に帰ったようにスキップしたり、静かに淡々と上ってゆく事もある。
空虚を漂っていた彼方の心がはっと、彼方の息で暖まったマウスピースの存在に気が付く。
彼方は唇をマウスピース内で震わせて、鋭く早い息を吐く。同時に雲一つ無い空や、子ども達の遊ぶ小川、原っぱに透き通った高音が突き抜けた。
自分の音が出せると深く頷き、ミの音を水面に生える波紋のように揺らす。
「ビブラートで曲を生み出しやがった。上手い奏者ほど、表現力の幅は高まってゆくのはガキでも解る簡単な理屈だ。けど、彼方のマウスピースは安定感を捨てた音域の定まり難い型だ。林檎さん、そういうマウスピースを特殊な楽器にはいつも専用で拵えていた」
「何、これ……一音で解るパパぁの力量が。何でここにいるの? マウスピースの弱点を感じさせない奏者が」
下手くそだな、ぜんぜんビブラートになっていない。ブレスコントロールに若干の群があると彼方は考えつつ、音を萎めて消してゆく。音を揺らす事を忘れずにゆったりと音は消えた。
ビブラートを邪魔するように騒いでいた背後にいる彩夏と足下にいる楽譜の柚芽に順々、目を合わせて睨む。
「練習の邪魔しないで下さいよ」
だが、声は久しぶりの演奏後の快感に喜び震えていた。眼帯を付けようと手を伸ばした彼方の耳元にありがとう、と誰かが囁いたような気がした。眼帯を取り付けて、誰の声でもない事に一瞬、ひやりとしたが……何処か、ほっとした気持ちに変わっていった。
「だってお前、この前まではマウスピースにも唇、付けられなかったヘタレ日本代表の彼方さんだろう」
トランペットを構える真似をしながら彩夏が彼方に言った。上向きに構え過ぎだという反論を飲んでから彼方は言う。
「ヘタレ代表って……」
彼方の背中を勢い良く、叩いて彼方の顔付近に妃那の嬉しげな顔がひょこりと現れた。
「ヘタレですわよ、うちの部長は」妃那が声を潜めた。彩夏に向かって口を両手で覆いながら言う。「だって」二人して彼方を見つめて、「ぷぅ」
笑った。
多分、あれの事で彼女達は笑っているのだろうと、彼方は同意とも取れる微笑みを浮かべつつも頭を抱えた。
昨日の夜、ピクニックに持て行く御菓子を買いに妃那とふわりとで、駄菓子屋るーぷに足を運んだ時だった。
「ままぁ、ふわりの御菓子箱が空っぽ! 買ってもいい?」
ふわりは彼方とふわりの部屋のディスプレイの脇に置いてある自分専用の御菓子のバケツが空だった事を思い出して英語で彼方に言った。
その事を頭に思い浮かべながらぼそっと彼方は言う。
「英語で言うと迫力あるね、ふわりは」
「柚芽様は英語を手足のように操れますから、世が世ならば映画スターですよ」
柚芽はまるで自分がそう言ったというようにない胸を誇張し、誇らしげだ。そんな柚芽様の今日の服装はふわりが今、着ている金魚柄の着物と赤い鼻緒の下駄という出で立ちとお揃いだ。
彼方は悪乗りして律儀にも彩夏と妃那の目の前に、ノートに柚芽の発言を書いて掲げた。
ちなみに柚芽の現在の服装も備に伝える。
「ねぇ」彩夏は柚芽を指さして、哀れみに満ちた表情をわざとらしく表現した。「なぁ、そいつは」
「黙れよ、平凡胸。お前なんか死んでくれても構わないんだ。むしろ、死ね」
この言葉はあんたなんかに別に褒められなくてもいいんだからね。ねぇ、ちょっとくらいは褒めても良いのよに変換してノートに書いた。それを彩夏の方に掲げた。
「お、これがツンデレか。流行しているよなぁ、何気に。ツンデレファミリーレストランが希灯高校の近くに出来たらしいぜ」
「あまり、小さい子をいじめてはいけません」
と綾夏に苦言を呈した後、妃那は澄ました顔で言う。
「部長、ぜひともふわりのおやつ一年分の為に頑張って下さい。この方法を使用すれば、いつでも、わたくしはライバルと共闘する事が可能になりますわ!」
「あの後、母さえ止めなければ、今頃……ふわりの御菓子バケツは満タンになっていましたよ」
その言葉を聞きつけた母、蜜柑が彼方とふわりに似た人形を両手に填めてこちらへとやってきた。彼方達の前まで来ると彼方人形とふわり人形は揃って挨拶をした。なんて、見事な身体を九十度、曲げたお辞儀をするのだろうか、と呆れた溜息を誰もが漏らしたいに違いないと彼方は思った。
「何言っているんですか、彼方ちゃん」エプロンをした偽保母さん風の蜜柑は彼方人形とふわり人形を操り、二人の身体を重ね合わせた。「愛です、愛です、愛の力ですよ!」
「母」と一端、言葉を切った後、彼方は蜜柑の目線を誘導するように蜜柑が座っていたパイプ椅子に置いてある星形の看板を見た。「母の席に置いてある看板に最優秀者には団からおやつ一年分プレゼント! 愛よりも物質が今は現代には大切なのよ、は幻視でしょうか?」
「馬鹿ね、本当に愛の狩人である葉瀬蜜柑のお姫様なの?」
彼方人形がいやいや、と身体を通常の人間ならば骨折しているだろうに、というくらい捻り曲げていた。濡れ雑巾と良い勝負だ。
「いやいや、蜜柑さん」彩夏は蜜柑が填めている彼方人形とふわり人形を自分の手に填め直す。「彼はヘタレ少年彼方君。好きなもの、ふわり。食べたいもの、ふわり。嫌いなもの、妃那。大切なもの、ふわりの彼方君ですよ」
彼方人形がふわり人形の背後からぎゅっと、ふわり人形を包んでいた。
彼方は微かに笑い、しょうがないなぁという様相であったが、妃那は違ったらしく彩夏の席に無言で近寄った。そして、パイプ椅子の上に無造作に置かれていたフルートを両手でそっと、掬い上げた。
「折って良いかしら、これ?」
「止めろ、今日は特別なんだ。高いぞ、それ。林檎さんから前に貰ったフルートだから」
妃那が本気でそれを実行する事はないと彼方同様に知っている彩夏は手刀を宙に振った。
「えーと、名前は」
普段、ずぼらで人の名前すら覚えていない事のある彩夏は顎を手に当てて考えた。
