二話 僕に流れる時間、他者に流れる時間
二話 僕に流れる時間、他者に流れる時間
<一>
彼方は男だ。それは代え難い事実のはずなのに彼は今、同年代の少女が羨ましがるような姿を彩夏、妃那の前に晒していた。
水色模様のノースリーブの上衣に、白いスカート。足が細長い彼方のスタイルにはスカートという下衣は合っていた。童顔で、幼女体型と艶やかな胸元まで黒髪を降ろして、ちなみに後ろ髪は首に掛かる程度まで伸びている髪という特徴を持つ人間を少女と間違えるのは仕方がないと諦めていた彼方は声を大にして言う。
「これは虐めですよね? 皆さん?」
彼方とふわりが同居している部屋を見回し、ワイシャツから胸の谷間が覗ける彩夏と子供向けの向日葵の柄に黄色いワンピースを着た妃那を睨んだ。その割には机の脚にしがみつく。
「違いますわ。彼方には彼方の在るべき姿があるでしょう、皆さん?」
妃那は彩夏に賛同を求めるように話を振る。
「おお!」大げさな声と派手なふりの拍手で肯定した。そして、付け加えるように話を続ける。「まさに今の姿だな」
「僕は絶対、学校に行きませんよ。震えが止まらないんですよ」一端、手を離し、彩夏達に両手の微かな震えが分かるように見せびらかす。
「ふわり! 早くままぁの所においで」
彼方が起床したら、ふわりは勝手に何処かへと行ってしまっていた。一人でハンモックから降りられないはずのふわりが何故、消えたのか? それはふわりの脱走を手助けした人間がいるからだ。そう考えた彼方は母、蜜柑に聞いた所。何か、にゃん、わん、わんって騒いでいたからハンモックから降ろしてあげたの、と良い事をしたというような饒舌な口調で言った。
それでも、自分を置いてそう遠くへは行くはずがないと彼方は呼び続ける。
「ふわり! ふわり!」
「情けないですわ、あなたの事はよく存じてますし、ふわりの必要性も存じておりますけど、あまりにも今のお姿は情けないですわよ」
「おら、いつまでもそんな所に引っ付いてるなよ!」彩夏は再び、机の脚にしがみついた彼方のスカートを両手で引っ張る。「うぬぅ!」
「止めて下さい、スカートが脱げちゃいますよ」
「それは、それは面白いねぇ。価値あるパンティーだぜ」
その言葉の通り、黒いモノがスカートと白い肌の境に面積を増やし始めた。彼方を少女の姿にした張本人である彩夏の手で彼方は汚されようとしている。ふわりを探した後、彩夏が勝手に人の部屋でふわり専用のコーンフレークを、軽い音を立てながら食べていたのだ。それをお菓子屋の御菓子泥棒、と抗議したらこの様だ。
怒りを込めて彼方は叫んだ。
「くそぉ、雛と狐のくせに!」
今の彼方はファンシーな熊型眼帯を左目に付けているのだから、動物の姿の綾夏や妃那を見るという事はないのだが溜まらず、口にしてしまった。言った瞬間、これは失礼だったかなと反省する彼方のスカートは見事に擦れ落ちて両足の動きを拘束した。
もう、二度と黒いパンティーなんて履くか。強引に履かされてもその場で脱いでやる!
「悪態つくな、観念しろ」
「あら、ふわりが帰宅なさったみたいですわね? その格好で宜しいの? わたくしとしてはかなり、変態さんチックだとは思いますが」
「ただいまにゃん、ままぁ!」
「ふ、ふわり!」
舌で口の周囲をしきりに舐めているふわりを何度も高い、高いと持ち上げた。ふわりは竹籠をぶんぶん、振り回している。
「ままぁ? あんたの母親は桜菜林檎でしょ! 嘘つくな柚芽。って私が私の名前を言うのは意外と恥ずかしい」
「あ、あれ? 今の、ふわ」ふわりの顔を覗き込むがきょとんとしている。「へっ?」
「お姉さん、私が見える?」
小動物のような声が聞こえた。すぐさま、声の発生源である竹籠に目をやると、金髪のショートカットの女の子が籠からこちらをじっと、疑うような双眸を向けていた。
また、変なものが見えるよ、僕の左目は余計な事ばかりをしてくれるようだ。
顰め面になっているのが彼方自身も手に取るように分かった。このまま、無視するという手段もあるのだが……いやいや、それは出来ない。
ほら、観ろ彼方。ふわりと母、蜜柑に似ている真ん丸顔の可愛いちびっ子を見捨てるのか? それでも男か! と彼方は自分に決断を促す。厄介事に首を突っ込む覚悟だ。
「はい、はっきりと掌サイズの可愛い女の子の姿が」
「嘘だぁ! 柚芽様が? 絶世の美少女よ、私」
「ぷっ」
自称絶世の美少女を指さしながら腹を抱えて笑った。絶世の美少女というよりは……とちびっ子を掴んでじっくりと観察する。
蒼瞳には憤慨という色合いの感情が交ざっていた。その瞳を無視しつつ、凹凸のない幼女体型を包み込んでいる朝顔柄のワンピースを品定めする。笑いそうだったので彼方は両手で口を押さえた。だが、両端の唇が緩んでいるのが認められた。美幼女だ。
「おい、どうした?」とアイスクリームを食べながら綾夏。
「何笑ってますの、学校に行きますよ?」
ドアノブに触れた妃那が怪訝な表情を浮かべていた。
「そうだね、行きながら説明するよ」何事もなく、爽やかな笑みを浮かべようとしたが、先ほどの発言が彼方のお腹をこちょこちょと刺激した。「ぷっ、美しょうじょぉ」
彩夏と妃那に続き、彼方も通学用鞄を持ってスカートの裾を触り、怪訝な表情を示したが息を吐き……頷き外に出ようとした。そんな彼方のスカートを勢いよく、ふわりは両手で引いた。寒気がした。下半身がすぅすぅする。
「ままぁ、ふわりお弁当作った」
その言葉を残してスキップをして、学習机の上にある大きな水色の布包みを両手で大事そうに抱えた。その間、彼方は俯き、黒いパンティーに向かい情けない顔を向けた。
自分でも似合うって思った自分に罪悪感が……と呟きながら、スカートを定位置に戻した。
「ままぁ、はぁい!」
「ありがとう、ふわり」
「どきっんって何? この胸きゅんは!」
ふわりから貰った水色の布包みの温もりを両手に感じていた彼方にきゃきゃ騒ぐちびっ子の声を耳にして、顎に手を添えた。
さて、どうすべきかな? 可愛いペットを拾ったという訳にはいかないだろう?
彼方はちびっ子の正体を見極めるために邪魔な左目を右手で押さえつけたまま、ちびっ子を眺めた。ちびっ子の正体は真新しい楽譜のようだ。楽譜の右上にトランペットと表記されていた。内容を見ようとしたが……不思議な事に内容が頭に入ってこない。何かを頭の中に入れたような感覚はあるのだが、脳に行く前に情報が泡のように消滅してしまう。
「ふわり、その楽譜? 僕に預けてくれるかな?」
「違うのにゃん」ふわりが拒絶したのか? と彼方は唖然とする。「ままぁに……」
ふわりは目を瞑り、力を溜めているようだ。息を吸い込み、つま先を立てる。
「プレゼントわん!」
耳の奥でふわりの言葉が何度も反復する。嬉しさのあまり、彼方は中腰になりふわりをぎゅっと、抱擁した。ふわりの身体は懐炉のように暖かい。
「おい、私はこいつの宝物じゃあ、ないのか? 薄情者!」ちびっ子は抗議してからはっとした何かに気づいた表情をして、肩を落とした。「あ、私だよね、こいつも」
私だよね? 君は君。ふわりはふわりだろうと口に出しそうだったが、今は聞かないことにした。ちびっ子の首の肉を鷲掴みにして、通学鞄に仕舞い込んだ。
ふわりの髪の毛を撫でて、
「ありがとう、ふわり」
「にゃん、わぉん、ガァああ」
ふわりは満面な笑みを浮かべた後、歓喜の叫び声を上げた。そして、走り回る。ディスプレイの脚に足をぶつけながらも変わらず、走り続けた。
無垢な笑顔は彼方の心の中に重りとなって沈んでゆく。壊れてしまっている人間はこうも悲しいものなのか? と思わずにはいられなかった。そして……。言うまいと彼方は首を振った。
「ふわり、ごめんね。今日もままぁの為に高校に行こう」
「ままぁと一緒が良いにゃん」
<二>
路面電車内は学生達に睡眠を暗示するかの如く、何度も小刻みに揺れた。尤も、午前六時では学生は彼方達しかいなかった。いつもならば、七時に路面電車に揺られている予定なのだが、女装事件のせいで流れ的に早く学校へと通学する運びとなった。彼方は草薙駅で購入した希望新聞、定価八十円を広げて記事を黙読していた。希望新聞の内容は実にほのぼのとした内容だ。何々さんの家の柿は最高に旨いという事を長ったらしく書き連ねたり、事件という言葉が相応しい出来事が希灯島にはあまり、多くない。殺人事件がもう何年も発生していない喉かな場所なのだ。そんな喉かな島にも都会は存在する。その都会の風景へと彼方は新聞を二つ折りに畳んでから視線を向けた。
お洒落なレストラン、コンビニ、病院、老舗デパート、呉服店、和菓子屋、商社ビル等がひしめき合っている。猫の額のような希灯島という地に。
ふわりは彼方の隣で立ち上がって窓にへばり付いていた。
「ふわり、しっかり座ってなさい!」
「にゃん!」
「わかってないか……」
「美少女ね、このお姿がですの?」
草薙駅から乗ったローカル電車の車内にて、彼方が描いた楽譜ちびっこの似顔絵を妃那は食い入るように眺めていた。
「美幼女だな、こりゃあ。なぁ、美幼女?」
