バレンティーナ・オルガは真実の愛を祝福した
バレンティーナお姉様の昔のお話。
目の前の男はどこまでも真摯だった。だが、ひどく苦しそうでもある。バレンティーナは首を傾げていた。彼は喘ぐように口を開く。
「君を傷つけてしまったこと、本当に申し訳ないと思っている」
「あら、傷ついてなどいないわ。本当よ」
ころころと鈴の音が転がる。エメラルドの瞳がゆぅっくりと、細められた。
「貴女たちのこと、こころから祝福するわ……末永く、お幸せに?」
バレンティーナは求められた台詞を口にする。彼女はもう、この舞台を降りるのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
バレンティーナ・オルガは麗しのお姉様である。夫どころか婚約者もいないまま学園を卒業し、その二年後に爵位を得た女男爵であった。
彼女は元々アヴェール伯爵家の令嬢の一人だった。上に一人の兄と下に妹が二人、弟が一人の五人兄妹の長女である。アヴェール伯爵家は家業として養蚕を営んでおり、そこで作られる絹は最高級品として知られていた。伯爵家の中でも一際裕福な家の一つだ。
そんなアヴェール伯爵家には既に跡取り息子であるジェイムスがいた。彼は父親に似てとても優秀で心優しい青年である。後継として申し分なく、婚約者も決まっておりアヴェール伯爵家は安泰であった。
故に、バレンティーナは政略結婚とは全くの無縁であった。彼女の母親も父親である伯爵に見初められて恋愛結婚に至った麗しの乙女だ。両親は子どもたちが幸せになることを望んだ。結婚して家を出るのもよし、家業の手伝いをするもよし。子どもたちの自由意思にまかせながらも彼らが決めたことを全力で応援する、言ってしまえば親ばかな二人であった。
愛情いっぱいに育てられたバレンティーナは、美しいものが大好きな女の子だった。その中でも手のかかるものを一等好んでいた。キラキラと輝くよう緻密にカッティングされた宝石に、計算され尽くした編み模様のレース、丸一年丁寧にお世話してようやっと数日だけ花を咲かせる植物等々。
バレンティーナは美しいものを育てることが好きだ。己の手で美しいものを磨き上げ、更に輝かせるのが大好きだった。
故にバレンティーナは己を磨くことにこそ、一番の時間と技術をかけた。母親に似た優雅なウェーブを描く深紅の髪に、父親から譲り受けたエメラルドの瞳。鼻の高さに位置、睫毛の量から一本の長さに至るまで、彼女は己の造形を深く愛している。
勿論その見た目にふさわしくあるよう、中身も徹底的に磨き上げている。バレンティーナはジェイムスの補佐となることを目標としていた。その為に必要な教養は一つ残らず己のものとしている。
そしてことの発端は、そんな美しいバレンティーナに一人の男が惚れたことだった。とは言えこれは自然の摂理である。美しい容姿に深い教養。バレンティーナはただ微笑むだけでも生きていけるような女だった。当然彼女自身はそんな生き方をよしとしないが。
その男の名はフェデル・バスティン。バスティン伯爵家の長男である。真っ黒な短髪に鮮烈なブルーの瞳をした美青年であった。貴族子女が集まったとある茶会でバレンティーナに一目惚れしたのだ。
彼はバレンティーナを前にして、即座にひざまずいた。
「レディ、貴女をエスコートする名誉を私にくださいませんか?」
疑問形でありながらも己が選ばれると信じて疑っていない目をしていた。バレンティーナは彼のそんな自信家なところを中々に気に入ったのである。自信過剰な男はうっとうしいだけだが、フェデルは自信に見合った実力とバレンティーナとすらつり合う見目をしていた。
「えぇ、お願いしても?」
しっかりとした手のひらに細い指が重なる。絵画に描かれるような美男美女が手を取り合う姿に、滂沱した者の数は知れない。