その間、蜜柑が彩夏の席に近づいて、妃那からフルートを受け取るとまじまじと見始めた。蜜柑の真剣な表情がフルートの全てを理解しようとしているようにも感じられた。
やがて、和らいだ顔つきで、
「クロス。懐かしいわね」
「え、知っているんですか?」
「林檎の最初の作品よ、大切にしてね。それ、作るのに私の助言が必要なんて電話を寄越したくせに私の論理が間違っているとか、で喧嘩になったのよ」蜜柑は太陽が繰り出す光から目を背ける。「今となっては良い思い出」
彼方人形とふわり人形を彩夏の両手から奪うと、誤魔化すように彼方人形の両肩にふわり人形を載せてどう? と彼方にウィンクした。
そのウィンクが苦し紛れのものだと彼方は見抜いた。当然、妃那や彩夏も見抜いているだろう。
彼方は困惑した表情を浮かべている彩夏に代わり、蜜柑を茶化す。
「母、良い思い出を。彼方人形とふわり人形で茶化さないで下さい」
茶化された蜜柑はまた、ウィンクした。彼方の気遣いに気付いた様相だった。息を吸い込む音がここまで聞こえてきた。
そして、蜜柑は何かを吐き出すように喋り出す。
「愛よ、愛! 今年のテーマは愛。ですから今年は前半、養護施設の子による人形劇。後半は我が蜜柑吹奏楽団の演奏。どう、愛に溢れている?」
いや、希灯音楽祭ですよね、と誰もが聞きたいという中で、彼方人形とふわり人形でいきなり、寸劇を始める。
ふわりのほんわかした声を真似る為にあっと声を調節した後、見てろよと言わんばかりにこちらを強い視線で射貫いた。
蜜柑と彼方……両者の間に緊張が稲妻のように走る。
蜜柑の深い一呼吸、せーの! という掛け声を体現しているようだ。
「愛にゃん」ふわり人形が円らな蒼い豆瞳で彼方人形を見つめる。「愛だね、ふわり」恥ずかしと下を向くふわり人形の腕を掴み、彼方人形は手繰り寄せた。「がしっ、ぶちゅー」そのまま、二人はパイプ椅子という名の草原で抱きしめ合う。「たんたんたらーらー」二人が倒れようとしたところで蜜柑がこの寸劇はおしまいとばかりにエンディングの曲であろう鼻歌を披露した。
「ファィト! 彼方ちゃん」
彼方にそう謎のエールを残して、真夏に出現した精神を凍らせる雪女はスキップをして、小川の方へと駆けだしてゆく。
彼方達は手を振って見送ることにした。
彼方は真剣に吹き続けるふわりの丸まった小さな背中を見て、本当はその姿勢だと音が出にくいだけどもなぁと微笑みつつ、今はそれでも良いと思い直した。
小さな背中にはまだ、無限の未来と夢が詰まっているのだから。
赤い鼻緒を弄くりながら、微かなうなり声を上げている柚芽に視線を移す。
ふわりよりも小人さんサイズの背中にはごく僅かな有限の未来と夢しか詰まっていない。だが、時間の量に比例して人は幸福に過ごせるというのか?
例えば、幸福な暮らしをしていた資産家だって、必ずしも未来永劫に幸福が続くとは限らない。時間の経過と共に幸福な暮らしもきまぐれな水流を両手の皿で受け止めようとしても、両手の隙間から止め処なく零れていってしまう事がある。
例えば、どんなに貧乏な家だとしても人と人の出会いによって場所を得て、その場所で自分の知られざる才覚を目覚めさせて、一年もしないうちに貧乏を抜け出し幸福になる事だってある。
幸福にしたって物質的なものだけではない。精神的なものだってある。
今、柚芽がどういう状態にあるか、備に知る事の出来ない苛立ちに苛まれて、拳を握り締める。そして、立ち尽くすしかない。
彼方の頭の中に確固たる答えはなく、ただ、空虚な感情にふわりの肌に触れたときのような暖かさが充満して安堵感に包まれつつも……悲しかった。愛しかった。
彼方のふわりへの執着から現実へと戻すように喧しい音が鳴り響いた。彼方はむっすっとして音の方角へと顔を向ける。
妃那が左右の掌を叩き合わせて、音を鳴らしていたのだ。
のんびりと音出しをしていたふわりもその音に気付き、彼方の胸へと飛び込んできた。やはり、本物のふわりの肌から発せられる熱の方が彼方の心を温かくさせてくれた。ふわりをもっと、味わうべくふわりの金髪に鼻を当てる。大人の女性が振りかけるようなきつい香水の香りではなく、少女に本来、備わった自然な甘い香りが鼻に入ってきた。彼方はそれを喜んで迎え入れた。
冷たい視線を送る彩夏と妃那には構うことなく、ふわりとじゃれ合う。
妃那が至福の時を邪魔するように棒読んだ。
「さぁ、練習再開」
仕方なく、ふわりを地面に降ろして半ば、振り絞るように心の予備タンクから抽出したやる気に満ちあふれた声で応える。
「おぅ!」それに続くようにふわりが、「にゃん!」彩夏が応えた。「へいへい、やりますか」
たった、四人の勇士達に対して、その勇士の一人である彩夏が呟く。
「虚しいなぁ、熊部」
彼方が肩と足を機械仕掛けの人形のように下へと落として言った。
「言わないでよ……」
彼方は自分の席に座り、トランペットを構えようとした。だが、草を大急ぎで踏みしめてこちらへと近づく音に気付き、視線をそちらへと向けた。ふわりがトランペットを両手で抱きしめたまま、走って彼方の膝の上へと飛び乗った。
「わん!」
と子犬さんの鳴き声を真似って彼方にここに居ても良い? と問うようにじっと見つめた。彼方は頷いた。
ふわりは口をぎゅっと結んだ真剣な表情でトランペットを構えて、口をマウスピースへと触れさせた。数秒も間もなく、ふわりのトランペットからはぎこちない揺れなしのロングトーンが披露される。
ロングトーンという一つの音を何秒間か、伸ばして吹くをふわりはここ最近、何日もの間、一日一時間と時間を決めて練習してきた。その成果が出てきたのだろう。肩の力も抜けていて息の無駄な浪費も少ない良い音だ。彼方は目を閉じて、耳でふわりのロングトーンする音を聴いた。
聖域へと触れるように緊張を保ちながら彼方もふわりという名の音聖域にトランペットという器を持って同化した。二人の音が重なって一つの真っ直ぐな音として、山中に響いてゆく。まるで二人の心と心が会話しているようだ。