彼方の通学鞄に正座している目に見えない美幼女―桜菜柚芽という名の楽譜に嫌みたらしく言った。この桜菜柚芽については道中、彼方から彩夏、ふわり、妃那に伝わった。
「私の敵決定ね、平凡胸。ねぇ、パパぁ?」
パパぁとフィギュアサイズの柚芽が目を輝かせて言った。平凡胸と言った瞬間、眉間に皺が入っていたのに忙しい少女だ。彼方はノートに少女の言葉を記録した。
少女という動物は訳が分からないと呟きながらも、ママとパパと呼ばれている事を考えると憂鬱になる。
そう思いながらも彼方は柚芽の言葉に合わせる。
「奇遇ですね、ふわりも彼女の事をいやってそっぽを向くんですよ」
「お前、忘れてないか? 彼方がお前の喋った言葉をノートに書いているのをな!」
「べー」
べーという柚芽の言葉を彼方は忠実にノートに書き留めた。
「あ、あまり叫ばないで下さい、運転手さんに変な人だと思われますわ」
「紅茶を飲んでいる時点で……」
妃那は紅茶を保温水筒に入ったお湯を自前のティーカップに注ぐ。事前にティーカップの中にはインスタントの紅茶袋が入っていた。紅茶の甘い匂いが鼻孔に入ってくる。どうやら、市販されているレモンティーのようだ。紅茶にはうるさいくせに自分では市販の紅茶しか購入しない。それが元お嬢様、瞳坂妃那十五歳の数ある中の一面でもある。
「ん?」
瞳坂妃那十五歳に睨まれた。
年下なのに謝らないぞと心に決めた彼方だったが、
「あ、すみません」
反射的謝罪を口にしてしまった。
「ゆめってふわりさんの元の名前と同じでしたわね、確か」
ゆめ……。ふわりが拒絶して捨てた過去だ。
「なぁ、彼方。今更だけどさ。なんでふわり?」
彼方の肩を掴んで質問してくる。彼方はその時の事を思い出しながら優しく微笑んだ。
歌うように静かに言う。
「母が命名したんですよ。彼方ちゃん、この子ぉ、ぽっぺがふわ、ふわぁ。そうだわ! ふわりにしましょう彼方ちゃん」
「怖いくらい似てるな蜜柑さんに」
ふわりに悟られないように座席を歩く指の運びでふわりの太ももに触れようとする。
彩夏の手の動きに気が付いたふわりは四足歩行で座席の上を走り、彼方の膝の上に飛び移った。
嫉妬に満ちた彩夏の表情に彼方は目を逸らして、綺麗に磨かれて太陽の光りを吸収して輝いている床の一点を見つめた。
「ありがとう、彩夏さん。流石、母だよ、危なかしくて動き回るふわりにはぴったりな気がするよ」
「どんな方なのかなぁ、パパぁのママぁ」
ちょこんと、首を傾げた柚芽は媚びるような口調で言った。
可愛いと思ってしまう僕は楽譜少女の意図の中にいるのだろうか?
彼方が柚芽に答えようとしたのを妃那が横から口を出す。
「一言で言うならば、変人ぼんやり年齢不詳トランペッターですわ。現役を引退したのに腕は全然、鈍っていませんわ。怪物です」
「母は日本人から嫌われていますからね、あながち、その表現は的を射ています、とほ」
確かに彼方の母は常人とは掛け離れた奏者だ。アメリカとの戦争により、遊楽が悪とされている時代がかつてあった。そんな時代にも関わらず、彼方の母、蜜柑は数多くの国に渡り、その国の人々を音楽で魅了してしまった。当時のメディアで報道されていたくらい有名だ。そして、アメリカとの戦争―攻防戦争を終結させるきっかけとなったのは葉瀬蜜柑が国際コンサートで言った私達は戦争をしなければ、幸福に暮らす事ができないのでしょうか? という言葉と音楽だった。彼方の使っている歴史の教科書にもその事において語られている。日本から勝利を奪った日と。
葉瀬蜜柑が戦争を止めなければ、日本がアメリカを打ち破ったと教科書には載っていた。本当にそうなのだろうか? と彼方は揺れる電車内で両手を重ねて祈るような姿勢で深く溜息を吐いた。
人は虚栄心の固まりだという事を僕は知っている……。
「とほ」大げさな溜息と共に彼方の両肩に予想外の衝撃と加重が加わる。「にゃん! ままぁ!」
ふわりが両肩に顔を擦りつけて暴れ出した途端、前のめりに倒れそうになった。
「おっと、危なっ」
「どうしちゃったの、私? 年齢に似合わず無垢、それが悪いという……わけではないですが、うむ」
柚芽はうなり声を上げてから、彼方の隣に位置する通学鞄に寝そべった。
「ありがとう、気を遣ってくれているんだね。ふわりは」
彼方はどう言えば、良いのか解らずに言い淀んだ。ふわりと同じ人格であると自称する少女にはショッキングな事実だからだ。背中に汗が流れた感覚がやけにはっきりと感じ取れた。
妃那が彼方を助けるように後を続けた。
「ふわりさんは身体がちょっと疲れていますのよ。すぐ元に戻りますから。心配なさらなくても良いですのよ」
「そ、そうなんだ。良かった」噛み締めるように良かったという言葉を紡いで頷いた。「うん、良かった」
「ありがとう、柚芽。君は良い子だ」
自分で言った言葉が無責任な言葉だという事を彼方は認めていた。だが、それでも言わざるを得ないやるせなさという発作に襲われた。
「それより、パパぁのママぁはトランペッターだったんですよね?」
「うん、名前は葉瀬蜜柑。戦争で音楽が廃れた世界だけど、今も日本中に知られているよ。残念ながら……」
「彼方」
その先を言うなと冷たい彩夏の視線が彼方を射貫き、彼方の身体が竦む。
彩夏さんが察した通り、余計な事だろう。母が日本人の敵で多くの過激派と呼ばれるアメリカとの再戦を望み、何かと火種を探している連中に今も、居場所を探られているという物騒過ぎる情報は相応しくない。
後に続いた意味深な言葉に何か、疑問を募らせたのか、柚芽は通学鞄の手提げ部分に括り付けてあるビーズの腕輪を目だけで捉えていた。
「マカリオイの……奏者。ママぁの双子の妹」
彼方の頭の中で双子という言葉が何度もリフレインされる。双子という言葉が身近でよく使われる事があるのは彼方の母、葉瀬蜜柑と桜菜林檎の関係だけだ。勿論、彼方の家は児童養護施設という特殊性から現在、入居している双子の子供の顔と以前、入居していた双子の顔も朧気ながら思考の中に入ってくるが、ママぁの、という部分から相当、年上という事が推理できる。
マカリオイという言葉が出てきたのが彼方の思考を一気に固めた。マカリオイとは失踪前の楽器職人、桜菜林檎の最期の作品である天使の声というコードネームが付けられた楽器の試作品だと彼方は母、蜜柑から聞いた事がある。
頭の中に母、蜜柑が昔、彼方よりも六つ年下のゆめちゃんっていう可愛い女の子がいるという事と、今度連れてくるという事が残っていた。だが、果たされる事はなかった。林檎の仕事が忙しくなったというゆめを守るための嘘情報に彼方の従妹、桜菜柚芽は心を閉ざしてしまったからだ。
「君が柚芽ちゃん!」
「彼方、ですから運転手に馬鹿ですわね、あのお客様方はって思われてしまいますわ。静かに、です!」
「すみません」
「謝罪、いらねぇぞ。そんより、続き」彩夏はぶっきらぼうに手を中空に向けて前後に振る。「ほら、続き」
「急かさないでよ。桜菜柚芽って名を聞いた時、思い出さなければならなかったんだ。母、黙っていたな。ふわりと僕は従兄妹だって事をね」
彼方はふわりをお気に入りの縫いぐるみのようにぎゅっと抱きしめた。ふわりの愛らしさが彼方自身の肌にまで伝わってきそうだ。いや、伝わってきている。嬉しくて頬がどうしても緩んでしまう。涙が零れてしまう。
彼方の頬に伝う涙をふわりは甲斐甲斐しく、小さな舌で舐め取る。くつぐったい。
「ままぁ、ままぁの味がするにゃん」
「そんなの忘れんじゃねぇよ、お前はギャルゲーの主人公か?」
「すみません。でもね、僕は林檎さん、叔母さんの話を数えるほどしか聞いた事がないんだ。林檎さんの事を言う母は……時々、悲しい目をしていたからね」
「ママぁは最高の楽器を生み出す事に夢中だった。セラフィム。今、何処に?」
林檎の死を思い出して目尻を押さえながら、嗚咽混じりに話した楽譜の柚芽とは対照的に彼方の膝の上に座りつつ、動物の鳴き声の真似事に興じる少女の柚芽。二人とも、何処か、綿飴のようにふわふわした甘さとすぐに溶けてしまう儚さが同居しているのを彼方は感じた。それが居たたまれない程の苦痛を内から外へとじわじわと彼方を痛めつける。
彼方は知っている。片割れの柚芽が消えてしまう事も、片割れの柚芽が決して普通には成り得ない事も。
柚芽と柚芽が異口同音に口ずさんだ。それを優しく、大切に、愛おしく……
「セラフィム……」
二人とも何処か、違う場所を見つめていた。
「どんな楽器だろうね、彩夏さん。僕は吹けないけど、トランペットが良いな」
自身の感情を誤魔化すように一番、大雑把で……けれども彼方の事を殺人犯の娘の勘とか言って、海の事を全て見通している空のような存在である姉貴分に話を振る。
「多分、ペット。良いだろうよ、それで」
予想通り、軽いノリで彩夏は言葉を投げ返し、丁度、ガタンという雑な音と共に停車した路面電車内を足早に後にする。今のお前の心情では話を構築する余裕ないだろう、ついて来いよと男の彼方よりも背の高いほっそりとした背は語っていた。
