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僕と彼女  作者: 白菫
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いつか

それは突然起きた、一瞬の出来事だった。ボールを追いかける少女が僕を追い越していった。道路に飛び出してなお跳ね続けるボール。スローモーションのように見えた。道路を走るトラックは止まることができず、クラクションを鳴らしている。少女には目の前のボールしか見えていないようだ。

思うより先に足が動いていた。

僕は飛んでいた。宙を舞いながら、彼女が待っているのになんて考えていた。自分の骨という骨が砕ける音がした。衝撃と共に僕は地面に叩きつけられた。消えていく意識の中で、少女がしゃがみ込んで泣いているのが見えた。

意識が途切れ途切れになっていく。誰かが僕を呼んでいる。くぐもった音だ。サイレンが鳴っているようにも聞こえる。光がちらつく。持ち上げられているのか。誰かが僕に触れる感覚がかすかにした。


目を覚ますと綺麗な女性が僕の顔を覗き込んでいた。綺麗だ、とただただ思った。だが、とても窶れて見えた。申し訳なくなって僕は、

「ありがとうございます。」

と声をかけた。

僕は記憶を失くしていた。彼女は、僕が何者で、彼女は僕の何なのかを話してくれた。僕は物書きらしい。そしてこんな綺麗な彼女は僕の婚約者らしい。目を覚ます前の僕は、とても幸せ者だったらしい。

次の日、僕は目を覚ますと、綺麗な人が病室に来た。僕の方を悲しそうに見て、僕の名前や彼女の名前を教えてくれた。僕は眠りにつくと記憶がなくなっていた。少しずつ、眠ることが怖くなっていった。そんな日々を繰り返してどのくらい経ったのだろう。

ある朝、目が覚めると、僕は自分の名前を覚えていた。自分が何者であるのかも。病室にいたが、自分で起き上がれるほどに体は何ともなかった。家に帰ろうと思い立ち、病院を飛び出した。その夜、僕は自分のベッドで眠りについた。落ち着く、ただそう思った。

次の日は、早速いつも行っていた喫茶店に足を運んだ。喫茶店に入ると、賢さんがいつものように珈琲を淹れていた。いい香りだ、咄嗟にそう思った。

「どうも!」

賢さんに手を振る僕を見て、彼はとても驚いているように見えた。

「紅茶を淹れてくれるかい?」

彼に注文して、端の席に落ち着く。僕が手帳を片手に店内を眺めていると、紅茶のポットとカップを持って、賢さんが席に近づいてきた。

「だ、大丈夫なのかい?」

彼は心配そうに僕を見る。僕の体の隅々まで舐め回すように眺める彼は、いつもの気さくさはなく、少し滑稽に見えた。

「平気だよ、ありがとう」

にこりと笑顔を返す僕を見て、少しホッとしたように彼はカウンターに戻っていった。

次の日も、その次の日も、これまでもそうしてきたように、喫茶店に通っては気ままに書き物をする。ゆっくりとただ平和に時間が流れた。


だが、そんな日々に突然、波が訪れた。荒波だ。僕の心を掻き乱し、記憶に亀裂が入っていく。喫茶店に颯爽と現れたその人はとても美しかった。何度も見惚れてしまうほどに。彼女を見たその日から、僕の中で何かが変わっていくのを感じた。少しずつそして着実に。悲しそうに笑う彼女のことが気になって仕方なかった。僕はそんな彼女に会うたびにどこか懐かしさを覚えていた。


カーテンの隙間から差し込む日差しに起こされて、眠たい目を擦りながら朝食を済ませる。支度をしながら、ふとある女性のことを思っていた。彼女は今何をしているのだろう、そう思って僕は携帯を取り出した。連絡先から彼女の名前を探す。

