三話 柚芽と、ふわり
三話 柚芽と、ふわり
<一>
蚊がぷーんというへなちょこな音を奏でていた。どうやら、彼の飛行音のようだ。先ほどから、彼方の顔の周囲を飛んでいた。顔を振って追い払う。
「お前、好かれんてなぁ」
溜息にも似た口調で感想を述べて、彩夏はアイスバーを一口、食べた。
「それは、これの事でしょうか?」
彼方の目線の先には忌々しい蚊がまだ、優雅にお空を飛んでいた。それともこれの事でしょうか? と両膝にしがみつくふわりとぷりんを指さした。
指されたぷりんは不機嫌そうに彩夏を見つめて、
「何、アイスのお姉ちゃん。そのアイスバー探す音、五月蠅くてぷりん睡眠不可!」
「お前なぁ、蜜柑さんがいなからって変な場所で寝るなよ?」
「変違う」
彼方達は蜜柑が彼方に渡したい物があるという言葉によって、希灯児童養護施設に戻った。それから、蜜柑は鍵を取ってくるというので、彼方達も休憩しようと三階の食堂へと行く。そこにはテーブルにポテトチップの山に横顔を載せて眠るぷりんの姿があった。時折、ポテト増量と嬉しそうに微笑んでいたのだからさぞ、良い夢だったのだろう。ふわりがぷりんの周りにあるポテトを必死に食っていたのだから、正確にはポテト減量だ。
「僕は二階へ行こうって言ったんだよ」
「あ、汚いぞ、彼方」
「意地汚いのはあなたですわ、綾夏さん」
トゥルーという真新しい木の看板を弄くりながらそう言った。
アイスバーを二本両手に持ちながら、二本交互に食べるという器用さを発揮している彩夏と、今はポテトチップをお口の周囲に付着させているだけのぷりん。どちらが汚いという単語に当てはまるのかは一目瞭然だ。
「それにしても、遅いですね。あれから十分も経っています。鍵を開けてから中で一体何をしているのでしょうか?」
遮光カーテンで遮られた窓を凝視するが当然、何も写さず、黒い画用紙が張り付いているようだった。
鍵をとって食堂に来た蜜柑が次に発した言葉がさぁ、行きましょうトゥルーへだった。そんな経緯があり、彼方達は星がはっきりと見える満月の夜下を熊のように右往左往している。夏と希灯児童養護施設から渡り廊下にて繋がっている山奥だという環境は変わらないという事から、耳五月蠅い蚊が大量発生している。
「ままぁ、採ったにゃん? ふわり偉い?」
「うげぇ」「お前ぇ」「なんて事を」「命大事」
悲鳴めいた声を上げる彼方、目を丸くする彩夏、両手で嫌な物体を見ないように顔を隠す妃那、ふわりに微笑みかけるぷりん。
ぷりんがふわりの手の中に在るもの―血を流して潰れている蚊を触ろうと手を伸ばす。だが、それよりも先に彼方の腕がぷりんの手を掴んだ。
「お兄ちゃんが何とかするから大丈夫だよ?」
「ぷりん、ふわちゃんの面倒見る」不服そうに顔を膨らませてぷりんはそう言い、ふわりの腕を掴んだ。「ふわちゃん水道行く」
ふわりが返事もしないうちにぷりんが水道へと先導した。水道は大きな夏みかんの木の下にあった。夏みかんは自身の重みに耐えかねて時々、流し場に落下している。今日も二房のみかんが流し場に居座っていた。
ぷりんは足でそれらを押しのけて、水道を勢いよく捻った。動作が大袈裟だった。それを見て、彼方は柔和に微笑んだ。
水道から清らかなる水が滴り落ちる。その水に蚊の死体が乗った掌を添えた。くたびれた様相の蚊は水と共に地の底へと落ちていった。
それをふわりは手を振って、
「バイバイわん!」
「子どもって残酷ね」
「今も十分、妃那さんは残酷ですよ、僕に」彼方は萎んだ声で言い続ける。「キムチとか、キムチなんて」
「何か、仰いましたか?」
「いいえ、なんでも」
勢いよく首を横に振った。それと同じ刻、勢いよくトゥルーの扉が開け放たれた。途中、彼方の方を向いて冷めた笑みを浮かべていた妃那の顔をなぎ倒していった。
扉の向こうの明かりから映えた蜜柑が嬉々とした声を上げた。
「お待たせ、みんな」痛がる妃那を一瞥して、御免と手を上げて謝り、苦笑いした。「さぁ、どうぞ、どうぞ、中に入って!」
蜜柑の声に応えて始めに入った彼方が部屋中に展示された子ども服の間と間を蟹歩きで進むと、木面のフローリングの橙色が突如として緑色に侵されていた。その緑色はい草で作られた蓙だった。そのい草の上には蛍光灯の光を反射して、後壁に吊されたシルクの生地に赤い光を移すトランペットがベルを下にして蓙の上に座っていた。
その朱色のトランペットから放たれる見えない神々しさに彼方は呆然とするしかなかった。憧憬の念を抱いていた。幼い頃から絶対的存在であった楽器がそこにはあった。彼方は触れようとしたが……すぐに手を引っ込めた。
俯いた。自分の不安な顔がベルに朧気に投影されていた。その頼りない顔は彼方自身のヘタレという本質を表している気がした。
「マカリオイ」記憶が正しければ、プロとして母、蜜柑が愛器として使用していた音楽界で赤い宝石と賞賛されていたマカリオイだ。「何で?」
背後からゆっくりと近づいてきた蜜柑が彼方の両肩を軽く叩いた。
「何でって? 彼方ちゃん、それ使ってね」
振り返って、怪みの含んだ目線を蜜柑に晒した。
「ふわりちゃんがセラフィムを持つなら教えてあげるんでしょ、彼方ちゃん?」蜜柑の横にいたふわりの脇に腕を通して、彼方の隣に立たせた。「ん?」
直ぐさま、回答を求めるように蜜柑は顎を上下させた。
「僕は……」
マカリオイを手にして大勢の音楽マニアから舞台の上で脚光を浴びる蜜柑の栄光が脳裏に過ぎった。指先が諤々と震えた。
この指先の震えは……その脚光と混じって卑しい顔をした動物が潜んでいたと心の奥底にあるエピソード記憶が彼方を襲う。トランペットを奪った記憶が今も尚、足踏みさせていた。まだ、マカリオイのある前方を向けなかった。
「彼方ちゃん。もう、自分の中でどうしたいのか、心に留めてあるんでしょう。だったら、決めたことに後は忠実に従うだけで良いのよ。迷う事も大切だけど、それはまだ、何も得ていない状態だからこそ、効果が発揮されるのよ。やってみて駄目だったら、母の胸で泣いても良いの」
決まっている、決まっていると浅く頷いた。
「僕は……良いのでしょうか? 逃げたのに」
女児用の黄色いワンピースを身につけた男児のマネキンの隣にいた妃那がふっと鼻で笑ってから言う。
「逃げたからって戻って来てはならないなど、誰も決めていませんわ。一体、誰が何時何分、そう仰ったのかしら、存じ上げません」
彼方が言葉を言う暇もなく、アイスバーの棒をお手玉しつつ、彩夏は口を開いた。
「あんのなぁ、お前一人にお前の弱さを任せないな、俺たちは」
左手に暖かい何かが触れた。はに噛むような笑みを浮かべたぷりんだった。
「ぷりん、お兄ちゃんのトランペット吹くところ見たいな」
ぷりんという少女の真っ正直さは一緒に暮らしている彼方自身が一番知っていた。多分、心から願っているのだろう。そして、左目で見なくとも……妃那、彩夏も心から願っている事を信じたい。
信じるならば……。
ふわりと目が合う。ふわりは動物鳴き声を彼方に向かって吠えた。
「はははっ」吠えるふわりを片手で抱きしめて、馬鹿笑いをした。「だらしないなぁ、僕はヘタレだ。決めていたんだったよね」
