一話 ふわり、ふわふわ。
一話 ふわり、ふわふわ。
<一>
一年前、少年と少女は親子になった。
熱々しい風が吹く度に今年はまだ、終わらないのだと感じさせる希灯島の夏。希悲島とかつては呼ばれていたのだが、魔女と若者との恋物語が由来で呼ばれていた。だが、時代はあらゆるモノを錆びさせる。かつて、信仰みたく信じられていた物語も荒び、希悲島はいつの間にか、希灯島になった。そんな蘊蓄を葉瀬彼方は昨日の夜、同室の昼下彩夏から三時間に渡り、聞かされていた。まるでつまらないトークライブを拝聴しているみたいで何度も寝ようとした。だが、彩夏が放つチョップで何度も意識を強制的に覚醒させられた。品のない欠伸を連発するのも仕方ない。
「今日も晴天だね」
彼方が背を伸ばして、低い背がやっと、同年代の高校生と同レベルの高さに見える。つま先を浮かせ過ぎてボウリングのピンみたく倒れそうになる。慌ててバランスを保つ。
長い、長い夏休みが今日で終わる。だが、喧しく泣き叫ぶ蝉達の合唱によってそうとは感じない。
こうして、僕は大人になってゆくのだろうかとふと、彼方は感慨に満ちた想いを胸の中に宿した。そう考える度に胸の鼓動が十六分音符を刻み続けていた。怖かった……。このまま、大人になり、時間が刻まれてゆく事が。
蒼い虹彩を宿す右目に触れる。そして、左目に触れようとした。柔らかな素材に手が触れる。そうだった、眼帯を着けていたのだ。
今、彼方が耳に掛けている眼帯はとても、ファンシーな仕様だった。左目を保護する部位は熊型になっている。そこまでならば、有り得るかもしれないが、流石にアニメ調の黒光りしている鼻や口、円らな真っ黒いお目々はアウトだろう。
眼帯というモノを着けるだけで痛々しい姿に早変わりしてしまう。そんな理由から外せて歩けたのならどんなに楽だろうと日頃考えていた。
理由が在る。だから、大人になってゆくのも恐ろしかった。
これは普通の世界と彼方とを繋ぐ天上から吊された一本の細い糸のようだ。ぎゅっと、眼帯を握る。
「おい、彼方。ただいま! ほら、挨拶しなさい」
前方から遠くに見える海を背景にして、彼方にただいまと手を振る父、葉瀬雄大と……ほら、挨拶しなさいと言ったのは雄大の手をぎゅっと、握り締めたドールのように可憐で繊細な小さな女の子に言ったのだろう。
お日様に照らされて元気よく輝きを誇示する金髪。思わず、デコピンを喰らわせたくなるおでこ。額に掛かる予定であった髪の毛は左から右へと流れるようにヘアピンで固定されている。だが、わんぱくな一本の毛が重力に逆らうように逆立っている。
彼方の目はそんな奇抜な髪型の一点に留まった。
両目の青空色の瞳が彼方を品定めするようにきょろきょろ、動く。
思わず、俯く。水たまりには突然、年端もいかない少女に凝視されて赤面している彼方自身の姿が映っていた。
水面には前髪を整然と整え、左右の髪が胸部まで滑らかに降りている少年の姿が映っていた。少年と知らない者が見れば、甘いお菓子の香りがする小さな少女と勘違いするであろう。
女の子みたいと言われている僕が女の子に赤面して、怯んでいるなんて間違っていると自らに言い聞かせて、頭を上げようとした。
首筋に人肌を感じて彼方は世にも奇妙な悲鳴と共にたじろいだ。
それを指しながら爆笑している父、雄大は薄情者だ。
「彼方ちゃん、キューティー!」
「何が、キューティーですか、父!」
「キューティーだろう。小さな少女に小さな少女がぶら下がるなんて」
「え?」
雄大の指摘で年端もいかない少女の姿が忽然と消失している事に気づく。
「ままぁ、抱っこわん、わん」
耳元から愛嬌ある甘ったるい声が響いた。耳がきーんとする。
「ままぁ、じゃないよ。僕はか、な、た」
「ままぁ、ままぁ、早くしないと地面にごっつんこしちゃうにゃん、むぅ」
「ごっつんこ、しちゃ駄目だ」
慌てて、彼方の首筋に顔をへばりつけている少女のお尻を両手で持ち上げた。少女のお尻は卵のように軽く丸い。
「ままぁ、ままぁ、高いにゃん」
彼方におぶられてご機嫌な見た目が七歳前後の少女を無視して、雄大を睨み付ける。
「旅行とか、言って愛人の子を引き取りに言っていたのですか、マイ ファザー?」
「愛人? いないいない。俺は蜜柑ちゃん一筋だぞ、それは彼方ちゃんが一番知っているではないかい?」
サングラスを掛けていて目は見えないが、言葉からは真実の厚みのような真剣さが漂っていた。
「どうやら、本当の事のようですね。じゃあ、この子はまさか……」
彼方の表情は雄大に対する疑念の表情から、何とも表現し難い苦痛に満ちた表情を浮かべ直した。背後に聳え立つ白い建物を眺める。屋根の上にはトランペットを造形した石膏が固定されていた。その石膏の下には看板が設置されている。
希灯児童養護施設。
そう、ここは陽気な仮面を被った悲しい場所だ。天涯孤独であったり、両親や親戚から拒絶されて最後に救いを求める子供達の居場所だ。彼らが望んでくるのではない。もう、ここしかないから来るのだ。
彼方はここの住人になるであろう。年端もいかない少女を高い、高いする。ゆっくりと、ゆっくりと持ち上げた。
「わん、わん、めぇー、めぇー、わぉん、わぉん」
嬉しいのか、素朴な垂れ眉毛がもっと、垂れ下がっているような気がした。飾りっ気のない笑みを彼方に見せつける少女が独りぼっちにならないように、といつものように頷いた。
普通ではない僕にでもそのくらいは出来る。
雄大は戸惑う彼方を見て強く頷いた。解っているよな、と呟いている気がした。
「名前は?」
「ままぁ、名前、忘れちゃったの。何だっけ?」
忘却……。本当にこの子は忘れてしまっているんだ。何処かで心のピースを一枚、落としてしまったのではないか? と疑う程の暢気な笑みを返した。
その様子にしばし、無言になるが彼方は自分にこんな子なんだと言い含めるように頷く。
「そうか。じゃあ、ゆっくりで良いから思い出していこう、ね」
「にゃん!」
両手を万歳、と挙げる少女を恐る恐る地上に戻した。それを待っていたとばかりに少女は喧嘩を吹っ掛ける猫みたく鳴き、走ろうとする。彼方は何処か、危なっかしいにゃんこ少女の手を引き寄せた。
ふわっ、と少女のチェックのスカートが開花した花びらのように一枚、舞った。長細い華奢な二本の足が見え隠れする。
きょっとんと、何で? という表情で見つめる少女に彼方は質問した。
「何歳なのかな、君は?」
「えーとね、一、二、三、よん、五、六……」
自分の指を凝視して懸命に自分の年齢を数える。一指、曲げる度に大きく少女はお辞儀した。いや、少女的には自分の思慮に対して頷いているのかもしれない。
お辞儀をする度に一本、簪に収まらない気まぐれ者のくせっ毛はゆらゆらと揺れた。
「なな、八、九きゃん!」
飛び跳ねる少女を見下ろして、くせっ毛が乱れないように慎重に撫でる。少女がわざとくせっ毛の存在を容認しているかもしれない。それはないと断言できない。
「九歳。小学生だね。偉い、偉い」
「偉いの? やったにゃん、にゃん!」
偉いと言われてまた、飛び跳ねるかと推測したが一点をじっと、見つめている。彼方の締めているアニメチックな猫の絵が貼られているネクタイに興味が注がれているようだ。
「これ?」
否定も、肯定もせずに少女はそそくさと彼方の背後によじ登った。払う間もなく、
「可愛いお目々当て」
少女は彼方の眼帯を無理矢理はぎ取ると鳥のように囀りながら、両手を羽根に見た立てて飛んでゆく。
バタバタと羽ばたかせて。
地を飛ぶ少女が傍若無人ぷりを発揮して、彼方は唖然とした。みかんの絵が象徴的な自動販売機に寄りかかりながら良い大人であるはずの雄大が彼方を指さしていた。しかも、唾を飛ばす勢いで腹を抱えて笑っている。
「そんなに笑う事ないよ。全く、面白くない。ねぇ、き……み」
僕の眼帯を返してよと言おうとしたが、彼方は言えなかった。
他者には視点の計れない彼方の虹彩も、網膜さえも、暗黒の海に沈んだ瞳が少女を射た。
金髪の癖のない髪を空気中に曝しながら、彼方よりも背の高い女性が嫌みのない開放的な笑顔を浮かべ、こちらに手を振りながらあかんべをしていた。セーラー服のような服を着込み、蒼い海へと溶け込んでゆくかのように海を目指している少女は彼方とは別の住人、絵画の存在のように思えた。まるで全てを包み込んでくれる母のようだと思った。彼方は喉を唾で潤しながら、恋い焦がれている事にはっとした。
止まらない胸の鼓動をぎゅっと、片手で握り締める。嬉しいことに止まってくれなかった。
「ままぁ」
母に似た少女と母に似た女性は全く同じ表裏のない微笑みを浮かべて、彼方に飛び込んできた。
ままぁで良いよ、おいで! と両手を広げて迎える。
飛び込んできた温もりを離さないと少女であり、女性にも見える救世主に頬ずりする。
そう、離さないよ。
だって、左目が初めて僕の見たいものを見せてくれたのだから!