「あ、彩夏さん! 団体行動を乱さないで下さい」
彼方は遠ざかる彩夏の背中に向かい、弾んだ声を発した。
柚芽を通学鞄に仕舞い、右手に通学鞄と希望新聞を持ち、左手でふわりを支えて胸に押しつけながら、その背に向かい走り出す。
路面電車を出ると草薙村とは別世界だった。スーツ姿に身を包んだサラリーマンやOLが忙しなく歩道を闊歩していた。傘のように背の高いビルが彼方達を見下ろしていた。いつも、彼方達はこのビル群に対して圧迫されたような息苦しさを感じているのだが、地元が希灯市という同年代の学生はどうやら違うようで気にしすぎと口々に言っていた。そんな地元の学生と各地の村から来る学生も混ざってしまえば区別がつかない。丁度、彼方達の全方を通過する学生服をきっちり着込んだ学生のように。
彼方達もそんな人が作り出した風景に紛れてゆく。人々の波に加わった。
背後では路面電車がけたたましい音を立てながら、ホームから出発した。その騒音に負けずに人々の声は声という特性が識別不可能な程、混ざり合っていた。
「ばぁか、餓鬼かよ。こっちは社会人なんだよ。こっちは都堂の御菓子の新作会で来ているんだよ」
思い出したように彩夏が反論した。
御菓子の新作会という事は今晩、いつものようにふわりに新作の御菓子を持ってくるんだろうなぁと朧気ながら、ふわりが両手で御菓子を懸命に食べる映像が頭の中に浮かんできた。綿飴なのは何故だろうか……。
「平凡胸、セラフィムがトランペットだと何故、わかった?」
通学鞄の中から柚芽の声が聞こえた。小さい子特有の高い声はよく通るようだ。
セラフィムについてはとある事件とあの人との繋がりを考えれば容易に想像できるが、彼方はそれを作り笑顔の内側に隠した。
「偶然だよ」
「パパぁの左目で」
左目の事は道中、柚芽にも説明した。柚芽は驚くことなく、私が見えるのは左目のお陰だねと感想を漏らしていた。普通ではない事が、柚芽はファーストフード店で食べ物を注文する気軽さで、今も左目に言葉で触れていた。
彼方はコンビニエンスストアの燃えるゴミと表示されたゴミ箱に希望新聞を何度も折り畳んでから捨てた。ふわりがゴミ箱の穴に腕を突っ込もうとしていたが妃那に腕を掴まれる。
「断るよ。僕は人の本質に触れたくないんだ。君が思うほど、楽じゃない。本当に触れるのってね」
彼方はそれ以上、柚芽とは言葉を交わさずに希灯高校へと急ぐ。ふわりの温もりを左手に感じながら。
そう、この温もりだけが普通とメルヘンな世界とを繋いでくれる一筋の光明なんだ。
ふわりの頬と彼方の頬が重なり合う。温もりを決して逃がさないように。
<三>
放課後の熊部の活動を無断欠席してふわりの手を引きながら草薙村へと駆け足で帰ってきた。途中、何度もお茶でもしていかないか? と村の老人達に誘われたが、急いでいた為、丁重にお断りした。気さくな老人達の誘いを断るのは心苦しいものがあったが、今の彼方にはそれ以上に重要な確認事項があった。
世界一むかつく坂と彩夏が勝手に命名した急坂を登るが、ふわりが途中、バテて座り込んでしまったので、おんぶして希灯児童養護施設の扉を開けた。
扉の音と共にふわりの寝息が聞こえた。どうやら、相当疲労していたようだ。表情に出さない子であるが、笑顔は夏の向日葵のように目立ち、小さな母性という異彩を放っている。彼方の背中を無意識にぎゅっと掴み直しているのがこそばゆい感触から伝わってくる。
彼方は長椅子に腰を掛け、ふわりを縫いぐるみのように膝の上に乗っける。持ってきたクリアファイルはすぐ側に置いた。
舞台にずらりと並ぶ小さな少年少女達。その中にふわりの友人である深田あけな、国枝澄。お兄たんと彼方の事を慕う御名下ぷりんもいた。幼稚園児、小学生、中学生、高校生の順で前から並んでいた。女子は白いワンピースを身に纏って、男子は白いワイシャツと白いズボンを履いていた。
すぅーという息を吸い込む音が一つとなって聞こえる。
子ども達は母、蜜柑の指揮棒の合図で自らの声帯を楽器にして奏でる。
伸びやかに何処までも伸びるぷりんの声を主旋律として、他の子達がその土台を作るように声を幾重にも重ねてゆく。まるでショートケーキのような関係だ。苺であるぷりんを引き立たせる為に生クリームである女子の元気な歌声、スポンジである男子のどっしりとした声といった構成だろうと彼方はショートケーキを思い浮かべた。特にあけなが自分に可能な限りの音域以上の音域を出そうと顔を真っ赤にして歌っている。だが、その顔は苦痛が滲み出ている様子はない。汗を滲ませながらも何か、一つの事柄に追求しようという一種の職人気質を持った厳しさと探求する事の楽しさの笑顔が垣間見られていた。他の子達も同様の笑顔を放っている。その笑顔は彼方には眩しすぎた。
逃げてしまった。
激しい痛みを感じた。その痛みは少年少女の歌を耳に入る度に不安へと変換されてゆく。その不安は自分が待ち望んでいたものでもあった。
奏でたい。奏でたい。
マウスピースに触れる練習しか彼方はしていなかった。それは練習ではない。ただの惰性だ。子ども達の生き生きとした表情を見て、省みた。
生み出そう。自分の音楽を!
左手で掴んでいた楽譜を入れたクリアファイルに視線を送った。左手は震えていた。
「トランペットを捨てたトランペッターに生きる術はない事に気づいたようね、パパぁ」
トランペットだけではなく、金管楽器、木管楽器、打楽器、全てを高校生以上の実力で操る桜菜柚芽の言葉は彼方の意志に強く刻まれた。
「大丈夫、パパぁ」甘いオレンジジュースのような舌にとろける声を聞いた彼方の背中に急激な寒気が襲って、「柚芽様が教えてあげるから、この世に存在する全ての悠久に吹き荒れる音の断片を、ね」
普通とは尤も、縁のない少女―柚芽が大人びた口調で確信を持った意志の認められる言葉を放った。その言葉は信じるに値する魔法が含まれている気がした。
しばらくすると、希灯芸術祭の稽古は終わり、少年少女は舞台の上で思い思いに喋り出した。そんな一団の合間を縫うように小さな物体が這い出た。小さな物体―御名下ぷりんは彼方の瞳が合うと顔を赤面させてはにかんだ笑みを浮かべた。
ワンピースに付いた埃を両手で払い、舞台から飛び降りた。
「お兄たん、だぁ! レッドパンチ」
直ぐに彼方の方へとやって来たぷりんは彼方の肩に何度か、拳を入れた。ぷりん的には本気だったのかもしれないが、彼方にとっては気持ちの良い肩たたきだ。利いてないと判明するとぷりんがすねてしまうので一応、偽苦痛に顔を歪ませ、お決まりの言葉を口にする。
「うぎゃあ、やられた。元気だね、ぷりん」
その台詞を聞いた瞬間、ぷりんはそうでしょ、そうでしょと言うように何度も頷き、奇声を上げた。戦隊ヒーローモノの正義の味方側であるレッドにでもなったつもりなのだろう。
「ふわっちゃんは……」彼方の膝を枕にして気持ち良さそうに胸を上下させて、深い呼吸を繰り返しながら寝ているふわりを物欲しげな表情で見つめる。「寝てる、ずるい。ぷりんも寝ます」
ぷりんはふわりを両手で押しのけて右膝に自分の枕を確保すると、彼方の許諾も無しに早くも寝てしまった。
彼方はぷりんとふわりの寝顔を交互に覗き込み、溜息を吐く。そして、二人の髪をゆっくりと撫で上げた。
本来ならば……二人ともこんな悲しい場所に居てはいけない子達なんだ。けれども、今は。
「優しいですね、パパぁは。子どもは自分で居場所を決められない。だから、その苦しげなお顔は子ども達にはどうか、見せないで。笑ってあげて下さい」
「うん、そうだね。柚芽の言う通りだ。ここは始まる為の場所なんだ」
クリアファイルの中にいる柚芽の意外な大人びた言葉に目を丸くしたが、柚芽の言葉を肯定した。
少年少女達は片付けを終えて、それぞれのペースで舞台から降りてゆく。その一団から外れるようにして母、蜜柑と御菓子大好き少女である深田あけなが談笑をしながら歩み寄ってきた。
「お兄ちゃん、どう?」
伏し目がちに彼方の様子を窺っている。
彼方は顎に触れて少し考えているという仕草を取ってから答えた。
「あけなちゃん、歌詞間違えたでしょ? 本番は楽譜無しで観客にお花を渡しながら歌うんだろう。頑張れ」
「うん、頑張るよ」とあけな。
「あら? 早いわね、彼方ちゃん?」
彼方の姿を発見するとすぐさまに掛けより、蜜柑は抱きつこうとした。だが、唾液を彼方の膝に垂らしながら寝入るぷりんとふわりの顔を一瞥して硬直した。そして、いやらしい微笑みを浮かべた。
きっと、母の事だ。それをからかう方法でも思い浮かんだに違いない。その前にここに来た目的を果たすべく先手を打つ。
「黙っていましたね、母。ふわりの事」
いやらしい微笑みが一転して、蜜柑はいたずらを叱られた子どものような笑みを浮かべた。ついでとばかりに真っ赤な舌を出す。
「ばれちゃいましたかって、露骨に表情に表さないで下さいよ」
「だって、だって、言ってしまったらふわりちゃんがうちのお嫁さんになる確率ががた落ちじゃない。いざ、結婚っていう時になったらそんなの障害にならないでしょう。愛がふわりちゃんを救うのよ」