マカリオイを掴んだ。マカリオイから温もりが伝わってきた。それが彼方に勇気を与えてくれた。
「マカリオイ。僕と一緒に音を奏でてくれ」
普段ならば、そのような気取った台詞を吐かないのだが、そう言わずにはいられない。自分の決意に酔っていた。
彼方の視界に真新しい白銀のマウスピースが映った。蜜柑が両手でそれを彼方へと見せていた。
「彼方ちゃん、はいこれ」
自分の部屋に放置してある真新しいマウスピースを思い浮かべてから、
「でも、僕……持っていますよ?」
申し訳なさそうにそう言った。
「セラフィムもそうだけど、従来の量産型の楽器とは仕様が異なっているの。公式のコンクールでセラフィム並びに、マカリオイを使用する事は禁じられているのよ」
彩夏がふわりに持たされている白いケースに入っているセラフィムに、妃那は目を向けてこれもですのぉ、と驚愕していた。
それに対して彩夏は嘆息して言う。
「使えないなぁ」
「こら! そんな訳がないですわ。桜菜林檎のデザインした楽器はどれも最高の音質を誇っていますわ。セラフィムは娘に与えるくらいですから」彩夏の不満そうな顔を指して、ジリジリと迫る。「使えますわよ。ちょっと、彩夏さん?」
突然、彩夏が声を潜めて泣き出したのに驚いて、妃那はたじろいだ。
無理をしていたのだろう。勘が鋭い彩夏の事だから、僕の嘘はばれていたのかもしれないと彼方は思った。
「林檎さんはいつっも何処か、抜けてんだよ。コーヒーに塩を間違えて入れて、それを部屋の片付けを手伝ってくれたお礼よ、とか……言って」
何かを耐えるように両拳をぎゅっと握り締めて、口を真一文字に詰むんだ。彼方は声を掛けてやりたい衝動に駆られたが、それは自分がすべきではないと判断した。
そう、それをすべきなのは。それが許されるのは。
彩夏の前に蜜柑が駆け寄って感情のない顔で彩夏の前に立ち、
「え、母」
蜜柑が勢いよく、彩夏の頬を叩く。彩夏はよろめき、打たれた右頬を手で押さえて立ち尽くす。
「林檎ならこうするでしょう。あの子、大好きな子には厳しく当たっちゃう子だから。過激なツンデレなのよ」
蜜柑はハンガーに掛けられたエプロンから写真を取り出し、目を細めて見つめていた。彼方は背後からこっそりと覗き見る。そこには蜜柑と同じ金髪のストレートヘアの少女が映っていた。吊り眉で如何にも意志の強そうな蒼い瞳が今でも時を越えて何か、喋り掛けてくるようだ。
漠然と桜菜柚芽がもし、幸福に暮らせていたら、と妄想せずにはいられなかった。
ああ、どんなに満ち足りた日々だったのだろう。
「良いのよ、もう。林檎はふわりちゃんから逃げちゃうくらい弱くて愛情の深い子だったから、そんな子が貴女のようなお友達に出会えたのだから感謝しているのよ、彩夏」
蜜柑はその写真を破り捨て迷わず、ゴミ箱に捨てた。
僕は母ではないから、推測するしかない。日中、小さな子ども達と一緒にトゥルーに引き籠もる母がいつもしているエプロンにあった写真は心の拠り所だったのではないだろうか。誰だって……拠り所を持っている。僕はふわり、彩夏さんは林檎さんとの思い出だったのかもしれない。妃那は完璧にやりこなそうとするプライドだったりするのかもしれない。これは推測でしかない。僕は左目を使わない限り、出来損ないの神様なんかになれはしない。出来損ないは見守る事しか出来ない。
それに彼女は強いのだから。
「はい」
ほら、頷いた。
「ジメジメしたお話はおしまい。さてと」彼方の肩に手を置いて蜜柑は宣言する。甘い大人の香りが背後から漂ってきて失神しそうになる。刺激が強いと彼方は蜜柑から逃れようとする。「熊部と結託して蜜柑吹奏楽団は希灯音楽祭に出ちゃいます!」
蜜柑はがっちりと彼方を捕まえて悪乗りして、彼方が抱いているふわりの頬に口づけする。ふわりはそれが気にいったのか、しきりにわん、わんと鳴き始めた。
「え、聞いていませんけど!」
尚も逃れようとする。
「言ったら、ヘタレな彼方ちゃんは尻込みするでしょ。練習には目標があった方が断然、良いでしょう」
そうですねという同意する言葉を飲み込んでとりあえず、彼方はふわりを両手で抱きしめてふわりの背中に頭をくっつけて泣いているフリをしてみた。
「ヘタレね」「ヘタレだな」「ヘタレ嫌、でも、ぷりん……お兄たんのお嫁さんになる」
妃那の声、彩夏の声の後、ぷりんのおどおどした声が聞こえた。真剣なぷりんの言葉に蜜柑が彼方の耳元囁いた。
トゥルーの後継者、二人目ゲット! やったね、蜜柑ちゃん、と。
随分と狡猾な母だった。二人目という事なので今後はふわりとぷりんを結婚相手として勧めてくるのか? それは定かではないが……常識を、と言うべきなのだろうか?
<二>
窓を開けて放心している少年は何を思っているのだろうか?
多分、あの青空に力一杯、自由という名の羽根を羽ばたかせて、どこまでも、どこまでも飛んでいきたいなぁ。そりゃ、無理だわとでも夢想しているに違いない。だって本人が言うなのだから。
窓から見えるのは別世界だ。プールという名のユートピアが目に映る。ユートピアには人魚が遊泳していた。ここからだと五匹ほど見える。こういう時、左目は不便だと彼方は嘆息した。今日は見える姿がまちまちになっている。突然、変わったりもするのだから左目のきまぐれには付き合いたくない。残念なことに宇宙で大義名分を掲げて戦うようなロボットではないので、左目のパーツだけ交換という事は不可能だ。
「ふわり、前はあんなに吹けていたじゃない?」
「そんな訳ないよ、妃那さん」
妃那の方を振り向かずに人魚を見下ろし続ける。蝉が五月蠅く、合唱する程、暑苦しさが割り増しになるのだが煌めく上半身を魅せてくれる人魚の御陰で心が涼しい。まるで心の飲料水だ。
一コースの人魚は胸が小振りだ。だが、スタイルが抜群に良い。特に括れからお尻へと向かうラインにメリハリがある。評価、生きる芸術品だ。
「ふわり、逃げ出さないで下さる」
「駄目だぞ、ふわり。練習はサボってはいけませんよ」
彼方自身が昨晩、厳選していた自分の机の引き出しに眠っていた今回の曲候補を、口笛で吹いておく。
二コースの人魚は胸はエベレスト級に美しく、実っているが……足が大根のように太い。胸に将来性を大いに感じるから激励賞といったところか。
三コース……。
「痛いぁ!」
足に何か、重い物による衝撃が響き渡り、鋭敏な痛覚が全身に不協和音のように溶け込んでゆく。不快な気分が広がった。
彼方は窓から購買室(今は勝手に熊部部室)に視線を移動させる。足に乗っかっていた兎の耳が付いた上履きにさらに力が入る様相が手に取るほど解るくらいに、彼方の足に圧力が掛かってゆく。
彼方は慌てて、目と鼻の先にいる癖っ毛のない金髪の髪を風にふわっと靡かせる少女に抗議する。
「痛いよ、ふわり。そんな事しちゃ駄目でしょ?」
彼方がそう言った時、ふわりはデコピンと共に感情を剥き出しにした赤面顔で彼方の顔を覗く。