だが、それも長く続かなかった。
急に不安になった。
この音聖域が無くなってしまったら、自分という音はどうなってしまうのだろうか? ふわりという名の聖域以外に彼方が身体を休める場所は世界中、生涯賭けても発見できないであろう事を彼方自身の心音が知っていた。
硝子が冷風に晒されて外側から突かれている様相と似通った歪な悲鳴が音となって彼方のトランペットから溢れ出す。
ふわりも真似て公園で無邪気に遊ぶ女児のように足をばたつかせて、楽しげに感情違いな不安定な音を奏でた。
清かな風景画に墨汁を一滴垂らすが如く、暴挙に彼方の心は動揺に沈んだ。ふわりの聖域を自分が汚してしまった。
響き渡る不協和音に彩夏が両耳を塞いで、こちらに振り向く。
「あまり、ふざけてんなぁよ。練習をしっかりやらないと幾ら、お前でも本番、もたつくぞ!」
彼方、ふわりのトランペット、妃那のサックスとで構成された周囲の音と音の合間を強引に掻き分けるように彩夏は叫んだ。叫んだ彩夏は明らかに彼方を宛にしているような緩やかな表情をしていた。
違う、と彼方は彩夏に対して言葉を手渡し……したかった。
だが、妃那の超越技巧が織りなす音の芸術を阻害するような情けないヘタレ声を上げたくはなかった。妃那の音から感じる印象は全てが楽譜通りの機械的な音だ。勿論、素人が彼女の音を、曲を聴いたのならば、誰もがその年でそれ程の才覚を見せるとは、と拍手喝采、驚嘆の嵐であろう。彼方、蜜柑という天才と呼ばれる者達にして見れば、ただ美麗な音と音を繕い、着飾っているに過ぎない中身のない曲を奏でるのだなという感想を一言、洩らすだけだ。
今の彼方は蜜柑に上手ね、お嬢ちゃんと皮肉られるレベルの音しか奏でられなかった。
熱く乾いた息がマウスピースへと入り、その中で優柔不断な音へと生まれ変わり、トランペットのベルから、蚊の規則正しくない蛇行運転を真似た音が排出された。
いつの間にか、息の速さを失っていた音は高音から低音へと萎んで……花火が消えるように唐突、終わりを遂げた。
下を向くと、ふわりの頭が小刻みに揺れていた。必要な酸素を取り込むべく、健気にも酸素を拾い集めているのだ。痙攣にも似た息づかいをする小さな愛しいふわりの姿を眺めて、不安になった彼方はふわりの顔が自分の眼下に届くように抱き上げた。
涙の溜まったふわりの目元をそっと、拭った。
息苦しくとも笑顔のままで、動物の鳴き声でありがとう、と応えるふわりに彼方は訪ねた。
「苦しいのならば、さっさと音を吹くのを止めればよかったんだよ。チューバ、ユーフォ、ホルンと違い、トランペットは確かに管が短い部類に入るから息の量は少なくても済む。けどね……」ふわりのおでこに口づけてから、「ふわりはこんなに愛らしくて儚い女の子なんだ。どうして、無理したの?」
きょろきょろと首を忙しなく動かした後、ふわりは首を一所懸命に伸ばした。微かな唸り声を上げて、彼方の首筋に口づけた。
「ままぁ、と一緒が良いのわん」
「僕は……」
ふわりの屈託がない笑顔を避けて、無数に咲き乱れるひまわりに視線を向ける。
上歯と下歯を崩し合うように噛み締めた口を開けて、
「僕は最低な母親だ」
そう呟いた。
それでも、向日葵は夏風に身を任せて左右に、前後に踊っていた。彼方を励ましているように思えた。その夏風が彼方の鼻までみかんの香りを運んでいた。山の至る所にみかんの木が生えている事を思い出させてくれると共に、母の香りだと彼方は理解した。
甘味の利いた無邪気さと何処か、丸みのある香りが心を穏やかにさせてくれるのだ。そう、いつでも。
「適わないなぁ、本当に」
向日葵が彼方ちゃん、上手と微笑んでいた。
<二>
日が傾いたのを合図にして、子ども達は熊部が今回の音楽祭での演奏曲を練習ていた場所へと駆け寄ってくる。ある男の子は泥だらけの手を振り上げて、隣にいた小さな女の子の顔に付けようとしていた。女の子は柔らかな奇声を上げながらぷりんの周囲をぐるぐると逃げ回った。男の子が諦めるはずもなく、女の子を追いかけ回す。
「元気な子達だなぁ」
としみじみと呟き、譜面台を畳んで布袋に入れた。
彼方に猫のように首根っこを摘まれている柚芽がむすっとした顔で彼方と同じく、騒がしい子ども達の姿を見つめていた。
ずっと、無口だった柚芽が唐突に口を開く。
「炭酸の抜けたソーダのような音がパパぁの音じゃないはずです」柚芽は前置きした後、深い憂いの溜息を吐いた。「どうしたんですか?」
宙ぶらりんの身体を風の吹く方向と同じ方角に揺らしている柚芽の姿は今すぐにでも消えてしまうかもしれないという事実、草の上に寝転がって身体を丸めて眠るふわりも消えてしまうかもしれないという事実に背を向けた。
「御免」囁くように言ってから平然と言う。「ちょっと、ヘマをしただけだよ」
柚芽はその言葉に納得したように随分と饒舌に喋る。
「どんな天才でも間違いはあるからな。神様が柚芽様をあんなチビになる遺伝子を組み込んでこの世に生誕させてしまったように。パパぁは柚芽の事を知り尽くしているからわかると思いますけど、それを柚芽の音楽に関する才覚で補っているんですよ」
その神様にお願いしたい。
後少しで良いから僕たちに時間を下さい。
<三>
ただ、一人の観客である父、雄大が彼方ちゃん、ヘタレちゃ駄目よとアイドルの親衛隊並みのしつこさを持ってして何度も叫んでいた。そんな些細な妨害があっただけで希灯音楽祭へのリハーサルは続いてゆく。
明日の希灯音楽祭では今、眼下に広がっている観客一人しか座っていない長椅子と誰も座っていない長椅子だけの殺風景な場所で演奏するのではなく、希灯市の中央にある特設舞台で何万という人間を目の前にして演奏するという事実を奏者達の全員が理解していた。そう、理解しすぎていた。