夏の香りが空へと消え去ろうとしている日、少年と少女は親子になった。
<二>
丁度、ふわりと出会った日から一年だから、ふわり記念日としてお菓子でも制作するかなと考えながら、ふわりをハンモックに残して畳の上に飛び降りた。
「ふわりに何、作ろうかな?」
ハンモックの上で団子虫のように丸くなっているふわりに訪ねた。だが、返事は期待できない。まだ、彼方のお姫様は眠っていた。小さな寝息が穏やかな夢に委ねられている事だろうと想像させてくれる。
制服というものがあれば、服を選ぶのも楽なのだが……残念な事に彼方の通う希灯高等学校は私服だ。八方美人を自負している彼方はどの服装が人々の反感を、主に教師の反感を買わないのかと毎日が冷や冷やものだ。
数分、悩んだ結果がいつもの半袖ワイシャツと所々、穴の開いたジーパンという出で立ちになる。我ながらセンスがない。でも、人に話題にされない事が一番だと彼方はアニメ調の猫が描かれたネクタイを締めながら言い訳をする。
「ままぁ、降りるにゃん」
ハンモックの紐をぎゅっと、両手で握り締める仕草をしているふわりは欠伸をした。寝間着である大きめの白いワンピースからミニチュアな肩が覗けていた。
「その前にふわり、ご挨拶」
「ハローわぉん」
「ハロー? 良いかな」
彼方にハンモックから降ろしてもらったふわりはしきりに動き回る。突然、その動きを止め、流暢な英語で淀みなく言った。
「今日のご飯はアイスクリーム食べたいな。出るよね? 出るよね? ままぁ」
「日本語で言ってくれると在りがたいのですけど、ふわりさん」
そう述べた彼方自身も英語で言った。ふわりとは違い、高校生並みの語力な為、舌足らずなとても聞きづらい印象だ。
ふわりは父、雄大が言うには米国の上流の白人家庭で何の不自由もなく、暮らしていたらしい。ディスプレイの脇にある緑色のバケツへと、ふわりはよつんばの姿勢で目指していた。
今日の目標は白いマシュマロのようだ。バケツから白いマシュマロの包みが覗けて、ふわりは涎を畳に垂らしていた。目は心なしか輝いている。
「今日、ご飯はアイスめぇー」
「アイスはお昼に買ってあげるからね、今は我慢」
最近、お菓子を食べに食べているふわりの脇に腕を通して、マシュマロから遠ざける。以前よりも若干、重く感じた。
彼方はふわりの蒼い縫いぐるみお目々が見えるように屈んで視線を合わせて言った。
「癇癪起こさないでよね」
「にゃん、わぉん、ぴー、ぎゃお!」
癇癪を起こすどころか、忘れたようにふわりは畳の上で自らの身体を時計回りに回転させていた。何が楽しいのか、理解に苦しむが、
「う、可愛いな」
その時、背後から扉を開ける音と共に生暖かい空気が彼方の背中を刺した。茹だるような猛暑であった昨晩の対策の一つとして、冷房を二十度に設定してふわりを包むようにして寝ていた。その空気は彼方にまだ、夏だと抗議しているようだった。
空気に彼方も心底で抗議をする。ふわりの為なんだ。あの娘は泣くという身体的な表現を何処かに忘れて生きているようなんだ。僕が気遣わなければならないんだ!
「おはよう、彼方さん。今日も彼方母様の代わりにふわりの支度を手伝いに来たんですけど……」
彼方の部屋に入ってきた大きな耳が特徴的な少女―瞳坂妃那が困惑していた。その困惑している理由はすぐに妃那自身の口から明らかになった。
「なんで、ふわりはお菓子、お食べになっていらっしゃるのでしょうか?」
言葉の通り、ふわりは畳の上にバケツの中身を曝してお煎餅をぼりぼりと食べていた。お煎餅を嚥下する度にふわりの小さな首は歌い踊った。
今、妃那の顔を直視したら、呪われるに違いないと彼方は敢えて目線は合わせずに妃那の髪左右に付いている桃色のエクステンションに目線を合わせた。
ああ、僕はまた、完璧主義者に言葉という空襲を受けるのか、神よ! とげんなりした心境のまま、ふわりからお煎餅を取り上げた。
「可愛いよね、ほら、むにゃむにゃしてる」
一応、般若すらも凌駕している能面を顔に糊で貼り付けた妃那に話を逸らそうかと提案してみた。妃那はゆっくりと首を横に振る。
「あれほど、ふわりに過度な栄養は与えてはなりませんとお話致しましたよね? 聞いてませんでしたか? ちなみに昨日の午後六時に言いましたわよ。明確な理由だって、」
こいつは嘘つきだ。彼方の左目は述べていた。
丸々と太った黄色い雛の姿―妃那は卑しい笑いを新たな菓子に手を伸ばすふわりに向けていた。
咄嗟に熊の形をした眼帯に手を伸ばして装着した。メルヘンであり、メルヘンでもない世界を拒絶するのは彼方にとって自分が普通の人間―メルヘンの国の住人ではない事を再認識させる。
「聞いていらっしゃいますの! だいたいからしてわたくしの顔を見てお聞きになって下さい」
「すみません」
「すぐに謝りますわね、彼方は。もう、いいですわ」
妃那は溜息を吐き、手に持っている艶やかな着物をハンモックの上に載せる。口をもぐもぐと動かしているふわりは妃那が近寄ってくるのに気がつき、彼方の所へと急いで駆け寄ろうとした。
「わん、くぅーん、にゃん」
切ない声を上げて妃那の両手に収まったふわりは激しく抵抗する。
「ふわり、ままぁ、怒るよ」
「にゃん」
彼方の一声でふわりは俯きながら着せ替えさせられるのを待つ。
ちょっと可哀想な事をしたかもしれない。後でアイスクリームを食べさせてあげようと彼方は箪笥の引き出しから、雛の縫いぐるみの形をした財布の中身を凝視する。
中身は……十円玉が五枚、百円玉が七枚。ちょっぴり、ブルー。
「今日のふわりは、アイスクリーム何個食べるのかな」
昨日は五パック食べたなと嘆息するが、写真立ての中でふわりは舌の細部が目視できるくらいに大きく口を開いていた。写真を撮ったのは今年の春先の事だったから、桜の花びらが一枚、ふわりの頭上で花びらが鎮座していた。
その滑稽さに誘われて、彼方は写真立てに手を掛ける。
「そこでにやにやしている吹奏楽部部長、ふわりの着替えを堂々とご鑑賞なさるおつもりですか?」
ふわりは白いワンピースを脱ごうとしているのか、裾に手を掛けていた。咄嗟に彼方は自分の右目を指で覆った。指と指の間から美味しそうなお腹が眺望する事が可能だった。勿論、眺望した。
痣一つとしてない白い雪地に小さな落とし穴が存在していた。叶うならば、大地の感触を指先で踏み締めたいと脳内で叫ぶが、叶うはずはない。嘆息する。
「ああ、待って! 僕、外に出るから」
わざとらしく、慌てふためいた物言いをしながら、静かに後ずさりする。それを不審者を軽蔑視するような視線を態とらしく、送っている。
冷房機によって冷やされたドアノブに手をやり、一気に回した。外へ出ようとするが、自分が何も手に持っていない事に気がついて振り返る。
「鞄、忘れるとこ、だった。鞄、鞄、鞄!」
鞄、忘れてしまった苦笑い、てへぇっ、とはにかんだ彼方は足音を立てて走ってきた妃那に頭を掴まれ、回れ右させられる。
無言で背中を押されて、汚物の処理をするかのように彼方を外へと摘み出す。
摘み出された彼方は前方に見えるキラキラ光が反射している海を眺める。
「今日も蒼いな、海」
呟いてみると、鞄が背中にぶつかってきた。きっと、妃那が持ってきてくれたのだろう。
背中に当たった鞄はコンクリートの床に寝そべった。鞄は見事なまでの落書きが施されていた。兎らしき二足歩行の動物がお前が私の子―子猫を殺したのねと吹き出しを通して読者にメッセージを送信していた。兎と対峙していた馬は四足歩行だった。馬は吹き出しでそうだって言ったらどうする? と嘲笑していた。
彼方はそれを読み終えた後……
「海、蒼いな」
<三>
海、蒼いなと途方に暮れる感傷を抱かせてくれたふわりは机の上に正座していた。フォーク一本を口に加えている。とても、現在の服装からでは想像付かないような度を越えたお行儀の悪さだ。猫柄の着物がふわりのきまぐれな猫ぶりを体現しているようだ。
赤い鼻緒を机に何度もリズムよく刻んでいる。電車の走行音を表現しているようだ。
彼方はふわりのしつけを半ば、諦めていた。いや、諦めと言うよりは暖かく見守る。紅茶を一口啜った。