「ままぁ。他の女の子をじろじろ見ちゃ駄目だよ。ままぁが見て良いのはふわりだけだってあれほど、言っているでしょう? 例え、一秒でも見ちゃ駄目なの。いつも、不満でしょうがないよ。ままぁ、可愛いから生意気な女の子にお持ち帰りされちゃうかもしれないもん! 駄目だよ! こそ以上、見るんだったらふわり、泣いちゃうんだから。本当だから、本当だよ。ふわりが嘘吐いた事無いでしょ? でも、ままぁはふわりにいっぱい、嘘吐いた事、ある。あぁ、思い出したらお腹がぽかぽかしてきた。先週の金曜日、街に行くって言っていたのに、ぷりんちゃんの宿題があるからってぷりんちゃんと外でおデートして! そんなにふわりに魅力がないの?」
とんでもない早口で英語という名称の言語が紡がれてゆく。彼方に弁解を述べる暇は与えられなかった。ただ、ひたすら、たじろぐ。
いつものようにカウンターに胡座を掻いて、ウザイほどに苺どっさりです、奥様という名称のアイスクリームを食べていた彩夏がその動きを止めて木のスプーンを持ったまま、固まっていた。
「おい、妃那? あれ、何語? フランス語? アイヌ語? それとも、古代動物鳴き声語か? ふわり、恐ろしい子」
信じられないような者を見るような目つきで彩夏を見た妃那は、あまりの衝撃にサックスを両手から離してしまう。慌てて、サックスを持ち直す。バンドを首から掛けていなければ、サックスは今頃、床に叩きつけられて破損していただろう。
彼方はその様子を一部始終、眺めてひんやりとしたがどうやら、大丈夫のようだとほっと、出来なかった。こちらではふわりが英語で如何に自分が魅力的かを語っていた。どうやら、本気で怒らせてしまったようだ。
「彩夏さん、あれは貴女が約六年間、慣れ親しんできた英語という言語です。世界の大半で使用されている言葉ですわ」
「やっぱそうじゃねぇかぁ、古代動物鳴き声語」
古代動物鳴き声語ってふわりの日本語の語尾を拝借しただけでしょうと彼方は現実逃避を試みようとしたが、依然として彼方の耳はふわりの本場の舌を巻くような英語から逃れられない。
「世界に暗殺されますわよ。彩夏、可哀想な子」
「うるせー、哀れむな。俺はどこぞの時代の犬様じゃないぞ」
「歴史は詳しいんですのね」
彩夏はサックスと譜面台との距離を変えつつ、そう言った。
「ふわりの言葉、ままぁ? 聞いてる?」
「う、うん。聞いているから、お願いだから抑えて。いつものように動物の鳴き声でお話すれば、感情抑えられるでしょう?」
「にゃん」
不服ながらもふわりは鳴いた。ご褒美に、目に悲しみの水滴を溜めた泣きそうなふわりの髪を優しく撫でた。
「ごめん、これからはふわりだけを見るよ」
「それも問題あんぞ」
アイスクリームカップをゴミ箱に投げ入れて、彩夏が投げやりにそう言った。
母、蜜柑の無謀な提案から二週間経ち、高校生の一番大好きなお祭り―夏休みがやってきた。だが、熊部には夏休みは当然、やって来ない。その鬱憤を晴らす為なのかは不明だが、熊の衝立も海パンとゴーグルの絵を貼り付けられ、夏仕様になっていた。妙に浮かれた感じに出来上がってしまっている為か、熊部一同に大変、不評を買っており、彼は今、文字通り窓際に左遷されている。
勿論、夏休みを守るべく、彼方としては戦いたかった。だが、ふわりともう、一緒に同居させてあげないよという卑怯な攻撃の前に二週間前、一分で白旗を揚げた。やるからには全力を尽くしたい。誰もが初心はそう心構えを持っている。だが、現実と希望には大いに隔たりがあるようだと……彼方はマウスピースの中央の空洞から、自分が手に持っているトランペット―マカリオイを眺めた。
「まさに宝の持ち腐れかな」呟いた後、自らを鼓舞するように、「よし、やるぞ!」
今日、百六十回目のマウスピースに口をつけるという練習を開始する。
唇を恐る恐る近づけてゆく。マウスピースとの間は徐々に縮まる。手が震えだし、マウスピースと唇がすれ違う。
深く息を吐き、浅く息を吸い込んだ。何度も繰り返し、心を落ち着かせた。
「どうして、どうして僕はもう、決めたのに」
彼方は悔しそうに呟きながら、顔を顰めて窓から麗しのプールを覗き込んだ。四コースで小さな女の子が懸命に泳いでいた。派手に水しぶきを上げる足。決して上手いとは言えない。彼方には女の子が眩しく見えた。
私って天才! と愛らしい叫ぶ声がここまで聞こえてきた。やはり、女の子は水泳が大好きだったのだ。母親が女の子の髪を乱暴に撫でる。きっと、良く頑張ったとでも言っているのだろう。
かつて、彼方もあの女の子と同じだった。下手くそな音を掻き鳴らして、掻き鳴らして……上達などしなかった。それでも、無性に奏でたくなった。今もそうだ。これまで、音を再び、奏でる自分を想像しながら、マウスピースに口を付ける練習を重ねてきた。
本当にそうか、彼方? お前は本当に心からそう思っていたのか? 何処かで妥協していなかったか?
ふいに自分の精神分析という名の分析屋が心の小部屋からしゃしゃり出てきた。
彼方、嘘を吐くのは止めようぜ。人間ってのはとんでもなく、弱い生き物だ。自分では強いって思っているけどね。彼方、お前は知っているだろう? それが人間だ。だからな。
そう心から飛び出してきた分析屋は上品な笑いを彼方の腹に響かせながら自分の小部屋に帰った。
「人間だもんね。もう、一回」
彼方はそう呟いてマウスピースを自分の目線へと持ってくる。天才だと自分の事を自負していた女の子は再び、プールの中へと飛び込んでゆく。彼方は女の子にエールを心の中で送る。
自分の弱さに負けないで君も自分と戦い続けてね、と。
「そうよ、唇をマウスピースの中で震わせるの」ふわりは両手でマウスピースを持って目を瞑りながら唇を振動させて、音というよりは動物の悲鳴のようなか細い声を室内中に放っていた。その様相を見て深く頷いてから、彼方に視線を移す。「よって……あなたが教えるのが筋でしょう、トランペットで数々の名のある賞を総なめにした天才さん」
彼方はマウスピースを振りながら、
「そっちもそうじゃないか、それに現役」
「笑って誤魔化さないで下さいます? それにこの子、本当はわたくし以上の実力者。猫かぶりですわ」
むさい男だってこれなら食べちゃうんじゃあねぇと記載されたビニールを乱雑に破って中から淡い緑色のアイスバーを取り出し、ご満悦の彩夏が言う。
「おい、お前ら、私語厳禁」二週間前に熊部初の舞台に向けてに当たって書いた目標、私語厳禁をアイスバーで指した。「あ、アイス……勿体ない!」
棒の刺さり具合が悪かったようだ。アイスは下に傾けた瞬間、夏休みに入ってから一度も清掃されていない床へと音を立てる事もなく、静かに落下した。驚いたことに星形は保たれていた。
「違った意味で食べられないよ」彼方はマウスピースを口に当てようとしたが、彩夏の握り締めた棒を目が捉えた。当たりだった事に、「あ」
と低い声で唸った。
彩夏がしばらく固まっているのを一瞥してから、マウスピースへと勢いよく口を近づける。
あの女の子と同じ歳だった頃、ふわりと同じくらいの歳。僕はトランペットという友人に出会った。友人が我が儘を言うのを拒絶して、絶交とすぐに離れていってしまう事が出来るだろうか? 否、それはない。証明しよう。証明しよう。まだ、僕がトランペットという友人と交流を持ちたいと思っていることを。
後、僅か。
後、ほんの僅か!
