本編
「宇治拾遺物語」五色の鹿の事 を下敷きにしています。
「お話をして?」
幼い娘が、お茶の後、膝にまとわりついて請うた。
街を駆け回り、翠炎城では義父の補佐に入る、忙しい日常を送る男も、吹雪の午後はさすがにのんびりと妻子と過ごす。
「ああ、いいぞ。」
抱え上げて、暖炉の前の長椅子に移動した。娘を挟んで妻も座る。いつしか、これが一家の炉端語りの流儀になっていた。
「どんな話がいい?」
自分と同じ、朱金の髪を撫ぜながら問えば、娘はやや沈思した。妻は黙って見守っている。暖炉で薪が爆ぜる音だけが響く、穏やかな時間だ。これだけでも心が満たされていくが、きらきらとした目が真っすぐに見上げてくるのは、もう言いようもなく、男は蕩けるような笑みを浮かべた。
「動物が出てくるお話。」
「・・・では、」
男は軽く目を伏せて、自分の中にある御伽噺を話し始めた。
1
昔、むかし。
深い山の、とりわけて緑の濃い山の奥に、それは立派な鹿がありました。角は遠き南の花陸の海で採れる白珠のような艶やかさで、何より体の色が、この世に二つとない五色でございました。世の中に二つとない珍しい姿でありましたから、両親は、世にも珍しい毛皮をきっと人間は欲しがって、五色の鹿を狩りに来ることを恐れたのです。本来ならば群れで暮らすものを、人間が足を踏み入れることのない、深い深い森で暮らすようにと、両親は幼い鹿に含めたのでした。
険しい山々を越えて深い緑を分け入って来れるような人間は現れませんでした。
五色の鹿は、体の色も特別でしたが、普通の鹿よりもずっとずっと大きく逞しい体に成長しましたので、他の動物たちも畏れて、鹿の領域からいつの間にか姿を消していきました。
五色の鹿は、それは長いこと一人きりで深山に過ごしていました。鹿の体色にはない森の色は、馴染むことを許さず、よそよそしく鹿を浮きたたせていました。でも、そんな様を指摘する誰も、ずっといません。
ある日。朽ちた古木の、遺された大きな株の近くで、鹿は草を食んでいました。
落雷で焼けた、灰色の樹皮が風でめくれたのかと最初は思いましたが、それは鳥でありました。遠くから渡ってきたのか、ひどくぼさぼさな羽をしています。大きな鹿に気づいて怯えたように首を動かして、高い梢へとよたよたと不格好に飛んでいきました。久しぶりに水面に映る己以外の生き物を見た鹿は、暫く緑の葉の中に気配を探しましたが、すでにどこにもなく、ため息をついて食事を再開しました。
飛び去ってしまったと思った鳥でしたが、森に留まってはいるようで、翌日も翌々日も、・・そう、十日あまり、鹿は森の空気が時々騒めくのを感じていました。
「降りてこないか? 君には私が見えるけれど、私に君が見えないのは不公平だと思うんだ。」
梢の高いところに、鹿はとうとう呼びかけていました。
「私は君をつついたり、蹴とばしたり、ましてや取って食ったりはしない。」
しん、と静まった林間に小さな羽ばたきと葉擦れの音がしました。ためらいがちに、鹿の頭上の梢に、その鳥が姿を現しました。
昔、森にいた鳥たちは、鹿には敵いませんでしたが色とりどりで可愛らしくありましたし、季節の移ろいとともに上空を行く渡り鳥たちは渋い色合いの力強い翼をみせます。
けれど、この鳥は----長旅の疲れは取れて羽毛の荒れは収まっていましたが、それでもみすぼらしい鳥でした。色合いが何ともさえない、大筆でのっぺりと塗ったような、燃えかすの灰色でした。鳥は美しい五色の鹿を前に、恥じたように体を半分以上葉の中に隠しています。
「こんにちは。」
鹿は言いました。
「・・こんにちは。」
姿同様、擦れていてとても聞き苦しい声でした。
鳥はとても緊張した様子だったので、まったく気づかなかったでしょうが、鹿はもう天にも昇る心地だったのです。
何故なら、もうずっとずっと自分としか話をしていなかったのですから。
「ここはあなたの森でしょうか。」
細い声で鳥が言いました。
「私が住んでいる森だよ。」
「とても豊かで穏やかな場所ですね。」
燃え差しの白い炭のような鳥は、ゆっくりとあたりを見渡します。
「五色の鹿の方、わたしは遠いところから飛んできました。もう少しだけこの森で休ませていただきたいのです。」
「構わないとも。」
鷹揚に頷いた鹿でしたが、ただ、と言葉を接いだので、鳥は緊張したように尾を震わせました。