しばらく、作り歌を歌ったり、誰に対する訳でもない拍手を披露していたふわりの目の前に彼方の母―蜜柑がスマイル一つと共にハンバーグを置いた。
「はい、ふわりちゃん。お食べ」
「にゃん、にゃん、わん、わん、ぴー。ハンバーグめぇ」
ふわりと対面している彼方はそうだねという意を汲んで頷いた。真似をしてふわりも頷いた。頷く度に跳ねるふわりを蜜柑が脇に手を潜らせて抱き上げる。
蜜柑の顔つきはふわりに似た要素を持っていた。金色の前髪を卸し、後ろ髪を黒い輪ゴムで束ねていた蜜柑の微笑みはふわりの人目を気にしない笑みのようだ。
娘をあやすようにふわりの身体を揺らす。
「ほら、彼方ちゃん。ふわりちゃんが食べられやすいように口に運んであげなさい」
そう言いながら、彼方の膝に何の了承も取らずに、ふわりを載せた。
「ままぁ、あんする、ふわりわん!」
ふわりは自分が手に持っているフォークを彼方に差し出した。差し出されたフォークを手に持ってふわりが食べやすいようにハンバーグを何口にも切り分けた。その間にも食べたいよ、という羨望の眼差しを彼方に向けている。
「はい、良く噛んで食べるんだよ」
「うにゃん」
ハンバーグの欠片が届くのを待ちきれないのか、頭を前に出す。口の中に入れ、数秒もしない間に、
「おかわり、がぁ!」
嘴を何度も開閉させておかわりという期待に胸を膨らませるふわりに再び、自分のハンバーグの欠片を与える。その様子を隣のテーブルの椅子に腰掛けて、横目で観察していた妃那は非難の声を挙げる。
「また、太りますわよ。ふわりさん」
「太ったってたったの五十グラムじゃないですか? 誤差の範囲ですよね、母?」
「彼方ちゃん。女の子はね、少しでも痩せていたって思う生物なの。そうよね? みんな」
ふわりのお腹に手を当てようとしていた彼方の腕を掴み、蜜柑は周囲を見回した。
みんなと呼ばれたそれぞれ、銘々食事を取っている女の子達はうんと頷いたり、静かに微笑を浮かべたり、激しく同意! と言ったり……実に様々だ。だが、誰もが幸福に満ち足りた顔をしている。ここが寂しい場所―児童養護施設だというのに。
児童養護施設でもある葉瀬家には何故か、愛らしい多感な少女達が集う。さながら、女子寮のようだ。いや、そうではないだろう。少女達はここしか居場所がないんだ。紅茶をゆっくりと口に近づけて息を吹きかけているおませな小学生の少女―深田あけなも、パンにかぶりつきながらお手製の単語帳に目を向ける眼鏡の女子中学生―国枝澄も、食事が終わったのか恐竜の絵本を熱心に読んでいる幼稚園女児―御名下ぷりんも、どの子にもここしか居場所がないんだ。
彼方には彼女達の本当の姿を射貫く事ができる。だからこそ、何でも相談できる気の弱いけれど、優しいお兄ちゃんを演じなければならない。それが普通の人間を詐称している葉瀬彼方の処世術だ。
人の人数が多いということを付与しなければ、普通の一般家庭の一室だ。ダイニングキッチンの流しにはボールや、箸、鍋などの調理器具が容器に張られたお湯の中に浸かっている。二つ繋いだ机にはチャーハン、御握り、卵焼き、ハンバーグ、納豆、キムチ、サラダ、サンドイッチ、串団子、お萩、クレープ、モンブラン、チョコレートケーキ等が並べられており、今も少女達が姦しい会話に花を咲かせて片手間のように品定めしていた。各テーブルの中央にある観葉植物は彼女達の元気を吸い込んで艶のある緑葉を保持している。
本当にみんな、元気だね。
彼方はふわりに目を向けてみると、ふわりはハンバーグの載る皿に顔を突っ込むようにして、ハンバーグを犬食いしていた。頬に仕込んだ風船はいつ、割れてもおかしくない程に膨らんでいる。着物に欠片が飛び散り、染みになっていた。それを気に留める事もない。
隣でキムチを食べる妃那も咎める気はないようだ。
「あのぉ、僕の近くでキムチは、う」
「キムチはお肌に良いんですのよ。ほら、ふわりも」
「ぷいにゃん」
キムチの赤々しい姿をふわりは見なかった。ハンバーグを口に入れたまま、籠もった声で拒絶した。目の前にある空になった皿を舐め続ける。粘着質な音が彼方の耳に飛び込んできた。
「き、嫌いのようですわね、キムチ」
そう言いつつも彼方の皿の上にキムチを置こうとするのを慌てて、手のひらを振って嫌だと意思表明した。キムチは世界で一番嫌な物体ナンバー一に十五年連続で彼方ランキングの中で殿堂入り寸前まで居座っているのだ。
それでも妃那の清ました顔は静かに喰え! と言っている。無理だってぇ、の!
「あ、だったら私に頂戴。可愛い、可愛い妃那お姉ちゃん!」
見かねたあけなが小さな両手を前に差し出した。しょうがないな、お兄ちゃん菓子一ねと打算的なわざとらしい笑窪を彼方に一瞬、魅せた。苦笑するしかなかった。
「お世辞上手ね」妃那はあけなの両手にキムチを三枚の載せる。「はい、キムチ三人前! ついでに彼方も食べなさい。夏バテにも効果を遺憾なく、発揮するんですのよ」
「遠慮……ないですよね?」
差し出された一枚のキムチを機敏に避ける。
「あなたが倒れたら、ただでさえ少数精鋭の我が希灯高校吹奏楽部。略して熊部が成り立たなくなりますわ」
狙いを研ぎ澄ます野性的な両眼が彼方の隙を窺う。
冗談ではない。熊部の為を思うならば、僕にキムチを食べさせるよりも部員を確保しましょうよと目で相手を殺す。
殺気なんぞ知った事ないとキムチが特効を賭ける。
「僕が体調を崩すかもしれない設定ありきの行動なんですね。じゃあ、遠慮無く、無理です。無理です。吐いちゃいます」
箸でキムチと対等に渡り合う彼方と、不吉な赤い汁を床に垂らすキムチとの視線が絡み合う。極限の緊張の中で紡がれる駆け引きに敗北した者こそが、この争いの敗北者となるのだ。
周囲は場違いな拍手の嵐を巻き起こした。さながら、昼下がりの水族館におけるラッコショーの様相を見せる。
「食べなさい。そして、キムチの偉大さを知ると良いですわ」
「当初の目的から擦れが生じていると思うのは僕、だけでしょうか!」
「負けるものですか」
激しい空中戦を展開させる箸とキムチ。箸の強さを認めたのか、一度離脱をして箸よりも高みへと上昇してゆく。そうはさせるかとキムチより上へ、上へ、上へと箸は行こうとする。
「おっと、両者の実力は拮抗している模様です。解説者のマイ ハニーはどう分析しますか?」
「食べ物で遊ぶなんて駄目だぞ、彼方ちゃん、はぁと」
それぞれ場の雰囲気に飲み込まれた良い大人であるはずの雄大、蜜柑が浮ついた口調で悪のりを惜しげもなく放出させた。こんな大人になるものかと彼方は嘆息する。
「戦場では息一つが命取りですわ」
「し、しまった?」
シュチュエーション的にはそう言わねばならないという元来のサービス精神が彼方を窮地に追い込む。唇にキムチの強引な着陸を許してしまった。
キムチは迷うことなく、外壁を開けて重要拠点の完全なる制圧を果たそうとしていた。
唇を通して伝わってくる柔らかい感触と鼻孔を滅多刺しする痛臭に顔が歪んだ。素直に負けましたと言ってしまおう。
彼方は口を開こうとした。その時、
「ままぁ、ふわりを構って」
キムチを握りつぶして、床に放り投げた。身体が粉々に砕けたキムチは突如、出現した敵軍の伏兵に睨みを利かせた。だが、ふわりは目をくれずにたんぽぽのような麗らかなお目々を彼方に向ける。
キムチが自分の唇に引っ付いていた過去を消去すべく、ふわりを片手に抱いてダイニングキッチンへと足早に移動する。蛇口から必要以上の量が流れ出し、躊躇なく唇で流れを妨げた。
そして、腕で唇の水分を掻っ攫う。不適な笑みを妃那に与え、
「油断が戦場では命取りですよ、妃那副部長」
「台詞の割には敗残兵ですわね」
「すみません」いつもの口癖を言った彼方だが、突然の頭痛に頭を押さえて俯いた。「また、なのか、ついてないな僕」
片方の手で抱いていた彼方よりも六歳年下の女性は心配そうに眉を潜めていた。女性の長い金髪が彼方の腕にふわっと垂れていた。だが、さらさらとした感触はない。そこにあるのは空気だ。空虚だ!
