Phase 01 盂蘭盆
芦屋からバイクを走らせること4時間。私は豊岡へとたどり着いた。有馬から高速道路に乗るということも考えたが、高速代をケチって下道を通ったので思いの外時間がかかってしまった。
兵庫県というのは本州に対して蓋をするように置かれていて、南北に長い。淡路島を除外したとしても、北は日本海に面していて、南は瀬戸内海に面している。故に気候も北部と南部で全く異なり、淡路島で春の花が咲き出す頃に、豊岡は豪雪地帯として天気予報で取り上げられるという両極端な景色が1つの県で楽しめる。――今は8月中旬で、北部も南部も「暑い」という言葉しか出てこないのだけれど。
そんな8月中旬の豊岡というのは、とにかく蒸し暑い。日本海側の気候だから当然だろうか。私はバイクで駅前の寂れたシャッター街を通り抜けていたが、それだけでも大量の汗をかいてしまう。――服装、ミスったかもしれない。
やがて、シャッター街から交差点を曲がって実家がある方へと向かい、「都築」という表札を確認したところでバイクから降りた。――表札の通り、私の本名は、「都築彩花」というありふれた名前でしかない。
「あら、彩花ちゃん、帰ってきたのね。今年のお盆は帰ってこないと思ってたけど」
バイクにまたがっている私の姿を見たのか、母親が話しかけてきた。母親は家庭菜園に精を出していて、キュウリを収穫している最中だった。
私は、顔に泥が付いている母親の姿を見ながら話す。
「うん、ちょっと訳ありでね」
「訳あり? どういう訳があったの?」
「うーん、執筆活動に行き詰まってるとか……そんな感じかな」
「なるほど。――さては、沙織ちゃんから『帰ってこい』って言われたんでしょ?」
やはり、見透かされていた。私は話す。
「そ、そうだけど……それがどうしたのよ?」
「なんとなく、そんな感じがしてね。――多分、例の屋敷のことでアンタに助け船を求めたんでしょ」
「そこまで知ってたのね。――沙織ちゃん、最近噂になってる『ボロ屋敷騒動』が気になってるんだと思う。私、探偵じゃないんだけど」
「アハハ。確かにアンタは推理小説を書いてるけど、別に探偵という訳じゃないからね。そこはちゃんとわきまえてるわよ」
そう言いながら、母親はキュウリの収穫を終えた。ボウルには、大量のみずみずしいキュウリが入っていた。
「とりあえず、詳しいことは中に入って聞くわよ。――お腹、空いてるでしょ?」
「そうね。ありがたく中に入らせてもらうわ」
そう言って、私は母親の案内で家の中へと入った。実家に帰るのは、多分1年ぶりぐらいだったと思う。
*
テレビからは高校野球の中継が流れている。それだけで、今が8月中旬だということは明確だった。淹れたての冷たい麦茶を飲みながら、私は話す。
「――そういうことなの。沙織ちゃんから『ボロ屋敷』の話を聞いて、なんとなく事件性のあるモノだと思ったのよ」
「なるほどねぇ。確かに、アンタが通ってた中学校の近くにあるボロ屋敷を取り壊して、不動産会社が新しいアパートを建てようとしているのは事実よ。でも、ボロ屋敷の持ち主はかたくなに取り壊しに反対してて、不動産会社の社長が困ってるって話は聞いたわよ」
「さすが豊岡、悪い噂はすぐ広まるのね……」
私が呆れつつそう言うと、母親はうなずきながら話した。
「その不動産会社、昔お母さんが務めてた会社なのよ。そこで働いている頃はそれなりに給料も良くて、会社でも重宝されてたけど……結局、上司からの執拗なセクハラで辞めざるを得なかったわね。――コホン。とにかく、今そこで起きている騒動は結構闇が深そうだと思う」
「お母さんが務めてた不動産会社って、『安木不動産』だったっけ?」
「そうそう。アンタはまだ幼かったからあまり覚えてないかもしれないけど、お母さんは女手一つでアンタを育てたくて、安木不動産で必死に働いてた。その頃の豊岡はバブルが弾けた時期だったとはいえ今よりも都会で、幹線道路沿いには新しいお店が続々出来ようとしていたからね。だからこそ、給料も良かったんでしょうけど」
母親――都築美雪が言う通り、私は「父親の記憶」というモノがほとんどない。それもそのはず、両親は私の物心が付く前に離婚していて、物心が付いた頃にはすでに母親の存在だけがそこにあった。
母親曰く「一時期千葉県に住んでいた」とのことであり、家の窓からは「夢の国」のトレードマークである大きなお城が普通に見えていたらしい。しかし、そんな記憶は私の頭の中にあるはずがなく、私が千葉県で持っていた数少ない記憶といえば、千葉県を拠点としていたサッカークラブである柏ソレイユの練習風景を見ていたことぐらいだろうか。確か、その頃のサッカー事情といえばちょうどプロリーグが開幕して、ヴェルデ川崎と横浜マリンズが最強って言われていたんだっけ。