さぁ、今こそ、僕の友人、トランペット! 共に音楽という世界に身を投じよう。
「あ」
今度は生暖かい感触に驚き声を上げたのだが、
「案外? 気の持ちようって事でしょうか……。ヘタレだな、本当」
マウスピース内で口をもごもごと動かし、そう言った。
大丈夫だったと、安堵した。目を閉じた。
顔が見えた。それは人の形をしていなかった。
不機嫌な鶏は顔で語っていた。あいつなんて死ねば良いのに。陽気に微笑みながら福与かな人参は顔で語っていた。最近、太り気味だな、ダイエットしなくちゃ。荒い息を吐いている猪が顔で語っていた。上手い話が何処かに転がっていないかな、全く。
舞台の上でお前の音楽を真剣に耳を傾けるものなんかいないと様々な顔が語っていた。背中に針を刺されたような痛みを感じた。その痛みが汗を呼んだ。
「お前達に負けるもんか、僕は」
目を開いた。そこにはやはり、異質な顔なんか無くて、彼方の目の前にあるのは何も楽譜を立てていない譜面台だった。楽譜の桜菜柚芽を連れて来れば、少しは気が紛れたのかもしれないと譜面台を見てふと、思った。
よしゃあああ! と言う彩夏の奇声に驚いて振り向いた。
彩夏が当たりの棒を天に掲げて、無垢な子どものように喜んでいた。
「プラスマイナスゼロではありません?」という妃那の言葉にカウンターから飛び降りて彩夏は言う。「すぐ拾えば大丈夫だって!」
そう言って埃まみれの緑色の物体を拾おうと手を伸ばす。だが、その手は妃那に掴まれる。妃那は静かに首を振った。
「ちっ」舌を鳴らして、「奴はもう、死んだって事かよ。全く、彼方並みの女々しい母のお胸吸っていろよ的なヘタレ野郎だな。おい、彼方! お前の部下だろう? しっかり面倒見ろよ」
「跳躍してませんか? それに僕はヘタレじゃないよ」
と言ってから練習を再開して、彼方はその言葉をすぐに撤回した。
やはり、とんでもない救いようのない母のお胸に顔を埋めてろ的なヘタレでした、と。
何度、マウスピースに口を付けようとしても身体が拒絶する。まるで心と体が離れ離れになってしまっているかのようだ。
もう一度、挑戦してみようとマウスピースを動かした。
がたっ!
そんな大きな音がして、音のする方向であるふわりと妃那の方を凝視した。椅子が倒れ、窓際に追いやられていた熊の衝立に隣接していた。
妃那はふわりの蒼い瞳を大袈裟に見入り、ふわりの手に持っていたマウスピースを奪い取ってから、床に置いてある唾拭き用のハンカチに置いた。
「練習、もう終わりわん?」
手持ちぶさたになったふわりは終わりと判断して、山のように御菓子の入った竹籠からスナック菓子を取り出して妃那に差し出す。それを妃那は受け取らずに叩き落とした。何するんだ! という怒りの形相が背の高いふわりの顔から浮かんでいる。だが、彼方の右目は小さなふわりが満面の笑みを浮かべてきょとんとしていた。
「ふわりさん、おふざけにならないで下さい。トランペットの他にもとんでもないレベルで奏でていたじゃありませんか」
「おい、妃那」
ふわりの頬を叩こうとする妃那を横から彩夏が突き飛ばす。妃那は蹌踉めいたが倒れなかった。身体を持ち直しながら、
「ふわりさん、やる気あるんですか?」
「ふわり、ちゃんと吹いているにゃん」
今にも英語で捲し立てたいと背の高いふわりの目はこちらを盗み見ていた。彼方は駄目だよと首を横に振る。しゅんと背の高いふわりは肩を落とした。
「にゃん! にゃんですって……貴女は」ふわりに迫ろうとした妃那の前に彩夏が間に入る。彩夏の存在を無視してふわりに言う。「気分を害しましたわ。しばらく、休憩に致しましょう」
「おい、勝手に致すなよ」彩夏の言葉を聞かずに妃那は扉を乱暴に閉めて出て行く。「おい」
彼方はすぐにふわりの方へと駆け寄ったが、背の高いふわりは彼方に妃那を追ってあげて、と首を扉の方へと向けた。ふわりの髪を一撫でしてからふわりをおんぶした。扉を開けて妃那を追いかけた。
廊下はしんと静まっていた。それを否定するようにふわりの動物の鳴き声が響き渡る。ふわりを落とさないようにゆっくりと廊下を歩いてゆく。
「ついて来ないで下さる」
しばらく、歩くと妃那が見つかった。妃那はぶすくれて彼方にぽつりと言った。
<三>
寂寥感を孕むように風は暖かい空気を送り続ける。万物に必要な空気は芝生の上に何枚も座っていた緑葉を天空へと巻き上げた。それを目で追おうとする華奢なふわりの身体を彼方はぎゅっと抱き留めた。そして、鬱々しい顔を見せている妃那の座っているベンチに近づいた。遠くからは野球部の野太い掛け声が微かに風に乗って聞こえた。
彼方は話を急かさず、じっと、妃那の膝に重ねられた手を俯き見ていた。
「駄目ですわね、わたくしは自分が劣っているからといってふわりさんに八つ当たりをするなんて」
妃那は唐突にそうぼそりと話した。
「その事ですけどね、妃那さん」
いつの間にか、チェックのスカート内に隠していたチョコレートをふわりは彼方に見せびらかすようにひらひらと動かすが、五月蠅く感じて放って置いた。
「あなた、わたくしが嘘を言っているとお思いですの?」
「ふわりはもう二度とあのまま、なんだ。ふわりはいつも笑顔を絶やさない良い子とか思われているけど……」ふわりの握っているチョコレートの封を切ると食べるように彼方は笑顔で促した。ふわりはすぐに意図を理解して強く頷いた。「ううん。意図的に思わせようと僕、母、父で相談して決めたんだ。今、思えば残酷な事をしたんだ。それがふわりを守る方法だと僕らは信じていたから」
「どう、いう事ですの?」
「ふわりは永遠にあのままなんだよ」
チョコレートを口いっぱいに頬張ろうとにゃん、と唸っているふわりの口からチョコレートを一端、遠ざけてから食べやすいようにチョコレートを折る。随分と爽やかな音がした。その爽やかな音とは正反対に彼方の心は深く沈んでいた。
沈黙が二人を暫く、包み込んだ。ふわりだけは無邪気に彼方からチョコレートの欠片を餌付けされて芝生の上を兎の真似のように跳び回っていた。にゃん、わんという交互に猫と犬の鳴き声が聞こえた。
「え、なんですの、それ? あの素晴らしい音楽はなんだって言うんですの?」
「僕は奇跡なんて言葉は嫌いだし、もしあるのならばふわりを治してあげたいって切望するけど」自然に声が震えた風になる。まだ、喋らなくてはと懸命に話を続ける。「それも、僕が世界で一番憎んでいる奇跡っていう現象なのかもしれない。あるいは神様のきまぐれという奴かもね」
皮肉屋な笑みを浮かべようとした。けれども失敗して、代わりに引き攣った笑顔にデコレーションを施す涙が溢れてきた。この涙はコントロールが出来そうになかった。
妃那は立ち上がり、彼方にそっと、色気のない白いハンカチを手渡した。彼方が白いハンカチを広げて見ると、そこには大きな丸い字でおたんじょうび、おめでとうひなおねえちゃんとピンク色の糸で刺繍されていた。希灯児童養護施設の小さな子が妃那にプレゼントした品だろうと推測した。
これは拭けないや、と苦笑する。
「ふわりは永遠にあのままですの……」彼方から芝生の上に寝転がっているふわりに視線を移す。「詳しく、話して下さる?」
「勿論」と彼方は承諾してから話し始めた。「ふわりは僕と出会った時から変わらず、身長は伸びていないんだ。日本語よりも喋りやすい英語を喋ると興奮するようになったのは半年前からだよ。お医者さんに言わせるとふわりは壊れてきているらしい。だから覚悟して下さい。いつ、安定が崩れるか解りませんって。よくゲームで大胆な奇跡とか、起きちゃうけど……あれは狡いよ、狡すぎる。僕は……ふわりの事を多分、母としてではなくて男として見ている。好きなんだ、けど……壊れちゃうんだ。明日かもしれない。今日かもしれない! 起これよ、奇跡」