眼帯をはぎ取り、苛立ちを隠すことなく、床に投げつけた。
真実を隠す事さえも時として、この呪われた瞳をくれた愚者は許してくれないのだろうか?
<四>
希灯児童養護施設のあった草薙村という人口七百人程度の村には教育機関は存在しなかった。希灯児童養護施設の子しか登校しないであろう学校を財政難である村としては創設できないのだろう。尤も、過疎化の進む村は希灯山の向こう側にある鶴下市と合併しようという話があるくらいだ。当然の政策だろう。朝五時に起床し、蜜柑の運転する大型バスには乗らないで、村に三時間に一本しか来ない鶴下駅前のバスに乗って希灯山を越えて鶴下駅でローカル線に乗り換える。まどろこしい岐路を経て、小学校、中学校、高校、大学が集約された学生街と揶揄されている希灯市へ到着。そこで彼方達の登校は終了するわけではなく、路面電車に乗り、流れる学生街の平凡な風景を眺めつつ、高校まで歩く。これが毎日、毎日、ほぼ毎日続く儀式だ。
ハードな登校から一時間目の古典、二時間目のマラソン、三時間目の太平洋戦争に関する歴史、四時間目のスケッチ……ちなみに彼方は妃那を描いたのだが、わたくしの理想とはほど遠い、リテイクと叫ばれてやり直しを五度要求された。それらが幼女体型である彼方には堪えているのか、妙に身体が重い。だが、大半は今、彼方の肩に膝を付けて寄りかかっている子供大人のせいであろう。
陽光の日差しが全速力で世界中を酷暑にすべく、活動していた。世界中の人々は茹だるような暑さをひしひしと感じているだろう。例外なく彼方も感じていたので肩から伝わってくる余分な体温に内心、苛立っていた。希灯高校で一番、日陰率に高い購買室のはずだったが、ほとんど日に浸かっていた。
革靴を何度か揺らして、貧乏揺すりをした。
「おや、おや、お姉ちゃん、お疲れのようだ」
子供大人―背の高い狐が戯けたように両手を広げる。
「左目が言うことを聞かないんだ。それより重いんですけど?」
それを無視して鬼のような形相を浮かべている狐―彩夏は窓から見られる風景を眺望する。木の間と間からサッカーをしている猫や、犬が認められた。みんながみんな、無邪気にサッカーをしているのではない。在る者は顔を歪ませて何かに怯えている。在る者は苦笑しつつ、周囲にいる仲間達を見回している。無邪気という存在がいるならば、彼方がぎゅっと、指先を捉えているふわりという小さな救世主の存在だけだろう。
ふわりはメルヘンの住人ではないよね? という言葉が口から飛び出すのを必死に押さえた。もし、違っていたらふわりを愛せなくなる。
「お前は脆弱だ」彼方の肩が震えているのを指でなぞった。「お前はいつも、お人好しだ。今だって、委員会に急いでいかなければならない友人の為にパンをこうして、購入している」
「ままぁ、美味しいよ、このパンにゃん」
パンという言葉に反応して嬉しそうにふわりは自分の口の中にあるパンを見せびらかす。ふわりの舌に細かく加工されたパン屑が幾つも転がっていた。彼方は静かにふわりの顎に手を添えて口を閉めた。
だが、ふわりは手に持っているフランスパンを大げさに口を開いて含んでまた、彼方に見せびらかした。
狐は身の毛のよだつような暗い視線をふわりに向けて手をふわりの頭上に載せて撫で始める。
「よし、よし、ふわり」
「ぷいわん」
ふわりは脱兎のごとく、狐の指先から逃げて無表情のまま、彼方の背中に身体をくっつけた。
「ひょっとしたら、君のように俺の本当の姿が見えているのかな? 続きだが、でも、俺は知っている。君が左目で見ている可愛らしい世界に、」
「からかうのは止めてくださいよ、綾夏さん」
カウンターに並んでいるパンの一つ、一つをビニール袋に入れながら滑らかに喋り出す狐の言葉を制して彼方が口を挟んだ。
「ばぁか」狐はそう言って、彼方にはち切れる寸前のビニール袋を手渡して「これはあ、い、だ。可愛らしい世界に君が怯えている事を。本当の君はふわりより脆弱な兎ちゃんだ。俺はそんな君だからこそ、好きだ」
「嘘を言わないで下さい、狐さん」
左目を手で押さえた。左目を封じて右目で全ての事象を見つめる。偽りのみを見つめた。狐に見えた者は活発的な女性だった。彼方の知っている十九歳独身女性の御菓子屋るーぷの女店主である昼下彩夏だ。
カウンター付近のパイプ椅子に腰掛けて髪全体にシャギーの掛かっている鋭敏な刃物を連想させる髪を手で弄くりながらチョコバーを吸っていた。前髪は黒瞳が隠れていてじめじめした印象を持たせるが、左右の髪が肩まで後ろの髪は腰の辺りまで伸びている為、ワイルドという言葉に類する女性であろう。だが、気怠そうな瞳にはワイルドさを感じない。そして、エプロン姿が全く似合わない。バランスが良いのか、悪いのか定かではない女性だ。
チョコバーをレシートの入れるプラスチック容器に突っ込んだ。
「嘘じゃないさ、なぁ? ふわり?」
綾夏がふわりに近寄ろうとするが、ふわりは彼方の背中に顔をくっつける。何故か、ふわりは彼方以外の人間に触られるのを極端に逃げたがる。いつも、嫌な顔をしない分だけ、どうふわりが思っているのかは、彼方以外にしか理解できない。
「ままぁ、一番愛してるの、ふわりわん!」
ふわりの暖かい息が背中に当たり、ワイシャツが必要以上のぬくもりを与える。それ以上にふわりの子供体温は夏では暑苦しい。だが、彼方には精神安定剤なのだ。欠かすことの出来ない薬だ。
「おや、おや、嫉妬のようだ。嘘じゃないよ。ほら、パンを割引にしてあげたろう?」
彼方の持つビニール袋に向かって彩夏は片方の目を瞑り、また開いた。
「一円じゃないですか」
「一円でも金に関係ないスマイルよりはいいだろうよ。それより注文の品、マウスピースだ」
カウンターの引き出しから、御菓子の箱より少し大きい程度の箱を出してカウンターに置いた。彼方の表情は子供のように晴れ晴れした表情へとぱっと、開花した。
無理もない。その箱の正体は桜菜社の開発したマカリオイのマウスピースが梱包されているのだ。
彼方は焦る気持ちを押さえて、嬉しそうに微笑む狐に五万六千円を手渡した。
すぐに箱を乱雑に破ってマウスピースに口を付けようとした。
出来なかった。
付けようとした瞬間に悪夢達が手招きした。
私はまだ、描いていたかった私だけの音の螺旋を! という楽譜からおぞましい声が聞こえて来た。それだけではない人々の顔が見る見る内に猿、ナメクジ、甲虫、羊などに変質していったのだ。
彼方はとっさにその手を払った。狐は彼方に同情の視線を送っていた。
「毎度あり。音楽が廃れてすっかり、経つというのに頑張るね、桜菜社」
彩夏は上手く、悪夢を逸らそうとする。
「もう、一社しかありませんもね、頑張って貰わないとね」
「それにしても、熊部部長。まだ、こんな所で鳴らしているのか?」
「演奏出来る人間が一人しかいないんだから仕方ないよ。非公式だしね」
彼方は溜息を吐きつつ、購買室の隅にあるスペースに目をやった。