「1都道府県につき1クラブ」という制約があった当時のプロサッカーリーグにおいて、千葉県からは市原市に拠点を構えていたジェルユナイテッド市原がプロサッカーリーグに参戦した。
でも、両親が住んでいた場所はどちらかといえば日田製作所という大手電機メーカーを母体とした実業団クラブである柏ソレイユの本拠地の方が近かった。早い話が柏市である。――ちなみに、柏ソレイユがプロリーグに参戦したのは、両親が離婚して半年後だったらしい。
母親が私を連れて千葉県を離れて豊岡に戻ったのは平成6年の12月で、翌年の1月にあの震災が発生している。あの震災は神戸や西宮を黒い煙に包んだというが、後で聞いた話だと「豊岡もそれなりに被害が出ていた」とのことだった。当然、震災の記憶なんて持っていなくて、その頃の私が持っていた記憶は――何なんだろう? どうせ思い出したところで、ろくな記憶は持っていない。
そういう事情も積み重なっていて、私は「父親」という存在を知らない。母親は父親のことを悪く言っているし、母親の話が正しければ父親は「真性のドクズ」である。
だからこそ、母親は女手一つで私を大事に育てていたのだろう。――結局、無理が祟って私が高校生の時にメンタルを壊してしまったのだけれど。
そして、私が物心を付いた時に母親が働いていた不動産会社がまさしく安木不動産だった。母親がそこで働き始めた時期は、震災から1年と少しが経過した頃だったと思う。多分、平成8年の4月ぐらいかもしれない。
当時の女性社員――俗に言う「OL」とかいう女性は、「基本的にお茶くみと電話応対ができたら良し」と言われていたが、どういう訳か母親は当時まだ珍しかったパソコン通信のスキルを駆使して数々の不動産案件を契約成立まで導いていたらしい。故に社内では「伝説の美雪さん」として今でも数々の武勇伝が語り継がれているという噂である。私は母親に対して数々の噂が本当かどうか聞きたかったけど、なかなか聞き出せないまま年月だけが過ぎていった。
仮に、今回の騒動において母親がいたらどういう風にことを収めていたのだろうか? 私はなんとなくそのことを妄想していたが……母親の「そうめんがゆで上がった」という一言でその妄想はもやの中へと消えてしまった。
そうめんをすすりながら、私は話す。
「うーん、ここは実際にボロ屋敷へと行ってみるべきなのかな」
「そうね。アンタの言う通りだと思う。――まあ、お母さんはあまり騒動に対して深入りしないけど」
「深入りしないんだ」
「しないわよ。あんな噂、眉唾でしかないし」
「噂? どういうことなの?」
私の疑問に対して、母親が答えていく。
「なんて言うんだろう、あの屋敷って……ある家族が儀式のために建てたって噂で、その儀式が生々しいのよ」
「それ、詳しく教えてくれない?」
「もう大人になったし、儀式のこと――アンタに教えても良いわよ?」
そう言って、母親は「生々しい儀式」のことを詳しく教えてくれた。
「母親が自分の娘を生け贄にして、10歳の誕生日と13歳の誕生日、そして16歳の誕生日に行われて、それぞれ10歳の時に爪を、13歳の時に歯を、16歳の時に髪の毛をとある箱の中に供養していくのよ。そして、最終的に――母親の魂は楽園に行くって話よ」
「確かに、自分の娘を儀式の生け贄にするなんて、どうかしてるわね……」
私は、その儀式の内容に対してドン引きした。常人では考えられない儀式だから当然だろう。
そして、そうめんを食べ終わったところで私は話す。
「とりあえず、私はボロ屋敷に行ってみるわ。あの儀式が本当かどうか、この目で確かめたいし」
「分かった。――まあ、自己責任で頼むわよ? お母さんを巻き込むことなんて、やめてほしいし」
そこまで言うなんて、母親は私に隠し事をしているのだろうか? 若干懐疑的になりつつも、私はバイクにまたがって例の屋敷へと向かった。
*
私が通っていた中学校は山を切り崩した台地の上にあって、校舎へと向かう坂道は陸上部の間で「心臓破りの坂」なんて言われていた。まるで、赤坂のテレビ局が半年に一度やっている感謝祭のマラソンだ。
そんな「心臓破りの坂」の麓付近に、例の屋敷は存在していた。その屋敷と呼んで良いかどうか分からない建造物は今にも壊れそうで、なおかつ「本来そこにあるべきモノ」が見当たらない。
