11 憧れ
逢坂は忘れていた。かつて自分が、穂浪に「タメ口男」という異名を付けたことを。
「行けば分かる」という伊佐木の言葉通り、潮騒食堂にはすんなり辿り着けた。色褪せた暖簾に時代を感じるその店は、老夫婦が二人きりで営んでいるようだった。穂浪がガララッと引き戸を開けると、エプロン姿のふくよかな女将さんが「いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれた。
二人掛けのテーブル席に腰掛けた途端、逢坂の口から無意識にため息が出た。しかし、ため息の原因である張本人は、メニュー表を開きながら、「何食べよっかな~」と呑気なことを言っている。
「やっぱカツオのたたき定食かな。逢坂さん何にします?」
「穂浪さん、伊佐木キャプテンは穂浪さんが思ってるよりずっっっとすごい人なんですからね? そこんとこ忘れないでください?」
「分かってますって~」
分かってないから言ってんだよ。
「それより何食べます? やっぱりカツオのたたき定食?」
「伊佐木キャプテンは生きる伝説みたいな人なんです。そんな人にあんなフランクに話しかけるなんて……まぁタメ口利かなかっただけマシですけど……聞いてるこっちがヒヤヒヤするのでやめてください」
「あっ、注文いいですか? カツオのたたき定食2つ。あとイモ天」
逢坂が小言を言っている最中なのに、穂浪はお冷を運んできた女将さんに笑顔で話しかけた。
「ちょっと穂浪さんっ!」
「え? カツオのたたき定食嫌でした?」
「そうじゃなくてっ……、」
と勢いに任せて言ってから、「いや待て。これ以上この人に言っても暖簾に腕押しだ」と思い直し、逢坂はお説教を中止した。怒るにも体力がいる。まだ任務開始1日目なのだから、不要な体力消耗は避けたい。
「……あ。そういえば、ずっと気になってたんですけど」
呆れられているとも知らずに、穂浪はいけしゃあしゃあと徒然なるままに話し始める。逢坂は「はい」と返事してやった。
「伊佐木キャプテンの履歴書に、『一身上の都合により退職』って書いてあって」
「はい」
「伊佐木キャプテンって、定年前に辞めちゃったんですか?」
「はい」
「なんでですか?」
「逆に訊きますけど、穂浪さんはパイロットなのに、なんで伊佐木キャプテンのこと何も知らないんですか? パイロットを目指したことがある人なら、誰もが一度は憧れる人だと思うんですけど」
「俺の目指すべきパイロット像は、子どもの頃からずっと佐伯さんなので」
「だからって、伊佐木キャプテンの名前すら知らなかったなんて、信じられません」
「で、伊佐木キャプテンが辞めた理由って何なんですか?」
「家庭の事情らしいです。奥さんが病気されて、その看病のためって」
「……逢坂さんって、なんでそんなに伊佐木キャプテンに詳しいんですか?」
「私にとって伊佐木キャプテンは、穂浪さんにとっての佐伯二等空佐のような存在だったんです」
「え? 研究員なのに?」
「研究員がパイロットに憧れちゃいけませんか?」
「い、いえ、そんなことは……」
「学生の頃、高専で現役パイロットの講演会があって。そのときの特別講師が、伊佐木キャプテンだったんです」
「逢坂さん、パイロット科の講演会にも参加してたんですか? さすが、学生時代から勉強熱心だったんですね」
「あ、いえ、私は……」
と逢坂が言いかけたとき、女将さんが「ハイ、いも天おまち~」とテーブルにお皿を置いた。「わ~おいしそ~」と声を上げた穂浪と、「あら嬉しい。って、あんちゃんイケメンねぇ~」と笑う女将さんの会話が始まり、逢坂は言いかけた言葉をお冷とともに呑み下した。