今にも人間を襲撃しそうな熊の巨大な絵の衝立背後側にはトランペットや、ホルン、クラリネット、フルート、サックス等がケースに入って保管されていた。保管という言葉は正しくないかもしれない。放置されていたという方が表現としては正しいだろう。衝立の後ろに彼方は周り、トランペットとホルンのケースに挟まれるようにして置かれていた可愛らしいパンダ型のバッグを開けて、その中にある黒い小物入れの中にマウスピースを入れる。ついでにパンダ型のバッグの中にあるマスクのような眼帯を装着した。上向きのチャックを素早く閉めて、パンダ型のバッグを手に持つ。
彼方が振り返ると、彩夏は、彩夏のままに見えた。思わず、笑みが溢れた。それを見た彩夏は顔を顰めて口を開いた。
「格好良くないな。そ、う、いうのは。早くトランペット持ってるようになりな」
「あの悪夢のような光景が彩夏! 先輩に解るんですか?」
「分かるはずがない。だがね、人殺しの娘よりも怖いものなんてこの世にないだろう?」
彩夏はカウンターを小指で軽く小突いた。よく聞いてみると日本国歌のリズムを刻んでいる事と鬱々しい顔をしていない事から本気の発言ではないようだ。見逃せる発言ではない。
「彩夏先輩、僕。怒りますよ?」
「怒ってみろよ、ほら」カウンターの外から出て本日のお薦めのパンである焼きそばパンを無造作に持ち、彼方を指さした。「怒れない。恐れているんだ。勘はよく、的中する事で有名だ」
語尾を伸ばしていた彩夏のお腹が鳴り、話しは途切れた。そして、四方八方確認してからあろう事か、商品である焼きそばパンの封を開けて囓り始めた。
「商品のパンをたべ」反論しようとした彼方の視線を殺すように冷徹な眼差しが彼方に向けられて思わず言う。「すみません」
「ほらよ」
彩夏は半分、焼きそばパンを喰らったところで彼方に残りの焼きそばパンを差し出した。彼方は自分に、という意味で自分の締まりのないヘタレ顔を指さす。そうそうと彩夏は嬉しそうに何度も頷いた。だが、彼方は首を横に振った。
ちぇと舌を鳴らした後、綾夏は残りの部分を彼方にはあげないというかのように一気に口の中に放り込んだ。即席風船の出来上がりだ。
「放課後、見に来てやるから期待しないでおくよ、彼方ママン」
呆れて立ち去ろうとする彼方の背に単調な口調で勝手な事を言っていた。彩夏は去年までは希灯高校の生徒であったが、今は部外者だ。それに彩夏には駄菓子屋の経営という立派な仕事がある。草薙村には子供達が喜びそうな駄菓子はそこにしか売っていなかった。そこに通う子供達の大半が養護施設の子供達だ。そういう事情もあり、油を売らずに帰って欲しかった。出張販売は昼休みだけだ。彼方は元来の気の弱さからそう言い返す事が出来なかった。
購買室の扉を閉めて無駄に長い廊下を歩き始めた。ふわりは彼方に抱きかかえられていつも以上にご機嫌な笑顔を関係ない他生徒に魅せていた。ふわりがここにいる事情をしている女子生徒達はふわりを見て口々に可愛いとか、抱いてみたいとか黄色い声を上げていた。男子生徒は何故か、顔を赤面させながら俯き加減で足早に去っていった。知らない者は彼方とふわりの顔を交互に見比べた後、妹さんですか? 可愛いですねと言う人が大半だった。
「ぎゃあぉ、にゃん、わん」
「勝手だな、あの人は……僕もか」
ふわりがいなければ、彼方は歩く事すら出来なかった。眼帯を装着していても心が拒絶反応を起こしてしまう。人の姿が変わって見えて、おまけにそれが浮かべる表情が真実だった。ふわりという内面も外面もあまり変化のない少女は彼方にとって浮き輪だ。広大な海に浮かんでいる為にはその浮き輪が必要だった。
また、ふわりも彼方の側を片時も離れようとはしなかった。本来ならば、小学校で友人と共にたわいのない学校生活を送っているはずだった。
彼方とふわりは蜜柑に連れられて、蜜柑の知り合いの精神科医の元を訪ねた事があった。彼方自身は何もそこまでする事はないと戯けていた。ふわりは島を出て都会に行くからなのか、終始遠足気分ではしゃいでいた。
下された診断結果は……共依存症。
「僕は信じない。僕はふわりと一緒にいたいだけだ。病気じゃない」
「ままぁ?」
彼方の痛み等、露とも知らないふわりは持たされていた袋の中からあんパンを取りだした。それから、慌ててクリームパンも取り出す。どっちも食べたいようだ。
「どっちかにしなさい」
その言葉に不満を漏らさずに少し迷った後、ふわりはあんパンを見つめた。
「あんパンにするの?」
「わん」
「じゃあ、クリームパンは袋に閉まってね」
クリームパンをビニール袋に閉まってあんパンの封を切る。あんパンをふわりが食べようとした時だった。
「お食事タイムは終わりですわ。昼の練習よ」
横からふわりの食べようとしていたあんパンを奪い取って妃那がそう宣言した。妃那はサックスの入っているケースを握り締めていた。
「ちょっと待って下さい。ふわりはともかくとして僕はお昼ご飯をまだ、食べていないですよ」
妃那は少しの逡巡も見せずにふわりの双眸を見たまま、指であっち、いけ! と表する。
「じゃあ、部長はいらないわ。ふわりさん、音楽やりましょう」
「ぷぃわん」
反射的に返したという表現がぴったりな程、ふわりの返事は速かった。スキップをしながら、彼方の周囲をぐるぐると回り始め、妃那の言葉を聞く気などない素振りをみせる。
「ぷぃじゃありません。本当はありとあらゆる楽器を使用して、初見で完璧に奏でる事が出来る……。いや、途中からアレンジさえもしていたわ。そんな貴女の才能をわたくしが見逃すとでもお思いですか?」
言葉を捲し立て、彼方の方へと前進してくる。凄い剣幕だ。その剣幕に押され、彼方は保健室の保険便りに背をくっつけた。正面には美しい顔が台無しだよと言いたくなる表情で詰問している妃那。その背後には窓ガラスにテープで厚紙が固定されていた。その紙には太いマジックペンで廊下では静かに 風紀委員会と書かれていた。風紀委員会さん、ここに風紀を乱している人がいますよと彼方は内心では顰め面を相手に浴びせたいが、愛想笑う。
「また、冗談を」
「また! 彼方、何度、話したらお分かりになるのですか?」
彼方は頭の中でこれが何度目か、計算を試みた。三十回目くらい再現されたところで記憶が曖昧に、混沌に散らかってきた。どうやら、耳にたこができる程には言われているらしい。
「だってね。マウスピースを指さしてこれ、何、ままぁ? って聞いていた子だよ」
ふわりの頭を撫でながら同意をさせるように首を傾げた。ふわりも同様に首を傾げてみせた。
「嘘おっしゃい!」
「信じられないよ」
信じられないと彼方が口にしたように彼が妃那から聞いた与太話はとてもではないが、信憑性は残念ながら低いとしか言いようがない。音楽に関しては彼方も、妃那もそこそこ実力のある奏者だ。具体的には二人とも幼い頃、両親の仕事の都合でウィーンに滞在しており、互いにライバルとして多くの大会で大人達に混じって上位を脅かしてきたのだ。楽器は問わなかった。ピアノであったり、ヴァイオリンであったり、琴であったり……と音を奏でるものならば何でも山のように制覇していった。その激戦のおかげで日本で数年後の再会を果たしてからも、良好な関係を築ける間柄には位置していると彼方は自負していた。トランペットの女王と呼ばれていた彼方の母、葉瀬蜜柑レベルでないと困難といえるであろう超越技巧を、ふわりが単独で奏でるなど、不可能に近い。