彼方は自分の音を奏でる出番を頭の片隅でカウントしながら、そう考えていた。
理解しすぎていたというのは天才トランペッター、葉瀬蜜柑が今年も後継者達と共に日本最後の音楽楽団が生の音楽を奏でるという触れ込みがテレビで放映されたのだ。彼方も熊部代表としてテレビに出演した。そんなテレビを全員が見てしまったのだから緊張するなと言われても無駄だろう。
周囲の音に耳をすませる。
ティンパニーの叩く音が何処か、弱々しい。本番は壁などがある場所ではない。音響設備のない環境でその音で叩けば、他の音に隠れてしまう。サックスは流石、妃那が指導しただけはあり、整った音をずれずに合わせている。だが、妃那の性格上、それだけの音になってしまっている。素人目には気付かないだろう。フルートを吹く彩夏の神懸かり的な勘は絶好調のようで素晴らしい旋律を奏でていた。緊張という文字は彩夏にはないと感じさせるほど、楽譜の記号を捉えつつもそこに感情をそっと、載せている。低音のチューバ、ユーフォといった楽器はリズムをしっかりと刻んでいる。
だが、全体的に音量のバランスが整っていない。尻込みしている印象を受ける。
膝が交互に震えていた。
ふわりの緊張を取り除くように膝の上に載っているふわりの頭を撫でる。ふわりは緊張が解れたのか、大人しくなった。
ふわりの膝の上で胡座を掻いている楽譜の柚芽が熱に魘されているように何度も呼吸を繰り返している。終わりが近いという思いが漠然と彼方の心に浮かんだ。ふわりと似た金髪は汗でシャワーを浴びたように濡れ、乱れた着物からは小さな肩が覗けていた。蒼い瞳は彼方をずっと、捉えている。蒼い瞳の中を覗けば、鏡のように彼方自身の不安が暴露されてしまうという錯覚に陥った。
今の彼方の不安は柚芽、もう一人のふわりが消えてしまう事だった。
それを掻き消すように天を仰いだ。右眼には強烈なスポットライトの光が入った。
咄嗟に目を押さえて楽譜の方へと視線を戻す。
すると、ふわりが彼方の服の袖を何度も引っ張ってきた。
あ、しまった。逃した。
ふわりは彼方にここから音を奏でるんでしょう? と質問していたのだ。いつまでも出るところを教えてくれない彼方に疑問を感じたのだろう。
「音をちょっと、止めてくれるかな!」
蜜柑は指揮棒を譜面台に乱雑に叩きながらそう叫んだ。蜜柑の声はどんな楽器の音よりも周囲に響き渡った。それに驚愕したように楽器の音は鳴りを潜めた。
一同の蜜柑に向ける視線が依然と異なり、緊張が走っている。そんな印象を彼方は感じずにはいられなかった。
しばらく、無言の中、エアコンの効きすぎた室内の冷風が彼方の背中を虐めるように突いた。
指揮台の上から降りて、彼方の方へと蜜柑はゆっくりと歩いた。彼方の手前で立ち止まる。
「彼方ちゃん、あなた、何やっているの?」彼方の膝の上でにこにこと微笑んでいるふわりを怒りに満ちた目で見つめて、「いいえ、こう聞くべきね。本番前のリハで上の空になって何、考えてるの?」
「それは……あの」
彼方は口を噤んだ。
自分でも解らなかった。唐突な不安と確信的な不安が並みのように胸の奥から現実へと這い出ようとしているのだ。ただ、それは今考えなくても良いことだった。だが、今、考えてしまう自分が解らなかった。
ふわりが初めて蜜柑に威嚇の犬の鳴き声を上げた。
小さなふわりと、ふわりが成長したらこうなるだろう容姿を体現している蜜柑の間に緊張感が生まれた。誰もがそう感じたに違いない。
蜜柑はふわりの威嚇にも、もろともせずにふわりの頭を撫で回すと彼方に向かって喋り始めた。
「ふわり、この音楽祭が終わったら結婚しようとか、じゃないでしょうね」ふわりの身体の向きを強引に変える。「それは死亡フラグよ、彼方ちゃん」
母、蜜柑がこのように御機嫌でおちょくるのも無理はなかった。もの凄く可愛らしく、必死だった。頬は少し膨らみ、ほっぺがリンゴのように淡く染まり、顔は緩みっぱなしの笑顔の状態でわん、わんと威嚇している。威嚇している声自体も蕩けるような甘みに帯びた声だった。特殊な性癖の持ち主ならば、一目惚れするだろう。
抱きしめたい衝動に駆られた。
今は駄目というふうにふわりの身体はまた、強引に向きを変えさせられた。それから間もなく、蜜柑は奏者達に向かって叫んだ。
「あら、もう、こんな時間。今日はここまで明日の本番は頑張りましょう!」
蜜柑の終了を告げる言葉を待っていたかのように歓声の声が上がった。だが、多くの子ども達は自分たちの目の前にある楽譜に赤ペンを入れ始めた。今日、蜜柑に注意された事に加えて、さらに仲間同士で論議し始めたのだ。誰もが曲を作るという共同作業に心から従事している。ここは一般の人が思っているような場所ではない、と叫ぶ心の痛みを吹かせている場所ではない。いうなれば、秘密基地なのだ。誰もが心と心を通わせ逢う秘密基地だ。
妃那の下にはまだ、楽器を吹き始めて間もない子ども達がお行儀良く、列になって並んでいた。妃那から一人、一人指導を受けているのだ。どの子も訝しげな表情を見せたりしているが、口元は楽しげに開いていた。ぽかっと開いたまま、口を閉じるのを忘れてしまう子までいる。
彼方の瞳はそれらを捉える事だけで精一杯だった。何もかもがセピア色に色褪せて見えた。いつかは思い出すだけの過去になってしまう。現在という一瞬は自分の心では仕舞いきれない。ふわりという存在も永劫には仕舞いきれない。ただ、それが過去に成り果てるだけだ。それでも永劫の意志に挑みたいと彼方の瞳は揺れた。ふわりの髪の毛、産毛の一本ですら、渡したくなかった。
あれは僕のものだ!
譜面台を畳んで、トランペットとマウスピースをケースに仕舞い込む。ふわりも雛のように親を真似して同じようにした。
柚芽を優しく包み込むように両手で通学鞄に入れた。柚芽は暗いのは嫌だと喚き散らすがこればかりは仕方なかった。
風なんかにふわりを奪われてなるものか!