茶会の次の日にはバスティン家からアヴェール家へと婚約の打診が届いた。名のある伯爵家同士。美男美女。才子才女。この上なく完璧な組み合わせだった。更にフェデルはバスティン家の跡継ぎであり、バレンティーナは将来伯爵夫人となる。今まで磨き上げてきた才を腐らせることのない、最高の嫁ぎ先と言えるだろう。
「バレンティーナ嬢。私と、生涯を共にして欲しい……君にふさわしい男であれるよう、努力し続けるよ」
「えぇ、わたくしも。貴方の完璧なパートナーであり続けるわ」
世にある恋愛小説のような甘さはなかったかもしれないが、彼らはお互いのことを一番のパートナーと信じて疑わなかった。両家も彼らの婚約を心から祝福していた。
彼らはともに街で遊んだり、プレゼントを贈り合ったりしてゆっくりと絆を育んでいた。そんな仲睦まじい姿が目撃される度に、人々は心臓を押さえる等していた。
転機が訪れたのは二人が十六歳になり、貴族学園に入学した時のことだった。バレンティーナはフェデルに僅差で首席となり、新入生代表としてスピーチをすることとなった。その為、フェデルよりも先に登校することになったのだ。
フェデルは他の新入生と同じ時間に学園の門をくぐった。大勢の新入生と在校生でごった返す中、一人の女生徒と目が合ったのだ。
ふわふわと風に広がるやわらかな茶髪。淡い桃色の瞳は熟れた果実のように甘く丸い。身にまとう制服は古いものなのか身体に合っておらず、袖からは指先だけが覗いている。それでも妖精とはこんな姿をしているのだろう、と誰もがそう思うほどに儚げな美少女だった。
フェデルは迷惑にも人混みの中で足を止めてしまった。その女生徒も丸い目を更に見開いてフェデルを見つめている。が、華奢な身体は直ぐに人の波に呑まれ、さらわれていってしまった。
ハッと我に返ったフェデルは慌てて入学式が行われるホールへと急ぎ、新入生が並ぶ列に加わった。在校生に案内され、用意されていた席に着く。
フェデルはどこかそわそわと浮ついた気持ちを抑えきれずにいた。同時に罪悪感も感じていた。自分には婚約者がいるというのに、他の令嬢に目を奪われるとはなんたることか。
ふぅ、と息を吐いたところで後ろから、あっ、と小さく声が上がった。それにつられるように、彼は振り返ってしまったのだ。そうして思わず呟いた。
「君は、さっきの……」
花の妖精がフェデルの後ろに座っていたのだ。くるりと丸まった瞳がはにかむように細められた。悪戯っぽく笑った彼女がそっと彼の耳元に唇を寄せる。
「私、ヘレン・グレイって言うの。よろしくね」
貴族令嬢としては随分口調がなっていない。が、鼓膜を擽るような声に、そんな些末なことは気にならなかった。
「私はフェデル・バスティンだ。これから、よろしく頼む」
自己紹介をしたところで、学園長の咳払いが聞こえてくる。フェデルはさっと顔を前に戻した。入学を歓迎するスピーチに在校生代表からの言葉。それを終えればいよいよ新入生代表であるバレンティーナの挨拶だ。
ピンと伸ばされた背筋に、エメラルドの視線はぶれずに真っ直ぐと。淑女然とした歩き方で壇上へ上がってくる彼女に、皆が見惚れていた。濃紺の制服に燃え上がるような紅の髪がよく映え、彼女のために誂えられたのだと錯覚するほどだ。
「今日のこの良き日にこの歴史ある学園の一員になれることを大変光栄に思います」
決して大声ではないのに、よく通る声。彼女は変わらず凛として美しい。
だというのに、フェデルは胸の中に湧き上がった感情を拭えずにいた。
入学式が終わり、各々のクラスへと向かう途中。バレンティーナはフェデルに気づいて手を振った。顔の前でゆるりと一度だけ、それだけで人だかりがざわつく。
フェデルは直ぐに開いた人垣の間を通ってバレンティーナに駆け寄った。当然のように差し出された手を取る。