後方であけなが拍手をする。
「偏った愛の理論を展開しないで下さい、母」蜜柑の意見に賛同しているのか、悪乗りしているのか、と二択があるならば確実に後者であるあけなに叫ぶ。「そこ、拍手しない!」
彼方の声にびくっと子猫のように身体を仰け反らして、ぷりんは不愉快と言わんばかりに目を擦る。彼方を円らな瞳で見つめた。
「お兄たん、動いたら駄目。ぷりん睡眠不可」
「すみません」
ぷりんの言葉にまたもや、反射的にお辞儀をする。
今が話を逸らす機会だ。蜜柑は彼方の額に小指で触れて、わざとらしく片手で腹を抑えながら爆笑の声を上げた。だが、顔がそういった類の顔ではなく、真剣が顔に張り付いているような無表情だ。
「ちびっ子にも弱いのね、彼方ちゃん。でも、気にする事無いのよ。その方が萌えるじゃない?」
後方であけなが深く頷く。
「偏った萌え論を展開しないで下さい、母」明らかにこいつはこの展開を楽しんでいると丸解りな頷きをしたあけなに叫ぶ。「そこ、深く頷かない!」
「誤魔化しきれないようね。何処まで知っているの? 彼方ちゃん?」
蜜柑の表情は少しも笑っていなかった。ただ、悲しみだけが心の中に居座っている。なんて、希望のない表情なのだろうか? と疑問に思う心を静めた。そして冷静な面持ちを築く。そうする事が一種の礼儀だ。
蜜柑に説明する前にまた、彼方の膝枕で眠ろうとするぷりんの輸送をあけなに頼む。あけなは私も聞きたいという剥き出しの興味を示すが、彼方が指で一という数字を表す。するとあけなは毎度あり、と言ってぷりんをお姫様抱っこしてそのまま、輸送した。
彼方は朝の出来事からここへ、辿り着くまでの事を簡単に蜜柑に説明した。蜜柑は質問を交えつつ、彼方の言葉を吸収してゆく。
「なるほどね、楽譜の柚芽ちゃんに彼方ちゃんのお嫁ちゃんな柚芽ちゃん。せっかくばれないようにふわりちゃんって改名したんだけどなぁ、ちぇ」
クリアファイルから解き放たれた楽譜の柚芽のおでこに蜜柑は触れた。蜜柑には柚芽の姿が見えていない。正確には楽譜に触れたというのが正しいだろう。
一方、柚芽は蜜柑の顔を細部に至るまで記憶するように魅入っていた。
「ママぁ! 私、柚芽よ!」
「違うんだ。柚芽のお母さんのお姉ちゃんだよ」
クリアファイルの上に座る柚芽に言い聞かした。だが、柚芽は激しく首を振る。
「そんなぁ。じゃあ、柚芽のママぁは?」
「それは……」
答えられるはずがない。沈黙を守るしかない。彼方の表情は沈痛な顔立ちとして、肌色を濃くした。期待という淡い希望が柚芽の顔からも奪われてゆく。いや、彼女は知っていたのだろう。最悪の可能性しか考えられないと。
それでも希望を肯定できる強さを僕は持つ事ができるのだろうか?
できないと両目をぎゅっと、瞑る。目が痛くなった。目を開けると視界がぼやけているという認識と共に浅く、深い痛みを感じた。
柚芽は彼方を親の仇のように凄んでいた。
「彼方ちゃん、柚芽ちゃんなんて言っているの?」
震える手でクリアファイルに挟んできたシャープペンシルを強く握り締めた。シャープペンシルという存在を握り締めているという感覚が心に粘着している。今までにはない事だ。
ゆめのままぁは?
とミミズののたくったような字で大きく、クリアファイルの蒼い表紙に書いた。
その言葉を見開いた両目でしっかりと認めた蜜柑は眉間に皺寄せた後、文字を自分の視界から留めるのを嫌がるかのように視界を逸らした。
「死んだのよ」
言葉にするたったの数文字で済んでしまう事実に彼方達の周囲の空気が凍った。
柚芽は低い唸り声を上げながら、蛍光灯の光を自ら浴びる姿勢で叫んだ。
「ママぁは! 柚芽のママぁは九年前からお仕事で出かけているはすだよ。あいつが言っていたもの。セラフィムを完成させる為の資料集めだって」
言葉を言い終えて浅い呼吸を小さな胸が繰り返す。まだ、言い足りないと柚芽の唇が何かを吐き出すように痙攣している。柚芽の回復を待たずに、優しい微笑みを浮かべながら蜜柑が反論する。
「嘘じゃない。九年前に桜菜林檎は金銭目的で昼下真名に殺害―」
「母! それはあんまりだ!」
彼方の心には二人の柚芽の境遇が一瞬間、瞬いた。過去の自分を取り戻せない脳を損傷した柚芽、人として続く未来のない柚芽。真実を知る事が正しいなんてドラマや漫画、アニメの受け折りだ。欺瞞だ。
本当の痛みを見てきた。
児童養護施設の前に捨てられていたぷりん。彼女は彼方を見つけた後、指を自分の口に入れて、ままぁが待ていてねって言ったの、と彼方に無垢の微笑みをくれた。ぷりんの頭には雪が降り積もっていた。それでも、子羊は微笑んだ。微笑んだのだ、目には見えないままぁに。
本当の闇を見てきた。
知り合いの音楽の先生から引き取って欲しい女の子がいると手紙を貰い、代理で彼方はその音楽の先生の家を訪ねた。音楽の先生は教え子だった深田あけなを引き取ったのだが末期ガンという診断を先月、受けて断念せざるを得ないと言っていた。だが、本当の彼はせいせいしたという表情を浮かべていた。あけなは奥の座敷で、父さんが叩くから……殺したんだよ、と何度も叫んでいた。子栗鼠が精一杯、背伸びして叫んでいた。
本当の絶望を見てきた。
両親の事業が不況の煽りを受けて頓挫して、両親の首吊り死体の最初の発見者となった国枝澄は両親の遺産を親戚に毟り取られて、友人の父親の紹介で児童養護施設にやって来た。当初、澄は俯きながら勉学に励むだけの子だった。知識だけが信じられると口癖のように言っていた。でも、子兎の瞳からはいつも、涙が溢れていた。
本当の卑怯者は見てきた。
彼方は母、蜜柑を初めて、睨み付けた。それに相対する蜜柑は残念そうに首を振る。
「彼方!」
蜜柑の凛々しい声は白い壁に突き響き、彼方の胸を打ち抜いた。動揺する彼方を前にして、蜜柑は話を続ける。
「真実はいつか、知らなければならないのよ。どんなに残酷な真実でもね。彼方ちゃん、何で私が施設を立ち上げたか、わかる?」
彼方に質問をするが、彼方自身の中に答えを見出す事は適わなかった。仕方なく、首を振る。
仕方ないわねと、今にでも言いそうな溜息と共に蜜柑は話を再開する。
「この世は絶望に満ちているからよ。だから、一筋の光りになりたいのよ。例え、偽善でもね」
もっと、大人になってから真実を受け止めれば良いだろう? と言おうとする口を彼方は咄嗟に塞いだ。
母には嫌われたくない。
「昼下真名に殺害。その後、前日に完成していたセラフィムを持って逃走。セラフィムの行方は未だに解らないわ」
「ママぁ、ママぁ」柚芽は未だに母、蜜柑をママぁと呼び続けた。「昼下彩夏。あの平凡胸の母親?」
鼻をひくひく動かしながら柚芽は彼方に問う。彼方はその言葉を忠実にクリアファイルの蒼い表紙に書き殴る。
「そうよ」
迷わず、蜜柑は断定した。
「柚芽、あなたの母親を殺した女の娘が直ぐ近くにいるのよ。許せると思う?」
彼方の膝の上に頭を載せて気持ちよさそうに深い呼吸を続けるふわりに柚芽は囁く。その囁きには何処か、鋭さが籠められていた。
「言う必要なかったと思う……」
彼方はぼそりっと俯き加減に言った。
「受け止めなければ、あの子は前に進まないわ。彼方ちゃん、それはあなたも、よ?」
「僕は逃げてないですよ」
ぼそっと言った。
「そうだと嬉しいわ」
その言葉とは反面に思い詰めた表情を彼方にわざと見せているようにも思えた。
ずっと、逃げている。
彼方はその表情から逃げるべく、慌てて話題を変えた。
「母、セラフィムって? 天使の声だよね?」
「彼方ちゃんには詳しい事を教えていなかったね。まずはおさらい、天使の声の試作品は四種類存在する。トランペットであるマカリオイ、フルートであるファーブル、サックスであるソシュール、ホルンであるシュタインという四種類が存在しているわ。それらの利点を踏襲したのが、セラフィムと呼ばれる大量生産を無視した一点もののトランペット」
「ママぁのセラフィムがトランペット。セラフィムは柚芽への贈り物っていう事なの、ママぁ?」
柚芽はどんな心境で今、自分の母親の姉を自分の母に見立てているのだろう。そう考えると胸が痛んだ。
その感慨を胸に閉じこめるように嘆息し、
「そうなの?」
「そうよ。セラフィムはいつか、プロになった柚芽が使用する為に作られた愛の籠もった素晴らしい楽器よ。マカリオイをベースにして作られているから、温度の変化には左右されない安定性を持っているわ。他の三種については私も話しに聞いただけだから解らないわ」「ママぁ、けど! セラフィムは何処にもないよ」
悲痛な声が部屋中に響いたが、蜜柑には当然、伝わらない。通訳を早くと彼方の方に首を向ける。彼方はクリアファイルにまた、柚芽の言葉を綴る。綴りながらもセラフィムは彩夏がまだ、持っているのではないか? という可能性があることに気づく。いや、確信した。昔、彩夏が言っていた。林檎から音楽を教わったと。
ならば、セラフィムを何らかの形で手に入れても不思議ではない。
また、誰かの表情が偽りの度合いを増す?
