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赤月短編集

誘惑のリップスティック

 薬用リップスティックを手にした青年──(ケイ)が、夕焼けに照らされた教室で一人立ち尽くしていた。このリップスティックは一見するとただのリップスティックだが、その外見通り、やっぱりただのリップスティックだ。しかし人によってはただのリップスティックではなく、桂にとっては何物にも変え難いほどの、特別なリップスティックだった。


 では何故本来ただのリップスティックである筈のリップスティックが、桂にとっては特別なリップスティックなのか。それはこのリップスティックが、桂が好意を抱いている少女──杏海(アズミ)に貸してもらったリップスティックだからである。


 ◆


 桂が杏海にリップスティックを借りる事になったのは、何の変哲もなく終わる筈であった今日の放課後──先ほどの事だ。桂は放課後に教室に残り、帰宅部仲間の友人達と最近出たゲームの話や少年誌の話など、取り留めのない話をしていた。それもしばらくして誰からともなくお開きという事になり、桂達は全員で教室を後にし、校門の辺りまで行ったのだが──


 ふと今日数学の教師に出された宿題の事が頭を過り、気になって鞄の中を確認してみると、そこに宿題はなかった。これが例えば国語や英語の宿題だったのならそのまま気にせず帰ったのだが、数学の教師は滅茶苦茶厳しいのである。宿題を忘れたりすると、漫画のようにしばらくその場で立ってろとか言ってくる為、桂は教室までわざわざ取りに戻る事にした。


 めんどくせーと文句を垂れながら教室に戻ってきた桂は、自分の机から入れっぱなしにしていた宿題を取り出す。その時に宿題の内容にサッと目を通し、まためんどくせーと文句を垂らして、ついでにため息も吐いていたその時だった。流れる黒髪をツインテールに結んだ、高校生にしては少々小柄な体躯のクラスメイト、杏海が教室にやってきたのは。


 桂は杏海を一目見た瞬間、それまで抱いていた黒い感情が吹き飛んだ事を自覚し、現金だなと自分で思う。そして杏海と会うキッカケをくれた、宿題を出した数学の教師と宿題を置き忘れた自分のうっかりに、心から感謝した。クラスメイトの為桂は杏海と休日以外は毎日会っているのだが、放課後に会える事は殆ど──皆無と言えるほどないのだ。


 何故なら帰宅部の桂と違い、杏海はジャズバンド部に入っているので、放課後は音楽室に行くからである。少々話は変わるが、実を言うと桂が杏海を好きになった理由は、このジャズバンド部が深く関係していたりした。全ての始まりは、今年の文化祭の時に体育館で行われたジャズバンド部のライブで、杏海の演奏を見てからだ。


 普段の杏海はちっちゃな外見の通り可愛らしく、クラスメイトや友人達からは“あずにゃん”などと呼ばれている。しかしライブで多くの生徒を前に怖気付く事なくギターを巧みに操る杏海は、凄く真剣で、楽しそうで、格好良かった。その普段とのギャップが衝撃的で眩しく、見事に桂の心は射抜かれてしまい、そして恋に落ちてしまったという訳である。


 ──閑話休題。


 以前杏海と席が隣になってからというもの、それなりに会話を交わしている桂は、胸の高鳴りを抑えながら声をかける。それから教室に戻ってきた理由を尋ねてみると、偶然にもその理由は桂と同じで、宿題を置き忘れて取りにきたとの事だった。そして我ながら馬鹿らしいと思いつつも、桂は杏海が自分と同じ失敗をしたと知り、こうして放課後に会えた事以上に嬉しくなるのだった。


 俺も校門から宿題を取りに戻ってきたんだと笑って、桂はしばらくの間、二人きりの教室で杏海との会話を楽しむ。そんな中、不意に口元に刺すような痛みが走って顔をしかめると、杏海に唇が切れて血が出ている事を教えてもらった。普段から三個セットの安い薬用リップスティックをズボンのポケットに常備しているくらいに、桂は唇が乾燥し易いのである。


 しかしポケットに手を突っ込んでみるも、そこにある筈のリップスティックはなく、他の何処にも見当たらなかった。どうやら気付かない内に、おそらくは使用した後ポケットに入れ損ねたか何かして、何処かに落としてしまったのだろう。高い物でもないし、家に帰れば三個セットの内の残り二個があるのだが、まだあまり使っていなかったので少し落ち込む。


 そんな時、杏海がはいと小さくて柔らかそうな手を差し出してきたので、桂は一体何だろうと思いながら視線を向けてみる。するとそこには、桂がいつも使っている物と同じメーカーの、明らかに使用済みであるリップスティックがちょこんと乗っていた。そしてその意味が判らずにポカンとする桂に、少し頬を染めて微笑んだ杏海は、ポンとリップスティックを桂に握らせたのだった。


「……え? い、良いのか? コレを、俺が使って」

「あはは、おかしい。遠慮する必要なんて全然ないのに」

(いやいやいや、普通遠慮するに決まってるでしょ!?)