何故なら、ふわりは壊れてしまっているのだから……。
彼方を見つめるふわりの瞼に涙のようなものがきらりと光ったような気がした。
ともあれ、今一度、思い起こしてみよう。妃那の体験を。
<五>
あれは去年の冬、わたくしがまだ、ふわりを心の底から嫌っていた頃の話ですと彼方に話し始めたのを覚えていた。彼方は何故、彼女がふわりを嫌っていたのかを知っている。十年前の日本とアメリカの間で起きた攻防戦争。発端は日本に駐屯していた米軍のミサイルの誤射に一般市民が大勢巻き込まれ、死者二十名という惨事を起こした事件から始まる。当時、過激派である浅間和男氏が総理大臣の座に納まっていた。彼の意向が広く反映され、日本にとっては自衛の為の攻撃、アメリカにとっては防衛の為の戦争が勃発した。双方の国民は互いに憎悪の霧の中で、互いの国の正義を叫び続けた。その一人に最初の誤射で両親を亡くした幼い妃那の姿もあった。
当然、当時はふわりを率先して虐めていた。情けない行為である事にわたくしはふわりが一生懸命、生きているという事実を知ってやっと改心できた。
当時は音楽に嫌悪さえ、催していた。
全ての窓には雪がびっしりと粘着していた。外の情景を目視する事は適わないが、断続する事もなく吹き荒れる風音で辛うじて外の荒々しい情景を思い浮かべていた。一見、寒々しく見える希灯児童養護施設の一階ではあるが意外と保温性に優れていた。長椅子に座り、既に三時間程、読書に勤しんでいた。身体を挟んで左右に本が選別されている。右側がまだ、読んでいない本。左側が既に読んだ本というような按配だ。また、一つ本、日本の政治に関する本を読み終わり、左側に積んでゆく。バベルの塔はまた、一段と高さを増した。
座った姿勢で伸びをして、両手を高く挙げた。欠伸を出そうとした時だった。何処からか、合奏らしき音色が風音に混じって聞こえてくる。それは足下からのようだ。
足下を微動させるほどの音響にわたくしは驚きを隠せず、唖然としてしまった。唇が微かに震える。いつもならば吐き気が、嫌悪が訪れるはずなのにいつまで経っても訪れなかった。何故だ? 頭の中に疑問が浮かぶ。
「え? これはわたくしの母の曲、吹奏楽の為のソロ 空へ」
耳に全神経を研ぎ澄ませながら、それが単独の音、すなわちソロである事を知った。何小節にも渡り、楽器が代わる代わる音を奏でる事から答えに辿り着いた。
嫌悪という言葉がゆっくりと消えゆくのを感じた。胸の中が振動してゆく。背筋が強ばった。
これ程にまで、天賦の才を備えた奏者が児童養護施設などにいただろうか?
葉瀬彼方、葉瀬蜜柑ならば試行できるかもしれない。だが、この曲は金管楽器、打楽器、木管楽器と絶妙なリズムで綱渡りのように繋げてゆく危うさというリスクを潜んだ常識外れの曲だ。並みの神経では到達し得ない響きが恐らくは地下室で繰り広げられている。
わたくしは顎に手を当てて、いつの間にか考えに深けてしまった。意識を外に向け直す。
「誰がこの曲を奏でていらっしゃるのですか? 聴かせて下さい素晴らしい曲を」
クッションが敷かれた階段を下りながら、焦る気持ちが独り言を口から吐かせた。心なしか、両頬が緩んできた。当然だ。わたくしの母親の作曲した曲が再現されているのだから。
防音扉を乱雑に開けた。
凛とした表情でマウスピースに口を当てて、ホルンを構えた。少女は蒼い瞳を閉じて諳んじていた神曲を。
激しく速い曲調に合わせてて、指がピストンに糸が張り巡らせているかのように正確に触れてゆく。
歌ように刻まれてゆく。それは一つの極みだ。暗譜や、何十時間の練習によってほんの一握りの人間がそれを得る。初見でそれをやって除ける人間はさらにほんの一握り。
明かりの灯っていない薄暗い空間に太陽のように周囲を灯す金色の髪と空のように透き通った白い肌という組み合わせを持つ絶世の美少女がホルンをタオルケットの上に置きながら、片手でバッチを持って机を叩く。ティンパニーの代わりらしいが、貧相な音を除いては、リズムがしっかりと取られていた。
演奏を一人でこなす人物の表情には大人の冷静さが宿っていた。
「え……ふわり……さん。不可能よ」
その呟きには耳を貸さずにふわりは直ぐ、側に置いてあったトランペットを手に持つ。既に取り付けてあったマウスピースに口を宛がう。
身体全体で息を吸い込む動作をせずにそのまま、甲高い音を響かせる。部屋をたった一人で音の海に変えた。
「暗譜、演奏を同時にやってのけている」口から賛嘆の声が止め処なく流れる。「息が乱れない。それだけの連符が続けばブレスの一つや、二つ……初見ならば入れてしまうのが普通」
ふわりは怪訝そうにわたくしを見つめた。そして、ぷっーという間抜けなロングトーンをした後、マウスピースからゆっくりと唇を離して溜息を吐く。その表情はマナー違反だと呆れていた。
ごめんと言う代わりに、
「素晴らしい。何処でこれほどの技巧を学んだんですの、ふわりさん?」
その言葉に対する答えなのかは分からないが、ふわりは虚ろな視線で天井を見上げながら、英語を口ずさんでいた。わたくしに聞き取れるのはリスト、ユメという言葉だけだった。海外にしばらく、渡航していない為、語力が錆び付いていた。何もこんな時にと自分が腹立たしかった。
行き場のない苛立ちと興奮を重ねるように、ふわりの肩に触れて振り向かせる。
「ふわりさん、貴女! 何者?」
振り向かされたふわりは頬を膨らませて目尻に涙を溜めていた。今まで、彼方さえも見たことがないと言っていた子供らしい怒りの表情があった。
「柚芽の邪魔をしないでおばさん」
わざと分かり易いようにゆっくりと舌足らずの英語は紡がれた。
トランペットをタオルケットの上に置いた後、ぎろっとわたくしを睨み付けてから一目散に立ち去ろうと走った。
わたくしは直ぐさま、ふわりの腕を掴んだ。
「待ちなさい!」
眉間に皺を寄せて頭だけをこちらに向けたふわりの顔が、徐々に柔らかなな顔へと変化してゆく。眉間に合った皺は不自然な程に消え去り、霧が晴れるように厳しい目つきをしていた蒼い瞳は柔らかな目つきに戻った。
しばしの間を経て、いつもの無垢な笑みが現れた。だが、何処か、不自然なようにわたくしには思えた。
「ぷぃにゃん」
怯える様子もなく、必死さもなく、わたくしの腕を引っ張って逃れようとした。わたくしが手を離すと勢いよく、ままぁと何度も愛嬌のある声で叫びなら逃げていった。
「ふわり……」
ふわりという少女に得体の知れない才能という不気味な怪物が眠っている。そして、わたくしはその怪物をほんの少しの間だけ、垣間見たのだ。
地下の暗い箱のような一室が実は現実と、幻想を繋ぐトンネルだったのではないだろうか?