そんな言葉が思考の湖に一滴、落ちた。みんながかつてはふわりのように偽らない表裏のない動物だった。それが社会に溶け込む為の階段を上る度に表情は表と裏に別れた。
唾が止め処なく、囁く。恐れているのか?
真実はいつか、知らなければならないのよ。どんなに残酷な真実でもね。
真実? そう、真実は何にも変えられない。だから、逃げてはいけないんだ。
この世は絶望に満ちているからよ。だから、一筋の光りになりたいのよ。例え、偽善でもね。
僕は、僕はなれるでしょうか? という疑問から発する甘い蜜柑のような痛みを堪える。ふわりの身体を抱きしめた。ふわ、ふわとした金髪が彼方の肌に頑張れというメッセージと熱を常に与えてくれた。
なれるだろうか? ふわりを守る存在に。甘え合う存在ではなく……。
「母、僕出かけてくるよ。セラフィムを取りに」
「やはり、そうなのね」
蜜柑も内心、確信していたように頷いた。それを受け取り、彼方はふわりを蜜柑に差し出す。ふわりを両手で抱きかかえて、
「ふわりを連れて行かないの?」
「逃げるわけにも。立ち止まるわけにも行かないんだ。僕は歩き出さなきゃ! ずっとふわりを助けて、生きてゆく為にも」
「そう、けど……ふわりを!」
「心配しないで」
掠れるような彼方の声の後には、彼方の慌ただしい足音しか部屋には響かなかった。何もかもが音を失っているようだ。
<四>
世界一むかつく坂をママチャリで下る。夜風が酸素を明け渡せない速度まで、一気に加速してゆく。疲労からくる心臓のざわめきとは違う芯から、自分の違った一面に染まってゆく鼓動が聞こえた。暖かな一筋の電灯の輝きが、今は心許なかった。
ふわりといれば、暗い舗装されていない道も垢抜けた灯火に満ちた道になるだろうという確信が、彼方の心に振り下ろされる。その度に引き返して、ふわりを荷台に載せて行けばいいという邪魔な感情が沸々と滲み出た。
やがて、電灯さえもない真っ暗な道に入る。ハンドルに取り付けられたライトのスイッチを持ち上げた。だが、一寸先の光景を肉眼で捉える事は適わなかった。ライトの何処かが故障しているようだ。
左右には竹藪が生い茂っていた。その下は人が歩行困難な斜面がある。想像はしたくないが、さらに下ると海面行きだ。彼方は想像を振り切るように、力強くペダルを踏みしめた。そして、漕ぐスピードを増してゆく。
思った以上に加速度の向上に顔が緩む。緩んだ瞬間、ガクッという鈍音と共に後輪から空気が抜けてゆくのを、ハンドルを通して身体に伝わってくる。まるで快速列車に乗っていたのに普通列車だったという薄れた期待感が全身を包み込んだ。仕方ない。ここからは歩いていこうと彼方は思った。
だが、見ていた暗闇に浮かぶ茶色い地面が急速に目線へと近づいてゆく。それと同時に景色が著しく横向きへと変動する。正面が竹藪である事にふと、気が付く。
「危ない! 減速!」
叫びも虚しく、ハンドルに備えられているブレーキを強く握り締めたが、妙な弾力に絶句した。何度、試してみてもブレーキはその役割をストライキしているかのように言う事を全く聞こうとしない。その間にも竹藪との距離は縮まり、とうとう……零になる。
容赦なく、立派に育った竹が彼方の自転車の籠を襲い、その衝撃で彼方と自転車とは離れ離れになる。自転車の籠は無惨にも凹んでしまったが、竹に背中を押しつけてそれ以上、落下することは免れたようだ。
母にふわりと遠出するのに使いなさいと譲り受けた母の愛車、カトリーヌは救出を待てば生還できるだろう。
「僕もカトリーヌと同じ」彼方は竹を探そうとするが、今は自分が転がっている事にはっと気づいた。「ねぇよ! 死んじゃうよ、嫌だ! 嫌だ!」
運の悪いことに柔らかな土の上から身体は突如として解放されて、冷たい海の中に放り出された。塩辛い水が酸素の代わりに、口の中に容赦なく入る。沈まないように必死で手足をばたつかせる。
「まだ、死ねるか! ふわりとずっと、一緒に暮らすんだ!」
水面に顔を出しながら、藻掻く。
死にたくはない。誰だって死にたくはない。人として当たり前の生存本能が恐怖を怒りに変えてゆく。理不尽な怒りだと解っていても、今の境遇に激しく嫌悪感を覚えた。それに屈するものかと叫ぶ。
「死にたくない……」
それも長くは続かなかった。足にぴりっとした静電気と接触したような微痛を覚えていた。それが徐々に足の感覚を麻痺させてゆく。足が攣った。
なんて、典型的な笑えないオチのような最期なのだろうと天を仰ぐ。天には彼方の不幸を嘲笑うように煌びやかな星々が白く輝いていた。
「なんだ。唐突なんだ。人の死って」
星に語りかけるように彼方は呟いた。
「ごめんね」
二人のふわり、二人の柚芽に謝罪した。それは届くことはないのかな? と思いながらも意識は遠のいてゆく。余程、今の展開が心に負担が大きいらしい。彼方自身はまるで映画を自分が離れた場所から、鑑賞しているような現実感の無さに包まれた。
意識が黒く塗り潰された。
<五>
「ままぁ。ままぁ!」
少女の声が聞こえる。どうしたのだろうか? 柔らかな絹を裂くような鳴き声と、その愛らしい小動物のような声には似合わない嗚咽を混じらせた声で、何を悲観しているのだろうか?
彼方はゆっくりと目を開けた。視界が真っ白く、ぼやける。焦点が定まらない。目を擦る。
白い霧の中からうすらっと現れたのは、彼方の初恋の人だった。両肩に朱色のリボンが付いたピンク色のパジャマを着ている丸顔の金髪少女の顔に両手で触れた。触れた瞬間、彼女は緩やかな微笑みを彼方に見せた。指先から伝わってくるふわっとした感触を食べてしまいたいくらいの憧れに胸を撃たれた。いや、それ以前から撃たれている。誰かの為に感情を惜しげもなく露わにして、お節介を焼きたがる彼女。ウィーンに滞在していた頃、他者の財布を持って逃げた強盗に対して先日、テレビのドラマで主人公が使った背負い投げを真似た投げ技をお見舞いして、事件を何食わぬ顔で解決したりしていた。今だって、整った睫毛を悲しみで濡らしながらも燦々と彼方を陽光の笑顔で照らしてくれていた。
この手で触れ続けていたのならば、イカロスの翼が溶けたのと同じように指先が溶けてしまうのではないだろうか?