本来そこにあるべきモノ。それは――玄関だった。つまり、この屋敷は外部からの侵入を許さない構造になっていたのだ。
私はなんとか侵入できる場所を探そうとしたが、やはりガラスを割るしかないのか。万が一ガラスを割ってしまったら、それこそ屋敷の持ち主から怒られる可能性がある。そう思っていた時だった。
「――ツヅキン、やっぱりここへ来ると思ってたわ」
後ろから、私のニックネームを呼ぶ声がした。一体、誰なんだろうか。
私が後ろを振り向くと、そこには前髪を切りそろえた長髪の女性がいた。
私は、思わず女性に対して馴れ馴れしく話した。
「さ……沙織ちゃん?」
どうやら、私の答えは合っていたらしい。彼女は話す。
「ピンポーン。アタシよ、西口沙織。こうやってツヅキンと直接会うのは中学校の卒業式以来だわね」
「確かにそうだけど……どうしてこんなところに来たのよ?」
「あの噂を確かめるためよ」
「噂? もしかして、それって……『自分の娘を生け贄にして母親が楽園に向かう』とかってヤツ?」
私がそう言うと、彼女はある思い出とともに経緯を説明した。
「その通り。――中学生の頃、ツヅキンとアタシでこの屋敷の謎を解明しようとしたよね? あの頃は屋敷の謎について『タブー』なんて言われてたけど、いざ取り壊しが決まってから、どうもそういう『タブー』じゃ済まされないような何かが屋敷の中にあると思ってね」
「なるほど。――ところで、沙織ちゃんって今何してんのよ?」
「アタシ? アタシは……安木不動産で事務職として働いてるわよ? もちろん、この屋敷を取り壊して新しいアパートを建てたいって屋敷の持ち主に説得することもやってるけど、なかなか上手くいかないのよね」
「そうだったの。――それじゃあ、強硬手段で屋敷の中に入るしかないわね。もしかしたら、屋敷の中で何かが分かる可能性もあるしさ」
「そう思って、持ってきたのよ……ハンマー。多分屋敷の持ち主には怒られると思うけど、どうせいつかは取り壊されるモノだし、これぐらい良いでしょ?」
そう言って、西口沙織は適当な窓を持っていたハンマーで割った。
パリンという音がしたのを確認して、私と西口沙織は屋敷の中へと入っていった。
玄関がないからなのか、屋敷の中は薄暗かった。ちなみに現在時刻は午後2時を少し過ぎた頃合いである。それでも暗い。
私は、カバンからスマホを取り出してライトを点けた。ライトを照らした先に何かが見えるかと思えばそうでもなく、むしろ古びた屋敷にしては不自然なぐらいに何もなかった。
「この屋敷、建築年数の割には何もないわね……」
私がそう言うと、西口沙織もスマホのライトを点けながら話した。
「でも、『モジャモジャのマネキン』があったのは2階じゃないの。――上がるわよ?」
確かに、あの時見た「モジャモジャのマネキン」があった場所は2階だったな。そう思った私は、階段を上がっていった。
2階は、何もない1階と異なり物が乱雑に置かれていて、特に目を引いたのは古びたタンスと鏡台だった。そして、鏡台の前には――あの時と変わらず、モジャモジャのマネキンがあった。
私は話す。
「あったわね、モジャモジャのマネキン。でも、どうしてマネキンなのかしら?」
「私にも分からないわよ……。でも、何らかの理由があってこんな場所にマネキンが置いてあるのは確かでしょうね」
そう言いながら、西口沙織はタンスの引き出しを開けた。そして――彼女はその場で硬直して動かなくなった。
「何よ、これ……」
硬直する彼女に駆け寄り、私はタンスの引き出しの中を見た。そこに入っていたのは――明らかに人間のモノとしか思えない爪だった。それも、いわゆる「ネイルチップ」ではなく「人間の生爪そのもの」だった。
ということは、ほかの引き出しの中には歯と髪の毛が入っているのか。そう思った私は興味本位で生爪が入っていた引き出しの下を開けた。
「…………」
私は、その引き出しの中身を見て思わず言葉を失った。
引き出しの中に入っていたのは人間の歯であり、その本数は一般的な人間が持っている本数とほぼ同じだった。
上段の引き出しに生爪、中段の引き出しに歯が入っていた。そこから導き出される答えは――言うまでもない。そう思った私は、下段の引き出しを開けた。
「――これ、酷くない?」
引き出しを開けて、私が言うよりも先に西口沙織がそう言った。なぜなら、その中に入っていたのは――まさしく女性の髪の毛そのものだったからだ。
「沙織ちゃん、逃げるわよ。これ、多分……ヤバいヤツだと思う」
私がそう言いながら慌てて屋敷から引き返そうと思った時だった。ざらざらとした音が聞こえる。一体、何の音なんだ?