「わたしと日に一度でいいから、話をしてもらえないか?」
「あなたと?」
「私は長くひとりで森にいたから、外の話が聞きたいんだ。」
「わたしもそんなにたくさんのところは知らないのですけれど。」
「大丈夫だよ! いや、挨拶だけだっていいんだ!」
勢い込んで鹿は言い、鳥は戸惑ったようでしたが了承しました。
翌日から、鳥は鹿のもとに飛んでくるようになりました。初めは、互いに食事をする前に挨拶をするだけでしたが、日を重ねるごとに言葉は増えていきました。
「五色の貴き方、あなたはどうしておひとりでこのような深い山の森にお住まいなのですか?」
一緒に木の実(大きい方は鹿、小さいのを鳥)を味わいながら鳥が聞きました。喉に穴でも開いているのかと思うような、ひゅーひゅーと鳴る声ですが、懸命に話すところが可愛らしいと鹿は目を細めます。
「その、立派な御姿ならば皆あなたに一目置き、崇めるに違いありませんのに、」
「そうかも知れない。けれど、この世にふたつとない私の皮を得ようとする人もきっと現れて、私を追い回し殺すに違いないとも思うのだ。」
「・・・そうかもしれません。あなたの色は本当に珍しく、貴いものですから。」
「君はどうしてこんな深い山の奥までたった一羽で飛んできたのか?」
今度は鹿が聞きました。
「それはわたしがとても醜いからです。」
恥じるように身を竦ませながら答えました。
「わたしの羽は、この世で二つとないみすぼらしさで、声もみっともなく・・わたしが目に入ることさえ耐え難いと申しますので。」
「なんと。」
鹿は驚いて言いました。
「私たちはふたりともに、この姿のために身を隠さねばならないのだな。」
見たものが拝み伏す鹿と目を反らす鳥では違う、と鳥は嘴を震わせましたが、鹿はとてもとても優しく微笑みました。
「世に戻れぬというのならば、私とずっとここで暮らしてはどうだろうか。世に二つとない者同士仲良くやれると私は思うのだが。」
「醜いわたしが傍にいて、あなたは平気なのですか?」
「君こそ、私が傍にいて畏ろしくはないか?」
そこで、鹿と鳥は友となって、深い山の森の奥で暮らしていくことになったのです。
2
鹿の、白珠のような角に、鳥が止まる姿も様になった頃、穏やかな時間が大きく波立ちました。
森の外れには川が流れています。
高山の伏流水を水源とし、滝となって岩肌を流れ落ちてきた急流です。
何処で足を踏み外し、何処から流されてきたのか、人間の男が渦を巻く流れに取り囲まれた岩に縋り付いていました。水面から必死に顔を上げ、滑る岩に爪を立てるようにして、体を流れに持っていかれないよう耐えています。
「だれか! だれかいないか!」
人の寄らぬ深い森の奥のほとりであると、知る由もなく、彼はかすれた声を何とか張り上げて助けを呼んでいますが、当然応える人はおりません。
茂みからそっと鼻を突きだして様子を見ていた鹿は、もう幾許もなく、男は水圧に耐え切れず岩から引き剝がされることを察します。そして、力尽きて水底へと引きずり込まれていくでしょう。
「だれか・・・死にたくない。死にたくない。だれか。山の荒神よ。森の樹神よ。川の女神よ。どうか。・・どうか。」
虚ろに呟いて、ずるりずるりと端へ押しやられていく姿に、鹿は心を決めて茂みを出ようとしました。
「五色さま。」
いつしか鹿をそう呼ぶようになった鳥が止めようとします。
「あれはもはや水の女神の供物でございます。」
「そうかもしれない。」
鹿は、危ないから離れていなさい、と角を揺らしました。鳥は角から飛び上がりましたが、顔の近くで滞空しながら言い募ります。
「あの人間を助ければ、あなたのことをきっと他の人間に話してしまうに違いありません。そうなれば、あなたが怖れるように欲の深い人間が森を踏み越えて、この山の奥へやってくることになるでしょう。」
「友よ。わたしを案じてくれてありがとう。けれど、わたしたちと同じように、あの人間も生きたいと願っているのだ。」
そうして鹿はざぶりと、どうどうと流れる川に入っていきました。急な流れを泳ぎ切って岩に近づくと、男をその背に乗せました。戻りは下流に流されながらも、何とか岸に上がることができました。鳥は心配そうに追ってきて、川の上では旋回しながら固唾を飲み、岸で胴震いをする鹿を梢から見守っています。
