神様のきまぐれ 三
神様のきまぐれ 三
<一>
私の願いを今、聞き届けた。それは私の願いでもあり、私の願いでもない。全ては空虚で出来ている存在。葉瀬という一族が魔女から受け継いだ人の本質を視る力……神様のきまぐれにしか過ぎない力の一つ、それが私。今は彼方という少年の左目に宿っている。彼は何かと私を邪険にする。
美人ならば、彼方は喜んで私を受け入れただろうか? それとも、ふわりのようなお子様体型の方が受け入れやすいのだろうか? どちらにしても否、だ。
私には身体という概念が存在しない。私の足は何処までが足なのか? 私の手は何処までが手なのか? そもそも、顔はあるのか? ないのか? という思考の迷宮にしばしば迷い込んでも答えは永久に見つからないだろう。
だから、意志のみが移動する。
彼方の左目からそっと、抜け出そうと試みた。いつもならば、見えない壁に当たる所だが壁はなかった。
襖を擦り抜けて暗い部屋に出た。暗い部屋の太陽色の明かりを目指して飛んでゆく。
その光の真横には小さな軍服を着た少女がいた。少女は額に浮かぶ汗を何度も拭いながら、机に仰向けになっていた。
軍服は水分を吸いすぎて着心地が悪いと判断したのか、一瞬のうちに紺色のジャージに衣替えした。
「笑う門には福来たるだよ、柚芽ちゃん」
彼方の言葉を拝借して私は気楽な意志を飛ばした。けれども、意志は柚芽の周囲まで来ると周囲を一周して私に返ってきた。やはり、心―言葉でないと他者と通じ合う事、認識し合う事は出来ないようだ。
柚芽はのろのろと立ち上がる。足がくの字に曲がっているのが痛々しい。
「まだ、まだ、だ。やっぱり、そうなの。偽物なんだ、柚芽様」がくんと項垂れた。後ろ髪の金色が人の太陽に照らされて、びくりと動く様が強調された。「あっはははは!」
両端を口が裂けたように広げて、壊れた玩具のけたたましい音が柚芽の口から漏れた。
慌てて柚芽の所へと駆け寄り、柚芽の身体を抱きしめようとした。心配ないでと、抱きしめようとした。柚芽の震える背中に手を掛けようとしたが何も掴めず、空さえも掴めなかった。
仕方なく、励ましの意志を飛ばす事にした。
「違う、違う。悲壮感漂う笑いでは福なんて来ないよ」そう意志を飛ばしたが跳ね返された。「あれ? 福ってなんだろう。確か、生き物にとって嬉しいっていう事だよね、きっと」
私は独り意志を飛ばして、虚しい独り質疑応答をした。人間には奇妙に思えるが神様のきまぐれは独りが常である為、こちらが通常だ。
柚芽は何度か、痙攣したような笑い声を出した後、涙を流してわざとらしい溜息を吐いた。胡座を掻いて正面を見据えた。
悲しみの水に濡れたキラキラした蒼い瞳が私を捉えた。
「でもね、私だってここに居るんだから」
神様のきまぐれである私を通して、全てを創造したと勝手に人間に解釈されている神様に訴えているようだった。
そんな真摯な瞳を見つめていると伝わらなくても意志を飛ばしてみたくなった。
「他の子は楽譜を書いた人の残り香。だから消えるのが早い。柚芽ちゃんは人の本質の一部。本当の方のね」柚芽は胡座を掻いたまま、無表情だった。それもそうだと私は首を横に振って、「残念。伝わらない、私も無力だよ。私であって私ではない神様のきまぐれさん」
彼方が左目を気にし出したようだ。私は見えない力によって彼方の方へと引き摺られてゆく。ただでさえ小さな柚芽の姿がどんどん小さくなる。遠ざかっているのだ。どんなに話したいと思っても叶わず、どんなにまだ、居たいと思っても叶わない。
私は私ではないきまぐれなのだから。私は私でもあるが叶わない。
ありったけの意志を絶望の色の下に、独り佇んで居るであろう柚芽に向かって飛ばした。
「うんうん、違う。きっと……最後はハッピーエンドで終わらせてあげるから。奇跡は起こせないけど、始まりを貴女に連れてゆくよ」
私は初めて声というモノを発した。それは柚芽に届いただろうか?
襖へと私は吸い込まれてゆく。後方から声が聞こえた。
「ままぁ、狡いにゃん。ふわりにもジュースわん」
「はいはい、何ジュースが良いの?」
我が儘を言うふわりに対して彼方は緩やかな風を含んだ声で質問した。
ふわりは動物の鳴き声を発しながら悩む。
「びーる、とかいうのが飲みたいめぇ」
「駄目」
直ぐさま、鋭い声が彼方の口から飛び出した。どうやら、ふわりのビールへの好奇心を完全に殺したいようだ。ふわりは抗議するように猫の愛声を放つ。
この中に柚芽はまだ、存在できる。だから……。
もう、一度だけ、声を! と声を出そうとしてみた。
「ふわりと彼方にまた、会えるよ。私は神様のきまぐれ、けれど人の本質の交わりをどうにか出来る程ではないの」
声ではなく、意志がそこら中に飛び交った。意志では誰にも伝わらない。
私は何も果たせないまま、彼方の左目の中へと収まった。
次に外へと放たれるのはいつ頃だろうか?
それは神様のきまぐれと同じ何者かのきまぐれのみぞ知る。