彼方の熱い情念が血のように脈々と流れ出す。それは独占欲という名の徒花だと彼方は知っていた。同時にだから、人は望むのだろうとふわりの肩に手を回して舞台から降りる。
「彼方ちゃん……ふわりちゃんを……」
か細い声が聞こえたが今の彼方に振り向いているだけの虚勢はなかった。
奪われたくない!
心に浮かぶ激昂が涙という無力を呼んだ。
ちょっと、お手洗いに行ってくるから待てていてねとふわりを扉の前で待たせて、彼方は今、一人でお手洗いにいた。ふわりには決して見せたくない荒ぶる感情を吐き捨てる為だ。
通学鞄を持つ手に力が入った。どうしようもなく、彼方の手に力が込められてゆく。通学鞄を肩に通す。
鏡に映った自分の顔は無様な者だった。目の下に隈があり、憎悪で顔が歪んでいた。鬼という存在がいるとするならば、こんな狂気の顔をしているのだろう。
鏡を割るように両手を叩きつける。
だが、鏡は割れなかった。以前に妃那から小耳に挟んだことを思い出した。子ども達が怪我しないように硝子は強化硝子なのだと。
「くそっ!」悪声を吐きながらもう一度、両手で硝子を殴りつけた。「考えるな、考えるな、彼方!」彼方が彼方に叫んだ。うろうろと便器の方角へと歩いてまた、鏡に映った醜い自分の顔を覗き込み、指さす。「どうせ、あの子はどうにかなりはしない。それともお前は何処かのゲームの主人公みたく、命の薬でも探してくるのか?」彼方は彼方に問う。「彼方、それは到底不可能な事なんだよ!」彼方は彼方に諭す。髪を掻き毟って首を振り続けて、「あ、あぁああああああ! あの子も」荒々しい息を整えてから言葉を投げかける。「ふわりなんだ。僕の愛しいふわりなんだ。大丈夫、まだ、時間はあるさ! ある!」鏡の中にいる彼方を殴りつけるべく、拳を振りかぶった。鈍い音と共に彼方の頬に赤い血が付着した。その血に動じるどころか、彼方の赤々しい顔は歪み、彼方を嘲笑う。「じゃあ、なんだって言うんだ。あの苦痛に歪む顔は。現実を見ろ! お前は映画の主人公じゃない。ただの奇怪な瞳を持つ平凡なヘタレ野郎だ!」黙れという代わりに再度、拳を振り上げた。構わず、彼方は殴られ続けたまま、無表情でただ、彼方を見つめた。彼方は無抵抗な彼方を殴り続けた。すっかり、血塗れになった彼方はやっと、沈黙を破る。相手の傷口に塩を塗る悪魔の声を持ってして。「物語の終わりは近いんだ。それは悲劇で幕を閉じる」
彼方の心に彼方を殺してやろうと明確な冷たく、冴えた感覚が開いた。本質の扉がゆっくりと軋む音を立てて開け放たれた。
何歩か、後退りして動じぬ彼方との距離を開けてゆく。あいつは余裕なんだ、ふわりが消えても! 僕はふわり無しで生きていけないという自分の言葉が頭の中で何度も連続再生されているんだ。彼方はタイルを強く蹴り駆けた。
一瞬、拳を高く掲げ、降ろす体制への準備を整えた。
「パパぁ、もう自分を痛めつけないで。その手はやがて、多くの人を苦しみから救う音楽を奏でる大切な手なんだから!」
柚芽の金切り声が通学鞄から聞こえた。拳を振り下ろそうとしていた手は空を彷徨い、通学鞄の持ち手に触れた。
「僕はこうしていないと気が変になりそうなんだ!」
通学鞄を開いて、柚芽にありったけの言葉をぶつけた。
その言葉を柚芽にぶつけて、彼方は後悔した。
小さな両手で両眼を隠してめそめそと泣いていた柚芽を見ると、着物の裾が濡れていた。 すっと、赤い目が彼方の心を鷲掴みにした。
背後の水道から水がぽとぽと、と落ちる音が耳に残る静けさを裂くように柚芽は口を開いた。
「葉瀬彼方さん、もう、全て……」涙に濡れた眉を隠すことなく、何度も瞬きして涙が床に零れ落ちる。「知っているから大丈夫ですよ」
「柚芽?」
「ごめんなさい。ただ、あなたがパパぁだったらどんなに幸せな事かって考えて、勝手にあなたをパパぁに仕立て上げていた。私は今の私と違って全部、覚えているから……」柚芽は今までの出来事を思い起こすように両眼を瞑り喋る。「一度も姿を見せないパパぁに逢いたかった。音楽しか考えていないママに帰って来て欲しかった」ほっと安堵の息を吐いた後、両眼を開けて彼方の顔をじっと見つめた。「けどね、解っていたの。長い間、長い間。ただ一人で考えて解ったの。私の時間はもう、終わったんだって」
時間……。時間は柚芽が決めるものなのだろうか?