自分の涙に喉を詰まらせながら淡々と機械的に喋り続けた。嫌な事は全部、捨ててしまい、都合の良い事実だけ残ればいいと早口で言葉を並び立てた。
それを制止するように妃那は呼んだ。
「彼方」
雲が晴れたように我に返って、自分の身体に引っ付いている眠そうなふわりの顔を確認した。
「ままぁ、ふわり元気だからまだ、平気にゃん」
そう言ってふわりは目をごしごしと擦った。
「肝心な事、話してないよね。ふわりは僕と出会う前……正確には父がふわりの退院と共に僕の目の前に現れて。あれ? 可笑しいな。それは妃那も知っているんだっけ。言葉が纏まらない」
「ふわりが自分で話すにゃん」
「駄目だよ」
「お友達に自分の事を話すのは普通わん」
自分の掌に付着したチョコレートの液を発見し、ふわりは嬉しそうに舐め取った。全く緊張感のないふわりに妃那は頭を下げた。
「ごめんね、ふわり」
その御免ね、の意味は妃那にしか解らないだろうと彼方はきっと、複雑であろう妃那の心境が心の中にどしりっとのし掛かってきた。
ふわりは自分の唾で湿った掌を気にしながらも陽気に言う。
「ふわりは自分の事を全部、覚えていなかったにゃん。でも、ままぁにお迎えに来て貰ってままぁを思い出して、ままぁから全部、貰ったわん」チェックのスカートを持ち上げて掌を拭きながら、「今度はふわりがままぁをお迎えするめぇ」
とまるでその日を楽しみにしているように言った。
矢を放つが如く、
「お迎えしちゃ、駄目です。順番からすれば私たちがするべきですわ」
焦燥感の含んだ悲壮な声で言った。
セミが騒々しい声を上げるという仕事を始めた。それを掻き消す程の叫び声をふわりは突然、上げる。
「違うにゃん」言葉を切って笑顔のまま、涙をぽろりと流す。「本当はままぁと離れたくないにゃん」両手で蒼い瞳を隠した。「仕方ないわん。神様が意地悪しちゃっためぇ」
雲一つ無い平和色に染まった空を手と手の隙間から見ているのだろうか、ふわりは上を向いていた。左目が正常さを取り戻したので、能力が熊形の眼帯に閉鎖された状態ではふわりの本当は見えなかった。
だが、僕には理解できるからこう言葉を掛けよう。
「ふわり、駄目だよ。悲しい事、言わないで。さぁ、帰ってハンモクの上でお寝んねしよう。きっと、優しい夢が見られるからね。ふわり、良い子だもんね」
「まだ、大丈夫にゃん」
「ふわり! まだ、なんて言わないでお願いだからね」
ふわりはそれに答えずにただ、にこにこと笑っていた。ふわりという少女が今は彼方には霞んで見えた。
霞んで見えている小柄な身体の隅々まで大切だった。すらりと伸びた腕。猫のシールを貼り付けてある指先。今日もすべすべなおでこ。みかんの形をした簪から元気よく跳ね上がった捻くれ一本毛。照りつける太陽にも負けない輝きを放つ金髪からぷくりとしたお尻に目を移す。気のせいか、大きくなったように思えた。だが、艶やかな向日葵柄の着物の上からでもはっきり見えるほど胸は……なかった。その箇所だけ僅かにシーツの乱れほどに持ち上がっていた。
百二十五センチの小さな身体はこれからも夢というご飯を沢山、食べて成長しなければならないのに失われてしまうのかと、彼方の慟哭がなにも知らずに希望の蒼を見出している空を裂いた。
赤い鼻緒によって保護された白い足を慈しむように、彼方は中腰になり撫でた。ちびっちゃい影の手が伸びて動物の鳴き声で歌いながら、彼方の頭をゆっくりと撫でた。
彼方とふわりから遠ざかる足音がする。妃那の足音だ。
「矮小な自分の心がふわりを……だから、わたくしは……になれないんですわ」
足音が遠ざかって行き、ふわりと彼方だけが取り残された。
いつのまにかに、セミの鳴き声は消え去り、鳴いていたと推測されるセミが柔らかい地面の上で仰向けのまま、転がっていた。セミの周囲には無数の蟻が群がってセミが完全に息絶えるのを待ていた。
彼方はふわりが興味深げに凝視しているのに気付き、ふわりの目を塞いで誤魔化すように言う。
「だぁれだ?」
「ふわりのままぁにゃん」
彼方の目の前で一つの命が消え去り、無数の命を支える為に蟻達に仰々しく、担がれてゆく。その緩やかな蟻達の行列は胸を締め付けられる思い痛みを彼方に杭のように打ち込んだ。
ふと母、蜜柑の真意を理解してしまった。多分、そうなのだろう。
それは優しくて、残酷な生と……少女の残せる最後の美しさなのだろう。なんて愛おしくて恐ろしい思惑だ。目眩と共に残酷な希望が芽生えそうだ。
七色に輝くセミの羽根が一枚、地面に転がっていた。
<四>
夜は深い。人が寝静まる暗闇の時間は長い静寂に包まれているはずなのだが今夜は違うようだ。彼方は諦めて楽譜選びを再開させたのだが、彼方とふわりの二人だけが本来、利用している部屋である為、大勢押しかけると異様に狭くなる。こんなに狭かったのか、と何度か呟いてしまうほどだ。
今夜の特別ゲストは妃那、蜜柑、ぷりん、あけな、澄だ。あけな以外は欲を見せることなく善意の素晴らしい楽譜捜索参加者だ。
あけなは彼方の顔がお金に見えるとでも言うかのようにお小遣い下さいねと高飛車な笑みを浮かべていた。今夜も希灯児童養護施設を何処かの貴族のお屋敷と勘違いしている訳ではなく、素で言うのだから可愛いものだ。同姓ならば殴るであろうとも同時に思う自分はなんて正直なんだろうと彼方は溜息を吐き、ハンモクから飛び降りたふわりを両手でキャッチする。
自分がとんでもなく、危ない行為をしたという事実をまるで把握していないふわりはバンザイしながら言った。
「にゃん、わん、にゃん。ままぁの手伝いめぇ」
「ふわちゃん例年以上にご機嫌?」
ぷりんは楽譜を探すのをわずか、十分で飽きてしまい、今や、絵本のページを捲るのに夢中だ。絵本の表紙には大きなタイヤの絵が描かれていた。ふわりが一ページ捲ってつまらないにゃんとコメントを残したタイヤの種類を紹介するだけの絵本だ。
「柚芽様も随分、落ちぶれたものね。まさか、あの後、記憶を無くしてあんな人間になっちゃうなんて」相変わらず、彼方には楽譜に見えない柚芽はハンモックの上で地上を観察するように見下ろしていた。「私、あいつ嫌い」
自己否定だという事に気が付いたのか、拗ねるように寝返りを打った。小さな背中が余計に小さく見えた。
現時逃避の目視旅は終わりにして、目の前の楽譜の山に手を付ける。山は当然のように崩れ始めた。どうやら、地盤が緩んでいたらしい。
彼方が暢気に考えていたら、ふわりがうきゅーという謎の動物声を上げながら彼方の腕からじたばた動いて、楽譜の川に飛び込んでいった。
ふわりが一枚、総譜を彼方に渡す。総譜とは全ての楽器の楽譜を全体像が掴みやすいように記した主に指揮者が扱う楽譜の事だ。先ほどから数々の総譜を眺めて、様々な楽器の動きを把握しながら頭を抱えている。ただ、格好いいという理由で選択してしまえば、何度は高くなってしまう。難度にはプロさえも誰も奏でられないSSランク、一部の優秀なプロの領域であるSランク、アマチュアバンドには最適であるとされるAランク、学校世界国際コンクールには最適だとされるBランク、高校生のバンドが奏でるには最適だろうというCランク、中学生のバンドや練習にはこれだ! というDランク。
手渡された楽譜を眺めてみる。フルートのクレッシェンドに対して、トランペットが威勢良く吹いてしまいがちな五連符。