「お疲れ様、バレンティーナ。君はいつも堂々としていて美しい」
流れるような動作で彼女の指先に口づけを落とした。途端に背後からひゅ、と息を呑む音を聞いた。目の前のバレンティーナが微かに眉を上げる。
「どうかなさって?」
バレンティーナが自分の後ろへと話しかけていることに気づき、フェデルは振り返る。そこに立っていたのはヘレンだ。桃色の目を見開いて、口元を押さえている。ショックを受けているらしいことが表情から読み取れた。
「具合でも悪いのかしら?」
バレンティーナは心配そうに首を傾げている。ちらりとフェデルに視線を向けた。それを汲み取ったのが先か、身体が動いたのが先か。今現在に至るまで、フェデルには分からないままでいる。
「フェデル。あの花の妖精をお願いね」
「ふ、あぁ。私の愛しい君」
彼女もヘレンの可憐な見目を花の妖精と思ったらしい。その辺りの好みは二人とも同じだった。
「君、私に掴まって。医務室まで送っていこう」
「え、でも……」
ヘレンは申し訳なさそうにバレンティーナに目を向ける。が、当のバレンティーナは気にした様子もなくゆるりと手を振っていた。
「わたくしの婚約者様は花の妖精が萎れているのを見過ごせませんわ。勿論、わたしくも」
にこ、と柔らかく微笑む。吊り気味のグリーンアイが温かく溶けた。同性だというのに、ヘレンの頬が赤く染まる。
「あら、熱があるのかもしれないわ。フェデル、早く連れて行って差し上げて」
「あぁ。バレンティーナ、また教室で」
フェデルはヘレンに腕を差し出した。ヘレンもおずおずとそれを掴む。二人が歩き出したのを見届けてから、バレンティーナは踵を返して教室へと向かった。
絵物語のような三人をぼぅっと見つめていた生徒たちは役者たちが消えたことでやっと我に返る。慌てて自分たちの教室へと散っていった。
そんな入学式から数日。バレンティーナとフェデル、ヘレンは学校でも有名な三人組となっていた。ヘレンはすっかりバレンティーナとフェデルに懐き、二人もヘレンを受け入れていたのだ。
ヘレン・グレイはグレイ男爵家の長女である。グレイ家は元々商家であり、祖父の代に爵位を得たばかりの、特産も何もないような狭い領地しか持たない男爵家であった。彼女は弟妹たちのために領地を豊かにする術を学ぼうとこの学園にやってきたのだ。
そんな彼女はバレンティーナとフェデルとは普段の生活や所作から差が滲んでいた。それは当然の他の生徒たちから見ても明らかなほどに。当然、それが集めたのは羨望だけではなかった。
最初に気づいたのはフェデルだった。これは完全に偶然だったのだが、ヘレンが中庭の生垣の影でうずくまって泣いているのを目撃したのだ。フェデルは何人かの友人と渡り廊下を歩いていたのだが、思わず柵を乗り越えて彼女の方へ駆け寄った。
足音を聞いて、ヘレンは顔を上げた。涙に濡れ、少し怯えた表情にフェデルは狼狽する。今まで彼の女性の基準はバレンティーナだった。彼女は人前で涙など見せない。怯えた様子などもってのほかだった。
――彼女を護らねばと強く思った。男として。そう、思ってしまった。
「だ、大丈夫か、ヘレン嬢。何があった?」
戸惑いながらもそう尋ね、辺りを見渡す。ヘレンの数少ない持ち物があちらこちらに散らばっていた。幾つかには靴の跡も見える。
「わ、わたし、私がいけなかったんです……私が、分不相応にっ、お二人と一緒にいたから……」
泣きじゃくるヘレンを辛抱強くなだめながらなんとか話を聞き出せば、彼女よりも爵位が上のご令嬢たちの仕業だと言う。囲まれて罵声を浴びせられ、取り上げられた荷物を放り投げられたのだと。彼女らは人が来る前にヘレンの持ち物を踏みつけながら立ち去っていたのだ。
ようやっとフェデルに追い付いた友人も息を切らしながら顔をしかめていた。