私は西口沙織を連れて音がするほうへと向かった。ざらざら。ざらざら。ざらざら。
やがて、ざらざら音は途切れて――代わりに人影が見えた。もしかしたら、この屋敷に閉じ込められている人間なのだろうか?
私は、その人影をスマホのライトで照らした。そこには――髪を舐めずる白い服をまとった少女の姿があった。
白い服をまとった少女の髪は腰の下まで伸びていて、目は麻薬常用者のそれのごとく虚ろだった。スマホのライトで照らすと、その形相は「人ならざるモノ」でしかない。少女の形相を一発で説明するならば、かつてホラー映画として一世を風靡した「呪いのビデオを再生した時に画面から飛び出してくるとされる怪異」のようだった。
「き、きゃあああああああっ!」
そのおぞましい姿を見て、私は思わず悲鳴を上げて階段を降りていき、そのまま侵入口から外へと出た。――少女が追ってこなかっただけ、マシだろうか。
*
「アレ、何なのよ! アタシ、聞いてないわよ!」
コーヒーを飲みながら、西口沙織はそう言った。
あの後、私と西口沙織は屋敷から逃げるように幹線道路沿いのコーヒーショップへと飛び込んだ。当然、少女が追ってくる気配はない。――私は話す。
「沙織ちゃん、そんなこと言われても……私にも分からないわよ、あんなモノ」
私の話で、彼女はようやく冷静さを取り戻した。
「それはそうよね……。でも、ビックリしたわ。まさか、密閉された屋敷の中に女の子が閉じ込められてるなんて思ってなかったし。――もしかして、屋敷の持ち主が閉じ込めたのかしら?」
「その可能性は考えられるわね。屋敷の持ち主は、何らかの理由で少女をあの屋敷へと閉じ込めて監禁した。そんなところかしら?」
「ということは、あの女の子は……」
西口沙織が提示した結論の続きを、私が話す。
「多分、儀式の『生け贄』なんだと思う」
私が答えを話したところで、彼女は自分のスマホである漢字を入力して画面をこっちに向けた。
彼女のスマホの画面には「禁止」の「禁」と「皇后」の「后」という漢字2文字が表示されていたけど、その読み方は分からない。――彼女は話す。
「じゃあ、あの噂って本当ってことなの? 禁止の『禁』と皇后の『后』って書いて……なんて読むんだろう? パンダ? ドラえもん?」
「流石にその読み方はないと思うけど……その漢字、ちょっとメモを取らせてもらうわ」
禁后。正式な読み方は分からないけど、西口沙織の話を信じるならば、多分「パンダ」とか「ドラえもん」とか、まあそんな感じの読み方なのだろう。私はテーブルに置かれていたアンケート記入用のボールペンとアンケート用紙の裏紙を使ってその漢字のメモを取った。そして、メモをデニムのポケットに入れた。
それから「逆写真詐欺」と名高いコーヒーショップのフードメニューを食べながら、西口沙織は話を続けた。
「とにかく、あの屋敷には漢字で『禁じられた后』って書く『何か』が封印されてて、アタシがうっかり封印を解いちゃったから……女の子の幽霊が現れた。そんなところだと思う。まあ、新しいアパートを建てるためにも、屋敷に関する謎は解明していく必要があるわね。じゃないと、せっかく建てたアパートも『事故物件』のレッテルを貼られちゃうし」
確かに、それはそうかもしれない。――私は話す。
「そうね。映画や小説で最近その手のホラーが流行ってるけど、沙織ちゃんが言う通り……このままだと、前の屋敷の怨念が新しいアパートにも取り憑いちゃうわね。まさに『事故物件』よ」
「まあ、念のためにアパートを建てるフェーズで『地鎮祭』って儀式を行うけどさ。アタシ、不動産販売員としてその儀式に立ち会ったこともあるし」
西口沙織が言う通り、基本的に新しい家を建てる時には「地鎮祭」と「上棟式」、そして「竣工式」という3つの儀式が行われることが基本となっている。
地鎮祭は更地に家を建てるとき、上棟式は家の骨組みが完成したとき、竣工式は家が完成したときに引き渡しも兼ねて行われることが基本となっている。それらはすべて「土の神様」に感謝すべく行われる儀式であり、八百万の神を祀る日本だと神式での儀式が基本となっている。――まあ、日本は基本的に宗教がごちゃ混ぜなので、そういう儀式はうわべのカタチでしかないのだけれど。
仮に、オーナーが何らかの理由で屋敷の取り壊しに反対しているとしたら、やはりあの屋敷には「何か」が祀られているのだろうか? 私はちっぽけな頭脳でそんなことを考えていた。
とはいえ、これ以上の長居は迷惑になってしまう。そう思った私たちはコーヒーショップを後にすることにした。ちなみに、なんとなくその日の気分でオーダーした「逆写真詐欺」のエビカツサンドは私の胃袋には大きすぎて、結局タッパーをもらって持って帰ることにした。