違う、そうじゃないはずだ。
とそう意志を籠めて、
「君は……」
苦渋に満ちた声を絞り出した。だが、この後が続かなかった。続けようとしても肝心の言葉が出てこなかった。たった、一言でも良いから、と願う。強く願う。
時間は意志が続く限り、存在し続けるんだ! と届くように。
柚芽はその願いを拒絶するように首を弱々しく振る。
「あの子、柚芽が私の目の前に現れた時は私を見届けようと思っていなかった。ただの好奇心だけだった。そして、ただ……悔しかった。あの子はまだ、家族を作れる可能性があるから!」
「僕は……」
君の言う通り、ふわりと本当の家族になる。あの子はいつも、求めているから消えない温もりを。ママぁという言葉に籠めて。
「解ってますよ。いつか、ふわりと家族を作るんですよね。今はそれがただ一つの希望です、私の」言葉を切り、喉を鳴らした。ごくりと妙に印象的にその音が耳に届いた。「ただね、私にも、私だけの希望が欲しいじゃないですか」
「希望、君だけの希望」
言葉を噛み締めた。
希望という言葉が柚芽から紡ぎ出された。希望という言葉がこんなにも切なく、胸の奥底に響いてくるものだと彼方は初めて知った。
「はい、希望です。お願いがあります、彼方さん」雨降り後のアサガオのように花びらは露に濡れ、その露は生命の息吹に輝いていた。「最後まで私の家族……私のパパぁでいて下さい」
「けど、君の本当のパパは何処かにいるはずだよ。一緒に……」自分の言葉を頭の中で反芻した時、全てが絶望的に開けた。「そうか、もう時間がないんだね」
「お願いできますか、彼方さん。私の運命の人」
運命の人。ふわりがふわりを見つけてきたのだからそうかもしれない。なんて残酷で、なんて優しい運命なんだと鼻水を啜りながら微笑んだ。
彼方は微かに頷いた。
「わかったよ、僕の子。柚芽」
真っ新な紙が希望だと思いこんでいた。絶望という森の中に一輪咲く小さな花のような希望もあるのだと彼方は自分の娘と握手した。
柚芽の手は温かく、流した決断の涙で湿っていた。
「パパぁ」と嬉しそうに呼び、「パパぁはどんなに残酷な明日が来ようとも決して絶望に苛まれないで」柚芽は何処か、遠い場所を見据えて、「さらに明日を、さらに明日を、」解っているからお別れを示唆する言葉を言わないでくれ、と一言に籠めた。「柚芽」それでもまるで予言者のように時間を、自分のいない時間を彼方の心の白紙ページに書き綴る。「さらに明日を、もっと、もっと、明日を目指す音を持っています」彼方の心に何か、別の力が入ってゆく。それは柚芽からの贈り物だった。「ああ、柚芽。そうだよ」柚芽は彼方の言葉に構わず、祈り続ける。祈りは言葉となって現れた。「そして、パパぁは。彼方の夢の成就がその先に待ています。だから……」
「明日は僕の最高を見せるよ」
「良い曲にしてね、パパぁ」囁くように柚芽が言葉を続ける。「私とのお別れの曲に相応しい曲にね」
小窓からは雲一つ無い青空が見えた。あの青空に、世界に届くような曲を奏でよう。その曲が何十年と誰かの心に響くように。
いずれ、柚芽とまた、巡り会った時にその曲がまだ、彼方自身の耳に思い出と共にしんみりと残っているだろう。まだ聞こえるよ、僕たちは再び巡り会ったのにねと笑えるように。
その時も雲一つ無い青空の中で何の絶望のない心で通い合おう。
<四>
雲が群を成していた空は涙を流すことなく、雲一つ無い顔を現し、会場にいる全ての者達に光を与えた。
児童養護施設の小さな子ども達による人形劇の舞台裏では、彼方達がそれぞれ楽器を持って待機していた。
誰もが緊張していた。その場で足踏みする者もいたり、うろうろと舞台裏を動き回る者もいたり、楽譜を覗き込んで最後の予行に励んでいる者もいた。彼方も例外ではなく、舞台裏から人形劇を見ていながらも内心では柚芽の為にも、自分の為にも、ふわりの為にも、みんなの為に成功させなければならないと意気込んでいた。肩に力が入っている事は明らかだった。
彼方の目に映るのは楽しげに人形達を操る子ども達の姿だった。その人形の中には蜜柑が手に填めていた彼方人形とふわり人形もあった。この人形が本当に使われる等、リハーサルで本番さながらの通し練習を見ても嘘だ、と信じたかった。使われ方がもの凄く恥ずかしいのだ。
物語は貴族の家柄のふわり人形がある晩の夜、街の片隅でヴァイオリンを弾いていた庶民の家柄の彼方人形に恋する話だ。ふわり人形は彼方人形に近づく為に庶民の少女 ジョセフィーヌに扮して街へと行き、偶然を装い、ハンカチを落として彼方人形と見事、知り合う事に成功する。この辺りのベタさ加減に彼方は脚本を書いた蜜柑に文句を言ったのだが、古来より王道的な筋道はみんなから愛されているのよと反論された。物語はまるでライトノベルにありがちな萌え展開を切り抜けて、ふわり人形自身が彼方人形に出会う事になってしまう。しかも彼方人形がふわり人形の載る馬車に轢かれそうになって。
この場面を見た彼方は自分がモデルである彼方人形の不注意さに数日前の自分の不注意さを重ねてしまった。実際に起きた落下後海に水没し、死ぬと思っていた海が実は浅かったよりマシだろうとさえ思った。
自分のヘタレぷりを劇の中まで堪能してしまった彼方とは対照的に横で彼方の肩を激しく何度も叩きながら、彩夏は口を押さえて笑うのを必死で堪えていた。後ろを振り向くと蜜柑が自分の所業を綺麗さっぱり忘れているかのように目を閉じて深く瞑想している。
演奏に参加する児童養護施設の子ども達は隣にいる仲間と囁き合っていた。
「彼方お兄ちゃん、ヘタレだよなぁ?」
「馬鹿、彼方お姉ちゃんだろう、あれはどう見ても」
そう聡明なる子ども達が言うように彼方の格好はどう見ても彼方お姉ちゃんだった。悔しいが反論すべき材料がない。自分の姿を近くに置いてあった鏡に映す。女性が全員、着用している両肩の開いた黒いパーティードレスを着込んでヒールの高い赤い靴を履いている。おまけに髪の毛の右側にふわりとお揃いの向日葵の飾りを身に付けていた。その姿は高校生にしては背と胸のない典型的なロリっ子だった。トランペットを持っている姿が我ながらお嬢ちゃん、頑張ってと言ってしまいそうなくらい健気に見える。彼方は溜息を吐こうとしたが……似合うなぁ、いっそう女装も良いかもしれないと思った。
「パパぁ、似合っているよ、男前」
譜面台の上に乗っかっていた柚芽が言った。足を揺らして両手を膝の上に置いている柚芽の姿はどう見てもわくわくした気持ちを吐露しているようにしか見えなかった。
「それ、嘘でしょう」