<六>
今、思い起こしてみても妃那の話には矛盾点が多くある。ふわりは怒りの感情を知ってはいるが、怒りの表情を作れない子だ。
「これ、なぁに、ままぁ?」
ふわりの手のひらにはハートの形をしたシールで封のされた手紙が乗っかっていた。
「多分、ラブレターだよ、ふわり」
こんな子だよと片眼を瞑って彼方は妃那にアピールした。妃那もわかってくれたのか、一呼吸吐いた後、
「彼方、何処の殿方から?」
ふわりは彼方の拳を開き、渦中のラブレターを掌に載せて何が楽しいのか、にこにことままぁ、ままぁと喚いていた。ふわりの両手は彩夏が手に持っているあんパンを掴み取ろうとしていた。
彩夏はふわりのほっぺや唇の周りに付着したパン屑を見回した。
「不許可ですわ。熊部マスコットが太ったら、マスコットではなくなってしまいますわ」
「にゃん、わぉん、きゃん、きゅん、めぇー」
「可愛い声を出しても不許可ですわ」
そんな不毛な言い合いに参加せずに、彼方は険しい目つきで手紙の内容を確認する。ふわりの元にこのような手紙が届くことは多々ある。ふわりの母役である彼方は当然、全部の内容をチェックする。検閲により、ふわりの元に届かない手紙の条件を頭に巡らせる。
一、手紙と一緒に得体の知れない御菓子が同封されている。または、一般に流通している御菓子ではあるが、箱を開けた形跡がある。
二、手紙の内容が小学生であるふわりに不釣り合いな場合。卑猥な内容、宗教的な内容、政治的な内容、訳の分からない内容等が該当する。
三、ふわりを中傷する内容や、ふわりを虐めますよという犯行予告等の生命の危険性がある内容。
四、異性からの手紙は迷い無く処分いたします。
手紙の主は騎士差太郎、四番に該当する。封を切らずに彼方は日頃のうっぷんを晴らすように手紙を千切りにして窓を開いて捨てた。さながら、元手紙であった紙吹雪はゆっくりと園芸部の花壇へと落ちていった。園芸部の部長、深木真字はふわり親衛隊を自称しているから、騎士の名が残っていたならば彼を抹殺しに行くだろうとふと、彼方は思考した。
「騎士差太郎さんからだよ。剣道部の」
「止めておいた方が良いですわ。彼、ロリコンよ」
「ままぁ、ろりこんってなぁに?」
「ふわりを食べちゃう怖い悪魔の事だよ。安心してままぁが全部、倒してあげるから」
ふわりに視線をやると、ふわりが床を何度も踏みしめている。下駄が乱雑なリズムを鳴らしていた。
「ふわり、しぃしぃー?」
「にゃん」
「仕方ないですわね。練習は中止と致しますか。熊部部長、これ」
自分の事態に一考として思案を巡らしていない垂れ笑顔のふわりを一瞥して、妃那はサックスの入ったケースを彼方の胸に押しつけた。彼方はケースを受け取とり、苦し紛れな顔で頭を下げる。それを見届けて、妃那は小さく鳴くふわりを抱っこした。
「わん、じゃないでしょう。毎回毎週、着物なんて着てくる。裾を捲ってあげるから静かにするんですのよ」
今にもどうにか、なってしまうと言わんばかりに足をばたつかせるふわりを無視しながら妃那は歩き出した。彼方もそれに続く。
「十分以内で頼むよ」
俯き加減のまま、床を見て彼方は呟いた。床には綿埃が一カ所、ぽつんと存在していた。まるで今の自分のようだと彼方は溜息を吐く。妃那がどのような顔をしているのかは分からない。床の上には妃那の顔は存在しないのだから。
僕とふわりは共依存症という名の赤い糸で結ばれている。
「すみません」
口にしてみて誰に対する謝罪なのだろうかと彼方はしばらく、思考の迷宮を彷徨った。
<七>
人々の意識は空を飛ぶ。意識というのは常に冒険者なのだ。
垂れ幕の端を掴んで、トランペットを持った黒いドレスを纏った若い女性を彼方は細部に至るまで見逃さないと目を凝らしていた。日本人と白人のハーフである彼方だから流れるような金髪の髪が珍しかった訳でもなく、片栗粉を被ったような白い肌が羨ましかった訳でもない。その女性の素性が葉瀬蜜柑二十三歳である事を知っている息子である彼方は、そんなどうでもいい美貌には注目していない。ピストンの上で小枝が撓るように動く蜜柑の指達に彼方は心奪われているのだ。
頬に冷えた感触を感じて怪訝な表情を浮かべて彼方は振り向いた。彼方の嫁を自称している瞳坂妃那がいた。彼方よりもその少女は一歳年下の六歳だった。ミルクティーの入ったペットボトルを両手に持っていた。そのうちの一本が彼方の頬を直撃したらしい。
厳つい表情をしている彼方に構わず、妃那はミルクティーを差し出す。
「ティータイムにしませんこと、彼方?」
「馬鹿?」
彼方は人の耳で聞き取れる最低限の声で言った後、コンクリート剥きだしの薄汚れた壁に貼ってある張り紙を指した。そこには飲食厳禁、足音厳禁、音声厳禁と英語で丁寧に記載されていた。幼い頃から彼方も、妃那も英語という言葉が溢れているウィーンで暮らしているのだから理解できないはずはない。
それでも妃那はミルクティーを差し出した手を引っ込めない。どうやら、ここへ来た理由を忘れているようだ。世界に名を轟かす名奏者が集うコンサートを蜜柑は一年一回、自ら主催し、自らも出演している。そのコンサートに彼方達は音楽の技術を盗む為に舞台裏まで見せて貰っているのだ。勿論、それは彼方の母が主催者であるから可能なのだが。
「母、格好いい。やっぱ、憧れだよ」
彼方は感嘆の呟きを漏らしつつ、舞台の風景を見入る。
トランペット四名が一斉に息を吸い込んでから、一つの音色が会場中を包み込んだ。
全く、ぶれのない音色は聴く者、全ての心を震わせる。彼方の心も震わせていた。
トランペットの音が合図であったかのようにフルートが美しい旋律を奏でて、それにサックスが便乗する。オールバックに髪を整えた彼方の知るナイス紳士な瞳坂晋太郎がタクトを振りながら、ちらりとホルンに視線を送ると鳥が水面に波紋を起こすようにホルンがピアニッシモからピアノへと徐々に移行させてゆく。そして、完全に主流へと紛れ込む。作為的なものを感じない。溶け込むミルクティーのミルクのように。
初心者はピアノという記号をただ、音量を下げて奏でると勘違いする節がある。弱くという日本語が勘違いさせるのだろう。プロ達はリハーサルで打ち合わせをしている訳でもないのに楽曲の一小節、一小節に相応しい付加効果を記号という曖昧な表記から読み取り、それらを実践しているのだ。センスという言葉は付加効果をどのように付けてゆくか? という点でほぼ決まる。
彼方と妃那は既にセンスという言葉を追求する存在になっていた。一つ、一つの音を耳で捉えて、優しい雰囲気を醸し出すピアノ、激しく勇ましいフォルテ、激しく響くピアノ、急激な変化を伴うクレッシェンド等の記号を頭に描く。自分ならば、このように奏でるだろうと。彼方の頭の中には金管楽器、木管楽器、打楽器に至るまで楽譜が入っていた。頭の中の楽譜は既に朱色に塗れている。
「マザコンなの? 馬鹿?」
妃那は彼方の横にあったパイプ椅子に腰掛けた。軋む音を耳にした彼方は内心、何処か、速く行ってくれないかなと舌打ちしたいくらいに苛ついた。だが、日本流のコンサートという性質上、不可能だ。
しばらくして、妃那もやっと、コンサートの情景に目を向けていた。おもむろにキムチの入ったビニール袋を、肩に提げていたポーチから取り出す。密閉されていて、鼻をつくような悪臭はしなかったが、赤々しいお姿はキムチそのものだった。
悪魔が野に放たれる前に彼方は駄目と両手でばってんマークを形作る。顔を顰めた後、妃那は従った。
「お父様、格好いいですわ。けれども、わたくしの夫である葉瀬彼方には適いませんわ」
「そうかな? 僕は堂々と指揮棒を振る姿なんか真似できないけどね」
「お父様は指揮をするにあったって、ほとんどの楽器の基礎を学んだと言ってらしたわ」
「だから、チューバが五本、トランペット七本、フルート三本、サックス十本、ホルン四本とか、あるんだ。長年の謎が解けたよ、妃那」
「後付ですけどね」
二人が次の曲に移るまでの休憩時間を利用して小声で会話をしていると、何処からともなく死にそうな声が聞こえてきた。
「もっと……描きたかった。私の曲を!」
彼方はその声の主を捜して、首を右往左往する。その音源はすぐに特定された。隅に置かれた譜面台の上に載せられた譜面から声は聞こえたのだ。
「え!」
「ちょっと、彼方。舞台裏よ」
責めるような目つきで彼方を妃那は睨み付けた。
「すみません……けど、声?」
踵を返した彼方が目にした者は、妃那ではない別の何かだった。巨大な黄色い羽毛に覆われた雛がパイプ椅子に人と同じように腰掛けていた。
雛は彼方の困惑した瞳を円らな瞳で覗き込んでいた。
円らな瞳が怖い。その中に浮かぶ無防備な好意が有機物であるかのように手で掴めそうだ。かつて……幼稚園の鶏小屋で飼育係だった彼方は円らな瞳がキュートだと言って内緒で一羽を自分の家に招待したくらいだった。今は円らな瞳が無性に怖いのだ。全てを見透かされ、こちらも見透かしているような気がする。
「どうしたんですの?」
「雛?」
「わたくしに決まっているではありませんか?」
羽根をばたつかせている雛を、妃那を彼方は無視する。そして、次の曲の為に舞台を整えているスタッフの慌ただしい動きを確認する。彼方の心には荒波が何度も人々を攫っていた。収まる様子がない。
「雛」
何気に呟いた独り言と共に今までで最大級の波が彼方を攫っていった。
人間のスタッフであったはずの存在が、別の種に変わっていた。ナメクジが這い回りながら、健気な歩調でティンパニーを舞台の方角へと運んでゆく。甲虫が羊の背中に譜面台を乗っけている。猿が図面を見ながら蟻にこれはこっちだと言いながら指示をしている。
「鳥、牛? 犬?」
彼方自身が口に出したような動物も含めて、様々な動物が舞台から舞台裏へと、舞台裏から舞台へと行き来している。呆然と立ちつくすしかなかった。脇からは冷たい汗が流れ、夏とはいえ、効き過ぎな空調も相まって背中の汗の作用で氷を背中に引っ付けているような悪寒がした。いや、それが故の悪寒ではない。
母はどうなったのだろう? 母だけは人間でいて! 僕を異様な世界から連れ出して!