男----若い、少年でありました。地面の感触に暫く呆然とし、我に返ると自分を助けてくれた鹿を振り仰ぎ、珍しい、貴いばかりの五色に目を瞠りました。
思わず手を合わせた少年は、涙を流しながら、ありがとうございますと繰りかえし繰り返し言いました。
「命のご恩をどうやってお返ししたらいいのでしょう。」
少年は言いました。
「自分は山向こうの細工師の息子です。良き木を探すうちに父と離れ、山の奥へ奥へと迷い込んだ末に足を滑らせて滝に落ちました。流されて、もはやこれまでと思った命をお助けいただきました。」
「おまえの生きたいという心がわたしに届いたのだ。何を返してほしいわけではない。」
梢の鳥がピピ、と鳴きました。ちら、とそちらを見上げて鹿は、
「・・わたしがこの森にいるということを、他の者に決して話さないでもらいたい。おまえが必死で生きたい願ったように、わたしたちもここでただ静かに生きていたいのだ。もし、おまえがわたしに助けられたことを話せば、心無き者はきっとわたしを捕らえ、この皮を剥いでしまおうと考えるに違いないのだから。わたしがおまえを助けた時に、わたしのいまと未来の二つの命の危険を承知で行ったのだ。」
「まことにおっしゃる通りです。」
堂々たる姿に村の長老よりずっと立派な口上でありましたから、やはりこちらは色が変わっただけのただの鹿ではなく、神の化身か少なくともその御使にはちがいない、と少年は思いました。
「助けていただいた命に賭けて、決して他言は致しません。」
と、深く額づいて約束をしました。
「この川に沿って行くとよい。いずれ人里に出るであろう。」
鹿は森のめぐみである果実を十分に渡しました。
少年はその言葉に従って歩き出し、少し行ったところで振り返ると鹿はまだその場に在って、まだ少年を見ているようでした。一礼して手を振れば、まるで寿ぐように首をそらして高く鳴きました。折から陽光が枝の間から差し込み、その五色の体は、この世から切り離されたもののように、美しく輝きます。そこへ白っぽい鳥が、梢から舞い降りて煌めく角に宿ったのも、まことに一幅の絵でありました。
あの木の実を食べつつ森を抜け、偶然行き会った隊商の下働きをして 広壮な山脈のあちらにある故郷の町に、年単位の時間がかかったものの、少年は五体満足で帰ることができたのです。身を守るすべも一銭も持たない少年の身にはそれは奇跡でした。この幸運は五色の鹿の加護だと少年は信じ、家族に話したのは隊商と会ったところからでした。
少年は青年になり、壮年になり、老いて死にました。
町の一細工師としての生涯はとても慎ましく、部屋兼作業場には使い古した道具類と私物もわずかで、殆ど片付けもいらないくらいでした。作り付けの納戸もがらんとしたものでしたが、季節の違う服を収めた袋の後ろに、丁寧にしまわれた両掌に載せられるくらいの箱があったのです。母親の目を盗んで、遊び人の孫はそれを持ち出しました。そこそこの重さがあったので、ためた小銭かと期待したのですが、開いてみれば彫刻でありました。
鹿の、彫刻です。鳥を止まらせた角や蹄、尾は精緻で、躍動感のある筋肉も見事です。古い作品のようでしたが、定期的に手入れをしていたようで、年季の入った艶はいい塩梅です。
「・・・こりゃ、じいさんの想像かい?」
それでも、呆れたように呟いたのは、全体が五色に塗り分けられていたからです。
日常使いの地味な小物を作っていた老人が、どんな心境ならばこのような派手な作品を仕上げる心境になったのか、孫が知る寡黙な姿からは想像もつきません。
「こんな妙な色付きじゃなければ、・・なあ、」
ぶつぶつこぼしながらも、道具屋に持ち込んでみることにしました。道具屋は、麦酒一杯程度の価格で引き取ってくれました。
彫りは見事ですが、やはり色合いが独特すぎて客は物珍しそうに眺めても、買い手はなかなかつきませんでした。場所も取りますし、最初の強気設定の価格から「割引」の値札が率を上げながら重なって買い取り額に近づいていけば、もはや処分の二文字がよぎります。
「----なんとも奇妙な配色だ。」
ぶらりと店に入ってきた身なりの良い男が、手に取ってしげしげと眺めて、呟きました。これは随分と繰り返されてきたことですから、店主は今回も冷やかしだろうと期待せず、愛想笑いをはりつけていました。
「どこの、だれが作ったものか?」