ぼそっと呟いた彼方に対して、柚芽はにやりと微笑んだ。
「うん、嘘」
柚芽の声を聞けない彩夏が彼方の顔を覗き込んで、ほっぺたにデコピンをお見舞いした。彩夏は彼方と同じ女性服を着ることなく全員、男性が着用している黒いスーツを着込んでいた。
「駄目だぞ、彼方ちゃん。自分の容姿に自信がないからって全部を嘘にしちゃ、この後に及んで夢落ちでしたなんて最悪だぞ」
「それは母の考えた今、絶賛……公演中の彼方人形とふわり人形の苦難でしょう」
舞台と地面の隙間をしゃがみ込んで懸命に舞台を覗いているふわりを抱いて立たせた。ふわりの手を引いて舞台の隙間から人形劇の行方を見守る。
彼方人形はジョセフィーヌを選び、ふわり人形はジョセフィーヌとして生きてゆく事を決めた。だが、ふわり人形の家はそれを許さなかった。何も知らない彼方人形とふわり人形は、ふわり人形の家から雇われた追っ手から逃げる。
逃げているうちに彼方人形が転んでしまう。彼方人形に向けられた銃から放たれた弾丸をふわり人形が庇い、撃たれてしまう。その弾丸が元でふわり人形は愛しているという言葉を残して息を引き取った。
誰もがその場面に沈黙をした。
ふわり人形の身体を肩に担ぎながらも、彼方人形は逃走を続けた。そして崖から身を投げて海へと落ちていった。
あの世で結ばれよう愛しい君よ、と。
舞台に向かってすすり泣く声が聞こえた。誰もが悲恋に自分だったらどうだろうというふうに考えているのだろうかと彼方は思った。
「ままぁ、とふわりが死んじゃったにゃん」
ふわりは笑顔でそう言った。優しいこの子だ。心で泣いてくれているのだろう、自分の姿に似たふわり人形の悲恋を。
「夢オチの方が良かったにゃん」
とふわりはそう残して、タオルケットの上に置いておいた自分のトランペットを取りにいった。ふわりと代わるようにして彼方の隣に妃那が立った。
「素晴らしいですわ。子どもにある種の教訓を与えたのですわ。人生はそう上手くはいかないと」
「僕だったら、トラウマになるなぁ」
第一、実際の人物をモチーフにこれとは縁起の悪い。そういう意味も込めて彼方はしみじみと言った。
「私も」柚芽も彼方と同じ意見のようだ。柚芽は彼方を神妙な視線で射貫いた。「行くよ、パパぁ。柚芽の最後の曲を奏でに!」
彼方は柚芽の代わりに苦渋に満ちた表情を浮かべて笑った。
そして、眼帯を強く握り締めて破り捨てた。肌色の板の上にアニメ調の熊さん眼帯が転がった。
そうしなければならなかった。
全てから逃げないという強い意志が柚芽を送るに値する曲を奏でるにあたっての最低限の姿勢だ。
人の本質に作用する音楽。それこそが相応しい。
彼方はそれぞれの顔を一人一人眺める事にした。左目では堅い表情に見える雛、右目では柔らかな表情に見える妃那。
「ん、行くか」左目では頼もしい表情を浮かべる狐、右目では怠そうな顔つきを見せる彩夏。左目では怖いくらいじろりとこちらを舌なめずりする猫、右目では嬉しそうに両端の頬肉を緩ませた蜜柑。「みんなぁ」
と一言付け加えて不安にびくびく、震える子羊、子栗鼠、子兎を順番にぎゅっと、抱きしめた。
「失敗なんて恐れちゃだめだ。ここまでやってきた事を再生するだけで良い。それだけで最高の音楽になるはずだから。努力は決して人を裏切らないよ」
「はい、お兄たん」と言ったクラリネットを両手でしっかりと持った子羊ぷりん。「はいなぁ」と言ったティンパニーに手を触れている子栗鼠あけな。「はい、頑張ってみます」と言ったホルンを手に持つ子兎澄。
三人の動物達は何故か、赤面していた。
彼方はその事に首を傾げながらも問うべき事ではないと思った。
舞台から裏手へとはけてくる子ども達に頑張ったね、良かったよ、と声を掛けつつ、彼方はトランペット―マカリオイを手に持ち、自分の譜面台も持って舞台へとゆっくりと歩み出した。
彼方達は自分たちの楽器と譜面台を一端、置くと指揮者が見えやすい位置へと少しずつ、譜面台の高さを調整したり、椅子や譜面台の位置を確認した。
その間、蜜柑の友人で司会を引き受けてくれた明日乃川瑠衣が舞台の中央に立ち、マイクを両手で支えて喋り出す。
準備の終わった彼方はトランペットを膝の上に置いてから、彼方の左目には何でも興味津々に目を見開く鳥のように映る明日乃川の声に耳を傾けた。
「人形劇に続きまして、皆様に生の音楽をお届けしましょう」
明日乃川は蜜柑と同じ年齢の人間とは思えないおっとりとした口調で喋っている。蜜柑の口から数日前、聞いた情報によれば、彼女はIT産業で財産を築いた明日乃川家の令嬢らしい。その声を聞いたらなるほどな、と納得した。
「かつて、音楽は日本の国にも満ちあふれていました」
そう、音楽は遊楽と言われながらも密かに日本でも楽しまれていた庶民の趣味の一つだった。今は戦争が終わったというのに過激派と呼ばれる軍の一部や自称善良なる市民活動家によって未だ、本土では趣味の一つとしても認知されていない。
彼方は過ちを正さない人間の愚かさに憤りを感じた。だが、ふと自分もその人間の仲間だという事実に気が付く。
「ですが、葉瀬蜜柑氏の世界中の名奏者が集う国際コンサートにおいて、全世界のメディアを通して言った言葉」
ここで明日乃川は言葉を切って周囲を見渡す。
大人達は大半がつまらない顔をしていた。彼方の左目はその意味すら居抜き、彼方に詳細に伝える。昔の彼方ならば、止めてくれと頭を抱えて逃げ出しただろう。だが、今は違う。大人達の本質に心を傾ける。
「私達は戦争をしなければ、幸福に暮らす事ができないのでしょうか?」
戦争をするか、しないかは私達に決定権なんか、ない。どうせ、上の人間が勝手に決めてしまうんだと馬に見える中年女性はそう表情で語っている。
なんて、悲しい諦念なのだろうか。
自分はそれから逃げない。
彼方は楽譜の上に座る柚芽を強い眼差しで見る。もう、時間がないのか柚芽は苦しそうに胸を押さえて俯いていた。
必死に運命を受け入れようとしている柚芽に掛けるべき言葉が彼方には見当たらなかった。少女の孤独な戦いに彩りを与えるのは言葉ではないと知っていたからだ。
「その言葉に感銘を受けた当時の総理大臣、宮上首相とアメリカ大統領 べーマン大統領の歴史的な会談によって戦争は終結しました」
大切な人達が殺されたのにその国の血が流れている人間を許せるのか? と戸惑い、挙動不審にその場で歩き回っている中年男性はそう表情で語っている。
その問いには僕もわからないと背後に座る彩夏の顔をちらっと見た後、彼方は心の中で呟いた。
でも、逃げてはいけない。
自分の本質から。世界の本質から!