「ちょ、ちょっと、彼方」
妃那と違う。妃那じゃない動物の声なんか彼方は聞く気にもなれずにその言葉を最後に耳を塞いで、舞台へと走り出した。
舞台の垂れ幕が下がっていて、客席と遮断されていた。だが、私語が許されるはずはない。まだ、コンサートは続いている。
「みんなが動物になってゆく。僕がおかしくなったのだろうか? これは夢なのだろうか?」
そう呟きながら彼方は母、蜜柑を見た。そこにいたのは陰気な顔をした真っ白い猫だった。どことなく、白い毛や、白い髭に気品を感じるが彼方の求めていた者とは違う。
「彼方ちゃん、だ、」
蜜柑は彼方に話し駆け寄ろうとするが、拒絶するように耳を塞ぎなら舞台裏にいる雛すら目もくれずに扉を両手で開き、誰もいない蜜柑の控え室に駆け込んだ。そして、すぐさま鍵を掛けた。鍵が掛かっているか、何度もドアノブを回して確認して、やっと一息吐く。扉に背中を滑らせながら尻餅をついた。
それを待っていましたと言わんばかりに勇ましい叫び声がテーブルの上に置かれた楽譜から発せられる。
「私はまだ、描いていたかった私だけの音の螺旋を!」
「楽譜が喋っている。なんで?」
何処かに仕掛けはないのか? これは蜜柑や妃那が彼方の為に仕掛けた意地の悪いどっきりではないのか? と一縷の望みを込めてソファーをひっくり返したり、空のトランペットのケースをひっくり返した。そして、彼方は真実を映し出す鏡という道具を覗き込んでしまった。
「僕の瞳……黒い」
虹彩から色が飛び出したかのように全体的に黒く染まっていた。彼方自身でなければ、左目がどの方角を見ているのかわからないだろう。
「不思議な小僧だな。お前には音楽の神様という奴が付いているやもしれんな」
楽譜が穏やかな声ながらも嬉々として言っているのが、彼方に伝わってきた。拳を握り締めてテーブルを両手で叩いた。
「冗談じゃないよ」
自分でも驚くほどの低い声が口から飛び出た。
楽譜の嘲笑う声が部屋中にしばらくの間、響き渡った。
<八>
人々の意識は空を飛ぶ。意識というのは常に冒険者なのだ。つまりは役立たずの部長は窓から眺望できる路面電車を眺めたり、その周辺を通る人々の数を数えつつ、思い出の中に飛び込むことで最高の現実逃避をしているのだ。
彼方は暇を持て余していた。椅子に座りながら、椅子の脚を床から微かに浮かせたり浮かせなかったりを何度も繰り返していた。
なんとなく切なくなる放課後に彩りを添えるサックスの哀愁に満ちた音を邪魔するように彼方の奏でる椅子の音色は不協和音を生む。手に持ったトランペットは夕日の陽を浴びて光を反射させていた。
昼間は購買室だったがいや、今でも購買室だが……。それを無視して熊部の彼方、妃那とマスコット的な存在のふわりは銘々に椅子に座っていた。
いつの間にか、サックスの音はぴたりと止んでいる。
「部長! 部長!」
「あ、はい。どうしたんですか? 妃那さん」
刺々しい妃那の声にようやく、空飛ぶ意識を自分の中に取り戻して首だけを向けた。欠伸が出た。人間だからしょうがない。
「ふわりを止めて下さい。あの子、何してるんですの?」
「わん、にゃん、めぇー、しゃあぁ」
ふわりは横にしたチューバのベルに頭を突っ込んで籠もった甘声を発していた。何やら、遊んでいるようだ。
「さぁ? 僕はふわり観測所じゃないからね。とは言えね……」彼方は自分の両膝を叩いた。「ふわり、おいで」
その言葉を受け取ったのか、ふわりの身体は一瞬、ぴくっと震えた。直ぐさま、ベルから頭を出して四つんばのまま、彼方へと歩み寄り、彼方の膝に触れる。
「ままぁ。ふわりの声が変に聞こえたよ。ふわり、何処か壊れた?」
両膝にふわりを座らせてから彼方は答える。
「大丈夫だよ。いつもの愛らしい声」
「相変わらず、母子してるな、お前ら」
そう退屈そうに溜息混じりで声を吐いた彩夏は購買室の商品であるはずのクレープパンの封を切った。カウンターの上に座ると、クレープパンにかぶりついた。
自分も、と妃那はキムチの入ったビニール袋を通学鞄から取り出して封を開けようしたところを彼方の難色に溢れた顔を見て断念する。
「綾夏さんも練習して下さる?」
「あー、今日はパス。気持ちが乗らないんだ。ほら、勘で? センスでしょ、俺?」
「センスという言葉を激しく間違えてますよ」
「ままぁ、トランペット吹くわぉん?」
タオルケットの上に置かれたトランペットをふわりは手にとって、ベルの部分を彼方の頬にくっつけて悪戯娘ぽい笑顔を見せる。
「ふわり、僕は」
「怖くないもぉ。こうするにゃん」
ふわりはとっさにトランペットに装着されたマウスピースに唇を当てた。首を振りながら頬に息をため込むが、風のような微音しか鳴らなかった。それでも顔を真っ赤にして音を鳴らそうとする。
「わかった。やってみる、か」ふわりからトランペットを手渡してもらい、マウスピースの穴を凝視する。「よし!」
「よし! 間接キッス、キッス、キッス、キッス!」
食べかけのクレープパンをゴミ箱に投げ捨てて、音頭を取る彩夏。
「にゃん、わん、めぇ、もぉ、うきゃあん」
音頭に反応して、奇声を発するふわり。
「ロリコンですわね。婚約解消してよかったですわ。お幸せに」
婚約解消はまた、別の理由なんだけどなぁと心の中で妃那の発言に突っ込む。
「連中の声は幻だ彼方」
集中できない周囲の雑音をかき消すようにマウスピースだけを真っ直ぐ、見つめる。心なしか、手が震えた。
「おぉ、おぉ、おぉ」
妃那と彩夏がタイミングを合わせたかのように同じ言葉を言った。
「集中できませんよ。今日は以上! 今日はケーキ屋さんによって帰宅。お疲れ、皆さん!」
彼方はトランペットを素早くケースに仕舞い、熊の衝立の背後に置きながら早口で言葉を紡いだ。その言葉の通り、通学鞄を持ってさっさと歩いてゆく。
ふと、踵を返して突っ立っているふわりの手を引いた。
「敵前逃亡は良くないと言いたいところだが、ケーキは彼方部長様の奢りだよな?」
「当然ですわよね?」
綾夏は椅子を適当に廊下側の壁に並べて、妃那はサックスをケースに入れて手に持った。通学鞄は肩に通す。
「ままぁ、ケーキ、ふわり、一、二、三きゅん食べるしゃあ」
「仕方ないな、今日だけだよ!」
「今日だけがこの頃、続くな」
「何か、隠してません?」
「ふわり、ままぁの身体検査だ、ゆけ!」
「にゃん?」
「難しいか? それで良いんだ、ふわり」
ふわりさえ、居てくれれば良いんだよ。
それがふわりに通じているのかは左目を使わない限り、読めない。それが普通の生活なんだと夕陽を背に彼方は熊部とその関係者に囲まれてわいわい喋りながら下校した。