コーヒーショップの駐車場で、私は話す。
「それで、沙織ちゃん……これからどうするのよ?」
「アタシ? アタシは……とりあえず仕事に戻るわよ? 一応『中抜け』ってカタチでツヅキンに会いに来てたし。まあ、これだけ長い時間中抜けしてたら、今日は残業確定よ」
確かに、西口沙織が乗っていた白い車には「安木不動産」というロゴがラッピングされていた。社用車か。
「分かった。――何か、変わったことがあったらすぐに連絡して。私、すぐに沙織ちゃんの家へと向かうから」
「オッケー。それじゃ、アタシはこれで」
そう言って、彼女が乗っていた安木不動産の社用車はコーヒーショップの駐車場を後にした。――私も、帰ろう。
*
家に戻ると高校野球の中継は佳境に入っていた。テロップには「第3試合」と表示されていて、甲子園の銀傘には灯がともろうとしていた。――Gショックを見ると、時計の針は午後5時になる少し前だったから、当然か。
それにしても、あの屋敷は謎が多いな。不自然なまでにモノがない1階はともかく、2階に置かれていた鏡台とタンス、そしてその中に入っていた生爪と歯と髪の毛。これらが示すことって、一体何なんだ。そして、何よりも――「禁じられた后」という漢字を書く謎の存在。私はそれが気になっていた。
色んなことを考えつつ、テレビに映っている高校野球の試合を見る。どうやら、兵庫県の高校が健闘しているらしい。
「――ピッチャー投げました。打った! ボールは高く伸びてバックスクリーンの中に入っていき……3ランホームラン! 地元の大歓声を受けて、選手が今ホームに戻っていきます!」
兵庫県の高校が3点を追加して、圧倒的な強さを見せている。相手は北海道で「強豪」って言われてる高校だけど、これだけの点差が付いていたらもう為す術もないだろう。そんなことを思いながらテレビを見ていると――スマホが鳴った。
私は、スマホのロックを解除して受信したメッセージを確かめた。――ああ、彼か。
私は、「彼」のメッセージをじっくりと読むことにした。
――彩花ちゃん、豊岡に戻ってるんだって? 沙織ちゃんから聞いたよ。
――僕もちょうどお盆で実家に戻っててね、今からでも君に会いたいって思って連絡してみたんだ。
――彩花ちゃんさえ良ければ、ファミレスで待ってるから。
メッセージに対する答えは、分かっている。
――達哉くん、分かったわ。今すぐファミレスに向かうから、ちょっと待ってて。
そういうメッセージを送信したところで、私は母親に「ちょっとファミレスで会いたい人がいるから帰りが遅くなるし、夕飯も用意しなくて良い」と断りを入れてバイクにまたがってファミレスへと向かうことにした。――どうせ、高校野球はこのまま兵庫県の高校が勝つだろう。
*
私はファミレスで「大渡達哉さんは来ていますか?」と店員に伝えて、彼が座る席へと案内してもらった。テーブル席にはロン毛の大柄な男性が座っていて、男性はノートパソコンで調べ物をしていた。
大渡達哉。彼との関係は……多分、「幼なじみ」なのだろう。その付き合いは小学生どころか保育園の頃まで遡る。私は「父親がいない」というデバフがかかっている時点でいじめの対象になっていて、特に小学生の頃はいじめられる日々が続いていた。そんな私を庇っていたのが言うまでもなく大渡達哉という男の子で、私は彼の存在に救われていた。
当然、彼とは中学校も同じであり、3年間同じクラスに在籍していた。故に恋愛的な感情を抱くこともあったのだが……結局、彼は3年生の進路相談の時に高校の進路を「スポーツ留学」に定めて神戸にあるサッカー強豪校へと進学することになってしまった。そのときの彼は、中学校におけるサッカー部の絶対的エースだったから当然だろう。
しかし、彼は高校の時に「補欠」という名の挫折を味わい、サッカー選手の道を諦めることとなってしまった。曰く「僕はビクトリア神戸で13番を背負う夢を持っていたけど、現実はあまりにも厳しいモノだった」と当時を振り返っている。ちなみに、彼の同世代に現在のビクトリア神戸の絶対的エースで、平成22年度の冬の高校選手権における優勝メンバーの1人である大武勇紀選手がいたから――兵庫県民の田舎者でしかない大渡達哉が「補欠」として3年間ベンチを温めてしまうのは必然的な話だったのかもしれない。