「練習すればするほど、このくらいの連符は吹くのが快感になるからな」
彼方自身、数年もの間、一度もトランペットには触れていない。不安はあるが……音域自体は基本の音域だ。この程度ならばDランクに位置するだろう。問題は同じ連符の九連符が何フレーズも続くフルートか。リズムを感性に頼る彩夏では客観的に観ると困難だろう。だが、神懸かりなので蓋を開けなければ解らないという面もある。
「うーん、これなんて」彼方が唸り声を上げながら思案していた総譜を彩夏に差し出す。彩夏はすぐに手を伸ばして、「うげぇ」
不味い食べ物を吐くような声を吐いた。ふわりがそんな声を出したとしたら、一時間説教コースの女性らしからぬ低い声だった。
「おい、連符が多いぞ。レベル高いじゃないか」
「あら、連符だけならば、バレないようにブレスを吐けば突破可能ですわよ」
何年か、前の学校世界国際コンクールの音楽学校部門で堂々と一万の観客と十人の審査委の目を欺いた妃那が得意げに言った。前日、ブレスをばれずに呼吸をする時の表情まで練習する妃那の姿は馬鹿馬鹿しくも見えた。鏡の前で無表情を装っていたのだから。
彩夏の手から無理矢理、総譜を奪い取って深い溜息を吐いた。意地悪な構造に気が付いたらしい。
「トランペットも問題ね。連符の後の休符を置かないですぐに始まる静寂という表現を音で表さなければならない点。ふわりさんに可能かしら」
プロならば、ブレスを配分する事を頭の片隅に置き、それを実行する事が可能だ。弛まぬ努力がその域にまで駆け上がらせるのであろう。
そんな技巧を彼方ならば可能という様ににやりと微笑んでいた。反論したならば楽しみにしてますわよ、と強制的に決定させられるに決まっている。音楽において妃那は昔も今もライバル視している。
助けを乞うべく、これ十五の時にトランペットとフルートでやったわと一人盛り上がっている蜜柑の肩を叩く。蜜柑はSSランクの宴 楽園にてというトランペットの楽譜をディスプレイの上に置いて彼方の方に座り直る。
彼方は視線で宴 楽園にての楽譜と蜜柑を交互に有り得ないと訝しげに見つめながら、口は先ほどの総譜について語る。
「トランペットですけど、客観的に言いますと九連符で崩れる可能性があります。母が吹いてくれれば格好だけならば何とかなる。ですが……」
「掻き消せてって事、彼方ちゃん?」
蜜柑のほんわかした声とは思えないぞっとするような高く鋭敏な声が室内に響いた。彼方の背中に毛虫が何匹も走った。
蜜柑はしばらく、彼方を見つめた後、咳払いをした。そして、いつものほんわかとした穏やかな声が彼方を包んだ。
「ふわりちゃんと彼方ちゃんの婚約正式決定記念のトランペットペアに私が入るわけにもいかないわ」いきなり、不真面目になる母、蜜柑元トランペット奏者に彼方は激しく心を惑わされる。「いや、母が勝手に決めているだけであって」母、蜜柑は何も聞きませんといや、何も聞いてませんと両手を蛍光灯に翳して、独特な倒錯した呪いの詩を披露する。「ああ、愛という灼熱の砂漠でこんがり良い感じに焼けて、灼熱砂漠の地中に生息する閻魔様に食べられてしまう」お話になりませんわと前置きしてから妃那が彩夏から総譜を奪って楽譜の川に沈めた。「そんな不完全な演奏をお客様にお聴かせできませんわ」その間も母、蜜柑の呪いの詩は続く。「愛というのはとかく、恐ろしい情景を生み出すパンドラの箱なのよ」彼方は楽譜の川を指して、「じゃあ、これは却下ですね」母、蜜柑の呪いの詩は哲学の領域にまで迫ろうとする。迫るなぁ、母と心で泣きながらも彼方は現実の世界に身を置く。「勿論、パンドラの箱の中にはふわりちゃんと彼方ちゃんの子どもが入っているのよ」母、蜜柑の呪いの詩がエセ神話に到達したのも気にせずに、妃那が彼方に同意する。「そうなりますわね」母、蜜柑の根拠のない詩にふわりが縋るように膝を付いて蜜柑を崇め奉る。「ふわりは子ども百人欲しいわん」ふわりの着物の帯を掴んで自分の膝の上に載せて、彼方はふわりの蒼い瞳を眺める。「母の相手をしてはいけません。ふわりもほら、考えて」ぷりんが音もなく寄ってきて彼方の耳元で、「ぷりん子ども二百人」蜜柑は彼方の赤面した顔を指して、「そして、それこそが希望です。そんな理由で二人でやるべきよ」彼方は反射的に、「ネタですか?」蜜柑は首を傾げて、「つまんない?」彼方は深く頷いた。「はい」
蜜柑は彼方に擦り寄る。耳元にはぷりん、真横には蜜柑、膝の上には欠伸をしているふわりと一気に人口密度が高くなり、人が放つ熱で汗が溢れてきた。
「だって、だって母、嬉しいだもの」
心臓が破裂する前に彼方は蜜柑を手で押しのけた。
「認めてないですよ、僕」
認めないも何もない。母、蜜柑が勝手に裏庭での会話を盗み聞きしてノストラダムスの大予言並みに拡大解釈しているだけではないか。彼方はほんの少し、不機嫌になった。可愛らしく、頬を膨らませてみる。
「彼方ちゃん、真面目な話だけど」
「真面目な話でしたら、後にして下さい」
「真面目な話、お金くれれば代わりに聞くよ、お兄ちゃん」
両手を差し出した。彼方はそれに対してお札を握り締めないであけなの手に自分の手を沿えた。
「はい、二億円」
黒い透き通ったあけなの両眼と蒼い彼方の右眼が沈黙を交わした後、あけなは急に倒れてお腹を押さえて丸くなった。
「すげー、宝くじだぁあああ」そう言って飛び起きる。「って言うかぁ!」
あけなの叫び声に呼ばれたかのように澄があけなのTシャツの襟をぐぃと掴んでそのまま、引き摺った。じたばたと足を懸命に動かすあけなに澄は容赦が無かった。
「はいはい、楽譜探しましょうね」
「待てくれ、まだ、マイ マネーがぁ」
彼方は生暖かい目で彼方の周囲にある楽譜の川から、他県の楽譜の川へと連行されるあけなのスカートから覗けるレディーな黒いパンツを眺めた。疲労感と共に何をしているのだろうと空しさが込み上げてきた。
「待ちません!」
澄の声が室内中に響いた。騒がしいのは希灯養護施設の名物と言っても過言はないので深い感慨はない。
「彼方ちゃん、真面目な話するよ」
母、蜜柑は未だに諦めていなかった。
「後にして下さい」
母、蜜柑の真面目な話ほど、宛にならない。それは誰もが承知していた。正確に言うと彼方の両親の真面目な話ほど、宛にならないと希灯養護施設の子ども達の間では数々の苦い経験によって強制的に思い知らされていた。
例えば、ぷりんとふわりに対してクリスマスイブにサンタさんが来るわよと神妙な顔をして言ったある冬の事。勿論、大人であるサンタ幻想主義派の彼方や妃那、現実派の澄は来ないよと口を揃えて言った。だが、幼子の部類に入るふわり、ぷりんは一日中、蜜柑の言葉を信じていた。帰宅した彼女たちを待っていたのはサンタの赤々しい趣味の悪い服を着ようとしていた蜜柑の姿だった。蜜柑はメリークリスマスとぷりん、ふわりに言った。それから二人とも、今もサンタは蜜柑の事なんだと理解している。その日を子ども達の間では偽サンタ生誕の日と呼ばれている。
思い出し笑いを彼方が浮かべている。
柚芽はずっと沈黙のまま胡座を掻き、御菓子のバケツ付近にある総譜の山を睨んでいた。その瞳には一種の不安と悲しみのようなものが同居しているように彼方には思えた。
柚芽と目が合う。女児らしい優しい目をしていた。それでも負の感情に溢れているのだからふわりといい、ぷりんといい、不思議なものだ。彼方には無邪気な者達の瞳の中にある本質が理解できなかった。
彼方と目の合っていた柚芽が顔を赤くさせてそっぽを向く。