「ま、フェデルは人気者だからなー……嫉妬だろうよ」
嫉妬、とフェデルが初めて知ったように繰り返す。フェデルは美男子であることを差し置いたとしても伯爵家の嫡男だ。それはもうモテにモテていた。毎日のように恋文をもらい、贈り物をもらい、愛を囁かれていた。
しかし、バレンティーナを婚約者とした際に、それら全ては消え去っていたのである。フェデルがいかに魅力的だとしても、彼女に挑むものはいなかったのだ。
雲の上、遥か遠くの存在に人は嫉妬しない。バレンティーナを前にすれば霞んでしまうが、ヘレン程度になら。そう考える者は多かったのだ。そんなご令嬢たちが名ばかり男爵、貧乏貴族と彼女を蔑み、虐げていたのである。
「……ということらしい。何とかならないだろうか」
フェデルはそういうようなことを交流の茶会の席でバレンティーナに相談した。流石にこの場にヘレンがいることはなく、給仕を除けば二人きりだ。
バレンティーナは考える時間を稼ぐように優雅な仕草でティーカップを口元に運んだ。彼女は音一つ立てないが、ヘレンは未だ慣れずにカップを置くときに陶器を鳴らしてしまうのだ。
「普通に考えれば、わたくしたちが離れてしまえばいいのでしょうけれど……」
「多分、それでは根本的な解決にはならないんだろうな」
こつこつとフェデルの指がテーブルを叩いていた。彼はもうヘレンと離れることは考えていなかった。
「それに、彼女の領地についての話が盛り上がってきたところだろう?」
バレンティーナは悩まし気に眉を寄せる。最近グレイ家が治める領地に自生している野草に薬効が確認されたばかりなのだ。これを上手く使えば特産品として利用できるかもしれない。その栽培・加工方法、流通の仕方等をバレンティーナが主導になって計画しているところなのだ。
「そうね。一先ずはなるべくわたくしが傍についているようにするわ。例の薬草の話も詰めたいもの」
「そうだな。お願いするよ……君は、強いから」
バレンティーナは一つ瞬きをした。無意識のようにフェデルから零れ落ちた言葉に、少しだけ胸の中にもやが広がるような感覚を覚えたのだ。それは不快感に似た何かだった。が、表情には出さない。彼女はいつだって完璧な令嬢なのだから。
そんなことがあってから、ますます三人はともにいるようになった。そうすると件の令嬢方はヘレンのことを悔しそうに見つめるだけで、手を出してはこない。バレンティーナやフェデルの耳に入るのを恐れてか、聞こえる距離での陰口もなくなっていった。
だが、どうやらヘレンは大勢に囲まれて悪しざまに罵られたことがトラウマになっているようだった。独りになることを極度に恐れて二人の内のどちらかにくっついて回るようになったのだ。
これまでのヘレンはフェデルとは二人きりにならないようにと気を回していたのだが、その余裕も今はないらしい。フェデルが怯えるヘレンを慰める光景が、学園のあちこちで見られるようになった。
そうなると貴族というのはここぞとばかりにヘレンを攻撃した。婚約者のいる令息と二人きりになるなんてなんと恥知らずなのだろうか。
更にその舌はバレンティーナへも伸びてくる。フェデルは完璧すぎて面白みのない彼女からあの小動物のように愛くるしい少女へと乗り換えるのではないか、と。ずっと完璧でありつつけたバレンティーナに初めて出来た落ち度なのだ。面白おかしくはやし立てる者はそう少なくなかった。
「私、本当にっ……ごめん、なさい」
「いいのよ。学生の噂なんてこんなものだわ」
ヘレンは罪悪感に苛まれながらも独りになることは出来なかった。元々初めて出会った時、フェデルに恋心を抱いてしまったのだ。風に舞う花びらの中で見つめ合った彼を、運命だと思った。
だが、直ぐに婚約者がいると分かってショックを受けた。そうして、その婚約者の完璧さに打ちひしがれた。だが、バレンティーナはヘレンにも優しく接してくれたのだ。フェデルとともに勉強を教えてくれ、領地を盛り上げる手段について一緒に考えてくれた。