「この町の、小物細工師が手すさびで作ったものですよ。」
「他の作品はあるか?」
「じいさん、もう亡くなって結構立ちますね。孫が遺品の整理で持ち込んだ一点物で。」
「そうか。」
と、棚に戻しましたから、今回もダメだったかと思ったところ、なんと買い上げてくれたのです。店の前に控えていた従僕が運び出していきました。表示金額より多めに払ってくれたので、店主は晴れ晴れとした気持ちで空になった棚を拭いて、新しい商品を並べて、あとはすっかり忘れてしまいました。
五色の鹿の置物は、丁寧に手入れされ、立派な箱に詰められて、王都に運ばれていったのです。そうして、絹や宝石などと一緒に国王の新しい妃のもとに収められたのでした。
国王には公爵家から嫁がれた王妃様がちゃんといらしたのですが、すっかりないがしろにして、若い妃に夢中でした。
この若いお妃さまは真珠のような肌をして、黄金のような髪を持ち、苺のように甘い色の唇で、右の目は真昼の空色、左の目は黄昏の紫と、五色に彩られた美しい容姿でした。しかもお歌がとても上手です。
お忍びで訪れた劇場で、歌声をお聞きになった国王がそのまま腕に抱いて王宮にお連れになったほどなのです。
下賤な妓女と罵る者もありましたが、すかさず侯爵のお一人が後見についたところから、実はその侯爵の仕込みではないかと阿るような噂が立ち、王妃(と実家の公爵家)派ではないものは、こぞって贈り物を送るようになったのです。
こうして、きらきらしたものが大好きな若い妃の宮は日を重ねるほどに煌びやかになっていきました。
ある朝、若い妃は物憂げな表情で国王に訴えました。
「----鹿の夢を見ました。」
「それはなんと縁起の良いことだ。」
しなだれかかって、妃は言います。
「とても特別な鹿で、体は五色に輝き、角は白珠のように煌めいています。」
「おお、なんという瑞夢であろう!」
「はい。陛下の御代がより素晴らしく、弥栄なるようにとのお告げでございましょう。」
歌声は勿論、話す声も甘く、人の心を蕩かすように響くのです。
「ですから、わたくしたちは五色の鹿を手に入れねばなりませんわ。」
「夢の鹿をか?」
妃は微笑みます。白魚のような手が上がり、部屋の一隅を指しました。
「義父からの贈り物です。まるでわたくしのような五色であると。」
豪奢な部屋には不釣り合いな素朴な木の彫刻です。
「あれを見たから夢を見たのではありませぬ。あれこそがわたくしの夢がまことであるというしるしでございます。」
薄絹の帳を降ろした寝台の中、青と紫の瞳は伏せ気味ながら、しっかりと国王の視線を絡めとっています。
「この五色の鹿を、きっとわたくしにくださいませ?」
「かなえよう。」
そこで国王は国中にお触れを出しました。五色の鹿を献上したのならば、官位も領地も財も望みのままに遣わすと。
たかが女の寝物語にと眉を顰め諫言した重臣もおりましたが、国王の勘気を被った上、自身や家中に不幸が起きた者がいたのです。瑞兆の鹿を手に入れることを邪魔したから災いに遭ったのだ、と噂され、国の第一の事業とばかりの鹿の探索とあいなったのです。
その大元となった若い妃は世間の狂騒に我関せずと、増々きらきらしくなる宮殿に美しい歌声を響かせて国王をさらに虜にしています。
五色の鹿の木彫りは、宮殿の一角に飾られていますが、最初には確かにあった、白い角に止まる鳥はいつの間にかなくなっていました。
3
森には朝もやが立ち込めて、緑をしっとりと濡らしています。巣にしている洞から空へと鳥が舞い上がりました。いつも通りのよい朝の空気なのに、何だかぞわぞわした予感めいたものを払いたくて、いつもより少し高く飛んだ鳥は、羽ばたきを忘れて落ちそうになりましたが、何とか立て直し、大きく森を一周しました。
それから一直線に鹿の休む洞穴へと急降下していったのです。
友である鹿は心地よい、薄暗い洞穴で寝ていました。鳥は鋭く鳴いて、その鹿の耳を咥えて引っ張りました。ようやく鹿は瞼をうっすらと持ち上げました。
「どうしたんだね、友よ。」
鳥の目も体と同じ燃えさしの灰です。温かい色だと言ったら、ボロボロと涙をこぼしたことを思い出しましたが、いま、その目は見たこともないほどに慌てています。
「大勢の兵士がこの森を取り囲んでいます。あなたを捕らえようとしているのです! もうどうやっても隠れたり逃げたりする術がない! 」