そして、大学卒業を経て現在では尼崎に本社機能を構える大手電機メーカーで組み込み系のシステムエンジニアとして働いているが、それは表向きの姿でしかない。私が知っている彼の本当の姿は――探偵である。それも、警察が匙を投げた「怪奇的な事件」を専門として受け持っている。事件解決率は99.9パーセントという高い水準を保っていて、兵庫県警の刑事さんも彼を「最後の切り札」として重宝している。
「――彩花ちゃん、待ってたよ。君も、『ボロ屋敷』のことが気になって豊岡へと帰ってきたんだな」
彼の言葉に対して、私は当たり前の答えを返した。
「もちろんよ。ただでさえ『閉鎖的な環境』なんて言われる豊岡でああいう怪しいモノが見つかったら、帰るしかないわよ。――まあ、ちょうどお盆だったから実家帰省には良いだろうと思ったのもあるけどさ」
「そうだな。そこは君の言う通りだ」
テーブルには、先に彼がオーダーしたであろうハンバーグが置かれている。胃の中にコーヒーショップのエビカツサンドが残っていた私は、とりあえず冷やしうどんとドリンクバーのセットを注文した。
冷やしうどんを食べながら、私は話す。
「そうだ。達哉くんは『禁じられた后』のことを知ってるの?」
「ああ、それか。僕もその線を疑って色々調べていたけど、どうもネット上に上がっていた怪談しか出てこない。まあ、ネット上の怪談は『良く出来た作り話』でしかないんだろうけど」
「やっぱり、調べてたのね。――読み方、分かる?」
私は彼に「禁后」の正しい読み方を聞いたのだが……結局、大した答えは返ってこなかった。
「残念だけど、僕もその漢字の読みは知らないんだ。まあ、ネット上ではその漢字に対して『パンドラ』なんて読みが当てられてるみたいだが」
「パンドラって、ギリシャ神話に出てくる『箱の邪神』よね? 彼女が持ってた箱には絶望が詰まってて、その絶望が世界を覆い尽くすとかそういう感じの話だったような気がする」
「その通りだ。――まあ、最終的に箱の底には『希望』が入っていたっていうオチだけどな。故に、今でもリスクしか孕んでいない事案を『パンドラの箱』なんて喩えている。僕としては、この件に関して『絶望の中にも希望はある』という捉え方をしているが」
確かに、彼が言う通り――パンドラの箱は99パーセントの絶望の中に1パーセントの希望があると思う。しかし、「禁后」に対して「パンドラ」というワードを当てるなんて、端から見れば中二病患者でしかない。
やがて、両者オーダーした料理を食べ終わり、私はちゃっかりバニラアイスを食べていた。別腹だからいいじゃないか、どうせ払うのは私じゃないし。
「――食欲がないって言っていた割には、ちゃっかりアイスを食べるんだな」
「いいじゃん、どうせ達哉くんが払ってくれるんでしょ?」
「それはそうだが……、まあいいか」
若干呆れつつも、彼は伝票を見ていた。
「仕方ない。そもそもの言い出しっぺは僕だし、バニラアイスの分も払うよ」
「ありがとね」
*
その後、私はファミレスの駐車場で大渡達哉と話を続けていた。ちなみに、彼の愛車は日産GTRである。車の色はオレンジで、曰く「ワイルド・スピードに登場する甘党のアジア人に憧れて買った」とのことらしい。
「まあ、『禁后』の件も含めてあのボロ屋敷は引き続き調べていくよ。もちろん、沙織ちゃんにもよろしく伝えておいてくれ」
「そうね。――達哉くんがいてくれて助かったわ。私も、ボロ屋敷については徹底的に調べていくつもりだし」
「そうだな。それじゃあ、僕はこれで失礼するよ。何か変わったことがあったら、スマホにも伝えるから」
「分かったわ」
そう言って、私は彼が運転するオレンジ色の日産GTRを見送った。
いくら夏と言っても、やはり日が暮れると「夜」でしかない。私はそう思いながら、蒸し暑い夜風を浴びてバイクを走らせていた。Gショックを見ると時刻は午後8時を過ぎた頃合いだったが、この時間でも「まだ明るい」印象を持つ神戸や芦屋と違って、午後7時の段階で辺りは徐々に暗くなり、午後8時となるとほとんどの店は蛍の光を流して閉めてしまう。故に、幹線道路なのに辺りはかなり暗く、私はバイクのライトを点して家へと帰った。
家に戻ると、母親はオンデマンド配信で映画を見ていた。――この時期に『エクソシスト』を見ても、納涼にはならないと思う。
映画を一時停止した上で、母親は話す。
「あら、おかえり。――どうだった?」
「どうだった? って言われても……私は達哉くんと『ボロ屋敷』に関する話しかしてないけど」
私が大渡達哉との経緯を正直に話すと、母親はうなずきながら納得してくれた。