あ、見つけた。

彼女の名前を見つけて笑みが溢れる。僕は知っていた。最初から、ずっと。僕の大切な人の名前。すかさず発信ボタンを押した。

「もしもし⁈」

彼女のか細い声が聞こえた。嗚呼、彼女だ。

「桜依、やっと見つけた。」

彼女は泣いていた。僕の頬にも涙がつたう。

彼女はいつもそばにいてくれた。僕が思い出す今日まで。家を飛び出した僕は、彼女に会いにあの砂浜を目指した。

彼女は変わらずそこにいた。少し窶れた顔であの息を呑むほどの美しい笑顔を僕に向ける。涙を拭いながら彼女が僕を抱きしめた。温かかった。

「もうどこにも行かないで。」

彼女は僕の胸に顔を埋めたまま呟いた。僕は彼女をぎゅっと抱きしめて答えた。

「僕は何度でも君に恋をするよ。」

もしもまた、僕が記憶を失くしてしまっても、きっと僕は彼女に出会って恋をする。そう確信した。


それからの生活は何とも言えぬ幸せな日々だった。朝目が覚めると、隣には彼女の輝く寝顔があった。役所へ婚約届を出した僕らは、あの砂浜のそばに新居を設けた。彼女の寝顔を横目に、珈琲を淹れ、紅茶をカップに注ぐ。香りに誘われて眠そうな目を擦りながら彼女がベッドから起き上がる。そんな様子をいつまでも見ていられる。僕は幸福を噛み締めた。彼女が仕事に出かけると、僕も賢さんのいる喫茶店に足を運ぶ。隅の席で珈琲をもう一杯。夕方には彼女が店に顔を出す。閉店まで話し込んで、賢さんも引き連れて3人で居酒屋へ。それが金曜日のお決まりのパターン。他の日は家でゆっくりと夕食を済ませて彼女とベッドに飛び込み眠りにつく。

そんな日々がこれからもずっと続くと思っていた。

続いてほしいと思っていた。


しかし

その願いは儚く散った。


彼女の身体に異変が起きた。出社後すぐに、彼女は倒れて、病院に搬送されていた。僕は連絡を受け、すぐに駆けつける。病室でベッドに横たわる彼女の顔は真っ青だった。

「再発したの。」

彼女はそう一言。涙が彼女の頬で光っていた。

「余命半年だって。」

彼女は呆れたように笑った。

「きっと治る。」

僕は、無責任にも根拠のない言葉をかけるほかなかった。彼女は僕を見つめて悲しそうに微笑んだ。僕の記憶が失くなっていた時に見せていた笑みだった。僕はそんな彼女を見ていられなくなって、病室を飛び出してしまった。病院の駐車場で僕は、人目も気にせずに泣きじゃくった。子どもが泣くように。彼女の方が辛いはずなのに、僕は目から流れる涙を止めることができなかった。

僕はその日、彼女の苦しみを一緒に背負うことを心に誓った。

その後病室に戻ってきた僕を彼女が咎めることはなかった。ただ彼女が言ったのは、「ごめんね。」の一言だけだった。あの悲しげな微笑みを浮かべて。そんな彼女を見つめて僕は、

「これから一緒に戦うんだ。僕は諦めないよ。」

そう告げた。

その日から、彼女との闘病生活が始まった。彼女は僕に苦しい顔ひとつ見せなかった。僕も彼女の前では一層明るく振る舞った。彼女との一日一日が僕にとっては大切だった。彼女とのひとときを絶対に逃すまいと必死だった。医師からの制限はあれど、できる限り彼女がしたいことを優先した。旅行も欲しいものも何でも準備しようと思っていたが、彼女の求めたものは至って素朴な願いだった。

「二人でいたいの。」

彼女にやりたいことを聞いた時、僕に言ったのはただそれだけだった。それからは多くの時間を彼女と過ごした。僕らの消えた一年を取り戻すように。

病院内でピクニックをしたり、賢さんの喫茶店で出会った時のように話したり、あの砂浜で日が暮れるまで過ごしたり。

そんな日々を過ごすうちに、彼女の体は、少しずつ回復してきていた。僕はきっと治ると信じ続けた。信じれば信じるほど、何ともなかったかのようにまた彼女と一緒に暮らせる日が来るのではないかと思ったからだ。

彼女との将来を願い、僕は彼女との結婚式をしようと計画を立てた。彼女の誕生日の二月一日、僕が彼女にプロポーズをした時と同じ日にまた彼女に誓いたかった。賢さんにも手伝ってもらいながら彼女には内緒で計画を立てる。以前よりも計画にかけられる時間は少なかった。大急ぎで式場を予約し、病院からの許可を取り、プランナーさんにも協力してもらい、彼女にきっと似合うドレスを選んだ。二人だけの大切な日にしたい。ただそれだけを願って、準備をした。