どうしようどうしよう、と泣く鳥を常と同じように角に乗せて、五色の鹿は洞穴から出ていきました。
鳥が言うように、今や森は多くの兵が勢子となって四方八方から藪を叩き木を叩き、鹿を追い立てようとかしましいばかりでありました。
打てども打てども森は静かで、棒の音はすれども、兎一匹出てこない様子に、兵士たちも居心地の悪さを感じ始めているようでした。
いったいこの森はなのだろう。
いったいこの森に何が棲んでいるのだろう。
足を止めることを許されず、強張った頬で静寂の森を打ち据えながら進んでいった彼らは、その合流点にて、昂然と頭をもたげる五色の鹿とあいたいし、棒のように立ち竦みました。
「人間よ、我が森にていかなる狼藉か。」
弓に矢をつがえた兵士にまったく臆することのない眼光に、駆けつけてきた将軍が前に出ました。
「なんと堂々たるさまか。やはりただの鹿ではあるまい。」
将軍は、弓矢を降ろすように命じて、ひとり、鹿と向き合いました。
「五色の鹿よ、我が主たる国王が瑞兆のしるしであるおまえを求めて我をここに遣わしたのだ。」
「わたしは長い間、深い山の、この森の奥で誰とも会うことなく暮らしてきた。いったいどうやってわたしがここにいると知ったのだろうか。」
「それは我が国王の妃たる女性がおまえの姿を夢に見たゆえである。」
「・・妃がこの森にわたしがいると見通したのか?」
「それは違う。」
将軍の合図に心得て、後方から荷運びのに人足らしき男が連れ出されてきました。
「手掛かりはおまえの姿を象った木彫りの像であった。それを道具屋に売り払ったのがその男である。」
その繋がりで連行されていた男は、びくびくと震えていました。
「----初めて会う。」
「で、あろうな。かの者の祖父が像を彫ったということだ。非常に朴訥な人柄で、細工物も写実性の高い装飾しか入れなかったらしい。」
想像の生き物を彫る可能性よりも、見たものを残した可能性を推し量りました。地元を離れない生涯だったというが、故人が若い時分にてっきり死んだと思われていたところから帰還したという、辛うじて残っていた同世代の老婆が証言しました。そこから細い糸を繋いで、薄気味の悪い、奇妙な場所だと噂される森へと至ったのでした。
「なるほど。かつて・・わたしは向こうの川で溺れる寸前の少年を助けたことがある。少年は決して口にしないと去っていった。」
獣でありますが、深い知性を感じる双眸に将軍は驚嘆している。
「彼は・・行方知れずの間のことを誰にも話さなかった?」
「は、はい! 母も叔父たちも、孫のだれも何も知らず。なので、遺品の馬の像がまさかこのような大層なことにつながるとはつゆとも思わずに!」
「・・このように立派な姿だ。命の恩人の姿を留めたかったのだろうよ。像は古いものだったが、よく手入れされて、他の者の目には触れぬようにしまわれていたそうだ。」
取りなそうというわけでないようでしたが、将軍は事実として伝えました。
「---そうか。」
「遺品として大事に祀っておれば良かったのに、はした金でそれを売り払う不孝な孫を罰してほしいか? 五色の鹿よ?」
孫息子は額づいたまま、失神寸前のようです。
鹿はゆっくりと首を横に振りました。
「彼は約束を守った。それは分かった。」
将軍を静かに見据えます。
「わたしを殺し、皮を剥いでいくのか?」
「----いいえ、」
その迫力に将軍はつい丁寧に応じていました。
「我に命じられたのは五色の鹿を見つけ、国王にその美しい姿をご覧いただくこと。ですから、このまま我と共に王都に参られませんか?」
兜を脱いだ将軍はまだ青年といえる年のころでした。人懐っこい笑みを浮かべ、
「無益な殺生は我も国王も好みませぬ。世にただ一つの貴き五色の鹿よ、堂々とその姿を世に知らしめましょうぞ?」
と、誘いかけます。
「あなたが自分の足で国王の下に参られる方が、我が皮を捧げて進むより、よほどこの国への瑞兆であると国の民は感じることでしょう。」
鹿は暫く考えていました。断れば、戦うしかなくなります。いま、うまく逃れられたとしても、もはや五色の鹿の存在は明らかになってしまいました。皮を手に入れるまで、人間は鹿を追い回すでしょう。
「----行こう。」
昨日までの静けさも、安寧も、もはや決して戻ってこないものなのだと、鹿は受け入れるよりありません。