そうじゃないよね、母。
「ままぁ、ままぁ!」
「え」
母、蜜柑だと思っていた人物の口からふわりの彼方に甘える声が聞こえた。予想外な展開に低い声が口から漏れた。
すぐに左目の眼帯を確認しようと、手で左目を覆った。だが、眼帯はそこにはなかった。少し苛立ちのような感情が芽生えたが、生きている事と天秤に掛けるとどう見ても左目の事など些細な事と思い直す。
雛の姿をした妃那が呆れた顔で彼方の頬に往復ビンタを食らわせる。
「彼方! ちょっとしっかりしなさい!」
「ふわり、妃那。なんだ、僕はもう……化けて出たんだね」
彼方が軽いジョークのつもりで言った。空かさず、妃那がもう一度、羽根を広げて往復ビンタをお見舞いした。
「おい、人の部屋で化けるのは止せよ!」
傷だらけの年代もののちゃぶ台の前に胡座をかいている狐、彩夏が戯けたように怒鳴った。
彼方より背の高い女性のように見えるふわりは彼方の頬を労るように触れるが、
「痛い!」
余計なお世話だった。
ふわりの労る心は子どもならではの好奇心に早くもシフトし、彼方の頬を指で何度もゲームコントローラーのように押す。大人の知性溢れた顔つきとはギャップのある行動に彼方は唖然とした。
びしょ濡れであろう変態的なまでに愚かな水玉色のノースリーブと白亜のスカートから、いつのまにやらさらに難易度の高いキャミソールに変わっていた。まさかと思い、彼方はスカート部分をそっと、上げると……ふわりとお揃いの女児用兎さんパンツがおはようした。
おはようございます、兎さんと力なく頭を垂れた。
「ままぁ、もう元気?」
「元気だけ……ど? どうして?」
まだ、頭が混乱していた。考えたくもないが普通の流れならば、自分の人生と理不尽極まりない溺死という理由でおさらばするのが必然だ。何がどうなったのか、人生というサイコロの目は意外にも良い目に落ち着いたようだった。
周囲を見渡す。相変わらず、あちらこちらにジュースの缶、コンビニのお弁当、アイスクリームのカップが散乱している。中身は既に無く、それらは何かの役割を持って機能しているわけでもなく、ただ放置されていた。それだけならば、彼方は辛うじて許容できる。いや、許容できるようになった。成長した。ふわりが年中、同じように散らかしているからである。だが、畳の上に使用済みのパンティーやら、ブラがあるのは流石に目を背けたくなる。実際は数が多すぎて目に映ってしまう。
現実だ。紛れもなく、現実だと思い知らされてしまう空間だった。
「彼方でもからかいに行こうってバイク飛ばしていたら、お前が転がってゆくのが見えて面白くて笑えた」
そう言い、今も腹を抱えて狐である彩夏は腹を抱えて笑い続けた。狐のふさふさ尻尾もお腹と連動するように震えた。
「ちょっと、僕、もう少しで溺れるところだったんだよ」
「溺れますの?」と真顔で妃那。
「溺れないだろう、浅いぞ。斜面っていてもしっかり、海まで転がって行けたろう? 芝生生えているから俺なんか時々、ダンボール持参で行って滑るんだよ」と彩夏。
「はぁ?」
彼方は情けない真実に首を傾げるしかなかった。オチまで付いているとは、何とも自分らしいと苦笑する。
「子どもの頃にお前もやった事あんだろう、一度はな? ダンボールに颯爽と跨り、芝生という名の荒野を駆け抜ける」
「随分とご機嫌ですね」
嫌みで言ったつもりだが、
「まぁなぁ。人の不幸はアイスクリームって言うだろう」
嫌みで返される。やはり、狐だけあって狡賢さは彼方よりも一枚も上手らしい。その彩夏は他人の不幸をゆっくりと堪能して満足したという恍惚な表情を浮かべた。そして、るーぷの方へと消えて行った。
ブラを頭に被ろうとするふわりから、ブラをそこら辺に転がっていた割り箸で摘み上げて放り投げる。ブラの行方を見つめていたふわりは悲しそうに目を細めた。
「僕はやはり、君無しでは歩けないのかな?」ふわりの蒼い瞳を瞬きもせずに見つめた。ふわりもそれに答えるように見つめ返す。「君も」
壊す勢いで襖は開かれた。開いたのは先ほど、るーぷの方へと行った彩夏だった。手にはお盆を持っていた。そのお盆の上には淡い緑色の液体の入ったコップが四つ、乗っかっていた。
「なぁに、ラブってるんだよ。ほれ、飲みもんだ」
「彩夏さん、これ? 粉ジュースですか」
綾夏という女性がいい加減だという事実を、彼方は優しい目で見守りたくなるくらい知っている。その綾夏は妃那が店の商品を食べるのを止めるように言っても、仕入れているのも、金を払っているのも自分だから問題ないと言って止める気配がない。その点からるーぷの御菓子だと考えられる。
「よくわかったな」
「独特のしゅわーって音が鳴ってますから解りますよ。懐かしいですね」
緑色の液体中に無数の泡が暴れているが、勿論、しゅわーなんて音がここまで届くわけがない。だが、彼方の相づちに彩夏は満足したようだ。顔の両頬が緩んでいる。
和やかなムードに慌てて、彼方の横から妃那が乗り遅れまいと言った。
「そ、そうですわね」
「飲んだことねぇーだろう、妃那?」
「ありますわ。しゅわーって鳴るんですの、よ?」
そう言いつつ、両手で円を描くように動かした。その動作は端から見れば怪しい人だった。それをじろっと横目で見た後、彩夏は溜息を吐く。彼方にはしょうがねぇ、完璧主義者という優しい幻聴が聞こえた。
綾夏はちゃぶ台に置かれた子どもと仲良しになる方法という本を押し退けて、開いたスペースに緑色のジュースを四つ、置く。
その側には彼方の眼帯があり、彼方は耳に掛けた。湿っていたが無いよりはマシだ。
「そういう事にしておきましょうよ、彩夏さん」
ふわりにジュースを手渡して言った。
「そ、だな」
「ところでお前、俺ん所に来ようとしていたんだろう?」
「どうして、解ったんですか?」
「お前」一度、言葉を詰まらせてから言う。「一辺、脳検査する為に本土に行ってこいよ?」
「彼方が竹藪を越えて、こんな暗い時間帯に行く場所はここ以外にはありませんことよ」
彩夏の言葉を補足するように妃那が後を続けた。
「なるほど」
「感心するな」「感心しない」
異口同音に左耳からは彩夏の鋭利な刃物のような声、右耳からは妃那のガミガミ声が聞こえた。とりあえず、愛想笑いをしておく。
「ままぁ? 感心しない?」
真似するふわりの姿も既に年相応の直線的な愛らしい幼女体型に映っていた。別世界からの生還の安堵感を持って、ふわりを膝の上に持ってくる。
「じゃあ、遠慮なく言うよ。セラフィムをふわりに、桜菜柚芽に返して欲しい」
「ねぇよ、そんなの」
さり気なく、目線を逸らせて彩夏は言った。
自ら、外すのを躊躇っていたはずの眼帯を力任せに取る。現れた黒一点の瞳に人間の本質を見る。顔に汗を多量に流している狐が目を逸らしていた。
もう、いい……。痛々しくて見ていられないと眼帯で左目を覆い隠す。
「僕に」言葉を押し殺すように、「嘘は通用しないんですよ」震える唇に不安を感じながらも言葉を切ってから、「彩夏さん」
「ままぁ、怖い」
笑いながらふわりは涙を流す。それは涙と言えるのだろうか。彼方さえも時々、思う。知らない人が見たら、喜と哀の感情どちらかが嘘だろうと勘ぐるだろう。事実、ふわりは小学校で嘘つきという渾名で呼ばれていた。それでもふわりは悲しむ事無く、にこにこ笑いながら机に向かって計算ドリルを解いていた。他の子達は談笑したり、折り紙をしたりしている中で。
それなのに、この人は嘘を吐くのか!
不条理、不整合な怒りの感情が内向的な炎に焼かれて限界点をすっ飛ばして、彼方に彩夏のるーぷと書かれただけの白いTシャツの襟を上に持ち上げさせた。持ち上げた一瞬間、女性的な白い肌と胸がちらりと視界に入った。
「僕に」淡々と強く、「嘘は通用しないんです」淡々と弱く、「彩夏」
「てめぇ!」
綾夏は充血した目で一部位も逃さず、彼方を視界に留める。唐突に拳を彼方の頭上に振り上げようとする。その拳を妃那が咄嗟に握り締めた。
「彩夏さん、暴力は!」
「なんでいつも、深い悲しみを持っているんですか?」
「人の心を覗いて楽しいのかよ!」
「答えになってませんよ」
水と油のような悪化するだけの堂々巡りだとしても退くわけにはいかなかった。彩夏の興奮した大声が響くのであるならば、冷徹とも読み取れる淡々とした口調で彼方は応えた。
「誰だって持っているだろうよ、こんな世の中だからな!」
こんな世の中だからな! という言葉が異様なまでに耳元でビブラートに聞こえた。
「彼方、お前」呆気に取られたように彩夏が彼方の目元を指さす。「ままぁ」陽光の中に生えるアサガオのような笑顔を浮かべたふわりの声は何処か、元気がない。「彼方、あなた」
