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僕と彼女  作者: 白菫
9/9

目が覚めた僕は、病室にいた。賢さんがベッドのそばでうたた寝をしていた。起きあがろうとする僕に気がついて

「もう大丈夫なのか」

と心配そうに尋ねる。僕は賢さんに軽く頷いて体を起こした。

「先生を呼んでくるからな、ちょっと待ってろ。」

そういうと賢さんは病室を出て行った。残された僕はただ空を眺めて賢さんが戻ってくるのを待っていた。医師を連れて賢さんが帰ってくる。ただの過呼吸だと告げられ、家に帰ってからも安静にするよう忠告を受け、僕は解放された。賢さんが心配だからと家まで送ってくれた。

僕の家だと連れてこられたのは、砂浜に面した眺めのいい間取りの一軒家だった。

「目を疑うほどの素敵な家だね。」

思わずそう言った。賢さんは少し不思議そうに僕を見つめた。

「冗談よせよ。桜依ちゃんとの思い出だろ。」

「桜依ちゃん?」

僕が首を傾げる。賢さんは怯えたような表情になった。

「信、まさか、また。」

病室でも感じた。僕は何か忘れているような気がする。誰かのことを忘れたんだ。そう思った。「桜依」その人のことを。そう思うと何故か息が苦しくなった。涙が頬をつたう。胸が苦しくなるのがわかった。

「深呼吸だ。大丈夫だから。何も考えなくていい。」

賢さんがそう言った。深呼吸をする。もう意識を失いたくない。

「もう」これで何度目なのだろう。僕が意識を失くしたのは。そんな思いが僕の中で沸いた。

落ち着きを取り戻した僕に、賢さんは僕の失った記憶を話してくれた。それでも、何も思い出すことはできなかった。

「今日はもう休んだほうがいい。何も考えずにゆっくりするんだ。」

そう言って賢さんは帰って行った。

一人になった僕は、聞いた話のせいか、何故だか懐かしくも悲しい気持ちになった。ただ賢さんは何故「また」と言ったのか、引っかかった。記憶をなくしたのはこれが初めてではないらしい。自分が大きな事故に遭ったことは覚えている。その時だろうか。その時、その「桜依」という女性がそばにいてくれたのだろうか。なぜかそう思うと心が温かくなるのを感じた。彼女は僕にとってきっと大切な人だった。それでも僕は忘れてしまった。賢さんのことは覚えているし、僕がこれまで送ってきた生活だって覚えている。とても鮮明だ。だけれど、空白の数年間が僕にあるのは確かだった。

その夜、僕は夢を見た。何とも幸せな夢だった。


だが、

目覚めた僕がその夢を思い出すことはなく、ただ僕の頬には涙の跡が残っているだけだった。


僕はそれからごく普通に過ごした。

朝食を済ませて、身支度をし、賢さんの喫茶店に足を運ぶ。いつもの席に座って、紅茶を楽しんだ。物書きも再開している。長い間、休暇をとっていたみたいだ。店内を眺めながら文字を綴る。客足の少ない日は賢さんと世間話をして、週に一回はドライブに行く。それなりに楽しかった。

だが、いつからだろうか。

僕の心はいつも空虚だった。何かを失くしてしまったかのように。何かを忘れているかのように。そして、いつも同じ夢を見ている。とても幸せで、懐かしく、それでいて悲しい夢。だが、どう足掻いてもどんな夢だったのかは思い出せなかった。影がかかっているかのように、どうしても思い出せない。

いつの間にか僕は思い出すこともしなくなった。

ただ、僕の家には誰かが一緒に住んでいたような跡が今も残っている。誰なのか分からないが、何故か気味が悪いなんて思いもしなかった。寧ろ、残しておきたい、そう思った。忘れたくなかったようにも思えた。賢さんが言っていた。その人はとても綺麗な人だったと。とても心の優しい人だったと。僕がこよなく愛した人だったと。


そんな日々を送って、また冬が来た。

二月一日

静かな夜に一人、僕は砂浜に座っていた。

雪が降り始めた。

今日は何故か特別な日のような気がした。

ジャスミンの香りがどこからともなく漂ってきて僕を包み込む、

そんな気配がした。


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