4
道中、その珍しき五色の鹿を見ようと数多の民が街道に押し寄せてきました。
檻にも入れられず、縄も付けられず、ひとり、頭を上げて道を往くさまに吃驚して、次いで普通の鹿とはまるで違う堂々たる雰囲気と、この世に二つとない白珠のように輝く角と五色の体の貴い様子に心打たれて、人々は手を合わせるのです。まさしく国の瑞兆であると讃え、供をする将軍一行へも歓呼の声を浴びせます。
「あの将軍は、国王の息子の一人ということです。」
つかず離れず飛んでいる鳥が、耳元近くに寄って囁きました。
残りなさい、と言ったけれど、鹿がいなくなった森はただの森になるから、と鳥は肯んじませんでした。
「あなたを自分の人気取りにしているようです。」
鳥は気に入らないと、嘴を鳴らしました。ですから、将軍が近づいてくるのを見ると、すかさず飛んで行ってしまった。
「おや、かわいい方には嫌われたかな?」
と、笑った将軍は明日は王都に、そして王城に入ると告げました。
大観衆に埋め尽くされた王都の大路を凱旋するように進み、王城の朝庭へととうとう五色の鹿は招き入れられました。
大広間ではなく、閲兵や一般参賀で用いられる場所を指定したのは将軍でした。どのくらいの政治力が必要だったかは分かりません。こちらの方が鹿にとって、居心地が悪くないだろうとの心遣いでありました。そして空から寄り添う鳥のこともきっと脳裡にあったでしょう。
広場があり、階があって、更に段を重ねた高いところに王座が設えられています。将軍が王城を発った時より、顔色が悪く、痩せて、目が落ちくぼんだように感じられる国王が身を乗り出して、五色の鹿を見下ろします。こちらも体調が悪いと、王妃の席は空席で、その代わりに段の途中の席に、煌びやかな衣装を纏った女性がいます。
「ご下命の通り、五色の鹿を御前に。」
親子にしては余所余所しい調子で将軍が国王に申し上げました。
「まことに、その像と瓜二つでございます。」
と、わざわざ言い添えたのは、鹿への言葉であったようです。鹿は階の下に置かれた像の傍に歩み寄りました。鹿の勝手な動きに、居並ぶ群臣はざわめきましたが、鹿を取り囲んでいる兵士たちは長い旅をともにした将軍の部下です。鹿の動きを掣肘することはありません。
鹿は間近からじっくりと像を眺めました。数十年は過ぎた木の匂いがしました。けれど、長年、大事に扱われていたことがわかる様子に、今は姿が朧げな少年が確かに約束を守って、そして自分を思ってくれていたことを悟りました。
「----まあ、なんてこと。」
鈴を振ったような、美しい声です。
「国王の御前に獣を連れてくるなんて。臭くて、とても耐えられませんわ。」
許しもなく、若い妃は席を立ち、国王の席まで上ると、その膝にすがるように座り込んだのです。無作法で馴れ馴れしいさまに、一同は騒めき立ちましたが、国王が咎めたてぬので、ひとまずは開けた口を閉じることにしました。
「陛下、わたくしの望みを叶えてくださってありがとうごさいます。」
最上級の天鵞絨に触れているような、うっとりする声が朝庭の大気を震わせます。居並ぶ人々は、陶然とその声に聞き入っています。
「どうぞ、あの獣を殺して、皮をわたくしにお与えくださいませ?」
王に向かって微笑めば、王はがくりと頷きました。
「妃の望むように、」
「嬉しゅうございます。五色の皮は五色のわたくしに相応しい。さあ、その毛皮に一筋の傷をつけてはなりません。・・ええ、そう、」
足下に集う群臣を見渡す顔は、生気に溢れ、匂い立つように美しさです。
「四肢と首に縄をかけて、生きたまま皮を剥ぎましょう 腕のいい皮なめしの職人を呼んでいるのですよ。こちらに通しなさい。ああ、心の臓の生き血は陛下に捧げますわ。最近、お元気がなくて心配しておりますの。」
妃の言葉が、まるで見えない糸でもあるように、必要な人々が動き出します。用のない人たちは、妃を見上げる立像のようでした。
「----五色さま、」
鹿の耳の後ろに、身を小さくして鳥が止まりました。
「逃げましょう。」
「どこへ?」
森の時のように、兵士の槍先がじりじりと迫ってきます。
「私のことは世に知られてしまった。世に二つとない身ではもうどこに行っても、紛れて潜むことなど叶わない。」
鳥のいる耳をぱた、と動かしました。