近くにいればいるほどにヘレンはバレンティーナに罪悪感を覚えてしまう。それでもバレンティーナから――フェデルから離れることは考えられなかった。愛してしまったのだ。どうしようもなく。
そしてそれは、フェデルも同じだった。
年度末を間近に控えたその日。バレンティーナはフェデルから呼び出された。いつものサロンではなく、彼の実家の応接室だった。
「すまない、バレンティーナ」
開口一番、彼は苦しそうにそう言った。バレンティーナは小首を傾げて先を促す。
「君との婚約を、破棄させてもらいたい」
「ヘレンを、伯爵家に迎えるのね?」
ぐっとフェデルが言葉を喉に詰めた。バレンティーナはもう彼の心が彼女の元にあることを知っていたのだ。フェデルが露骨な態度を取るようなことはなかったが、それでもそれなりに長く彼とともにいたのだ。わからないわけがなかった。
「婚約の解消、ではいけないのかしら?」
「いや、全ての非は私にある。償いは必要だ」
フェデルはどこまでも真摯な男だ。そしてどこか、夢見がちでもあったらしい。
「本当にすまない。だが、私は真実の愛に目覚めてしまったんだ。これ以上、自分の気持ちに嘘をつくことは出来ない……」
ぴくりとバレンティーナの眉が動いた。凪いだ瞳でフェデルを見つめる。愛に酔った男は、それでもとびきり美しかった。ここに芸術家の一人でもいれば、純愛の男として絵画か物語にでもなっていたことだろう。
「君を傷つけてしまったこと、本当に申し訳ないと思っている」
「あら、傷ついてなどいないわ。本当よ」
ころころと鈴の音が転がる。エメラルドの瞳がゆぅっくりと、細められた。
「貴女たちのこと、こころから祝福するわ……末永く、お幸せに?」
バレンティーナはどこまでも美しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。フェデルはつられるようにふ、と小さく笑みを零した。
「本当に、君は強いな」
「あら、当然だわ。わたくしだもの。ただ、そうね。一つだけ、お願いがあるのだけれど」
「構わないよ。償いになるのなら、何でも言ってくれ」
バレンティーナは目を伏せた。長い睫毛が目元に影を落とす。フェデルの胸がちくりと痛んだ。
「貴方の持ち物を一つ、くださらない? それをわたくしの支えにしたいの」
健気なお願いに、フェデルは一も二もなく頷いた。ありがとう、とバレンティーナは花のかんばせを上げて微笑んだ。
「詳しいことは後日。両家も交えてお話しましょう。わたくしの家には、わたくしから事情は話しておくわ」
バレンティーナは衣擦れの音一つなく立ち上がった。フェデルも立ち上がって扉を開けに行く。
「では。また学園で会いましょう、バスティン令息」
「っあぁ。バレンティーナ、嬢。また学園で」
己で断ち切った縁だというのに、フェデルは少しうろたえた。バレンティーナが堂々としているものだから余計にである。こうして彼らが育んできた愛は終わりを迎えてしまった。
後日。両家を交えた話し合いにて、バレンティーナとフェデルの婚約は破棄された。婚約期間がそれなりに長かったこともあり、バスティン家はアヴェール家にそれなりの慰謝料を支払うこととなった。
アヴェール家はバスティン家を一切責めなかった。バレンティーナがそう願ったからである。だが、流石の淑女もショックだったのか、彼女は数日学園を休むこととなった。
そうして、真実の愛は結ばれたのだ。
「バレンティーナ様!」
「あら、ヘレン嬢。どうかなさって?」
久々に登校してきたバレンティーナを前に、ヘレンは言葉を失う。何と言えばよいのか分からなかったのだ。バレンティーナに対する酷い裏切りだと強く自覚していたが故に。