珍しいものを見るように口元に両手を当てて驚く妃那を最後に彼方は自分に起こった異常に気が付く。
視界が霞む。彩夏のTシャツの襟を馬の手綱のように握っていた手に力が入らない。とうとう、手を下ろしてしまった。
頬を何かが爽快に何度も滑り落ちた。
ぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、畳にリズミカルな歌を歌った。
涙か。悲しいな。悲しいな。
「逃げるんですかぁ」
言葉を振り絞って出す。許容できないから、と彼方は自分に言い聞かせた。
自らの長年の逃亡という諦念を出す覚悟らしい覚悟をせずにすっと言葉は紡がれる。
「逃げるんですか! 確かに誰しも醜い顔を持っているけどね。それは現実という世界で生き続ける為に戦っている人々の尊い傷跡だ! 僕は、あなたを見てやっと気づきましたよ。恐れるべき人間はその傷と真っ正面から向き合わない愚か者だって、事に」
荒々しい息を口と肩も使って整えようと何度も忙しなく動かす。
その間に彩夏がぶきらぼうに言った。
「壊すんだよ、いつか、あんなもの」
「甘えないで下さい。それはあなたの傷でしょ? セラフィムは関係ない」
「彼方、言い過ぎ」
さすがに心配とばかりに妃那が口を挟んだ。
「すみ……」謝ろうと彼方は頭を下げるが、思い留まった。頭を上げて、「言わせて下さい」
そのように言ってから、キャミソールの肩紐を直し……。
ぷりん、ごめんね。
それから口を開いた。
「ぷりんは最初、雪の中で凍えるだけの子羊だった。けど、今は心から笑ってる。他でもないあの子自身が居場所を作った。彩夏さん、あなたには居場所がありますか?」
「居場所、なんか、ない」
「どうして、セラフィムを壊さなかったんですか?」
優しくゆっくりとしたふわりを叱る話法で問いかけた。
彩夏の頭の上に手を置いて微笑んで、
「居場所を失うからでしょ?」
彩夏の涙ぐんだ瞳と彼方の強く優しい瞳が見えない共感を通わす。彩夏の表情が和らいでゆく。
「もう、苦しまなくて良いんですよ。人を殺したのは彩夏さんじゃない。初めからない罪で雁字搦めにならないで下さいよ」
妃那は泣きじゃくる彩夏を慰めようと唸り声を上げながらも、自分なりのフォローを入れた。
「人殺しの子どもっていうだけで罪なんだよ、妃那!」
「例え、そうだとしても僕は彩夏さんの罪を許しますよ。多分、柚芽だって……」
そう言って置いていた手をゆっくりと動かし、彩夏の髪を優しく撫でた。されるがままの彩夏は彼方の言葉に嗚咽混じりな声でうん、うんと何度も頷く。
彩夏の少女らしい高い慟哭の響きだけが、少女らしくない物が散らかった部屋に反響した。それ以外は人の吐く僅かな呼吸音しか聞こえなかった。
空間の立ち直る余韻を与える間もなく、襖の向こう側から地を這いずるようなおどろおどろしい声が響く。
「許しません、許せるはずがないです。殺人鬼の血が通っているだけで罪です。嫌悪感さえ覚えます」
彼方はあまりの声の違いに固まったが、このように言う人物は楽譜の桜菜柚芽しか思い当たらなかった。だが、柚芽は歩行不可能なはずだ、と首を捻りながら襖を勢いよく開いた。
「やっほー! 元気かな、彼方ちゃん」
彼方が母、蜜柑を認めたと同時に場違いな明るい口調で喋りが耳に入った。蜜柑は彼方の無事を確認するように身体をあちらこちら、触れる。触れる度に少女特有の花の香りが容赦なく彼方の脳に押し寄せる。
金髪を後ろに束ねて、サンタクロースのような衣服を身に纏っていた。そんな幼女らしい可憐な服装も似合うと思った途端、彼方は両頬がガスバーナーで炙られているような熱を感じた。
自分は母に欲情するなんて病気なのかも知れない。それでも母を好きでいる事は止められない。そんな意味が自然と籠もってしまう熱い視線で蜜柑の吐息が吐き出される薄い赤いルージュに包まれた唇の動きを見守る。
蜜柑は彼方の口に小枝のような指で触れ、口元をだらしなく、緩めた笑みを浮かべた。
うわぁ、という情けない声と共に同様の波紋が心に響いた。
「隙在り、お邪魔しますねぇ。家庭訪問ってノリで行きましょ、行きましょ」
無垢さを保った瞳が彼方の身体をすり抜ける。
「謀られた」
蜜柑の両腕を掴もうとするが、空を掴んでしまった。
蜜柑が畳みの上に並ぶ感情を観察しているのに気が付き、目の赤い彩夏とどんよりした曇り空の妃那が会釈した。ふわりは散らかっている部屋の中から御菓子を発掘するのに夢中になっていた。既に七つの箱詰めされた御菓子タワーがちゃぶ台の上に形成されていた。
トランペットのベルのように両手を唇付近に添えて、蜜柑は彼方にしか聞こえないくらいの囁き声で呟いた。
「彼方ちゃん、大丈夫っていう雰囲気じゃあなさそうね」
そんな柔らかな母性的な心配する配慮を持った蜜柑の声とは対照的に、
「死ね! お前なんか死んじゃえ! パパぁ、そいつ殺してよ!」
ガキぽい喚き声が蜜柑のショルダーバッグから聞こえた。
犯罪者の娘だからと言って死を与える理由等、あるのだろうか? 感情論で全てを裁いて良いのであれば法治国家として成立しなくなる。だが……。
ショルダーバッグから目を離し、妃那から薔薇の絵柄のハンカチを手渡される彩夏に視線を移す。
だが、感情で万物を語りたがるのが人間なんじゃないのか? 違う。それも違う。理性があるから人間なんだ。
最低なヘタレ野郎だな、彼方。もう一人の冷静に自分を分析する理性という面の彼方が言葉の唾を彼方に吐き付けた。
それでも、不格好に笑って見せた。
「うん、良かったね。彩夏さん」蜜柑のショルダーバッグに向かって言う。「やっぱり、思った通り、彩夏さんには、罪なんかないってさ」
「パパぁ」切なげな声の後に拗ねた甘えの含んだ声で不満を跡付ける。「うむ、パパぁの意地悪」
ごめん。けどね、君はいずれ、消えるんだ。二者択一ならば、生き続ける方を僕は選ぶ。ごめん。優しくない大人だから僕は。僕が優しい子どもでなくてごめん。
心の中で何度も反復した。
壊れたオルゴールのように物悲しく反復する彼方を止めるように彩夏が言葉を紡いだ。
「彼方、セラフィムの所に案内する」
「お願いします、彩夏さん」彼方の誠意の籠もった言葉とタイミングを同じくして、柚芽が悪意の籠もった言葉を吐いた。「さっさと連れてけ、平凡胸!」
<六>
ふわりが蜜柑のショルダーバッグに無理矢理、箱詰めされた餅のように堅いポテトというスナック菓子を押し込んで入れようとするのを彼方が止めて、人のバッグに勝手に餅のように堅いポテトを入れてはいけません、と説教してから彼方達はるーぷを後にした。
数十分前に彼方が生死の境を彷徨った竹藪に囲まれた道を通り、登り坂を登って地元の人間さえもあまり来る事のない魔女が少年と結ばれた場所でもある黒眼山へと足を踏み入れた。黒眼山という名前の由来は魔女が彼方と同じように左目で人の本質である異形の姿を見通す力があったからだという言い伝えがある。そのような曰く付きの場所なのに人が足を踏み入れる事がないのは、希灯島の聖域と島民に解釈されているからだ。子どもが言う事を聞かないと、魔女様が黒眼山から下りてきてお前の姿を悪魔だって言いなさると脅す風習が色濃く残っているのも島という閉鎖的な環境の成せる技だ。
その技の通じない処か、喜んでままぁ、見て! と言うふわりの手を堅く握り締め、整備された山道にある階段を登ってゆく。
「足が滑るからな、気を付けろよ」
一番、先頭を歩いている彩夏が後ろを振り向いて注意を促した。
妃那はスカートの裾に触れて、この世の終わりとばかりに大げさに嘆く。
「こんな所、登るんでしたらこんな格好しませんでしたわ」
「うはぁー」
白い布が月明かりの悪戯によって彼方の目に飛び込んできた。
「見ないで下さる」
彼方を睨み付けてから、見下ろすような立ち位置で言った。
「すみません」すぐに彼方は頭を下げ謝るが、彼方のすみませんは一般の謝罪に比べて頻度が高いから信用ならないと思ったのか、妃那はまだ、彼方を睨んでいた。ふわりが何の意図もなく、「すみません、わぉん!」
大袈裟にお辞儀をして、妃那に駆け寄ろうとする。
「いいわ、ふわりさんに免じて許してあげる」
「にゃ、めぇ、にゃ、にあ!」
ふわりは自分の手柄に大はしゃぎするかのように突然、山道から外れてステップを繰り返し踊り始める。
可愛いなぁとほのぼのとした感情でふわりを眺めていたが、ふわりは足を踏み外して前のめりで倒れようとしている。両手に持っていた餅のように堅いチョコレートの入ったショルダーバッグを離す気配がない。
まずい!