「君は行きなさい。私の体は大きいが、君はどこかの隙間に身を潜めることが可能だろう。」
「で、あったとしても、世はわたしを拒んだのです。この小さな体一つでも、醜いと・・一緒にいたくないと、」
鹿は耳の後ろがじわりと温かく濡れたのを感じました。
「あなただけでした。このわたしをそのままに受け入れてくれたのは。」
「私も君だけだ。私を孤高と持ち上げず、ただ傍にいてくれたのは。」
それでも。
鹿は強く頭を振りました。鳥は不意を突かれて、ぼとりと地面に落ち、きょとんと大きな体を見上げます。
「とても、楽しかった。」
「五色さまっっ、」
抗議の声を上げた鳥に、妃の声がかかったのはその時です。
「あら、」
一声でも感じる悪意が込められていました。
「燃えさした炭が落ちているわ。」
鳥は首の周りの毛を逆立てて、空に舞い上がり妃を見ました。
「飛ぶ姿も、灰が散らかっているようで、なんて醜いのでしょう。----射殺してちょうだい。」
警護の兵士が進み出て、弓を引き絞ります。貴人の警護を担うのですから、その腕前は推して知るべしです。
矢じりは真っすぐに鳥を捉えて、過たず貫こうとしていました。が、それを叩き落したのは跳躍した鹿の、角でした。矢じりが掛かった角の一部が欠けて地面に転がりました。
「未熟者!!」
苛立たし気に妃は扇を兵士に投げつけました。
「わたくしの鹿にあのような塵がまとわりつくなど !!」
矢継ぎ早に矢が放たれますが、鹿が体を張って阻みます。大方は角で絡め落としますが、とうとう体を掠めて血が滲みだしました。
「おやめ!」
今更その危険性に気づいた、とばかりに妃が声を張り上げました。
「この世に二つとない皮よ! 損なうことは許しません!」
「離れてはいけない。」
己をかばって鹿が傷ついていくのに鳥は距離を取ろうと羽ばたいたのですが、鹿の静止を聞いて動きが止まってしまいました。その一瞬に、炎のようなものが鳥の翼にぶつかりました。羽毛の燃える嫌な臭いとともに鳥は墜ち、地面の上を転がって何とか火を消しました。
鹿は近づこうとしましたが、その足元に矢が撃ち込まれます。
「おまえなど、」
醜い鳥だからではなく、自分に向かった悪意だと分かりました。
「とうにないもののはずなのに!」
鳥は目を瞠りました。そして、痛みを堪えつつ火傷を負った翼を奮い立たせて、今度は自身が矢のように王座に向かって飛びました。
「! 射落として!」
そこで、鹿がけた外れの跳躍をみせました。居並ぶ兵士の頭を、ためもなく飛び越えて鳥を追いかけます。
「----やっぱり、」
妃の口から飛び出してきている炎の弾を何とかかわしつつ、鳥が叫びました。
「おねえさま!」
「知らぬ。」
赤い・・・真っ赤な口が哄笑するように開き、ひときわ大きな火球を吐き出しました。火球はすっぽりと鳥を包み込み、炎の中で鳥の形は黒くなり、小さくなって地面に落ちていきました。
駆けつけた鹿が、腹の下に入れて炎を消そうとするのに、
「いまよ、縄をかけなさい。」
と、妃が命じます。鳥を腹の下に守って動けないまま、首と四肢に縄を打たれた鹿を、しもべの様に妃が見下ろしました。
「すぐに皮が欲しかったのだけれど、」
矢傷で裂けたところ、炎でちりちりになったところを観察して、忌々し気に顔を歪めます。
「少し飼ってあげるわ。もとに戻さないといけないから。」
「----おまえは、魔女か?」
五色の鹿が地の底から響くような声で言いました。その声の源たる、体の奥底から上ってくる感情が何か、鹿にはよく分かりません。
腹の下が温かいのは、炎のせいか生命のためか。
「わたくしが魔女ならば、その醜い鳥もそうよ。」
「まことに・・姉妹だと?」
「わたくしとの賭けにのって、ぜんぶをわたくしにくれた、かわいらしくて、おそろしく愚かな子だったわ。」
どういうことわりなのか、人間たちは動きを止めて、瞬きすらしません。
「とうに死んでいるはずなのに、なんて生ききたないのでしょう! この世にふたつとない、醜さでよくも生きていられたこと。」
「醜いのはそちらではないか!」
五色の鹿の目がらんらんと輝いています。
「奪った? 妹から? それを誇るのか?」
「正統なとりひきよ。契約の双子神の名の下に。」
「なにを?」
「わたくしこそが持っているべきものを。」
かきあげた髪と眇めた紫の目と、喉に触れた指で鹿は理解しました。