「あの、私、私……」
「いいのよ、ヘレン。貴女が気にすることなどないわ」
それでも必死に何か言おうとするヘレンをバレンティーナは優しく制した。そうしてそっと彼女の両手を握る。
「わたくし、貴女たちを祝福するわ。絶対に、幸せになって頂戴ね?」
それは、慈愛に満ちた笑顔だった。途端にヘレンの涙腺が決壊する。バレンティーナはあらあらと困ったように笑って、彼女の目元を指先で拭った。
「ふふ、そんなに泣いてはわたくしがいじめているみたいだわ。泣き止んで頂戴な、ヘレン。綺麗な目が腫れてしまうわ」
「ふ、ぅ……ごめん、なさい……」
ヘレンはぐっと目がしらに力を込めた。バレンティーナに汚名を着せるわけにはいかない。バレンティーナはそれでもまだしゃくりあげるヘレンの肩をそっと叩く。
「……わたくし、少し貴女たちとは距離を取ろうと思うの。ごめんなさいね、貴女たちが悪いわけではないのよ。ただ少し……わたくしが辛いの」
バレンティーナはそっと目を伏せた。ヘレンはまた泣きそうになったが、何とか堪える。自分に泣く資格などないと気づいたからだ。
「はい……本当に、申し訳ございませんでした。バレンティーナ様……」
彼女に悪意は全くなかった。ただ、恋をしただけだ。フェデルに運命を感じてしまっただけだった。それはフェデルもそうだ。彼女を一目見て芽生えたものを真実の愛と思った。それを護らなければと、貫かなければと誓ったのだ。
彼らは決して、バレンティーナを傷つけたかったわけではなかったのだ。
ただ、そんなことはバレンティーナには関係のないことだった。
フェデルが婚約者をヘレンに変えて直ぐのこと。ヘレンは人通りの少ない廊下を歩いていた。バレンティーナは婚約破棄されても堂々と目立っていたので、彼女を避けるには人の多い所から離れるしかなかったのだ。
そして、人通りが少ないということは、人の目が届き辛い場所でもあった。
「ッきゃあ!」
ヘレンは突然短い悲鳴を上げて飛び退いた。目の前に影がよぎったのだ。それは床に落ちて、かさかさと蠢いていた。それを虫だと認識した途端、ぞわりと肌が粟立つ。
「いやぁああああッ!」
廊下に悲鳴が響き渡った。が、それを聞いた数少ない生徒は彼女を一瞥しただけで手を貸そうとも、近寄ろうとすらしなかった。それどころか。
「いい気味だわ、たかだが男爵令嬢の分際で。分をわきまえないのが悪いのよ」
「バレンティーナ様を押しのけてフェデル様に侍るなんて……一体何を考えているのかしら。恥知らずにもほどがあるわ」
ひそひそと聞こえてくる声に、ヘレンはぐっと唇を噛み締めた。まったくもってその通りだと自覚があったのだ。
ヘレンは立ち上がると服についた埃を払う。そうして、前を見据えてまた歩き出した。
「どうして、あんな女が……私の方が……」
他とは少しばかり違う、怨嗟の声に彼女はついぞ気づかなかった。
ヘレンの受ける嫌がらせは日に日に頻度を増し、たちの悪いものとなっていく。勿論フェデルも必死で彼女を護ろうとしてた。しかし、男女で受ける授業が違うこともあり、なかなか全体まで手が回らないのだ。
ましてやフェデルはヘレンが受ける嫉妬の原因である。彼から他の令嬢へ協力を頼むことなど出来はしなかった。
今まではそこを上手くカバーしていたのが、バレンティーナだったのだ。彼女は移動から授業中までヘレンの傍につき、自分が主催するサロンに彼女を誘ったりもしていた。令嬢たちへの影響力が強い彼女は、ヘレンを護る最大の盾だったのだ。
しかし、バレンティーナに協力を願い出ることなど出来はしなかった。今まで通りに振る舞ってこそいるが、彼女はショックを受けている。それも数日学園を休むほどに。その上にその原因は自分たちなのだ。