「やっぱり、そうだったのね。まあ、お母さんも『安木不動産の元社員』としてあのボロ屋敷の謎は解明したいけど、あのボロ屋敷……どうも、不自然な点が多いのよね。すでに気づいてると思うけど、屋敷には『入口』と呼ばれるモノが存在していないし、1階はほとんど空洞と言っても過言じゃない。そして、2階には鏡台とタンスが置かれていて、鏡の前には『人毛で出来たカツラのようなモノ』があって、マネキンの上に被せられている」
「それに関しては、今日……沙織ちゃんと一緒に見に行ったわ。――それで、どうも屋敷の中に女の子が監禁されてるみたいで、彼女は虚ろな目でひたすら自分の髪を舐めずっていた。どうして彼女がそんなことをしているのかはよく分からないけど、多分『儀式』が関係しているんだと思う」
「なるほどねえ……。まあ、いくらあなたが小説家でそういうモノに対して関心を持ってると言っても、あまり深入りすると帰ってこれなくなるわよ?」
母親の指摘は、図星だった。――私は、言い逃れをする。
「い、いくら何でも私はそこまでバカじゃないし、深入りなんてしないわ」
「そう。――だったら良いけど……」
それから、私はシャワーを浴びて汗だくの体を洗い流した。服装をミスった「ニルヴァーナのロゴ入りの黒いTシャツ」は汗でびっしょりとしていたし、とりあえず母親に洗濯してもらおう。
寝る前に、私は自分の部屋で改めてボロ屋敷に関する謎を考えていた。――無論、ダイナブックの電源は入れた状態である。
現時点で分かっていることとして、あのボロ屋敷には「玄関」という存在がなく、結局のところ窓ガラスを割って中へと侵入せざるを得なかった。その割に1階には空き家のように何もなく、2階にはタンスと鏡台、そしてモジャモジャのマネキンが置かれていた。
タンスの中には人間のモノと思われる生爪、歯、髪の毛が入っていて、部屋の中で監禁されていた少女は自分の髪を飴のように舐めていた。それがどういう意味を示すかは、まだ分からない。――そんなところだろう。
今日はこれ以上の情報を望めない。そう思った私は、麦茶で睡眠導入剤を流し込み、そのまま眠りについた。当然だけど、夢の世界における記憶なんて覚えているはずがない。
*
翌日。私は6時30分ちょうどに鳴るスマホのアラームでその意識を覚醒させた。――というか、意識を覚醒させた要因はスマホのアラームというよりも、蒸し暑い豊岡の朝かもしれない。
私はリビングに向かい、テレビの電源を入れる。どうせ大したニュースなんてないだろうと思っていたが、関西ローカルのニュースの一報を見て、私はその思考を一瞬停止させてしまった。
「――昨晩、兵庫県豊岡市の民家で、女性の遺体が見つかりました。女性の死因は栄養失調による衰弱死であると見られ、兵庫県警では事件と事故の両方で捜査を進めているところです」
そのニュースに映っていた民家はまさしく昨日私と西口沙織が見に行ったモノであり、なんなら中に侵入している。――とはいえ、窓ガラスは他にも割られていたらしく、「私と西口沙織がその民家に侵入した」という形跡はなかったことにされていた。
同じニュースを見ていたのか、スマホ宛てに西口沙織からメッセージが送られてきた。
――どうやら、あの少女……亡くなっちゃったみたいね。
――兵庫県警は「事件と事故の両方で捜査している」なんて言ってるけど、どう考えても事件だと思う。だって、あのタンスの中に入ってたモノってどう考えても生身の人間が持っていたものだし。
――アタシは仕事で忙しいから、達哉くんと一緒に事件現場に行ってきなよ。
――多分、彼なら力になってくれるはずだからさ。
彼女にそうやって言われた以上、仕方がないな。私はテレビの電源を消して、パジャマから適当なTシャツに着替えた。そして、ベッドで寝ている母親を起こさないようにしながら――外に出た。
ライムグリーンのバイクにまたがり、ギアを入れる。私が向かうべき場所は、もちろん事件現場のボロ屋敷である。
*
ボロ屋敷には、兵庫県警のパトカーが停まっていた。豊岡という田舎町にしては、台数が多い方である。
当然だけど、屋敷付近には黄色い規制線が張られている。一般人である私が入るすべなんてないだろう。そう思っていた時だった。
「――彩花ちゃん、来たんだな」
声がした方へ振り向くと、後ろには大渡達哉がいた。彼は話す。
「まあ、君の話を聞いたフェーズで嫌な予感はしていたが……本当に監禁されていた少女が亡くなるなんて思っていなかった。刑事の話によると、『事件性も疑われるし、ただの事故である可能性も考えられる』なんて言っていたが、僕はどう考えても『事件性のあるモノ』だと思っているんだ。多分、探偵としての直感がそう告げているんだろう」
「そうね。達哉くん、探偵だもんね」