「ですが、軍部の人間、市民の一部はそれを許さず、蜜柑氏を恨みました。日本に勝利を奪った人間として」
天井の鉄骨を眺めて、高揚してくる喜怒哀楽の様々な感情をあの天井に押しつけるように無理矢理逸らそうとする。
高揚感が収まるのを待たずに、指揮台の上にいる蜜柑が指揮棒を上げる。
一斉に、金管楽器が、木管楽器が動く。一斉に彼方達が楽器を構えたのだ。
「そんな逆風の中、今年も蜜柑氏率いる吹奏楽団が平和の祈りを奏でます」
柚芽が手を振り、声を振り絞るように言おうとした。
曲が始まったら言えないから先に。さよらなら、だね……パパぁ。
彼方には胸を刺される痛みのようにはっきりとそれが記憶に刻み込まれた。そう、柚芽の笑顔は刻み込まれたパパの瞳に。
「世界に向けて」
彼方は静寂の中、柚芽に頷いた。
隣にいたふわりも彼方に続いて頷いた。
もしかしたら……。
「曲名はゆめ」
静けさの中を裸足で歩くように蜜柑の手にある指揮棒が歩み出す。それと同時にフルートが指揮棒に優しく囁いた。
フルートのロングトーンに絡みつくようにクラリネット、トランペット、チューバ、ユーフォニューム……その他の楽器の順に音が鳴り響いてゆく。
左耳で確認したところ、ふわりも練習通り、しっかりと演奏できている。
両耳で音を聞き分けて他の楽器の音量を気にしつつ、トランペットの音を調整して奏でる。その作業を同時にこなす。
やがて、楽器達は愉快に踊るような音を奏で始めた。
何小節か、続いた後、愉快な踊りの一時も終わりを告げる。それは柚芽との日々が静かに終わるように。
無音の中にぷりんがたった一人でクラリネットの音色を解き放つ。
それは無くした者を、無くした物を痛む悲しさだけではない。無くした者を、無くした物を優しく思う気持ちも何処か内包していた。
柚芽が消えても、いつかふわりが消えても僕はこんなにも穏やかな気持ちで思いやる事ができるのだろうか?
彼方の両眼に映ったのは猫の姿の蜜柑ではなく、普段通りの優しくも厳しい笑顔をみんなに振りまいている蜜柑の姿だった。
人の本質が代わってゆく……。音を通した何かの力によって。
楽譜と指揮者の動きを両眼で確認しながら、驚愕に胸が揺らいだ。
いつの間にか、人間以外の者のように映っていた観客達も人間の姿に戻っていた。どの顔も生命力に満ちていた。
そうか、人の本質とは生きる為の器なのかもしれない。そして、音楽を聴いている間だけ、人はそれをほんの少しの間だけ清らかな水をその器に溜める機会を得る事ができるのだろう。それ自体も器の主の気持ち次第なんだ。
ぷりんのクラリネットの音色に新たな息吹を入れる為に澄達のホルンの音色が響く。
あけなの元気過ぎるティンパニーの音やシンバルの音を合図にトランペットが先陣を切る。
どんなに、どんなに、人の器が移り変わって行くとしてもやがては……
明日の夢に帰る。
そして、夢は明日を見る力へと変貌を遂げ、その器をより強度に、より美麗に変化させてゆく。
加速してゆく楽器達の音のように人の未来を見る力も加速して……
やがて、
「さらに明日を、もっと、もっと、明日を目指す音を持っています」
柚芽が言ったようにそれは誰しもが実現させる事の出来る人本来の意志。
激しい指揮棒の動きと共に無数の音の螺旋が曲を終演へと導く。誰もがその終演を惜しむような視線を奏者達に向けていた。
だが、明日を始める為に終わりは必要なんだと、彼方は最後の音を鳴らした。その音は何処までも、青い空へと一羽の鳥になって飛翔した。
そう、何処までも青い空へと飛んでゆくんだ。
<五>
拍手喝采で希灯音楽祭は終わりを告げた。
片付けを終えて今、彼方は希灯児童養護施設の仲間と共に草薙村へと帰ってきた。山道を歩く途中、風音がお帰りと彼方の耳元で囁いている。
演奏が終わった後、譜面台の上には柚芽の姿はなかった。探しはしなかった。きっと、柚芽は笑顔であの青い空へと飛んでいった事を信じているからだ。
彼方は柚芽にさよならと心から囁いた。
青い空を眺めていた彼方のズボンを誰かがくいっと引っ張る。
その方向に眼差しを向けると、ふわりが何処か、寂しさの引き摺ったような笑顔で彼方を見ていた。
「ママぁ、ふわり。ゆめを見たにゃん」
浮き浮きとした声でふわりが言ったのに、彼方には悲しんでいるように思えてならなかった。眼帯に触れたがすぐに手を離した。きっと、悲しんでくれているに違いない。
だから、
「そう……」
と呟きを返すだけにした。
すっと、温かい感触が頬を伝った。
「ママぁ、どうして泣くにゃん?」
「どうして、て」
「ゆめは明日へと行っただけわん」
「明日へ?」
「明日めぇ」
「明日、か。僕らも行こう。何処までも一緒に明日へ!」
彼方は中腰になり、ふわりの唇に自分の唇を重ね合わせた。
ふんわりとした感触を夢中で彼方とふわりは分け与え合った。きっと、生涯で一度の瞬間を今、味わっているのだ、二人でと思うと彼方はふわりの両肩を離したくはなかった。
「ファーストキス……にゃん」
彼方から名残惜しむように距離を置いたふわりはそう言った。
彼方の背後から、野次馬が喧しい声を上げだした。
「おいおい、まだ早くねぇーか」と彩夏が言った。「大丈夫ですわ、彼方はそこまでヘタレではありませんわ」と妃那が言った。「お兄たん、既成事実成功」とぷりんが言った。「早く孫の顔を見たい」と声を揃えて葉瀬夫婦が言った。「やっと、始まるのね、この二人」と澄が溜息を吐いた。「今夜は赤飯じゃあ、めでたい、めでたい! という事で今夜は赤飯」
と言ったあけなの一言で周囲にいた年代がばらばらな子ども達が騒ぎ出した。どうやら、ここからは夕食の献立について半ば勝手に談義が始まるようだ。
今夜は自分が夕食当番だという事実を思い出した彼方はふわりに言った。
「なに、食べよう愛しいふわりさん?」
「赤飯わん!」
「他のにしようよ、ふわり?」
「駄目、美味しいにゃん」
「とほほ……また、話題の中心に」
こんな仲間達に囲まれながら、ずっと、遠い終わりを目指して生きてゆくのだろう。
それぞれの音を奏でながら。
僕たちは夢を見続ける。