フェデルとヘレンは少なくとも後二年、卒業までの辛抱だと自分たちに言い聞かせ、身を寄せ合って耐えようと誓った。
「すまない、ヘレン。私がもっとうまく立ち回れればよかったんだが……」
「いいえ、フェデル。このくらい平気だわ……バレンティーナ様が私たちの幸福を願ってくださったんだもの。私、あの方に近づけるよう頑張るわ」
そんな健気で儚い二人の愛にほだされ、彼らの味方になるものも徐々に増えていく。伯爵令息と男爵令嬢の身分差を越えた真っ直ぐな愛。二人が見目麗しいことも相まって、ヘレンへの嫌がらせが学園でも対処すべきだとして問題視されるようになった頃。
一人の女が、嫉妬に狂ってしまった。
彼女はとある伯爵家の令嬢だった。フェデルにあこがれ、幼い頃から恋い慕っていた令嬢の一人だ。家格からしてもフェデルの婚約者となる可能性は十分にあったのだ。
最初はバレンティーナだった。これには彼女も納得していたのだ。同じ伯爵家でも財力を見れば格上。その上バレンティーナ自身が完璧で、まさに彼女の理想とする淑女だったからだ。
彼女はバレンティーナとフェデルが結ばれるのを祝福すらした。フェデルへの恋心を宝石箱に大切にしまい込んで。優しく笑いかけてくれた記憶を心の支えにして。この恋心が、ゆっくりと消えていくのを待っていた。
だが、あの女――ヘレンだけは、どうしても認めることが出来なかった。
興ったばかりの貧乏男爵家。見た目だけは儚げで美しいけれど、それだって彼女にとってはバレンティーナと比べてしまえば塵も同然だった。
あの女はバレンティーナほどの努力をしていない。ありのままをみっともなくさらけ出して、バレンティーナのように常に最高であろうとしない。何よりも、フェデルの後ろに隠れて隣に立とうとしないことが一番腹立たしかった。
――だというのに!
「貴女、わたくしとバスティン令息の婚約をお祝いしてくれたわよね? 貴女がくれた彼と揃いのペンダント、とっても気に入っているのよ。ヘレン嬢に悪いから人前ではもう付けられないのだけれど……あぁ、そうだわ。貴女、よかったらヘレン嬢のこと、気にかけてくれないかしら? わたくしは少し、二人といるのは辛くて……きっと貴女なら彼女のことも祝福してくれるでしょう?」
あぁ、あぁ! 私は貴女だったから、祝福したのに! 彼の隣に立っていたのが完璧な貴女だったからこそ、この恋を諦めることが出来ていたのに!
大事に大事にしまい込んでいたはずの恋心は際限なく膨らんで、ある日破裂してしまった。
「貴女がッ、貴女さえいなければ……ッ!!」
「キャアァアアアアアッ!」
思いつめた彼女はヘレンの顔を切りつけた。小さなナイフで、粉々に砕けてしまった恋心の欠片でもって。
集まってきた生徒や教員に彼女が押さえつけられるのを、バレンティーナは教室の窓から見下ろしていた。
騒ぎを聞いて駆け付けたフェデルは、わき目も振らずにヘレンへと駆け寄っていた。ヘレンの顔を布で押さえ、励ますように声をかけている。それが、伯爵令嬢の恋心をひどく傷つけていることなど露ほども知らずに。
「……これもきっと真実の愛よね」
バレンティーナは呟く。
彼女はバレンティーナのために自分の愛を諦めた。だがそれは消えることなく、ずっと彼女の中で燃え続けていたのだ。バレンティーナとフェデルが婚約していた間も、ずっと。
この一途で、重たくて、火傷するほどの思いが真実の愛でなければ何だというのか。フェデルは一番近くのそれに最後まで気づかなかったのだ。
バレンティーナは何もしていない。彼女は祝福しただけだ。そうして潔く身を引いただけだった。それが何を招くのか、知っていて黙っていただけである。
そうして一つ、囁いた。真実の愛を護ってあげて欲しいと頼んだのだ。端から見れば、まったくもってただの親切心である。