「そうだな。――まあ、『探偵』って勝手に持ち上げているのはマスコミや警察であって、僕は『本当のこと』を説明しているに過ぎないんだが」
こういう状況下においても、彼は冷静さを保っている。――当然だろうか。
そして、彼は話を続けた。
「とにかく、このことは今から知り合いの刑事に説明しようと思っている。せっかくだし、彩花ちゃんもその刑事に会ったらどうだ? きっと、力にはなってくれるはずだ」
「そうね。――達哉くん、私に刑事さんのことを紹介してよ」
「分かった」
そう言って、彼は規制線の中へと入っていった。私も、彼に続いて規制線の中へと入っていく。
「――ああ、達哉さんか。君が出てきたということは、そういうことなんだな」
中にいた刑事は、大渡達哉にそうやって話した。
彼の答えは、当然のモノである。
「その通りです。――宿南刑事、この事件は言うまでもなく『殺人事件』です。それは僕が保証します」
「そうか。――ところで、そこにいる女性は誰なんだ? 見かけない顔だが……」
私は、大渡達哉が「宿南刑事」と名指した刑事に対して自分のことを説明した。
「わ、私は……都築彩花です。一応、これでも小説家として活動してて、大渡さんとは長い付き合いなんです」
「都築彩花か。――まさかだが、ペンネームは難しい漢字だったりするのか? 例えば、『亜空間の亜』に『弥生時代の弥』に『中華の華』とか……」
そういう漢字で私のペンネームを説明する人って初めて聞いたかもしれない。そう思いながら、私は宿南刑事と話をする。
「まさしく、その通りですけど……」
「ああ、やっぱりそうか。――僕、こう見えて君の小説のファンなんだ。単行本から文庫本、さらには愛蔵版まで読ませてもらっているよ」
「そ、そうなんですか!? まさか、私のファンが実在するなんて思ってもいませんでしたが……」
そうやって私が謙遜すると、宿南刑事はようやく自分の名前を名乗った。
「おっと、失礼。私の名前は『宿南善太郎』だ。お察しの通り、兵庫県警捜査一課の刑事で、担当している事件は殺人事件が多い。当然だが、達哉さんとは長い付き合いで、私としても彼から『知恵』を授かっているんだ」
宿南善太郎と名乗った刑事は、黒縁の丸眼鏡に黒いスーツという出で立ちで、華奢に見えた。髪色は黒よりの茶色で、「呪いで戦うバトル漫画」における最強呪術師の髪色をそのまま黒くしたようなモノだった。――その呪術師、銀髪で碧眼なんだけど、宿南刑事の眼は普通の日本人と同じ黒い眼をしていた。
宿南刑事は話す。
「――コホン。先ほど鑑識の方で調べてもらったが、この屋敷で亡くなった女性の身元は『荒川八千代』というらしい。年齢は13歳で、彼女の指は……本来そこあるべきモノがすべて剥がされていた」
13歳の少女の指から、本来そこにあるべきモノがすべて剥がされていた。――遺体に関する宿南刑事の説明で、私はすべてを察した。
「それ、もしかして……『禁じられた后』と書いて『パンドラ』と読む儀式なんじゃないんでしょうか? 私はそう思います」
私がそう言ったところで、宿南刑事は反応する。
「なるほど。――これは達哉さんの入れ知恵でしかないが……確かに、『パンドラ』と呼ばれる都市伝説レベルの儀式がこの豊岡で行われようとしていることは確かだろうな。私も、その線で捜査を進めようと思っている」
彼の言葉に、大渡達哉も答えていく。
「その通りだな。――まずは、荒川八千代の両親やその親族について調べていく必要があると思う。宿南刑事、その辺に関連したことはあなたに任せたい」
「もちろん、分かっているよ。私はこの屋敷の持ち主と思われる荒川家について色々と精査していくつもりだ。達哉さんと亜弥華さんは……とりあえず、この近辺で発生した同様の事例があるかどうか調べてくれ。私も手助けする」
宿南刑事の指令を、私はしかと受け止めた。
「分かりました。――私、宿南刑事の力になれるように努力したいと思います」
私がそう言うと、宿南刑事は――親指を立てた。
「そうか。――亜弥華さんのプロファイル力、私も期待している」
宿南刑事からそう言われてしまった以上、私はもう引き下がれない。――内心では、それがプレッシャーとなっていた。
それでも、私に出来ることがあればなんでもしたい。ましてや、今の私は「大渡達哉という探偵の助手」と言っても過言ではない状態である。――この時点で、彼に対して少しだけ下心を見せていたが、どうせ気づいていないだろう。私はそう思っていた。
そういう訳で、私は豊岡という田舎町で発生した「禁后事件」に対して深入りする羽目になってしまった。