そんな言葉を上げる暇もなく、
「危ない」蜜柑がふわりの脇から腕を通してそのまま、抱き上げる。「気をつけなさいふわりちゃん」
ふわりは抱き上げられた事が嬉しいのか、満足そうに動物の鳴き声で吠え続けた。
一同、一斉に溜息を吐き、込み上げてきた笑いをお互いの顔を見合って解放させた。
「こいつ、自分の貰う予定だった楽器が戻ってくる事に気づいているのかしら!」
ふわりに対する愛情を含んだ怒鳴り声がショルダーバッグから聞こえてきた。
ふわりの事を嫌っている癖にやっぱり、自分自身を嫌えないらしい。
「気づいているわけないか、今もこいつ、嫌い」
前言撤回、やはり……同族嫌悪という感情でもあるのか、と彼方は首を傾げた。
しばらく進むと階段は途切れて、明らかに人工的整然さが目で認められる砂利道へと足を踏み入れた。砂利道を歩く度に心地の良い石と石が擦り合う二者の語り合いの音が奏でられる。
ふわりはその音が面白いと思ったのか、定かではないが……蜜柑の腕を抜け出して軽やかに踊り出す。耳をすませて聞くとそれが曲のようなリズムを持っている事に目を見張った。
オルゴールのようなか細く、何処か切ない曲。チェロが主旋律に加われば、切なさにいっそう、花を添えてくれる事だろう。
「筋肉おばちゃんからるーぷを譲って貰っただろう?」
「そうだね。その筋肉おばちゃんと関係が?」
筋肉おばちゃんは希灯島の生き字引とも言われた百十歳で去年、この世と今生のお別れをした優しい全身筋肉が名刺代わりのおばちゃんだった。彼方は彼方様、ふわり様とはいつご結婚なさるんですか? と本気で詰め寄られた思い出が頭に浮かび、苦笑いした。
「筋肉おばちゃんの別荘なんだよ、こんから行く場所がさ」
彼方達の前方に突如、古い青い色の瓦屋根の日本家屋が飛び込んできた。瓦屋根はここ数年、手入れされていないらしく、枯葉が積もっていた。木々に囲まれて月明かりが完全に遮断されている為、その様相はお化け屋敷そのものだ。友人に連れられて来なければ絶対に入室しないであろうと唾を飲んだ。
<七>
暗い中を手探りで彼方達は長い廊下を歩いてゆく。普通ならば、玄関近くに電気をつけるスイッチがあるだろうという文句を自分の中に押し込んだ。
何か、粘着質のあるものが指先に絡みついた。
「うぁ、なんだ、これ! 早く、明かりを彩夏さん!」
「うるせー、ヘタレ。明かりつけるぞ」
彩夏が肘でスイッチを押す。
待ってましたと天井の幾つもの裸電球が頭を輝かせた。彼らの放つ光によりようやく、自分の指先に絡みついたものが蜘蛛の糸だと知り、彼方は顔を顰めた。
廊下の左右の壁には若い女性の写真が幾つも飾られていた。それぞれ全体像を撮影したものであるが、服装が異なっていた。ある者は忍者の黒装束、ある者はガウンを身に纏っていた。ある者はスクール水着。ある者は喫茶店のメイドさん、執事さんなんていうパターンもある。
恐ろしく不条理な蜘蛛の糸が付着した写真達。
笑いたくて仕方がないのか、顔を引き攣らせて妃那が彼方の側に寄ってきた。彼方は愛想笑いを浮かべた。
「みんな、見事なまでに筋肉おばちゃんに似てますね」
「恐ろしい一致ですわ」
遺伝は恐ろしいですね、と彼方が言葉を返そうとした時、先を急いでいる彩夏がさも、当然のように言う。
「それ、筋肉おばちゃんのコスプレ写真だ。だから同一人物」
そう言った瞬間、ふわりがままぁ、妖怪が沢山わん、と叫び出した。彼方のキャミソールのスカート部位にしがみつく。さながら、コアラだ。
「ふわりが怖がってますよ」
「彼方ちゃん、本当に怖いのは人間なのよ」
蜜柑はへんてこな顔つきで指を銃のように見立てて、バーン! と撃った。
彼方は白けたが、
「そうですね」
「あら、あら? マジに受けちゃったの、彼方ちゃん。恐がりね。でも、母が包んであげるから安心よ」
「そう、そうですか、その時は宜しくお願いします」
背後から蜜柑に羽交い締めされて、彼方は苦痛に顔を歪ませるが、爽やかに応えた。
彩夏と妃那は立ち止まる事もなく、ぽかりと淡い光を嫌うように暗闇が口を開ける階段へと吸い込まれて行った。彼方も蜜柑を引きづりながら階段へと急いだ。
階段の構造は至ってシンプルな木製だ。ただ、狭いため、壁と壁の間に階段が存在しているという随分と使い手の悪い窮屈な階段だ。
長い間、使われていなかった為か、先頭を行く綾夏と次に歩いた妃那の靴後の部位は肌色をしていて、その周辺は片栗粉が塗したような白だ。
「何処まで降りますのよ」
妃那が不満を臆することなく、漏らした。
無理もない。階段を下り始めてから数十分は経過している。埃ぽい空間のせいか、誰もが時折、咳き込んでいた。
「後少しだ」
と彩夏が応えた。それからさらに数分後、鉄製の扉が彼方達の前に姿を現した。あまりに暗闇と同化していたので、彩夏が懐中電灯を当てるまで、道が続いているという錯覚に陥るほどだった。
彩夏が扉を開けて、それぞれ順に部屋の中に入る。
そこは異質な空間だった。
無数の等身大の人形が置かれていた。その人形達の服装が同じウェデングドレスという異様さには全員が絶句した。それぞれ、人形が持っているブーケの花は種類が違う。クローバー、雛菊、向日葵、桃、薔薇といった何の脈略もない造花に何の意図があるのか、と彼方は首を捻った。
その中央には真っ白な棺が置かれていた。その周囲の左側に熊の縫いぐるみ、右側にライトノベルの挿絵にありがちな小さな女の子を模倣した縫いぐるみが整然と置かれていた。
悪趣味だと思いながらも彼方は目で誰が開けるのと、みんなの顔を見回した。妃那は当然とばかりに顎を上に動かす。お前だとその仕草で意見し、彩夏も悪ガキのような笑みを浮かべて彼方の肩を叩いた。母、蜜柑に助けを乞うとしたが、頑張れと声を出さずに口を動かしていた。
そんな中、ふわりだけは彼方の手を握り締めて、後退りしようとする足にめぇ、なのにゃん、と言っていた。楽しそうに見えるが、内心では怖いと思っているに違いなかった。
よし、と自分のヘタレ虫を退治する言葉を心の奥底で吐き、棺を勢いよく開いた。
そこにあったのはエジプトなんかでありがちなミイラではなく、
「あ、トランペット!」
真っ白いトランペットだった。トランペットが羽毛の中に埋もれていた。そのトランペットのベルには美しい少女が描かれていた。ふわりに似た小さな少女が描かれていた。多分、桜菜柚芽なのだろう。この楽器は母から娘への最後の贈り物なのだから。
羽毛の中に手紙が混じっている事に気が付いて、見開く。
「そんな、そんな。そんなのって……」
低い稚拙な言葉が口から溢れてくる。
桜菜林檎という人物を僕は誤解していたのか?
「間違いない、パパぁ。あれがセラフィム!」
背後から聞こえた柚芽の声に咄嗟にふわりのパジャマのポケットに手紙を押し込んだ。ふわりはきょとんとしていたが、紙を預かった事に喜んでいた。
繕うように彼方は呟く。
「セラフィム」
「ええ、実物は初めて見るけど、林檎らしい異質なデザインね」
近づいてきた蜜柑が感心したように言った。蜜柑のショルダーバッグにいる柚芽もうむ、と声を出して喜ぶ。
手紙の事はばれていないことに彼方は安堵の溜息を吐く。
彩夏はセラフィムを両手で掬い上げ、ふわりの目の前に示す。
「ふわり、受け取れ、セラフィムだ」ふわりは自分が物を貰える事に奇声を上げて感激していた。「ごめんな、今まで」
「にゃん?」
セラフィムを受け取ったふわりは納得できないのか、無表情で謝罪の言葉を受け取った。何の事か、解っていないのは誰の目から見ても認識できた。
「セラフィムは、柚芽の……。そうか、私はもう」何かを悟った柚芽の言葉に彼方が気づき、俯く。「そうなんだ、よね」
柚芽は気付いてしまったのかもしれない。自分には人間としての時間はないという事実に。もし、それだけならば、問題はない。まだ、柚芽は気が付いていないはずだと願いたい。
どちらにしても、消える事に苦痛はないはずだ。肉体的には……。
精神的には……。
小僧、いつまでもトランペットを持たずにいるのか? それは許されない。神が許さないだろう。私は消えてしまうが、お前を天国なる場所から見ているぞ! お前は……。
ウィーンで初めて聞いた楽譜の声―燐銅じいさんの最期の声が彼方の脳裏に蘇った。彼は満足そうな声で逝った。だが、そうなのだろうか?
人は消える事に満足する事ができるのだろうか? 僕は出来そうにない。出来そうにないんだ、燐銅じいさん……筋肉おばさん、林檎さん。
彼方ちゃん、うちの可愛い雛を大人にするのはあなたの役割よ。
こらこら、大切な娘と、将来の息子を唆すな、お前。
仲睦まじかった妃那の両親―淳南さん、晋太郎さん、僕は出来そうにない。
涙が彼方の意志に逆らって溢れてきた。
「さぁ、次は彼方ちゃんの番よ」
彼方を抱くように背後から蜜柑が抱きしめ、
「どうしたの? 何か、思い出した? 誰かを想ってまた、泣いていたの?」
耳元で蜜柑が囁いた。
「いえ、消えるのって苦痛なんでしょうか?」
「意志を通した人間にとっては苦痛ではないのでしょうね。でも、それは逃げよ。逃げないで最期まで苦しみ足掻きなさい、彼方」
彼方をお姫様抱っこして、蜜柑は囁いた。
彼方は突然の事に赤面しつつ、自分は女性の方に持ち上げられるほど、貧弱なんだと落胆する。妃那と彩夏の茶化すような口笛が聞こえた。それが結婚の時に流れるような曲調を持っているのだから確信犯だろう。
「でもね、貴女は恵まれているの、共に生と死の苦しみに立ち向かう仲間にね」
母、蜜柑の言葉に彼方は周囲の仲間達を眺める。
ままぁ、と言いながら笑顔を絶やすことのない小学生のふわり。今は頬を膨らませながら笑っている。不機嫌なのかな?
るーぷを一人で切り盛りしている仕事中でも子どもと遊んでしまう姉貴肌の社会人である彩夏。今は妃那と一緒に希灯市に新しくオープンしたメイド喫茶についての話題で盛り上がっている。
完璧を目指して今も音楽の道を志す元婚約者であり、お節介なお嬢様―妃那。今は彩夏がメイド喫茶に実は俺の知り合いがいるんだと言ったのに対して、あら、気品のないメイド喫茶のようですわねとからかうように口を緩ませて言った。
今、楽譜の柚芽はショルダーバッグの中で柚芽様を出せ、ここは暗い。暗いの反対と元気よく喚いている。
今、施設の子ども達は何をしているだろうか? ぷりんはもう、寝ているだろう。あけなは布団の中で僕から徴収した御菓子を食べているだろう。澄は私が一番よ、一番、完璧 瞳坂妃那という妃那のお古の鉢巻きを頭に巻いて机に向かっているだろう。
蜜柑の母性に満ちた安らぎを象徴した顔を見て今、頷く。
今を生き、足掻こう。
「手にするのよ、恵まれし者に相応しい器をね」
母が言う器とは僕に相応しいものなのだろうか? 生から、死から、人の本質から逃げていた僕に……。