その結果、ヘレンは顔に大きな傷を負ってしまった。フェデルは三人もの令嬢を不幸にした男となった。伯爵令嬢は学生とはいえ傷害事件を起こしたことで退学となった。バレンティーナとて、長年連れ添った相手と別れることになっている。
一人の令息と三人もの令嬢を不幸にしたこの事件は、しばしの間不幸な愛憎劇として語り継がれることとなる。その中で悪役とされるのは、伯爵令嬢だけだ。バレンティーナ・オルガは真実の愛のために身を引いた、心優しき淑女である。
ヘレンは命に別状はなかったのだが、顔を横切る形に傷跡が残ってしまっていた。ひどく落ち込む彼女にフェデルは暫しの療養を提案する。彼の家が持つ領地の一つへ連れて行こうと、家族に連絡を取った。かつてバレンティーナと休暇をともにした景色の美しい領地である。が、返事は驚くべきものだった。
「あの土地は、アヴェール家ではなくバレンティーナ嬢への個人的な慰謝料として譲渡されている。お前の持ち物をなんでも一つ差し上げると約束しただろう?」
愕然とするフェデルに父親は逆に驚いていた。端から見れば円満な婚約解消だろうが、バレンティーナの華の十代を無駄にしたも同然なのだ。彼女個人への賠償をすることに疑問も躊躇もなかった。
バレンティーナはバスティン家現当主に何ともかわいらしいお願いをしていた。
「フェデル様と二人で過ごした、あの土地が欲しいのです。思い出の場所にあの方が他の女性を連れて行くのがイヤで……その、狭量で申し訳ないのですが」
気恥ずかしそうに目を逸らし、いつもの気丈はどこへやら。もじもじと話すバレンティーナにあぁ、彼女は息子を確かに愛してくれていたのだとフェデルの父親は申し訳ない気持ちだった。
その土地はいずれフェデルのものとなるものだ。彼の持ち物として数えても問題はないと考えたのである。元々己の愚息が引き起こしたことだ。彼は息子の教育が至らなかった責任を取っただけだった。
やはり彼女は傷ついていたのだな、と再認識してフェデルは苦い気持ちになる。結局二人は療養のために学園を休学し、バレンティーナとは遅れて卒業することとなった。その分グレイ家には学費が負担となってしまうのだが、そこは将来婚家となるバスティン家が援助する形となった。
フェデルはその間、ヘレンとともにグレイ家の領地に滞在することとした。バレンティーナが主導していた領地の特産品を、今度は二人だけでゆっくり盛り上げることにしたのだ。
花の妖精が萎れてしまっても、彼らは真実の愛を貫いた。婚約を解消することなど考えもしていないのだろう。二人が育む愛は二人と同じように強く、美しかった。
一方のバレンティーナはますます自分に磨きをかけていた。幾多の令息からの婚約の打診を断り、勉学に打ち込んだ。彼女はフェデルから譲り受けた土地で、独り立ちするつもりでいたのだ。
今回の件で、バレンティーナは一つの真実に気づいた。バレンティーナは他人を心から愛することは出来ないのだ、と。
バレンティーナは己を一番深く愛していた。他人に対して彼らのような熱量を持つ愛を抱けなかった。ひょっとしたらバレンティーナは彼らのことが羨ましかったのかもしれない。『真実の愛』というものが心のどこかを逆撫でしたことは大きかったが。
ヘレンのことも、フェデルのことも好きではあった。彼らは美しく、努力を重ねて己を磨こうとしていたから。だが、バレンティーナは彼らのことを容易く切り捨てた。先に捨てられたのがバレンティーナの方だったとしても。
「愛、ねぇ……まるで呪いのようだわ」
だが、出来ないことは練習すればよいのだ。おあつらえ向きに、誰も気にかけない少女がいた。バレンティーナにも関係のあるご令嬢である。
「ねぇ、そう思わない? アシュリー伯爵令嬢」
愛に狂い、愛を亡くした虚ろな目が、バレンティーナを見上げていた。
現在のお姉様ほぼ完成形。
後は小鳥と子犬集めですね。