「この人達、楽譜探す気あんのかしら」と顎に指を沿えて、「待てよ。さすが、柚芽様」柚芽は静かに笑う。「むふりぃ」
「笑い方、邪悪」
疲労のあまり、ぷりん喋りになった。ぷりんが言うにはこの方が喋るのが楽らしい。助詞を考える必要性がないからだろう。
ぷりんは自分の言葉を真似られたのが嬉しいのか、調子に乗って両肩によじ登り、ふわりの一本捻くれ毛を弄ぶ。
「ぷりん真似るの、お兄たんなら許可」
「パパぁ、柚芽が今から口にする事を五線譜に書いて下さいね」
柚芽が机を指した。机にはパソコンという文明の利器はない。彼方の顔が歪んだ。多分、手書きの五線譜の前に向かって、開ける明日という時間をディープに堪能できるだろうと予測できた。
それとまだ、気掛かりな事がある。それを臆する事無く、口にする。
「え、まさか。君自身が?」
「良いアイディアでしょう」
周囲を見回す。みんなが説明しろ、という怪訝そうな顔をしていた。彼方は説明をするべく、机の上においてあるノートを取り出した。そのノートには柚芽というタイトルが付けられていた。彼方が昨日、彩夏から渡されたノートだった。彩夏の勧めにより、そのノートで柚芽の重要な会話を採集している。まるで二十四時間勤務の翻訳家にでもなった気分だ。その真っ白な一ページの片隅に柚芽が曲を作るらしいと小さな字で丁寧に書き、みんなが見えるように両手で掲げた。
「そうだね。どんな曲になるのか、若干不安だけど」
楽器がかつて吹けたからといって、優秀な作曲が出来るとは限らない。作曲をするという事が短時間で出来るはずはない。彼方は若干ではなく、大いに不快に溢れた顔をわざと柚芽に向けた。
だが、柚芽は呆けた表情でじろっと彼方を見つめた後、深く頷いた。疲れたサラリーマン風の吐息がここまで聞こえてきたのは気のせいだと彼方は思うことにした。
小さい子に馬鹿にされるのは何だか解らない件だとしてもかなり、惨めじゃないか。
「柚芽様は数多の楽器を自分の手足のように動かせるんですよ、お茶の子さいさいです」
彼方は早速、先ほどの書いた文字の下にノートの枠を全て利用した規格外の文字を書き込んだ。柚芽が自分に任せろだってさ、という文字を食い入るように見つめた蜜柑は拍手で賛成した。蜜柑が賛成すると他のみんなも賛成せざるを得なくなり、頷いた。
「おい、様子見に来てやったぞ!」
陽気な声を喧しく辺りに飛ばし、襖を開いて彩夏が姿を見せた。彩夏の両手は大量のアイスクリームが入った袋を提げていた。その袋を無理矢理、彼方の胸に押しつけた。彼方は苦笑いを浮かべて、
「ありがとうございます」
「これで今日、手伝えなかったのはチャラなぁ」
と彼方の両肩を揉んだ。力強く、揉んだ。軋むような音が両肩からするのは紛れもない事実のようだ。痛さに顔を歪めて、膝の上にいるふわりにアイスを手渡す。アイス頂戴とやってきたぷりんと一緒にふわりはアイスの品定めしを始める。
ぷりんは悩んだ結果、実は卵も入っている雛な林檎バーを選び取った。新発売だと喜んでビニールを破る。あけなが横でいいなぁと言いながら、ふわり専用の御菓子の入ったバケツを両手で抱えていた。
そんな幸せな光景を定年退職後のじいさんのように暖かな眼差しで見つめ、
「それとこれとは別ですよ」
と彩夏に言った。当然の報いだとばかりに両肩に圧力が加わる。大人げなくも相手は本気のようだ。いや、そうでもないかもしれない。過去の器物破損事件から勝手に推察するならば、彼方の両肩は粉粉に砕けて現代医学でも再生不能な結果に終わるだろう。消火器を廻し蹴り一撃で凹ませるような彩夏の実力を侮るなんて愚かだ。あの時はふわりをいじめた男子生徒を懲らしめる一撃だったのだから彼方としては是非とも当てて欲しかった。ふわりを愛護する会の生徒会長の情報により後にわかった事だが、ふわりをいじめて怒らせて罵りの言葉を貰いたいという特殊な性癖の持ち主だったようだ。
そんな思い出の走馬燈な映像が彼方の瞼に引っ付いた。
ふわりは弱酸性チョコレートパフェを選んだ。弱酸性という言葉に彼方は首を捻ったがギャグだろう。いつも、彩夏が御用達にしているアイス会社ドナドーの商品名はこのような無駄に無駄を重ねた壮絶な詰まらない一部の隙のない詰まらないの押し売りだ。
蜜柑は寒サムさんのペンギンバーというペンギンの形をした緑色のアイス、あけなは唇がアイスに付着する程、上手いメロンカップというメロン味のアイス、澄はわりと普通なショートアイスという苺味のアイスをそれぞれ選んだ。
「そろそろ、僕たちもアイス食べません?」
「そうだな、何やってんだろうな、俺達」
二人で覗き込んだ。残っているのはソーダアイスボールとモンブランカップだった。割と普通のタイトルだが、彼方と彩夏は顔を見合わせた。
「何ではずれを持ってくるんですか。普通のタイトルははずれだって前に彩夏さんが」彼方の言葉の前を割り込むように彩夏が怒鳴る。「仕方ないだろう、適当に入れてきたから俺はソーダアイスボールを選ぶぞ!」
とソーダアイスボールを選び、一気に口に含んだ。羨ましいくらいに天に召されてしまうような笑窪を彩夏は浮かべた。それを眺め見て、自分の数秒後の将来は明るいと確信してモンブランカップに挑む為にビニール内に入っていた木のスプーンを取り出す。
「さぁ、食えよ、少年の皮を被った少女よ」
「僕は少年ですけど」
自分の薄黒いネグリジェ姿を目で捉えながら、少年という部分を強調して彩夏に言った。彩夏が眉を潜めてネグリジェを無言で観察していた。一年前、ふわりの母になる為に初めた女装だから彼方としては誇りを持っている。堂々と彩夏と対峙した。
「え、そうだったの。彼方ちゃんいつの間に、私……少女か、と」
彼方の実母から思い掛けない言葉が飛び出す。大きく口を開けながら固まっていた。緑色に染まった舌がヒクヒクと動いていた。
「母、僕は」
「彼方ちゃんはおにゃのこよね?」
蜜柑のはにかんだ笑顔から覗く歯が彼方は愛おしく思えて、その同意しろという誘惑に囚われた。
「はい、そうです」彼方が弾んだ声で答えた。それと同時にあけなが意味深深く、「マザコンか」澄がそんなの前からだろうと、「マザコンね」ふわりが彼方の頬に頬摺りして「マザコンにゃん?」
ふわりの頬の感触を覚え照れながら、モンブランカップの真っ黄色な大地を木のスプーンという名の掘削機で削り取り、大地の恵みを味わう。
大地の恵みは、吐きそうなくらい苦い。人間という下等動物には味わう資格はないとモンブランカップは言っていた。
「何、これ……アボガドじゃないか」
口を押さえて襖を開けて、お風呂場の隣に隣接しているトイレに駆け込んだ。トイレの蓋を開けて、一気にアボガドの固まりを便器の水に向かって落下させた。
「ままぁ、死んじゃヤダ。ふわりはもう独り嫌だ。静かなお部屋に行くの嫌だ。お医者さん嫌い!」
ふわりの英語と共に、背中に小さな暖かみを感じた。
白い泡を立てて濁っている黄色いトイレの水に悲しい彼方の顔が浮かび上がった。
死んじゃうかもしれないのはふわり、君だよ。
「ままぁ、愛してる。ふわりはままぁと一緒にいたい」
英語で話し続けるふわりの身体が微かに軋んだような気がした。それは彼方の感傷が生み出した幻なのだろう。それでも、こう言わずにはいられない。
「勿論、僕も。一緒にね」ふわりの顔を見ようと振り向いたが、ふわりは彼方の背中に張り付いたままだ。「驚かせてごめんね」
「ままぁ、ちゃんと流すにゃん」
という非難の声と共に水の音がした。アボガドの固まりだけではなく、見えない人の悲しい予感まで水に流してくれるのならば、どんなに人は楽に生きる事が出来るのだろうか。いや、生きることは苦痛を伴わなければ成立しないのかもしれないと彼方は感傷に溶け込んだ。