「なんと・・いう非道なマネを・・、」
体の底、そんな底があったのかという深い部分に滾るような熱が生じて、マグマが火道をせりあがるようにして五色の毛が熱くて、角の根元は燃えるようでした。
それは、鹿を拘束していた縄を灰にもせずに蒸発させ、妃の声で打ちかかろうとした兵士の目を眩ませました。
ゆっくりと立ち上がった五色の、輝ける鹿の腹の下から、もう一つ白い光を放ちながら鳥が舞い上がったのです。
ゆっくりと鳥は鹿の頭上を旋回し、鹿はぶるりと大きな胴震いをしました。五色の光が入り乱れながら、まるで雪の様に朝庭に----集って、像のようになっていた人々に降りしきりました。
人々は、はっと眠りから覚めたような顔で、夢の続きのような美しい光を掬うように手を差し伸べました。その中で、妃だけが苦悶の色を濃くしていきました。
妃は、変じていきました。
頭の形はそのままに。しかし、紅い唇は猛禽の嘴の形に。二本足で立っていますが、絹の靴は裂け、鋭く長い爪の生えた四本の指が地を掴み、脛は硬質で分厚い筋肉が覆いました。腕も大きな翼と化しました。
「化け物だ!」
叫んだのは、あの将軍である王子でした。
「化け物は 国王に憑りつき、国をわたくしして、災いをもたらそうと図ったか!」
射よ、と先ほど妃が命じたように、今度は妃に向かって放たれた矢を防いだのは五色の鹿でありました。鹿は、土の壁を立てて矢を阻みました。
「五色の鹿よ!? 」
「人よ、鳥に・・私の鳥に任せてほしいのだ。」
あのみすぼらしい燃えさしの炭のような鳥は----いま、五色のどれでもなく、一見、白に見えはするが、緑にも、蒼にも、金にも、角度によって無数の色に見える、不思議な光沢を帯びた鳥は、五色の光雪の中で、人面鳥と激しく交差します。
「おまえの色も、おまえの声も、ぜんぶ、わたくしのものになったというのに!」
嘴のせいか、くぐもった声が恨みを吐きます。
「おまえの、そのすがたはなに!? わたくしのこのすがたはなに!? 契約と履行の二柱の女神よ! これはあなた方との契約を違えるものではありませんか!?」
自分の非道を棚に上げて、まるで被害者の様に叫びましたが、鳥に審判の雷が落ちることはありませんでした。
「わたしはあなたから何も取り返してはいない。おねえさま、これは私が新しく得たもの。五色さまが手を貸してくださったもの。あなたが、欲したものの果てがその御姿であるように。」
翼が無数の色にきらきらと煌めきます。
「かつてわたしのものだったものは、どうぞそのままお持ちください。あなたが罵った、愚かないもうとからほしがられたもの。返していただく必要はありません。もう、わたしのものではないのですから。わたしは、わたしが得たもので、」
僅かに言葉を切って鳥は鹿を見返りました。鹿が頷きます。
「わたしの場所で生きていきます。」
五色の、そして無数の色が広がり、渦を巻き、それを見上げた人々はまるで、黒い翼に世界が覆われたような忘我の心地となりました。
やがて。
人々が抜けるような青い空を見上げていることに気づいたときには、異形の鳥も、光の鳥も、五色の鹿も、-----なにもいなくなっていました。
ただ彼らが確かにいたあかしとして、大きな蹄の跡と、五色の体毛、きらきらと色を変える羽が散らばっていました。
人事不省のまま国王は亡くなりました。跡を襲ったのは、かの将軍であった王子でした。新しい国王は魔物が入り込むことを許すほどに傾いた国を立て直そうと努めました。残された体毛と羽を国宝として大事にしましたが、彼から数代の後、延命の限界を迎えてとうとう国が滅んだ時、王城とともに燃え尽きたと言われています。
深い山の、緑の濃い森の奥。
五色の鹿が光を集めたような鳥を角に乗せて、幾久しく仲良く暮らしている、とは数々の伝説、民間伝承が語り伝えているとおりです。
お読みいただいてありがとうございました。
「五色の鹿」は古典の中では、メジャーな話の一つではないかと思います。
原文で鹿の耳を「食ひて引く」鳥がかわいらしく思えて、この筋立てになりました。
前回の話で、妹→姉だったので、今回は逆にしてみました。
「追録」は当初は最後に入れていたのですが、どうにもおさまりの悪さがぬぐえず、独立させることにしたものです。
本編だけで話は「成立」していますので、本当に「おまけ」です。