 同じリップスティックを使っている事に親近感を抱きながら心の中でツッコミを入れ、桂は再度確認しようとした。本当に男の俺が、杏海ちゃんの甘い果実のような唇に塗った使用済みリップスティックを、使ってしまって良いのかと。同性でならまだしも、二人は改めて言うまでもなく異性であり、もし桂が使ってしまえば間接キスになってしまうというのに。


 しかし、内心動揺しまくりの桂の気持ちを知ってか知らずか、杏海はそろそろ部活に戻らなきゃと踵を返し。また明日と手を振ると、引き止める間もなく教室を出て、そのまま音楽室の方へと小走りに去って行ってしまう。そして一人教室に残された桂はしばらくの間、手の平のリップスティックを見つめたまま固まってしまうのだった。


 ◆


 石化状態から何とか回復した桂は、件のリップスティックを手で弄び、自問自答しながら帰路を歩く。普通、特別親しい相手であるならまだしも、異性に自分が使用したリップスティックを貸したりするだろうか、と。答えは考えるまでもなく否である気がするが、しかし実際に貸してもらっているので、その理由について考えてみる。


 まず最初に桂が考えたのは、渡す際に頬を赤らめていた事から、杏海は自分に気があるのではないか、というもの。それならば、例え異性であっても好きなのだから、恥ずかしながらもリップスティックを貸す理由には十分なりえるだろう。ただ問題は、男女問わず人気のある杏海が、これといって取り得のない自分なんかを好きになってくれるとは思えない事だ。


 杏海ちゃんが俺の事を好きだったらどんなに嬉しいか、と桂は自分と杏海が恋人同士になった光景を思い浮かべる。手を繋いで登校したり、昼休みに手作りのお弁当を一緒に食べたり、休みの日には私服姿の杏海ちゃんとデートをしたり。そんな妄想をしてニヤケ顔になっていた桂だが、その自覚はなく、すれ違った人に不気味がられている事にも気付かなかった。


「ふふ、ふふふ……」

「……キモッ」


 次に桂が考えたのは、リップスティックを貸したのは、友達同士でするジュースの回し飲みのような感覚でした可能性。杏海は回し飲みなどをするタイプには見えないが、先ほどの理由よりも大分現実的で、有り得ない事では決してないだろう。そういえばいつだったか、口に合わないからと食い掛けの菓子パンを杏海ちゃんにあげたら、普通に食べてたしな、と思い返す。


「……って、その時は何でか気付かなかったけど、間接キスしてるじゃねーかっ!?」

「──ひぃっ!?」


 衝撃の事実に思わず頭を抱えて大声を上げた桂は、すれ違った人に怯えられていたが、やはり気付かなかった。そして気付かないまま、桂は間接キスの事を今は隅に置いておき、リップスティックについて再び考えを巡らせ始める。


 実は仲がそこそこ良いと思っているのは自分だけで、そこら辺に落ちていた物を渡した可能性も、あるのではないだろうか。何てかなりネガティブな事を考えてみたが、杏海は例え嫌いな相手でもそんな事をしたりはしない、シッカリ者で優しい子である。なので絶対に有り得ない事だと言い切れるし、そんな事を考えるなんて杏海ちゃんに対して失礼だ、と桂は怒りを露わにするが──


「って、考えたのは俺自身だった!」

「何がっ!?」


 もし渡されていたのが一度も使用されていない新品のリップスティックだったなら、こんなに悶々とせずに済んだだろう。真面目に見えて、いたいけな青少年を惑わす小悪魔キャラなんだろうかと、桂は悪魔の羽を生やす杏海の姿を想像してみる。あまりシックリこないが、杏海ちゃんになら魂を差し出しても良いとウットリしつつ、見知らぬ人のツッコミを無意識にスルーした。


(──と、色々な可能性を考えておいてなんだけど……)


 杏海ちゃんが自分の事を好きか嫌いかなんて、今はどうでも良い事かもしれないと、不意に桂は考えを改める。何故なら杏海の気持ちがなんであれ、この手にあるリップスティックが、使用済みの物である事に変わりはないのだ。つまり、欲望の赴くままに、大好きな杏海と間接キスする事も、思う存分ペロペロする事も、噛り付く事もできるのである。