彼女の誕生日が近づいてきた。

あと1週間が過ぎた頃だった。

その日、冷たい雨が降っていた。駐車場から病院内に行く数メートルで濡れた服が、僕の体を冷やしていく。服が乾く間も無く、僕が病室に着いた時、彼女の病室は騒がしかった。

彼女の病態が急変していたのだった。

看護師さんが駆け寄ってくる。何か言っていた。病室には彼女の脈をそのまま音にしているであろう金切り声のようなピッ、ピッという音が、忙しなく危険信号のように鳴り響いている。何が何だか分からなくなり、彼女のベッドの方へ向かおうとする。そんな僕を看護師が必死に止めようとする。彼女のそばに辿り着いた時には、騒がしくなっていた電子音は、ピーッという一直線の何の希望も無くなってしまったような音を鳴り響かせていた。その音がだんだんと遠のいていくのが分かった。全ての雑音が消えていく。くぐもった音が僕の心を掻き乱す。ベッドに横たわる彼女の目にはもう何も写っていなかった。担当医がそっと彼女の瞳を閉じている。そしてそのまま振り返り、何か僕に話しかけてきている。何を言っているのかわからなかった。一言も理解できない外国の言葉のように、僕の頭の中で医師の言葉は僕の理解できる文字には変換されなかった。僕はただ、目を閉じて眠っているような綺麗な彼女の顔を眺めながら、その左手にそっと自分の右手を被せた。とても冷たかった。彼女をただ呆然と見つめ続けながら、何時間もそうしていたのだと思う。

賢さんと彼女のお兄さんが病室に来た時には、彼女の綺麗な顔には白い布が被されていた。僕の隣に立つ賢さんは、僕の肩をさすりながら目を真っ赤にし、鼻を啜っていた。彼女の横たわるベッドの足元に、僕と同じように唖然として立つ彼女のお兄さんは、両手のひらに爪の跡がつくほど拳を握りしめ、唇が微かに震えている。僕はそんな二人に、

「彼女との式に来てほしいんだ。」

そう言っていた。

そんな僕を見て賢さんは苦しそうに

「もちろん行くよ。」

と答えてくれた。


それからどんな日々を送ったのか記憶にない。きっと葬儀が行われたのだろう。賢さんから、彼女の病室に手紙があったと聞かされたのは、彼女の遺骨をあの砂浜で海に流している時だった。これも彼女の意志だった。墓に入れられるなんて真っ平だと笑いながら僕に話していたのを今更ながら思い出した。それが本当になるなんて、あの時の僕は想像すらしていなかったのに。青い海に白い粉がそっと紛れ込み、流れていく彼女の遺骨からほのかにジャスミンの香りがしている。彼女にはわかっていたのかもしれないな。彼女にはやっぱり敵わない。

「信、君宛だ。」

そう言って白い封筒を僕に渡してきた。


―私の大切な信さんへー


封筒にはそう書かれていた。


―きっと私はあなたを一人ぼっちにさせてしまう。ごめんなさい。でもね、私ね、あなたと出逢うことができて、とても幸せでした。素敵な時間をありがとう。きっとあなたは悲しむでしょう。でもね、あなたには笑っていてほしいの。例え、私を忘れてしまっても。

あなたを愛する妻、桜依より―


彼女の言葉はとても簡素だった。彼女らしかった。彼女は最後まで綺麗なままだった。そして彼女は何より知っていたのだ。自分の病気が治らないことも、命の燈が尽きる日が近いことも。それでいて彼女は最後のひとときまで僕に微笑んでいた。これまでも、そしてこれからもそうしていることが当然かのように。僕は違和感にすら気がつけなかった。ずっとそばにいたはずだ。僕は、彼女を見ていたはずだったのに。

目尻が熱くなった。頬に涙がつたう。僕は彼女がいなくなったことを実感した。息が苦しくなる。視界が揺れる。身体がいうことをきかない。胸が締め付けられたように痛かった。

「大丈夫か。」

賢さんが話しかけている。ただただ息がうまくできなかった。そのまま僕は意識を失った。


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