「ふわり、そのままで今は居て。背中がとても寒いんだ」
<五>
背中に猿のように引っ付いたまま、眠るふわりの事を気遣い、子ども部屋から小さな机を借りてきて彼方はその前に胡座を掻いていた。
電気スタンドによってもたらされたオレンジ色の光をもう、三時間以上も長々と見続けていた。ふわりの寝息と壁際に飾ってある小鳥が上に乗っかった時計の奏でる音が、交互に彼方の耳に優しく入り込んでくる。
もし、それらの音が言葉を発する事が出来るのだとしたら、彼方さんこんばんはと鈴の音のような女の子の声だろう。
そう現実逃避を試みた彼方の脳を揺さぶるように柚芽の声が響く。
「ぱぱぁ、そこ、♭」
柚芽の服装はいつものではなく、何故か、軍服を着ていた。軍服とは勇ましい勇士達が着込む戦闘服だ。当然、格好いいというイメージが彼方の心にはあるのだが、柚芽のそれは子どもがごっこ遊びしている可愛さだった。
どうやら、左目がまた、悪さをしているらしい。きまぐれだ。
「なんだか、めちゃ、辛いよ」
複数の縦線が引かれた総譜の中に柚芽の指示通り、♭を入れた。右目の疲労は限界が来ている。左目を塞いでいる眼帯を取り、机の上に置いた。
「そこに♭じゃなくて、トランペットの楽譜の方に。後、ホルンの楽譜にデクレシェンド入れて」柚芽の指示を聞き逃さないように、全神経を目と手に振り分けながら作業を進める。柚芽の手が彼方の視界に現れてピースサインを作った。「うん、柚芽様色になってくね」
「そうそう、曲名はゆめにするよ、パパぁ」
「夢?」
「そう、ゆめ。でもひらがなでゆめ、ね」
カチカチ。
すぅーすぅー。
カチカチ。すぅーすぅー。カチカチ。すぅーすぅー。カチカチ。すぅーすぅー。
ふわりと時計の子守歌は想像以上に彼方のやる気を削いでゆく。
欠伸をしながら両眼を擦った。水分が目に入って激痛が走った。両眼を押さえてその場に転がろうとしたが、背中に感じる元気の源のことを思い出して留まった。
また、しばらくすると身体に異変が訪れた。ノックするという礼儀作法を守らずに肩へと上がってきた。
「肩凝るなぁ」背伸びをして無礼者を追い払おうとしよう。「うーん!」
「ぱぱぁ」疲れたのだろう、柚芽も欠伸をしていた。顔色も少し悪い。こちらまで聞こえるほどの一息の後、言った。「休憩しましょう?」
「良いの?」
「まだ、フルート、クラリネット、チューバ、ユーフォの楽譜が残っていますからね」
柚芽はにたりと笑い、残酷な言葉を吐いた。
時刻は深夜二時二十六分を指していた。
「その微笑み、今は悪魔のように見えるよ」
その言葉を残して、ふわりを背中から落とさないようにゆっくりと立ち上がった。そのまま、暗い部屋を移動して襖を開けた。
「ふぅー」息を吐くでもなく、息を吐いたというような言葉を口で表して電気のスイッチを指で軽く押した。
光と共に目が冷蔵庫を捉えた。思わず、目が見開かれる。目的のものはここにある。
「肩凝って大変だなぁ。さてと、ジュースでも」冷蔵庫に手を伸ばそうとした時、ひんやりとした肉球に腕を掴まれた。「うおぉ」
彼方は思わず、男らしくない高い声で叫んだ。
肉球から辿って、子猫の顔へと彼方の目は辿り着いた。真ん丸顔の子猫は長い髭に毛が金色に輝いていた。
「驚いたぁ。驚いたぁ」くりくりとした蒼い瞳が彼方を捉えて母、蜜柑のわんぱくな声が響いた。「さぁ、飲んで」
蜜柑が栄養ドリンクを彼方に差し出した。彼方はお辞儀してから、栄養ドリンクを受け取ってラベルをまじまじと見た。
砂糖ドリンクと書かれている。思いっきり、身体に悪そうだ。
目を瞑り、勢いよく上向きで飲んだ。ドロッとした物体が舌に載り、甘味が怪獣のように喉内で暴れ出した。
何だ、これと思ったが人の好意を無下にしてはいかないとね彼方は大袈裟に高笑いをした。
「はぁ」空しさに溜息が出た。「美味しいですね。砂糖が多すぎやしませんか?」
「甘いものは疲労回復に優れているんですよ」
むしろ、思いっきり身体に悪かった栄養ドリンクの瓶を流しに置いた。
「ありがとうございます、母」
左目を右手で塞いでからそう言った。
母、蜜柑はいつもの整然とした大人独特の美顔でちょっと子どもっぽく微笑んでいた。だが、その笑みは翳りを見せ始めた。
「彼方ちゃん、お話良いかな?」
笑いもせずに蜜柑は彼方に向き直る。背中にいるふわりの熱がその話を聞く勇気を彼方に与えた。俯いたまま、神妙に彼方は応える。
「逃げられないんですね」
「ふわりちゃんは自分の死を受け止められるようになったのね」
彼方は蜜柑の言葉に頭を上げて、何度も蜜柑の言葉を反芻した。
ふわりはあの時以前、自分の死を誤魔化す傾向があった。死んだ蚊に対してバイバイと言うような無垢な殻に閉じこもっていた。あの時、ふわりが見ていたセミの最後に特別な感情を抱いていたのは違いなかった。逃避から認知に変貌した。それはなんて、悲しいんなんだろう。悲しみが悲しく見えないのは、痛みを痛みとして分かち合えないのと同等だ。
そんな激しい奔流までも蜜柑にぶつけるように怒鳴った。
「見ていたんですか、母!」
「怒らないで」
宥めるように両手をワイパーみたいに蜜柑は動かした。だが、表情は子どもの些細な悪戯を暖かく包み込む母性に満ちていた。
ふわりの体温の暖かさと同等の優しい熱を彼方に与えるが、今の彼方には受け入れがたかった。羞恥と怒りが込み上げてきた。
そんな彼方に話を合わせる事もないというようにそそくさと話を進める。
「たまたま、父さんの所に用事があったのよ、第三回希灯音楽祭の開催に関する書類を届けにね」
「戦争以来、人が集まらないのにですか」
当然だ。政府の意志を無視して母、蜜柑は事実上、攻防戦争を終結させてしまった人だ。今の日本人からすれば、最大の敵が葉瀬蜜柑という事実がある限り、彼らはこの島へは足を運ばないだろう。ここに住んでいるのは葉瀬蜜柑の賛同者達が大半だ。
そして、島に捨てられた子ども達。まるでゴミ箱にゴミを放り込むように捨ててゆくんだ。
狂っている。狂っている。世界は元からどうしようもなく、狂っている。
彼方はそれらを籠めてぶすくれた顔でそう言った。だが、人の心は伝わるはずがないと彼方は同時に唇を噛み締めた。
「ええ」
その短い一言を言うのに蜜柑は数秒を要した。重い重い一言なのだろう。
「本題。彼方ちゃん、ふわりちゃんと婚約しなさい」苦しい顔でこの人は苦痛などこの世にはありませんと嘯く幸福を与えようとする。彼方はそう思った。その瞬間にも蜜柑の独り善がりな偽善論は続く。「あの子の生きた証を作ってあげなさい」
「断ります」
ふわりの瞳が覗ける位置にふわりを抱き直す。そして流しに背を滑らせて、冷たい床にお尻を付けて座った。下を向いてふわりが油性マジックであ、い、う、え、おと山道にある歪なカーブとも見える字を眺めた。
これはふわりが一年前、ひらがなを覚えて得意げに書き回っていた頃の痕跡だ。落書きではなく、そこには未来がある。
「ふわりはまだ、生きます。あの子は大丈夫だって言っていました」
ひらがなのあ、い、う、え、おの上にはそれがあった。
妃な、あや夏、ぷりん、澄、あけな、ままぁ、みかん、雄大……と施設の子ども達の名前が後に続く、最後に大好きと一ヶ月前のふわりは油性マジックで書き込んだ。
彼方は急に可笑しくなり、大いに笑った。
笑う門には福来たる、縋りたくなる。そんな御伽噺に、と頭の中に誰かの囁きが聞こえたような気がした。