 理性という名の天使が、人の好意を無碍にするような事をしてはいけないと言っているのが、何処からか聞こえてきた。その一方で、欲望という名の悪魔が、理性なんてつまらないものは捨てて、自分の気持ちに正直になってしまえと耳元で囁く。理性、欲望、常識、間接キス、良心、ペロペロ、正気、噛り付き──桂の頭の中に、天使と悪魔の言葉が交互に響き渡った。


「……俺は……俺は……っ! うおおおおおおおおおおおッ!!」


 相反する意見で胸中に生まれた、渦巻くモヤモヤとしたモノを吐き出すように、桂は雄叫びを上げながら走りだす。不審者として通報される可能性など考える余裕もなく、ましてや実際に通報されかけていた事など、知るよしもなかった。結局桂はそのまま自宅まで走り抜き、夜遅くまでリップスティックを手に一人、理性と欲望の戦いに悩まされるのだった。


 そして、悩み抜いた結果、桂が選んだのは──


 ◆


 ──翌日。昨晩“やってしまった事”に自己嫌悪しながら登校した桂は、幸か不幸か校門の前で杏海とバッタリ出会った。いつもであれば、並んで歩けてラッキーと内心浮かれているところなのだが、自業自得な事に今日はそうもいかない。杏海の顔をまともに見る事ができず、気付かれないようにため息を一つ吐きながら、しかしやるべき事はやっておく。


 やるべき事とは何かと言うと、昨日の放課後に桂が杏海から借りた、件のリップスティックを返す事である。ちなみに返そうとしているリップスティックは新品の物なので、これ以上駄目人間な俺を嫌いにならないでほしい。と誰にともなく言い訳をしたところで、桂は杏海にリップスティックを返すと伝えたのだが──予想外の返答があった。


「え? 返す必要ないよ?」

「……へっ? でもアレ、杏海ちゃんが貸してくれた──」

「ごめん、昨日みたいな渡し方だと勘違いしちゃうよね。あれ……桂くんのだから」

「な、なんだってー!?」


 詳しく話を聞いてみたところ、どうやら件のリップスティックは、一昨日桂が落とした物だったようだ。それを偶然拾った杏海だったが、昨日の放課後に桂が唇を切った瞬間まで、うっかり返すのを忘れていたらしい。なるほどそういうオチかと桂は納得し、また改めて考えると、何でこの答えを思い当たらなかったのかと不思議に思った。


 しかし、そうか、と桂は杏海の物を欲望のはけ口にせず済んだ事に安堵する一方で、途方もない空虚感に襲われる。ご飯が喉を通らなくなるほどに悩みまくり、最終的に欲望に負けてペロペロしたリップスティックは、俺の物だったのか、と。何と言うか、今日までの自分がした一連の行動を思い返してみると、色々と情けなさ過ぎて無性にヒザを抱えて泣きたくなった。


(……はは、ははは、はははははっ……ちくしょう)


 今回の事をバネにして、卑怯なマネをせずに正々堂々、杏海ちゃんとキスできる関係になれるよう頑張ろう。そう思う良いキッカケになったという事で落ち込んだ気持ちに区切りを付け、桂は首を傾げる杏海に微笑み掛ける。そしてまずは、今度の休日辺りにでも何処かへ遊びに行こうと誘ってみる事に決め、よしっと拳を握り気合いを入れた。


(──それはそうと、件のリップスティックが俺のなら、どうして杏海ちゃんは渡す時に照れていたんだろう?)


 そんな桂の疑問が解消されるのは、まだ少しばかり時間が掛かる。

聞いていた某曲にリップスティックが登場し、某アニメで薬用リップスティックのネタがあった事を思い出した結果思い付いた、我ながら酷いネタの作品です。ヒロインの女の子が某あずにゃんを模して作られているのは、ネタの内容がペロペロだからという非常に適当な理由から。


H23.3/8に、一人称から三人称に改訂しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 続きが気になります。是非続編を!
[一言]  三人称に改訂された、ということでもう一度感想を。  改訂前よりも杏海ちゃんとの交流の補完がされていて、「おっとこれはもしかして」と頬を緩ませながら読み進めることができました。  桂くんの容…
[一言] こういう甘酸っぱくて背中がゾクゾクするような展開のお話は大好物ですね。 徐々に進展していくような様子をもっと読みたいと思ってしまいました。 あかいつき。さんもご自身で仰せですが、ちょっと1…
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